GUMBO

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file .299 Jim GILLIAM【ジム・ギリアム】

2011-09-30 | GHI
【ジュニア】
Jim GILLIAM

1951年、ニグロリーグの
ボルチモア・エリートジャイアンツから引き抜かれ、
ブルックリン・ドジャースと契約したギリアム。

53年にデビューすると
打率.278 6本塁打 63打点 21盗塁、
さらに100四球 出塁率.383と抜群の選球眼を発揮。
見事、新人王に輝いた。

54年も打率.282 13本塁打 52打点 出塁率.361と
安定した働きでチームに貢献、
『ジュニア』の愛称で呼ばれファンに愛された。

非力に加え、決してスピードスタータイプでも無い。
が、ギリアムはフォア・ザ・チームに徹したプレーで
ブルックリンの個性派集団の一翼を担っていた。
三振は少なく、四球は多い粘っこい打撃スタイル。
守備でもユーティリティぶりを発揮し、
二塁を中心に内外野を転々としたが
どこを守っても堅実な守備を見せた。
野球偏差値のレベルが高いプレーヤーであったといえよう。

55年、打率.249 7本塁打 40打点 出塁率.341で
チームのリーグ優勝に貢献すると、
宿敵ヤンキースとのWSでも
打率.292 出塁率.469(!)、
7試合で8つの四球を選ぶいぶし銀の働きでヤンクス撃破に大きく貢献。
勝利の美酒に酔い痴れた。

翌56年は打率.300 6本塁打 出塁率.391とキャリアハイの成績を残し、
オールスターにも出場。

58年にチームがブルックリンからL.Aに移ってからも
世界一に輝いた59年にリーグトップの96四球(打率.282 3本塁打)を選ぶなど、
貴重な脇役として活躍した。

打率282 6本塁打 49打点 19盗塁 出塁率.354をマークした63年、
チームはサンディ・コーファックスの活躍で世界一に輝いたが、
レギュラーメンバーの中で、
55年にブルックリン・ドジャースとして活躍した選手はギリアム一人となっていた。

結局66年までプレー、65年にもWS制覇に貢献し
14年のキャリアで4度の世界一を経験した。

現役引退後はアフリカ系黒人としては初のコーチとして
チームを支えていたが、78年のシーズン中に急死した。

通算1889安打 65本塁打 558打点 打率.265 203盗塁
通算四球数1036、出塁率.360。

フォア・ザ・チームの化身とも言うべき名選手であった。

file .298 Deion SANDERS【ディオン・サンダース】

2011-09-29 | STU
【ネオン・ディオン】
Deion SANDERS

高校~大学時代、
野球/バスケ/アメフト/陸上と
あらゆるスポーツで才能を発揮。
若きトップアスリートとしてその名を馳せたサンダースは
1988年、ドラフト27位でヤンキースに入団。

89年春にメジャー昇格し、
14試合で打率.234 2本塁打をマークすると
6月にはNFLのファルコンズからドラフト1位指名を受ける。
紆余曲折の末、ファルコンズとも契約を交わしたサンダースは
8月のアメフトでの開幕戦でタッチダウンを決め、
また同じ週に野球でホームランを放つという離れ業をやってのけた。

派手好きで目立ちたがり屋、
ファッションも含めた、きらびやかなその佇まいから
「ネオン・ディオン」のニックネームで呼ばれたサンダース。
一方でトラブルメーカーとしても一流で、
チーム、チームメイト、ファン、解説者に至るまで
あらゆる人々を敵に回した。
怠慢プレーを批判したカールトン・フィスクとは
人種問題を持ち出して論争した程だったという。

90年打率.158に終わったサンダースは
91年、ブレーブスへ移籍。
この年も打率.191に終わり、
才能を発揮して活躍していたアメフトとは違い、
野球では苦戦を強いられていた。

が、92年、97試合で打率.304 8本塁打 28盗塁をマークしブレーク。
ようやく二刀流としての成功をおさめる事と相成った。

93年、95試合 打率.276 6本塁打 19盗塁(ブレーブス) 
94年、92試合 打率.283 4本塁打 38盗塁(ブレーブス→レッズ)
持ち前のスピードを活かしたプレーで
安定した活躍をみせていたサンダースだったが、
アメフトでも大活躍。
94年には最優秀守備選手賞を受賞し、49’Sをスーパーボウルに導き、
95年度もカウボーイズでスーパーボウル出場を果たした。

96年はNFLに専念したサンダース、
97年、レッズに復帰すると
打率.273 5本塁打 56盗塁をマーク。
一旦、この年限りで野球は引退し、
2001年に再復帰。
この年、正式に引退を表明した。

野球では通算558安打 39本塁打 打率.263 186盗塁と平凡な数字に終わったが
アメフトでは通算8回のプロボウル出場に加え、
1990年代のオールタイムディケイドプレーヤーに選ばれるなど多大な実績を残した名選手であり、
2011年には殿堂入りも果たしている。

ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手である。

file .297 Tino MARTIEZ【ティノ・マルティネス】

2011-09-28 | MNO
【バンティーノ】
Tino MARTIEZ

1988年、マリナーズから1位指名を受けプロ入りしたマルティネス。
大学時代に強打者として名を馳せ、ドラフト後に開催されたソウル五輪では
四番打者としてアメリカの金メダル獲得に多大な貢献を果たした。

1992年に打率.257 16本塁打 60打点をマークし、
チームのレギュラー選手に成長したマルティネスは、
95年には打率.293 31本塁打 111打点・・・ようやくその才能を開花させた。

翌96年はヤンキースにトレード移籍。
117打点をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。
ポストシーズンでは不振を極め、ブレーブスとのWSでは
打率.091 0打点とドン底の絶不調に陥るも、
チームは世界一に輝いた。

97年、打率.296 44本塁打、141打点とMVP級の成績を残すと
98年以降、4年連続で90打点以上を叩きだすと共に、
ポストシーズンでも印象に残る活躍をみせ、
98~2000年の3年連続世界一に大きく貢献。
派手さは無いものの、勝負強いバッティングと堅実な守備。
勝利に対する飽くなき姿勢はポール・オニールと双璧で、
トーリヤンキース黄金期の棟木としてチームをガッチリと支えた。

2001年、打率.280 34本塁打 113打点と
変わらぬ打撃でチームのWS進出の一翼を担ったマルティネスだったが
02年にチームに加入したジェイソン・ジアンビに追われるように
カージナルスにFA移籍。
引退したマーク・マグワイアの後釜として大いに期待されるも
打率.261 21本塁打 75打点・・・と
前年の数字を下回る成績に終わり、
翌03年も同様に全盛期の打撃には程遠い内容に終わった。

04年、デビルレイズへトレード移籍し、
05年は古巣ヤンキースへ復帰。
ジアンビのバックアップ的な役割を期待されての
ヤンキース加入だったが、
開幕戦では打席に立つと客席総立ちの歓声で迎えられ、
変わらぬNYでの人気ぶりを証明した。

結局、05年限りで現役を引退。
通算1925安打、339本塁打、1271打点、打率.271