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file.133 Hank AARON 03【ハンク・アーロン03】

2007-01-09 | hank aaron
【ルースを超える】
Hank AARON

1973年、通算713本塁打でシーズンを終えたアーロン、
次のシーズン中にベーブ・ルースの714本に追い付き、
そして追い抜くのは確実であったが、
ルースを神格化する野球ファン、又は人種差別主義者からの
多くの脅迫めいた手紙や電話に頭を悩ませていた。

―――黒人のベーブ・ルースは必要ない
―――713号のまま死んでくれ
―――雷に打たれて死ね
―――白人の怒りを知れ!
―――ニガー、ジャングルへ帰れ!......etc......

アーロンの生活は一変した。
ホテルには偽名を使って宿泊し、
家族の元にも脅迫の電話がかかり、
アーロンが射殺された...というデマが流れ、
球場からのバスは、ダグアウトにつけられた。

が、アーロンのプレーは揺るがない。
73年のシーズン中は、ボールを、
悪質な野球ファンだと思い込み、ブッ叩いた。
声援を送ってくれるファンや、同僚達に精神的に助けられたのが大きかった。
ダスティ・ベイカーやラルフ・ガーはアーロンをいつも勇気づけ、
ブレーブスの監督になっていたエディ・マシューズも
アーロンの為に心をくだいた。

ある試合、
アーロンの外野への打球が失速し平凡な外野フライになった時、
アーロンはベンチでこう言って笑う
「天国のルースが風を送ってボールを戻したんだぜ!」
ルースの名前をジョークに使うほど、アーロンは余裕だった。

1974年、アーロンはいつも通り開幕を迎えた。
シンシナティでの開幕戦、アーロンはいきなり
714本目のホームランを放ち、ルースの記録に並んだ。

アトランタに戻った4月8日のドジャース戦、
3打席目、左腕のアル・ダウニングから打った打球は
レフトのスタンドに吸い込まれていった――――715号。

ホームを踏んだアーロンを、チームメイトがくしゃくしゃにした。
ゲームは中断され、セレモニーが始まった。
アーロンはこうスピーチした。
「全てが終わった。神様に感謝します」

試合終了後、エディ・マシューズは、
クラブハウスにアーロンの家族とチームメイトだけを残し、
報道陣らをシャットアウトした。

ラルフ・ガーは、アーロンに向かって叫んだ。
「頑張れよ! 次はハンク・アーロンの記録を破るんだ!!」

file.132 Hank AARON 02【ハンク・アーロン02】

2007-01-07 | hank aaron
【アトランタへ】
Hank AARON

1966年、チームはミルウォーキーからアトランタへ移った。
その年、アーロンは、打率.279、44本塁打、127打点で二冠王に輝き
新天地でのデビューイヤーを飾った。
68年は、メジャー史上屈指の投高打低の年、
さしものアーロンもこの年ばかりは29本塁打に終わり
打点も、86と低調に終わった。
が、ドン・ドライスデールとサンディ・コーファックスから
「バッド・ヘンリー」と呼ばれる程だった投手泣かせの打撃は
衰えを見せず、35歳の69年には打率.300、44本を打つなど、
メジャー最高の打者として君臨し続けた。

アーロンは、アトランタへの移転の頃から
本塁打狙いの打撃にシフトしたと語っているが
その本数は、別段増えたわけではなく
むしろ、相変わらずの安定性を誇っていた。

ライバルのウィリー・メイズは、71年には引退、
最高の相棒だったマシューズは既にチームを去っていたが
ダレル・エヴァンスや、オーランド・セペダ、リコ・カーティーといった
好打者がアーロンの脇を固めていた。

年齢が40に近付くにつれ、安定した活躍を続けるアーロンの
通算本塁打が700近くにまで達してきた。
打率.298、38本塁打を放った70年にはまず、3000本安打を達成、
71年は打率.327 47本塁打 118打点と、衰えを知らない猛打を見せつけ、
72年にはメイズの660本塁打を抜き去り
73年には700本に到達、
この年、39歳にして打率.301、40本の本塁打を放ったアーロンには
当然の事ながらベーブ・ルースの714本超えの期待がかかる。
73年のシーズンを通算713本で終えたアーロン。
彼のキャリアでも最高の瞬間が翌74年に待っているわけだが
同時にそれは、苦悩の日々でもあった。
そして、その苦悩の日々は73年のシーズンから
既に始まっていたのだった。

file.091 Hank AARON 01【ハンク・アーロン01】

2006-10-26 | hank aaron
【ミルウォーキー時代】
Hank AARON

遊撃手として、ニグロリーグの
クラウンズに在籍していたアーロン、
52年にミルウォーキー・ブレーブスと契約すると
54年にはメジャーに昇格した。
デビュー当時はチェンジアップに苦しみ
なかなか数字を残せないでいたが、
打撃コーチとマンツーマンで修練を積み克服、
低かった打率を.280まで押し上げるも、
9月の試合で怪我を負い
1年目はシーズン途中で終えてしまった。
が、この怪我は『兵役』からアーロンを救い、
後の通算755HRという数字に大きな影響を及ぼす事になった。

55年には早くも打率3割をクリア、
打点106もマークし、チームの主力打者に成長する。

が、順風満帆に見えるアーロンの選手生活も
黒人であるが故の不自由に、やはり見舞われていた。
アーロンがいるとも知らずに、
トイレで黒人に対する悪質なジョークを
ベラベラ喋っていたジョー・アドコックや、
ゴキブリをアーロンに見立ててからかった
殿堂投手・ウォーレン・スパーン.....。
彼等とはすぐに理解しあえたが、
その他、ホテルやレストランなど、
黒人に対する仕打ちはまだまだ色濃く残っていた。

そんな中でもミルウォーキーのファンは暖かく
アーロンも含め、ブレーブスの選手を熱く応援した。
市民は選手を誇りに思い、服や日用品をはじめとして
車や家までもタダ同然の価格で選手達に提供した。

アーロンがこの時代、プレーヤーとして
正当な評価を得られていなかったのは田舎街のミルウォーキーのチームに
在籍していたからだ...という意見も少なく無いが、
アーロンはこれをキッパリと否定している。
『ニューヨークでは自分は迷子のようになっていたであろう.....。』
マスコミなどの目があまり届かないような田舎だったからこそ
アーロンはのびのびと自分の実力を発揮する事が出来たのだ。

ミルウォーキー時代のアーロンは、
7度の100打点以上、10度の打率.300以上をマーク。
56年に打率.328 26本塁打で首位打者に。
57年は打率.322 44本塁打 132打点で本塁打、打点の二冠。
59年、打率.355 39本塁打で2度目の首位打者に輝き、
さらに60年は126打点で打点王、
63年は44本塁打 130打点で2度目の二冠に輝くなど、
選手としての絶頂期にあったと言える。
また57年のヤンクスとのワールド・シリーズでは
.393、3HR、7打点の活躍でチーム初の世界一に大きく貢献し
勝負強さを都会のチームに見せつけた。

あまり語られないが、守備や走塁面においても
ライバルのウィリー・メイズにひけを取らなかった
5ツールプレーヤーであった。

65年をもって、ブレーブスはミルウォーキーから
アトランタに移動するが、この頃、アーロンは
より、ホームランを意識した打撃をするようになっていた。