GUMBO

.

file .239 Goose GOSSAGE 【グース・ゴセージ】

2008-01-24 | GHI
【ガチョウのゴセージ】
Goose GOSSAGE

1970年、ホワイトソックスに入団したゴセージ。
72年、メジャーデビューを果たし、36試合に登板、
7勝1敗、防御率4.28...とまずますの成績をおさめる。

その後も、主にリリーバーとしてマウンドに立つが、
ブレークしたのは75年。
この年、62試合を投げ9勝8敗26セーブ、防御率1.84の好成績、
サイ・ヤング賞レースでは6位にランクされ、オールスターにも出場した。

翌76年は、先発投手にスイッチ、
9勝をマークするも、17敗を喫し、防御率は3.94。
シーズン終了後は、パイレーツへ放出されてしまう。

パイレーツで11勝26セーブ、防御率1.62...と
意地を見せたゴセージは、78年、ヤンキースへFA移籍。
ここからゴセージの黄金時代の幕が上がった。

ロン・ギドリー、キャットフィッシュ・ハンター、
レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン...といった個性派集団の中でも
全く埋もれることなく、快投を披露。
豪快かつ、躍動感溢れるフォームから豪速球を繰り出し、
相手打者を手玉に取り、
63試合で10勝、27セーブ、防御率2.01をマーク。
チームをリーグ優勝に導くと、ワールドシリーズでも3試合に登板し1勝。
ヤンクスの世界一に多大な貢献を果たしてみせた。

以降、ヤンキースの絶対的なストッパーとして活躍。
80年、6勝、33セーブ、防御率2.27(MVP投票、サイ・ヤング賞投票、共に3位)
81年、3勝、20セーブ、防御率0.77(MVP投票9位、サイ・ヤング賞投票5位)
....と絶好調。
30歳になった82年も4勝、30セーブと安定した働きを見せると、
83年は13勝、22セーブ、防御率2.27。
リーグを代表するストッパーとして、
その名をおおいに高らしめた。

84年、パドレスへFA移籍。
10勝、25セーブ、防御率2.90をマーク。
チームをワールドシリーズへと牽引するが、
大舞台で『ストッパー殺し』カーク・ギブソンに手痛い一発を見舞われるなど、2試合で4失点。
世界一の美酒に酔う事はかなわなかった。

その後、84年~86年まで3年連続で20セーブ以上と安定したピッチングを続けるゴセージだが、
徐々に、往年の勢いは失われていった。
88年からカブス、ジャイアンツ、ヤンキースとチームを変えるもパッとせず、
90年は日本のホークスに入団、
ここでも28試合で2勝、8セーブ、防御率4.40...と結果を残すには至らなかった。

91年、レンジャーズでメジャー復帰し、
以降、アスレチックス、マリナーズと球団を変えるが、
炎のストッパーに返り咲く事なく
94年、現役を引退した。

通算で1002試合に登板し、1809.1/3イニングで124勝、310セーブ、防御率3.01
2008年、悲願の野球殿堂入りを果たしている。

ちなみにニックネームの『グース(ガチョウ)』だが、
いうまでもなく、佇まいがガチョウに似ている事からつけられたものである。


file .238 Nolan RYAN 02 【ノーラン・ライアン02】

2008-01-14 | nolan ryan
【エンゼルス時代】
Nolan RYAN

72年、エンゼルスへ移籍したライアンを待っていたのは、
その転機を支える事になる、大きな出会いの数々であった。

コーチのジミー・リース、トム・モーガン、
キャッチャーのジェフ・トーボーグ....。

彼等は、ライアンの欠点を指摘し、その克服に
いくらでも、つき合った。
シーズン前の猛練習により、ライアンは配球を学び、
モーションを修正し、コントロールも数段良くなった。

19勝、防御率2.28、329奪三振。
ライアンは遂に満足のいく好成績をおさめる事が出来た。
73年は更なる成長を見せつけ、
21勝、防御率2.87、383奪三振、
シーズン2度のノーヒッターと、サンディ・コーファックスの持つ
シーズン奪三振記録382を更新。

『カリフォルニア・エクスプレス』の誕生であった。

「奴の速球は、俺を殺すかもしれねえ」.....レジー・ジャクソン

「ライアンのボールが耳の後ろを通過した時は死んだかと思った。
 結局凡退したが、ベンチに生きて帰れただけでも幸せだった」.....フィル・ガーナー

「ライアンは恐い。打席ではケツの穴がハミ出ているよ」.....ブルックス・ロビンソン

「メジャーリーグよりも上のリーグがあるとすれば、
 ライアンはそこのピッチャーさ」.....ハル・マクレー

74年、22勝、防御率2.89、367三振、
3度目のノーヒッターに、3年連続の300奪三振......と
快進撃を続けるライアンだったが、
この3年、全ての年で16敗を喫している。
この時期、全球団で最弱といわれたエンゼルス打線が、
もう少しマシだったら....『勝率5割投手』などとは言われていなかったかもしれない。

75年は故障の所為もあって、14勝、186奪三振にとどまったライアン、
76年、体調を万全に戻すと、17勝、327奪三振、
77年、19勝、341奪三振....と
看板通りの『カリフォルニア・エクスプレス』ぶりをフルに発揮、
チームの大黒柱として、リーグを代表するエースとして、
その豪腕をまざまざと見せつけた。

この頃、チームのGMにバジー・ババシが就任。
ライアンとババシの相性は最悪であった。
ノーヒッターがかかった試合で、微妙な当たりがエラーになった時なぞは、
ババシは公式記録員に食ってかかったという。
「お前の所為で奴に大金を出さなきゃいけなくなるだろっ!!」
ライアンは、ノーヒッター達成で25000ドルをチームから受けとれる契約を結んでいたのだった。

1980年、ライアンはアストロズへFA移籍する。
ババシのために投球する事はどうしても出来なかったわけである。

ともあれ、ライアンは故郷に戻る事となった。

file .237 Dennis EcKERSLEY 【デニス・エカーズリー】

2008-01-13 | DEF
【second wind】
Dennis EcKERSLEY

1972年、インディアンズと契約を交わしたエカーズリー。
75年、弱冠20歳でメジャーデビューを果たし、13勝、防御率2.60という好成績を残すも
新人王はフレッド・リンにさらわれてしまう。
エカーズリーはその後も76、77年と連続して2ケタ勝利をマークし
チームの主力投手として活躍、
さらに78年、トレードでレッドソックスへ移籍すると
この年20勝、防御率2.99と絶好調、
いきなりチームのエース格にのしあげる。
「この先、20勝なんていくらでも出来るさ」
若きエースは自身満々でそう嘯いた。

が、『驕る平家も久しからず』とはよく言ったもので、
79年も17勝をあげ、好調を維持したエカーズリーだが、
80年、12勝14敗、防御率4.28と不調に陥ると
81年は9勝、防御率4.27....と徐々に成績が下降線をたどるようになる。

なかなか上昇の気配を見せないエカーズリーは
83年、9勝、防御率5.61に終わると、
84年、シーズン途中でカブスへ放出されてしまう。
移籍後は10勝、防御率3.03と好投を見せたエカーズリー、
85年こそ、11勝、防御率3.08と頑張ったが、
86年、6勝11敗、防御率4.57の低迷ぶりで
87年、今度はアスレチックスへ放出。
「もう俺に売りなんて無いよ。どこへ行っても変わらないさ」
アル中の三流投手に成り下がったエカーズリーは、
望みを失っていた。

しかし、エカーズリーはまだ終わってはいなかった!
当時のアスレチックス監督、トニー・ラルーサと投手コーチのデイヴ・ダンカンの指示で
リリーバーとして起用されるようになり、さらに怪我で戦列を離れたジェイ・ハウエルに代わってクローザーに転向。
アスレチックスでの一年目は6勝、16セーブ、防御率3.03をマークする。
エカーズリーに二度目の風が吹いた。
88年、4勝、45セーブ(リーグ最多)、防御率2.35。
チームのリーグ優勝に貢献すると
89年、4勝、33セーブ、防御率1.56。
今度はワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たし、
チームの大黒柱的存在となる。
その後も、90年、4勝、48セーブ、防御率0.61(!!!).......91年、5勝、43セーブ、防御率2.96と快進撃。

「野球に感謝したい。こんなにも野球を愛せるようになるとは思わなかった」
既にアル中を克服し、抜群の制球力を発揮、
サイドスローからのスライダーもキレまくっているエカーズリーは
心からこう語った。

92年は最高の年となった。
7勝1敗51セーブ、防御率1.91......、
シーズン最多セーブ、MVP、サイ・ヤング賞の三冠を獲得、
6度目のオールスター出場も果たすなど、
押しも押されぬ球界を代表するクローザーへと登り詰めた。

93年からは、3年連続で防御率4点台.....と、
40歳近い年齢的な衰えもあってか、成績は下降していくが、
96年、ラルーサ監督を追ってカージナルスへ移籍すると、
30セーブ、防御率3.30とやや持ち直す。
97年も36セーブをマークするが、ここまでであった。
98年、43歳の老兵は古巣レッドソックスで現役を引退。

通算197勝、390セーブ、防御率3.50

2004年に野球殿堂入りを果たしている。

file .236 Don LARSEN【ドン・ラーセン】

2008-01-02 | JKL
【1956.10.8】
Don LARSEN

1956年のワールドシリーズは、
ヤンキースのドジャースの戦いになった。
互いに2勝し、勝てば『王手』となる第5戦、
ヤンキースの先発投手はドン・ラーセンであった。

ラーセンは、1953年、『史上最弱球団』セントルイス・ブラウンズでデビュー。
成績は、7勝12敗、防御率4.16であった。

54年、オリオールズに移籍するが
3勝21敗という、驚異的な勝負弱さを発揮してしまう。

55年、今度はヤンキースに移籍。19試合に登板し、9勝2敗、防御率3.06...と、
投法をノーワインドアップに変えたのが功を奏し、
見違えたような投球を見せる。

56年、ローテ入りを果たしたラーセンは、
11勝5敗、防御率3.26をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
ドジャースとのワールドシリーズに臨んだ。

ラーセンは、第2戦で先発するも
コントロールが乱れ、2回4失点で降板。
敗戦投手にこそならなかったが、
大舞台で結果を出す事は出来なかった。
ヤンキースはこの試合で2連敗、
が、この後2連勝し2勝2敗の五分となった。

第5戦、ラーセンに汚名返上の機会が与えられた....。

この日のラーセンはコントロールが冴えに冴えた。
ギル・マクドゥガルドやミッキー・マントルの好守にも助けられ、
デューク・スナイダー、ロイ・キャンパネラ、
ギル・ホッジス、ジャッキー・ロビンソンらを擁するドジャース打線に
ヒットどころか、四球すらも与えない。
.........結果、完全試合。

球場は興奮の渦に巻き込まれ、
ラーセンは、チームメイトの手荒い祝福を受けた。
このシリーズ、ヤンキースは見事世界一に輝き、
ラーセンは、シリーズMVPの栄誉を手にした。

一躍時の人となったラーセンだったが、
この完全試合を機に、一流投手へと変貌を遂げる....と、いうわけにはいかなかった。
翌57年こそ、10勝をあげるが、59年、6勝に終わると
その後はアスレチックス、ホワイトソックス、ジャイアンツetc...とチームを渡り歩き、
67年、カブスで現役を引退。
62年、ジャイアンツで2度目のワールドシリーズ制覇の美酒に酔う事こそ出来たものの、
通算81勝、防御率3.78....と平凡な数字しか残す事は出来なかった。

file .235 Steve CARLTON 【スティーブ・カールトン】

2008-01-01 | ABC
【孤高の左腕】
Steve CARLTON

1964年、カージナルスに入団したカールトン。
65年にはメジャーに昇格するが、
ブレークしたのは14勝、防御率2.98をマークした67年であった。
この年、カールトンは、リーグ優勝に貢献し、ワールドシリーズにも登板。
世界一の栄冠を勝ち取る事が出来た。

68年、13勝をあげたカールトンは、
オフに日米野球のため来日。
江夏豊のフォームや、他の日本人投手のスライダーに惚れ込み、
帰国後、キャッチャーのティム・マッカーバーとスライダーの練習に取り組み、見事に体得。
ベジタリアンに徹し、体調管理を怠らず、
トレーニングにマーシャルアーツやクンフーを取り入れる事で、
腕力を鍛えに鍛え速球のキレが飛躍的に向上した。

その効果もあって、69年は格段に投球内容が良くなり、
17勝、防御率2.17、210奪三振をマーク、
9月には1試合19奪三振を記録するなど、
目覚ましい活躍を見せた。

71年に20勝をあげ、チームの大黒柱に成長を遂げたカールトンだったが、
この年のオフ、契約交渉が難航した事からフィリーズへトレード。
悔しさがカンフル剤になったのか、
移籍一年目の72年、カールトンは、27勝、防御率1.97、310奪三振という
素晴らしい成績をおさめ、勝利数、防御率、奪三振の三部門でリーグトップ。
初のサイ・ヤング賞にも輝き、チームが最下位だった事を除けば、
最高ともいえるシーズンを送った。

その後もリーグ最高の左腕として活躍を続けたカールトンだったが、
マスコミとの関係は最悪であった。
家族のプライバシーを侵害するような記事を書かれた時から、一切の取材を拒否、
記者が自分のロッカーの近くにいるだけで
「俺のロッカーを覗いていやがったな!!」と怒り心頭で詰め寄る始末であった。
カールトンのマスコミ拒否は現役引退の瞬間まで貫き通される事となる。

76年20勝、防御率3.13をマークすると
77年は23勝、防御率2.64で二度目のサイ・ヤング賞受賞、
さらに80年は24勝、防御率2.34、286奪三振で三度目のサイ・ヤング賞受賞に加え、チームはリーグ優勝。
ワールドシリーズでも2勝をマークし、フィリーズ初の世界一の原動力として活躍した。

まさに全盛期のカールトン。
その投球は、恋女房のマッカーバーに言わせれば、『高尚なキャッチボール』。
バッターの存在など全く無視であった。
が、その無視しているはずのバッターにカモにされると
まるで親の敵のごとく、敵視した。
あるオフ、ハンティングに出かけたカールトンは、
鳥を撃ち落とし、さらに空に向けてもう一発ブッ放した。
「今の一発はジョニー・ベンチの奴に向けたのさ」
ベンチはカールトンを得意としていたのだ。

82年、23勝で4度目のサイ・ヤング賞に輝いたカールトンだったが、
85年、わずか1勝(8敗)に終わると、翌年、フィリーズから解雇。
以降は、働き場所を求めてジャイアンツやインディアンズなどチームを渡り歩くが、結果を出せず、
88年、ツインズを最後に『孤高のレフティ』は現役を引退した。

通算329勝、防御率3.22、4136奪三振。

1994年、95.8%という高い得票率で野球殿堂入りを果たしている。