GUMBO

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file.146 Jose CANSECO【ホセ・カンセコ】

2007-01-24 | ABC
【Juiced】
Jose CANSECO

80~90年代を代表するスラッガー、
通算462本塁打、1407打点など、輝かしい実績を誇るが
殿堂入りは1000%無理だろう。

1985年、アスレチックスでデビュー、
翌86年には33本塁打、117打点をマークし、新人王に選ばれる。
87年、31本塁打、113打点で2年目のジンクスを吹き飛ばしたカンセコは
88年に大きく飛躍する。
この年、打率.307、41本塁打、124打点の好成績で
打点、本塁打の二冠王に輝き、さらに40盗塁を記録、
メジャー史上初の40本塁打/40盗塁を達成、
チームもリーグ優勝を果たし、シーズンMVPに選ばれる。
89年は怪我で65試合の出場にとどまるも
チームは世界一、カンセコ自身も打率.357と
ワールドシリーズで暴れる事が出来た。
その後も
90年、37本塁打でリーグ優勝に貢献、
91年、44本塁打、122打点と、その怪力ぶりを発揮し
同僚のマーク・マグワイアと共に『バッシュ・ブラザーズ』
と呼ばれ、相手投手に恐れられた。

ここまでは順風満帆な選手生活を送っていたカンセコだったが
92年8月、試合中、打席に向かうところを監督のトニー・ラルーサに
呼び止められ、レンジャーズへのトレードを通達される...
というショックに遭い、何かが狂う。

トレード後のカンセコは、相次ぐ怪我で欠場が多くなり、
妻への暴行をはじめ、拳銃不法所持や交通違反など、
イメージが悪くなったのか移籍を繰り返すようになる。
マドンナとの交際疑惑も取り沙汰された事があった。

それでも94年から99年まで6年間連続で20本塁打以上をマークするなど
実力が衰えたわけでは無かった。
94年はストライキの影響で111試合のみの出場なれど31本塁打、90打点をたたき出し、
レッドソックスにいた95年は打率.306、24本塁打でリーグ優勝に貢献、
ブルージェイズ在籍の98年には7年ぶりの40本塁打超えとなる
46本塁打を放っている。

2000年、シーズン終盤にデビルレイズからヤンクスへ移籍、
世界一の美酒に再び酔う事が出来た。

2001年にホワイトソックスで16本塁打を放って以降、
メジャーリーグではプレー出来ず、念願の500本塁打は適わなかった。

現在は、ステロイド使用告白の暴露本を出版したり
ワールドシリーズ優勝リングや新人王獲得記念リングを自身のHPで売りに出したり、
弟とセットで暴力沙汰を起こしたり......と
品のないスキャンダルが絶えないカンセコである。

ちなみにカンセコ、
勝負のついた試合でいきなりピッチャーとして志願当番し、右ひじの靱帯を切ってしまったり、
フライを捕ろうとして、ボールが頭に当たりそれがスタンドに入ってしまったり....と
お間抜けな珍プレーでも有名である。

file.145 Ralph KINER【ラルフ・カイナー】

2007-01-23 | JKL
【歴代3位のホームラン率】
Ralph KINER

「ホームランバッターはキャデラックに乗る。
 シングルヒッターはフォードにでも乗っていろ」
現役生活10年で369本のホームランを放った
カイナーの有名な台詞である。

1941年、パイレーツと契約したカイナーは、
まだマイナーにいた43年に兵役に就き、45年に除隊。
46年、メジャーデビューを果たす。
この年、23本塁打でホームラン王を獲得すると、
翌47年、タイガースから移籍して来た
ハンク・グリーンバーグの指導もあってか、
51本塁打と、前年より倍以上の本数で、2年連続の
ホームラン王に輝いた。
以降.......
48年/40本 49年/54本
50年/47本 51年/42本
52年/37本......と打ちまくり、
長いメジャーリーグの歴史において
ただ一人の『7年連続ホームラン王』の偉業を達成、
メジャーリーグ随一の長距離打者として球界に君臨する。

49年には127打点で打点王も獲得、二冠王に輝いた。

53年、サラリーアップを要求すると
GMのブランチ・リッキーは、『君がいなくてもチームは最下位だ』と
それを却下、カイナーをカブスへ放出してしまう。
結局、カイナーは55年、32歳の若さで、怪我を理由に
あっさりと現役を引退。

引退後は、野球中継のアナウンサーとなった。

オールスターに出場する事6回、
その端正な顔だちもあって、女性人気も高かった。
弱小球団のパイレーツで現役生活のほとんどを過ごした所為で
プレーオフやMVPに縁は無かったが、
太く短い選手生活は、
いわば、打者版のサンディー・コーファックスといえるだろう。

75年、殿堂入りを果たしている。

file.144 Larry DOBY【ラリー・ドビー】

2007-01-21 | DEF
【81days】
Larry DOBY

1947年、ジャッキー・ロビンソンに遅れること81日、
ニグロリーグ、ニューアーク・イーグルスのショートストップ、
ラリー・ドビーはインディアンズに入団した。
ア・リーグ初の黒人選手の誕生であった。
当時のインディアンズの監督ルー・ブードロウは
ドビーにこう言い聞かせたという。
『ジャッキーに起こった事は、きっと君にも起こるだろう』

一年目、ロビンソンに劣らぬ数々の嫌がらせや迫害を受けながら
ドビーは代打を中心に29試合に出場、打率.156、本塁打0で終わった。

が、48年外野へコンバートされ、出場機会が増えると
打率.301、14本塁打、66打点の好成績を残し、チームの世界一に貢献。
ワールド・シリーズでも打率.318と活躍し、
レギュラーの地位を確固たるものにする。

ドビーはロビンソンとは異なる、中軸を打つタイプの打者であった。
49年に24本塁打を放つと、
翌50年は、打率.326、25本塁打、102打点をマーク、
アル・ローゼンらと共に、チームの主軸打者として活躍する。

52年、32本塁打、104打点で本塁打王、
54年も32本塁打、126打点で二冠王に輝き
48年に続き、チームのリーグ優勝に貢献した。

その後、59年までホワイトソックスやタイガースでもプレーし、
通算で1515安打、253本塁打、970打点を記録、
13年で8度の20本塁打以上、5度の100打点以上をマークした。

メジャーリーグでのプレーを終えたドビーは、
62年、日本のドラゴンズでプレーしている。
3年間のブランクと39歳という年齢のハンデはあったものの
72試合で打率.255、10本塁打、35打点..とまずまずの
数字を残している。

選手生活にピリオドをうったドビーは
エクスポズや、ホワイトソックスの打撃コーチに就任、
ジャッキー・ロビンソンとは違い、積極的に球界と関わりを続けた。
が、ドビーの『黒人第1号の監督』という秘かなる夢も
ついにかなわなかった。

75年にインディアンスの監督にフランク・ロビンソンが就任したのだ。
しかもドビーの古巣インディアンズ。
ドビーの落胆は想像にかたくない。

結局ドビーは78年、シーズン途中で解雇された
ボブ・レモン監督の後をうけて
87試合、ホワイトソックスの指揮をとった。
選手、監督、共に『史上2人目』のドビーであった。

『2人目の...』という冠があるだけの事で
ドビーとジャッキー・ロビンソンの評価は大きく異なる。
62年に殿堂入りを果たし、全球団で
背番号『42』が永久欠番になったロビンソン。
それに対しドビーは、引退後40年近く経った
98年にようやく殿堂入りを果たした。

2003年、6月18日に永眠した。

file.143 Ron CEY【ロン・セイ】

2007-01-20 | ABC
【30HRカルテットその四】
Ron CEY

ニック・ネームは『ペンギン』。
その名の由来は....ズバリ、セイの短足である。
ニック・ネームが表すように、
決して大柄な選手では無かったが、
パンチ力のある勝負強い打撃が持ち味で
通算316本塁打、1139打点を記録している。

73年、15本塁打を放ちサードのレギュラーとなったセイ。
74年には97打点をたたき出し、勝負強さを見せた。
75年には25本塁打、101打点をマーク、
以後、85年まで、ストライキのあった81年を除いて
10度の20本塁打以上を記録した。

『30HRカルテット』の一員となった77年は
30本塁打、110打点をマークしている。

81年、打率.288、50打点で
チームのリーグ優勝に貢献したセイだが、
ヤンキースと戦ったワールド・シリーズでも絶好調、
打率.350、6打点の猛打でドジャースを世界一に導き、
自身もシリーズMVPの栄冠に輝いている。

83年からはカブスでプレー、
カブスでも安定したクラッチヒッターぶりを見せつけ
83~84年は連続して90打点以上をマーク、
チームを牽引した。

87年、アスレチックスで、現役を引退した。

file.142 Reggie SMITH【レジー・スミス】

2007-01-19 | STU
【30HRカルテットその三】
Reggie SMITH

1966年、レッドソックスでデビューしたスミス、
67年、15本塁打を放ち、レギュラーの座をつかむと
68年も15本塁打、ゴールド・グラブを受賞した。
68年、打率.309、25本塁打、93打点をマーク、
才能が開花すると、以降、71年の30本塁打を含む
6年連続の20本塁打以上を記録、
名選手カール・ヤストレムスキらと、
古豪レッドソックスの主軸打者として活躍する。

74年にカージナルスへ移籍、
この年、キャリア初の100打点をマーク。
リーグが変わっても、相変わらずの打撃を披露する。

76年、シーズン途中でドジャースへ移籍、
77年、32本塁打を放ち、『30本塁打カルテット』の一員となり
チームのリーグ優勝に貢献した。

81年はレギュラーシーズン、ポストシーズン
共に出場機会を大幅に減らすが
ドジャースは世界一に輝き、
スミスも勝利の美酒に酔う事が出来た。

結局、通算2020安打、1092打点、
スイッチ・ヒッターとしては4位にランクされる通算314本塁打を放ち、
オールスターには7度、出場した。

83年、日本のジャイアンツに入団。
二年間プレーし、打率.271、45本塁打、122打点の通算成績を残した。
ジャイアンツ史上最高の外国人選手であるウォーレン・クロマティも
メジャーリーグの大選手スミスには頭が上がらず、
『サー』と呼んで敬慕した。
ミーティング中など、態度の悪かったクロマティを
スミスが叱責した事もあるという。

file.141 Steve GARVEY【スティーブ・ガービー】

2007-01-18 | GHI
【30HRカルテットその二】
Steve GARVEY

1968年、ドラフト1位でドジャースに入団、
69年に3試合出場すると、年々出場機会を増やし
サードからファーストへのコンバートをきっかけに
73年、打率.304、50打点でレギュラーの座を獲得する。

74年、打率.312、21本塁打、111打点の好成績、
チームのリーグ優勝に貢献しシーズンMVPを獲得。
また、この年のオールスターでは、投票用紙に
名前が無かったにも関わらず、
記名投票で出場権を得、試合でも
同点のタイムリーヒットを放つなど大活躍し、MVPを受賞、
一躍、スター選手の仲間入りを果たした。

以降も、77年から、80年まで4年連続で100打点以上をマークするなど
安定した勝負強いバッティングでチームを支え、
チーム随一の人気プレーヤーとして活躍した。

特に30ホーマー・カルテット入りの一員となった
77年は33本塁打、115打点と両部門ともにキャリア・ハイの数字を残し
翌78年も打率.316、21本塁打、113打点のクラッチヒッターぶりで
チームを2年連続リーグ優勝に導いている。

ストライキで110試合しか行われなかった1981年、
10本塁打、64打点の成績を残したガービーだったが
ポストシーズンで大爆発、ワールドシリーズでは
実に.417の高打率でチームを牽引し、
ドジャースのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

83年からパドレスに在籍したガービー、
この年、1207試合連続出場を達成、
自身の野球人生に華を添えた。

新天地でも相変わらずの勝負強い打撃は変わらず、
84年には86打点をたたき出し
パドレスのリーグ優勝を牽引。
87年、通算2599安打、272本塁打、1308打点の数字を残し
現役を引退した。


file.140 Dusty BAKER【ダスティ・ベイカー】

2007-01-17 | ABC
【30HRカルテットその一】
Dusty BAKER

通算1981安打、241本塁打、1013打点を記録した
右の強打者。

1972年、打率.321、76打点をマークし
ブレーブスのレギュラー外野手の座を獲得したベイカー。
73年には21本塁打、99打点をマークし
チームメイトのハンク・アーロンと肩を並べる主軸打者に成長する。

76年にはドジャースに移籍するが、
ブレーブスでは、アーロンと親しく付き合い、
715号騒ぎの折には、ファンやマスコミの攻勢に揺れる
アーロンを癒す役割を果たした。

74年に20本塁打を放って以来、
76年まで成績が低迷したベイカーだが、
ドジャースがリーグ優勝を果たした77年、
打率.291、30本塁打、86打点と復活。
この年のドジャースは、4人の打者が30本塁打以上を放つという
史上初の30ホーマーカルテットが誕生したが、
ベイカーもその一人となった。

80年、29本塁打、97打点、シーズンMVP投票で
4位にランクされる働きを見せると
81年は打率.320の打率を残しチームのリーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでは奮わなかったものの
世界一の美酒に酔いしれる事が出来た。

86年、アスレチックスで引退したが
その後、監督としてジャイアンツやカブスで
采配をふるい、通算1162勝、3度の地区優勝、
3度の最優秀監督賞を受賞している。

バットボーイを勤め、ゲーム中JT・スノウに
危ないところを助けられた息子ダレン君も有名人である。

file.139 Don BAYLOR【ドン・ベイラー】

2007-01-15 | ABC
【死球王】
Don BAYLOR

1970年、オリオールズでデビュー、
72年には11本塁打、38打点、
73、74年と、徐々に出場機会を増やし、
75年、初の20本超えとなる25本塁打を放ち、76打点をマークした。
76年、アスレチックスへ移籍するも、打率.247、15本塁打と苦しみ、
打撃では苦しんだが、走塁面では52盗塁を記録、
俊足を見せつけた。

77年、エンゼルスに移籍し、25本塁打、75打点、
78年には、34本塁打、99打点と、ようやく
安定した打撃を見せるようになる。

76年の52盗塁が示す通り、俊足の持ち主で
72年から79年まで8年連続で20盗塁以上を記録した。
また、死球が多い事でも知られ、
通算267死球は、2005年にクレイグ・ビジオに抜かれるまで
メジャー最多記録であった。
86年には35個もの死球を受けている。

ベイラーのハイライトは1979年、
この年、36本塁打、139打点と、過去最高の数字を残し、
エンゼルス初の地区優勝に大きく貢献、
シーズンMVPと打点王に輝いた。

82年から86年まで5年連続で20本塁打、85打点以上をマーク、
キャリア19年で7度の地区優勝、3度のリーグ優勝、1度の世界一を経験、
特に86年からは、異なるチームで3年連続で
ワールド・シリーズに出場した。

88年、通算2135安打、338本塁打の数字を残し、現役を引退するが、
ロッキーズ、カブスと2球団で監督をつとめ、
ロッキーズを率いた95年、年間最優秀監督に選ばれている。

file.138 Ron SANTO【ロン・サント】

2007-01-14 | STU
【裏・ミスターカブ】
Ron SANTO

アーニー・バンクスやビリー・ウィリアムスと共に
60~70年代のカブスを牽引した強打者。
通算2254安打、342本塁打、1331打点。

1960年、弱冠20歳でメジャーデビューを飾ったサント、
ルーキーイヤーは、打率.251、9本塁打の成績で新人王投票4位にとどまる。
翌61年開花し、23本塁打、83打点。
64年、初の30本塁打に114打点..と
バンクスやウィリアムスと肩を双べられるような好成績を残し、
65年も33本塁打、101打点と好調を維持、
結局、63年から71年まで、8年連続で30本塁打・90打点以上をマーク、
当時、黒人強打者がリーグを席巻する中、
数少ない白人選手のスラッガーとして、安定した活躍を見せた。

選球眼も良く、64年から70年まで
7年連続で85個以上の四球を選んだ。
守備面でも、ガッツ溢れるサードの守備でファンを魅了、
守備範囲も広く、5度のゴールドグラブを誇る。

主要打撃部門でタイトル未獲得なのと、
ワールド・シリーズの舞台を踏めなかった事は残念だが
オールスター9回出場の人気プレーヤーであった。

また、糖尿病を患っており、
病気と闘いながら、ほとんど休まず試合に出場し
好守に結果を残した姿勢は、賞賛に値する。

1974年、この年から移籍したホワイト・ソックスで現役を引退、
34歳と、年齢的にはまだプレー出来そうな早い引退だったが
持病である糖尿病の影響も大きかった。



file.137 Happy CHANDLER【ハッピー・チャンドラー】

2007-01-12 | 2013年映画『42』
【歴代最高のコミッショナー】
Happy CHANDLER

1945年、第2代コミッショナーに就任したチャンドラー。
初代コミッショナーのケネソー・ランディスは、
歴代コミッショナーの中でも最高レベルに劣悪な
人種差別主義の独裁者であったが、
チャンドラーはその「名」の通り、
ハッピーな足跡を、メジャーリーグのみならず、
アメリカの歴史に残した。

1946年、ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーが
黒人選手であるジャッキー・ロビンソンと契約した。
チャンドラーは、ドジャースを除く、
全てのチームのオーナーの反対を押し切り、
ロビンソンとの契約を承認。
黒人選手に門戸を開くのに大きく貢献した。

1951年、一期限りで退任したが、
1982年、晴れて野球殿堂入りを果たした。
この年、同時に殿堂入りを果たした選手の中には
ハンク・アーロンやフランク・ロビンソンら
偉大な黒人選手が交じっていた。
アーロンは、チャンドラーと同時に殿堂入り出来た事を
名誉に思ったという。

チャンドラーは言う。
『何故、黒人はメジャーリーガーになれないのか?
 そう問われた時、“彼等が黒人だからさ”
 というのは理由にならないよ。』

file.136 Al OLIVER【アル・オリヴァー】

2007-01-11 | MNO
【scoop】
Al OLIVER

1969年、22才でパイレーツの一塁手として
メジャーに定着したオリヴァー。
この年、打率.285、17本塁打、70打点の活躍。

当時、パイレーツには、
大砲・ウィリー・スタージェルや安打製造機・ロベルト・クレメンテが
主軸に君臨していたが、若きオリヴァーもその一角を占め、チームを牽引した。
ポジションも当初は一塁だったが、
71年頃から、クレメンテと共に外野を守るようになった。

オリヴァーの真骨頂は、なんといっても、左右に打ちわける
鋭いラインドライブ・ヒットであろう、
ホームランは決して多くはないが、勝負強い打撃も光った。
左右の打席の違いこそあれど、
大先輩のチームメイト、クレメンテに似たタイプのバッターといえるだろう。

71年は、打率.282 64打点の成績を残し、チームはリーグ優勝、
ワールドシリーズでは、自身の調子こそ奮わなかったものの、
世界一の美酒に酔いしれる事が出来た。

72年、打率.312、89打点の好成績を残し、
初の打率3割に到達する活躍を見せるが、
この年の年末、ロベルト・クレメンテを飛行機事故で失うという悲劇が起こった。
この死によって責任感を強くしたのか、
オリヴァーは翌73年以降、本領を発揮し始める。

73年、打率.292、20本塁打、99打点と、
2部門で、これまでのキャリア・ハイの数字を残すと、
74年には打率.321、85打点。
76、77年と2年連続で打率.300以上の
安定したヒット・メイカーぶりを見せつける。

78年にはア・リーグのレンジャーズに移籍となるが、
新天地でもオリヴァーはヒットを量産し、
結局、76年から9年連続で打率.300以上をマークした。

中でも、エクスポズに在籍していた82年は
204安打、打率.331、109打点の成績を残し
最多安打、首位打者、打点王を獲得、
初のタイトルを獲得する大活躍であった。

85年、現役を引退したが、通算2743安打を打ち、
ア・リーグ、ナ・リーグの両リーグで
打率.300以上の打撃成績を残している。

file.135 Jose CRUZ【ホセ・クルーズ】

2007-01-10 | ABC
【クルーズ家長男】
Jose CRUZ

プエルトリコ出身、
背番号がアストロズで永久欠番に指定されている名外野手。
通算2251安打、1077打点。

72年、カージナルスで外野のレギュラーに定着するも、
75年までは、結果を残せず、低打率に喘いでいたが、
アストロズに移籍して2年目の76年、
打率.303をマークし、才能が開花。
打撃開眼で気をよくしたのか、積極的に走るようになり
77年から80年まで4年連続の30盗塁以上をマーク、

77年、打率.299に加え17本塁打、87打点、
78年、打率.315、87打点、
80年には、打率.302、91打点の成績で
アストロズを地区優勝に導き、MVP投票で3位につけるなど、
安定した勝負強い打撃でチームを支えた。

83年、84年は、
2年連続で打率.310以上、打点90以上と、
相変わらずのクラッチヒッターぶりを示すが、
徐々に衰えを見せ始め、
1988年、40才で現役を引退した。

ちなみに、二人の弟、
ヘクター・クルーズ、トミー・クルーズ、共に野球選手だったが、
メジャーリーグでは長兄・ホセのような活躍は出来ず、
いずれも日本へ渡った。
ヘクターはジャイアンツに一年在籍し、打率.240、4本塁打と奮わず、
トミーは、ファイターズで6年間在籍、通算打率.310と活躍した。

ホセの息子、ホセ・クルーズjrもメジャーリーガーである。

file.134 Pat DOBSON 【パット・ドブソン】

2007-01-09 | DEF
【20勝カルテット】
Pat DOBSON

67年、タイガースでメジャーデビューしたドブソン、
69年までの3年間、先発やセットアップ、クローザーなど
大車輪の働きぶりをみせたが、
70年、タイガースは、ドブソンをパドレスに放出、
すると、新天地で才能が開花、
ローテーションに定着し、いきなり14勝をあげる。

71年、オリオールズに移籍したが、
この年がドブソンのキャリア・ハイになった。
防御率2.90で、20勝。
ジム・パーマー20勝、デイヴ・マクナリー21勝、
マイク・クエイヤー20勝と並んで
史上2組目となる『20勝カルテット』を形成、
チームをリーグ・チャンピオンに導いた。
パイレーツと覇を争ったワールド・シリーズでは、
3試合に登板、1試合に先発するも、力を発揮出来ず、
パイレーツのロベルト・クレメンテの好守にわたる大活躍によって、
チームも敗れ去った。

その後、ブレーブス、ヤンキース、インディアンスと
チームを変えながらも、ヤンクスでシーズン19勝をあげるなど
70年から76年まで7年連続で10勝以上の活躍をみせた。

77年、現役を引退、
2006年11月に永眠した。

file.133 Hank AARON 03【ハンク・アーロン03】

2007-01-09 | hank aaron
【ルースを超える】
Hank AARON

1973年、通算713本塁打でシーズンを終えたアーロン、
次のシーズン中にベーブ・ルースの714本に追い付き、
そして追い抜くのは確実であったが、
ルースを神格化する野球ファン、又は人種差別主義者からの
多くの脅迫めいた手紙や電話に頭を悩ませていた。

―――黒人のベーブ・ルースは必要ない
―――713号のまま死んでくれ
―――雷に打たれて死ね
―――白人の怒りを知れ!
―――ニガー、ジャングルへ帰れ!......etc......

アーロンの生活は一変した。
ホテルには偽名を使って宿泊し、
家族の元にも脅迫の電話がかかり、
アーロンが射殺された...というデマが流れ、
球場からのバスは、ダグアウトにつけられた。

が、アーロンのプレーは揺るがない。
73年のシーズン中は、ボールを、
悪質な野球ファンだと思い込み、ブッ叩いた。
声援を送ってくれるファンや、同僚達に精神的に助けられたのが大きかった。
ダスティ・ベイカーやラルフ・ガーはアーロンをいつも勇気づけ、
ブレーブスの監督になっていたエディ・マシューズも
アーロンの為に心をくだいた。

ある試合、
アーロンの外野への打球が失速し平凡な外野フライになった時、
アーロンはベンチでこう言って笑う
「天国のルースが風を送ってボールを戻したんだぜ!」
ルースの名前をジョークに使うほど、アーロンは余裕だった。

1974年、アーロンはいつも通り開幕を迎えた。
シンシナティでの開幕戦、アーロンはいきなり
714本目のホームランを放ち、ルースの記録に並んだ。

アトランタに戻った4月8日のドジャース戦、
3打席目、左腕のアル・ダウニングから打った打球は
レフトのスタンドに吸い込まれていった――――715号。

ホームを踏んだアーロンを、チームメイトがくしゃくしゃにした。
ゲームは中断され、セレモニーが始まった。
アーロンはこうスピーチした。
「全てが終わった。神様に感謝します」

試合終了後、エディ・マシューズは、
クラブハウスにアーロンの家族とチームメイトだけを残し、
報道陣らをシャットアウトした。

ラルフ・ガーは、アーロンに向かって叫んだ。
「頑張れよ! 次はハンク・アーロンの記録を破るんだ!!」

file.132 Hank AARON 02【ハンク・アーロン02】

2007-01-07 | hank aaron
【アトランタへ】
Hank AARON

1966年、チームはミルウォーキーからアトランタへ移った。
その年、アーロンは、打率.279、44本塁打、127打点で二冠王に輝き
新天地でのデビューイヤーを飾った。
68年は、メジャー史上屈指の投高打低の年、
さしものアーロンもこの年ばかりは29本塁打に終わり
打点も、86と低調に終わった。
が、ドン・ドライスデールとサンディ・コーファックスから
「バッド・ヘンリー」と呼ばれる程だった投手泣かせの打撃は
衰えを見せず、35歳の69年には打率.300、44本を打つなど、
メジャー最高の打者として君臨し続けた。

アーロンは、アトランタへの移転の頃から
本塁打狙いの打撃にシフトしたと語っているが
その本数は、別段増えたわけではなく
むしろ、相変わらずの安定性を誇っていた。

ライバルのウィリー・メイズは、71年には引退、
最高の相棒だったマシューズは既にチームを去っていたが
ダレル・エヴァンスや、オーランド・セペダ、リコ・カーティーといった
好打者がアーロンの脇を固めていた。

年齢が40に近付くにつれ、安定した活躍を続けるアーロンの
通算本塁打が700近くにまで達してきた。
打率.298、38本塁打を放った70年にはまず、3000本安打を達成、
71年は打率.327 47本塁打 118打点と、衰えを知らない猛打を見せつけ、
72年にはメイズの660本塁打を抜き去り
73年には700本に到達、
この年、39歳にして打率.301、40本の本塁打を放ったアーロンには
当然の事ながらベーブ・ルースの714本超えの期待がかかる。
73年のシーズンを通算713本で終えたアーロン。
彼のキャリアでも最高の瞬間が翌74年に待っているわけだが
同時にそれは、苦悩の日々でもあった。
そして、その苦悩の日々は73年のシーズンから
既に始まっていたのだった。