GUMBO

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file .264 Sam McDOWELL【サム・マクダウェル】

2008-10-04 | MNO
【Sudden Sam】
Sam McDOWELL

1961年、18歳でメジャーデビューしたマクダウェル、
さすがに荷が重く、制球難にも苦しみ、
63年までの3年間で6勝12敗と、
結果を出すには至らなかった。

そんなマクダウェルだったが、1964年、
突如、その才能を開花させる。
31試合に登板し、11勝、防御率2.70、
ようやくローテーションピッチャーとして
チームに貢献する事が出来たのであった。

65年、マクダウェルはさらにパワーアップ、
長身の左腕から繰り出される豪速球とチェンジアップで打者を圧倒。
防御率2.18、17勝、325奪三振をマーク、
防御率と奪三振のタイトルに輝き、
初のオールスター出場も果たした。

その後、
67年~72年まで6年連続で二桁勝利、
65年~70年まで、やはり6年連続の200奪三振以上(最多奪三振は5度)、
68年~71年まで4年連続でオールスター出場...など
マクダウェルのパワーピッチングは冴えに冴え渡った。
特に70年は、防御率2.92、キャリア初の20勝、304奪三振をマーク、
サイ・ヤング賞投票でも3位に入る活躍ぶりを見せた。

....が、その反面、コントロール難は修正がきかず、
64年~71年まで8年連続で100与四球を記録、
デビューの頃苦しんだ制球難を克服する事は出来なかった。

そんなマクダウェルだったが、
30歳を迎えると、
突然、その投球に衰えが見え始める。
原因は酒であった。
過剰に摂取したアルコールは、マクダウェルの才能を蝕んでいく。
結局、75年パイレーツで現役を引退。

通算425試合、防御率3.17、141勝134敗。

引退後はアルコール中毒との戦いが待っていたがこれを克服、
カウンセラーとしてレンジャーズやブルージェイズに在籍、
その人生をモデルにした、テレビドラマも制作された。


file .263 Fernando VALENZUELA 【フェルナンド・ヴァレンズエラ】

2008-10-03 | VWX
【フェルナンドマニア】
Fernando VALENZUELA

メキシコ生まれのヴァレンズエラは、
地元のチームで投げているところをスカウトに見いだされ、
1979年、ドジャースと契約するに至った。

80年、弱冠19歳でメジャー昇格を果たすと、
この年、17.7イニングを無失点に抑える鮮烈なデビューを飾る。
また、振りかぶった時に顔が空を見上げるようになる独特のフォームも相まって
ファンに強烈な印象を与えた。

翌81年には、開幕から5完封を含め8連勝。
激しく変化するシンカー(スクリューボール)を武器に快投を見せる
メキシコから来たスーパーレフティの登場は、
LAのみならず、全米の野球ファンを熱狂の渦に巻き込み、
熱烈にヴァレンズエラに声援を送るファンは、フェルナンドマニア...と呼ばれた。
結局この年、ストライキによる影響もあってか
勝ち星は13勝にとどまったが、8完封、防御率2.48をマークし、
チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献。
サイ・ヤング賞と新人王をダブルで戴冠し、
当然、オールスターにも出場を果たした。

3年目の82年もヴァレンズエラの勢いは加速する。
285イニングを投げて、防御率2.87、19勝13敗、
2年連続のサイ・ヤング賞とはいかなかったが、
その実力をフルスロットルで発揮した。

以降、81年~87年まで7年連続10勝以上をマーク、
86年には、防御率3.14、21勝をあげるなど、
ドジャースのエースとして球界に君臨。
82~87年の6年間は、連続して250イニングを投げ、
エースのなんたるかをおおいに示して見せた。

そんなヴァレンズエラの勢いが止まったのが88年、
蓄積疲労もあったのか23試合で5勝8敗、防御率4.24。
登板イニングも142.3と、200を大きく割ってしまった。

その後、
89、90年と2年続けて二桁勝利をあげ、
90年にはノーヒッターも達成したヴァレンズエラだが、
全盛期の勢いは戻らない。
91年のオリオールズをはじめとして
フィリーズ、パドレス、カージナルスとチームを変えながら、
メキシカンリーグとメジャーリーグを往復。
96年にパドレスで防御率3.62、13勝8敗と復活するもここまで。
翌97年、カージナルスで現役を引退した。

通算453試合、防御率3.54、173勝153敗。
打撃センスもよく、通算打率.200、10本塁打、84打点をマーク、
90年には打率.304、1本塁打、11打点..と
野手と見紛うような成績を残した。

オールスターには6回選出され、5試合に登板。
通算7.2イニングを無失点に抑えている。


file .262 Al HRABOSKY 【アル・ラボスキー】

2008-10-02 | GHI
【狂えるハンガリー人】
Al HRABOSKY

その魁偉な長髪・髭面と、
独特な投球時の儀式、
加えて、ハンガリーの家系の生まれである事から
『マッド・ハンガリアン』のニックネームで親しまれた
名物ピッチャーである。

1969年、カージナルスと契約し、
70年に、20歳の若さでメジャーデビューを果たしたラボスキーは
73年、中継ぎ投手として44試合に登板し、防御率2.09と結果を残す。

74年には、65試合で防御率2.95、8勝1敗9セーブの好成績をマークし
サイ・ヤング賞レースで5位に入る活躍を見せた。

荒々しい風貌から繰り出される豪速球で
相手打者を封じ込めたが、
その速球よりも、打者に嫌がられたのが、
ラボスキーの投球スタイルである。
まず、投げる前に打者に背を向け、
何やらブツブツとつぶやきながら、セカンドベース方向へ歩き出す。
精神集中を終えると、ようやくマウンドに戻り投球する........。

1球ごとにこれをやられたら、
打者としては、たまったものではない。

ビル・マドロックなどは、
ラボスキーが投げる準備を終えた頃合いをわざと狙って、
独り言を言いながら
バッターボックスから自軍ベンチの方へ歩いていく....という物真似で
ラボスキーに対抗したほどである。

が、このカラフルなリリーフピッチャーは、
前述の活躍が示す通り、キャラクターだけの色物では無かった。

75年、65試合、防御率1.66、13勝3敗22セーブで
サイ・ヤング賞投票3位の大活躍を見せると、
ロイヤルズへ移籍した78年には、
58試合で防御率2.88、8勝7敗20セーブで
チームの地区優勝に貢献。

82年にアトランタで現役を退いたラボスキー、
実働13年での通算成績は、545試合、64勝、97セーブ、防御率3.10。

現在は解説者の傍ら、
レストランやバーを経営している。

file .261 Jim ABBOTT 【ジム・アボット】

2008-10-01 | ABC
【隻腕のエース】
Jim ABBOTT

1967年、ミシガンで生まれたアボットは、
先天性右手欠損....右手首より先が無い、という
ハンディキャップを背負って生まれた。
両親は、高校を出たばかりの18歳同士、
生まれてきた赤ん坊を見た時の衝撃は計り知れないが、
二人は悲観せず、普通の子供として育て、
アボットのやりたい事を、好きにやらせた。

やがて野球を始めたアボットだったが、
問題は守備であった。
アボットは、投球時にグローブを右手首に乗せ、
投球直後にそのグローブを即座に左手にはめる...という動作を
時間をかけ何度も練習し、ついに会得。
高校、大学と、投手としてプレーし続け、その才能を開花。
ついには、ソウル・オリンピックの代表メンバーに選出され、
金メダル獲得の原動力となった。

1989年、カリフォルニア・エンゼルスに入団したアボットは、
マイナーでのプレーを経ず、防御率3.92、12勝をマーク。
5月17日には、レッドソックス相手に完封、
ロジャー・クレメンスに投げ勝つ...という大金星をあげている。
新人王レースでも5位に付け、
早くも、チームのローテーション入りを果たした。

91年は、アボットにとって、最高の年となった。
防御率2.89、18勝という素晴らしい成績で、
サイ・ヤング賞の投票では3位にランクイン。
チャック・フィンリーやマーク・ラングストンといった面々と共に、
主力投手としてチームを支えた。

92年も7勝ながら防御率2.77と好投し、
安定した投球を見せたアボットだったが
93年、J.T・スノウらとのトレードでヤンキースへ移籍。
この年の9月のインディアンズ戦では、
ノーヒット・ノーランを達成。
インディアンズ打線には
ケニー・ロフトン、カルロス・バイエガ、アルバート・ベル、
売り出し中のジム・トーミー、
この年デビューしたマニー・ラミレスなどがおり、
今見ると、かなり豪華な布陣であった。

その後、ヤンキースを経て、
シソックス、エンゼルス、ブルワーズと渡り歩いたアボットだったが、
91~92年頃のキレのある投球は復活せず、
1999年、ブルワーズを最後に現役を引退した。

通算263試合、87勝、防御率4.25。

とある試合、
無意識にセーフティバントの構えを見せ、
投手がアボットだと気づき、バットを引いた選手に対し、
「何故バントをしなかった?? あの場面ではあり得る作戦だろ?? 
私に気を使う事は無いし、バントをしない事は逆に私を見下してる事になるんだぜ」
と言い放ったという。

男・アボット、歴史に残る名レフティである。