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file.151 Sandy KOUFAX【サンディ・コーファックス】

2007-02-12 | JKL
【史上最高の左腕】
Sandy KOUFAX

大投手サンディ・コーファックスは、
1955年、ドジャースで大リーグデビューを果たした。
55年は、12試合に投げて2勝、
翌56年も16試合で2勝、
57年は5勝をあげたものの、制球力に難があり、
なかなか才能を開花出来ずにいた。
それでも同僚のジャッキー・ロビンソンなどは
コーファックスの潜在能力を見抜いていたのか、
その起用法を巡って、ウォルター・アルストン監督に
度々意見していたといわれている。

チームがLAに移った58年、
ようやくコーファックスはローテーションを任されるようになる。
この年、11勝をマークするも防御率は4.48、
暴投が多いなど、安定感に欠ける投球を続け、
ブレークには至らない。

59年、8勝。
60年も8勝(13敗)と苦しむコーファックスに
一人の助言者が現れる。
ブルペン捕手のノーム・シェリーである。
シェリーはコーファックスのフォームの弱点を指摘し、
「肩に力が入り過ぎているな。もっとリラックスしな。」
と助言した上で、変化球の有効性についても説いた。

61年、コーファックスは遂に開眼した。
この年から、コーファックスは、
同僚の右腕、ドン・ドライスデールと共に最強の左右コンビを形成、
奇跡のような大活躍を見せるようになる。
チームも、強打一辺倒から、
機動力を駆使した少ない得点を、この二人を中心とした
投手力で守り抜く戦法にシフトした。

1961年――――
 ●18勝ー13敗・防御率3.52・269奪三振(リーグ1位)
1962年――――
 ●14勝ー7敗・防御率2.54(リーグ1位)・216奪三振(リーグ1位)
 6月にメッツ戦でノーヒット・ノーラン達成。
1963年――――
 ●25勝(リーグ1位)ー5敗・防御率2.54(リーグ1位)・306奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞、MVP受賞
 5月、ジャイアンツ相手にノーヒット・ノーラン。
 チームをリーグ優勝に導き、ワールド・シリーズでも2勝、
 第一戦では15奪三振のシリーズ記録を樹立し、シリーズMVPに輝く。 
 ヨギ・ベラは、「コーファックスが25勝した理由はよく解った.....。
 が、理解出来ないのは、何故5敗もしたのか....という事だ。」と語った。
1964年――――
 ●19勝ー5敗・防御率1.74(リーグ1位)・223奪三振
 6月にフィリーズ戦でノーヒット・ノーラン達成。
1965年――――
 ●26勝(リーグ1位)ー8敗・防御率2.04(リーグ1位)・382奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞受賞
 9月にカブス戦で完全試合達成。
 ツインズとのワールド・シリーズでは、3試合に先発し
 2完封で2勝、二度目のシリーズMVP獲得。
 オフにはドライスデールと年俸アップを求め、共闘。
 史上初の代理人による交渉を行い
 見事大型契約を勝ち取る。
1966年――――
 ●27勝(リーグ1位)ー9敗・防御率1.73(リーグ1位)・317奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞受賞

66年、キャリアハイの27勝に防御率1.73の成績を残しながら、
31歳のコーファックスは突然の引退を発表し、
世間を驚かせた。
原因は、登板過多による慢性的な左肘痛、
痛み止めの注射や、当時としては画期的だったアイシングをしながらの投球も
もう限界だった。
「いつまでも、自分の髪には、自分で櫛を入れたいからね」
コーファックスの弁である。

この眩いばかりの6年間・129勝は、他の大投手の300勝に値するものであった。
コーファックス引退後、5年経った1972年、
史上最年少での野球殿堂入りを果たしている。

余談だが、コーファックスの実父は、ジャック・ブラウンという、
コーファックスが3歳の頃、ジャック・ブラウンは失踪。
コーファックスは、母親の再婚相手、アーヴィン・コーファックスの姓を名乗り、
「私の父親はアーヴィン・コーファックスただ一人だ」と語っている。