GUMBO

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file .311 Zoilo VERSALLES【ゾイロ・ヴェルサイレス】

2014-01-06 | VWX
【ゾロ】
Zoilo VERSALLES


キューバ出身のヴェルサイレスは
1959年、若干19歳にしてワシントン・セネターズの遊撃手としてデビュー。
61年にミネソタツインズに移籍して
打率.280 7本塁打 53打点でレギュラーに定着すると、
以降、華麗な守備でチームを支え、
63年にはオールスター出場に加え、ゴールドグラブも受賞。
リーグ屈指の遊撃手となった。

65年、打率.273 19本塁打 77打点をマーク、
126得点、45二塁打、12三塁打は共にリーグ最多で
チームのリーグ優勝の原動力となり、
打率.321 98打点のチームメイト、トニー・オリバを抑えMVP獲得。
二度目のオールスター出場とゴールドグラブにも輝き、
キャリア最高の年を過ごした。

66年以降は一転、打撃面で苦しむようになり
成績は下降の一途。
68年からチームを転々とし、
72年は来日し広島カープに入団。
元MVPプレーヤーの片鱗を見せつけるには至らず、
打率.189 4本塁打でそのまま現役を引退した。

file .263 Fernando VALENZUELA 【フェルナンド・ヴァレンズエラ】

2008-10-03 | VWX
【フェルナンドマニア】
Fernando VALENZUELA

メキシコ生まれのヴァレンズエラは、
地元のチームで投げているところをスカウトに見いだされ、
1979年、ドジャースと契約するに至った。

80年、弱冠19歳でメジャー昇格を果たすと、
この年、17.7イニングを無失点に抑える鮮烈なデビューを飾る。
また、振りかぶった時に顔が空を見上げるようになる独特のフォームも相まって
ファンに強烈な印象を与えた。

翌81年には、開幕から5完封を含め8連勝。
激しく変化するシンカー(スクリューボール)を武器に快投を見せる
メキシコから来たスーパーレフティの登場は、
LAのみならず、全米の野球ファンを熱狂の渦に巻き込み、
熱烈にヴァレンズエラに声援を送るファンは、フェルナンドマニア...と呼ばれた。
結局この年、ストライキによる影響もあってか
勝ち星は13勝にとどまったが、8完封、防御率2.48をマークし、
チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献。
サイ・ヤング賞と新人王をダブルで戴冠し、
当然、オールスターにも出場を果たした。

3年目の82年もヴァレンズエラの勢いは加速する。
285イニングを投げて、防御率2.87、19勝13敗、
2年連続のサイ・ヤング賞とはいかなかったが、
その実力をフルスロットルで発揮した。

以降、81年~87年まで7年連続10勝以上をマーク、
86年には、防御率3.14、21勝をあげるなど、
ドジャースのエースとして球界に君臨。
82~87年の6年間は、連続して250イニングを投げ、
エースのなんたるかをおおいに示して見せた。

そんなヴァレンズエラの勢いが止まったのが88年、
蓄積疲労もあったのか23試合で5勝8敗、防御率4.24。
登板イニングも142.3と、200を大きく割ってしまった。

その後、
89、90年と2年続けて二桁勝利をあげ、
90年にはノーヒッターも達成したヴァレンズエラだが、
全盛期の勢いは戻らない。
91年のオリオールズをはじめとして
フィリーズ、パドレス、カージナルスとチームを変えながら、
メキシカンリーグとメジャーリーグを往復。
96年にパドレスで防御率3.62、13勝8敗と復活するもここまで。
翌97年、カージナルスで現役を引退した。

通算453試合、防御率3.54、173勝153敗。
打撃センスもよく、通算打率.200、10本塁打、84打点をマーク、
90年には打率.304、1本塁打、11打点..と
野手と見紛うような成績を残した。

オールスターには6回選出され、5試合に登板。
通算7.2イニングを無失点に抑えている。


file .202 Dave WINFIELD【デイブ・ウィンフィールド】

2007-06-14 | VWX
【2001 HOF】
Dave WINFIELD

MLB、NBA、NFL....と、3種目のプロスポーツで
ドラフト指名されたウィンフィールド。
結局、MLBのパドレスに入団するのだが、
マイナーを経る事無く、1年目からメジャーで活躍し
56試合で打率.277 3本塁打 12打点の成績を残す。

翌74年には20本塁打し、その才能の片鱗を感じさせるが
75~76年は、いずれも10本台の本塁打数に終わり、
打撃面においては、伸び悩みを見せていた。

そんなウィンフィールドだったが
77年、25本塁打 92打点、
78年には24本塁打 97打点.......と
ようやく高いレベルで安定した数字を残せるようになり、
79年は打率.308 34本塁打 118打点。
キャリアで唯一のタイトルとなる打点王を獲得し
完全なるブレークを果たした。

81年、高額契約でヤンキースへ移籍。
82年、83年、いずれも30本塁打 100打点以上をマークし、
84年は、同僚のマッティングリーと熾烈な首位打者争いを展開。
最終戦でマッティングリーに競り負けてしまい、タイトルこそ逃すも、
打率.340 19本塁打 100打点を記録。

以後も、ヤンキースでは、
6度の20本塁打以上と100打点以上をマークするなど
看板通りの大活躍を見せる事となった。

が、その一方で、
81年のワールドシリーズでは、22打数1安打と大ブレーキ。
オーナーのスタインブレーナーからは
シーズンの序盤しか華々しい活躍が出来ない
『ミスター・メイ』と皮肉られ、
83年には、練習でのキャッチボール中に、
ボールをカモメに当て死亡させ、
動物虐待のかどでトロント警察に逮捕されるなど
散々な目にあってしまう。

ともあれ、ヤンキースで選手としての絶頂期を迎えたウィンフィールドは
90、91年はエンゼルスで活躍。

92年は逮捕された苦い経験を持つトロントへ移籍、
40才にして打率.290 26本塁打 108打点をマークし
チームをリーグ優勝に導くと、
ワールドシリーズでも、
第6戦で、世界一を決めるタイムリーヒットを放つなど大活躍。

ツインズで迎えた93年には3000本安打も記録し、
95年、43才で現役を退いた。

通算3110安打 465本塁打 1833打点 223盗塁 打率.283
ナ・リーグ、ア・リーグの両リーグでゴールドグラブを受賞するなど
外野守備の評価も高かった。

2001年には殿堂入りを果たす。

file .200 Early WYNN【アーリー・ウィン】

2007-05-25 | VWX
【GUS】
Early WYNN

ブラッシュボールで相手を威嚇し
並みいる打者を恐怖で震え上がらせた名物投手。

1939年、セナターズでデビューを果たす。
42年に10勝、43年に18勝するなど
早くから頭角を表したウィンだったが
安定感に欠ける投球を続け、チームの信頼を得るに至らなかった。

49年、29歳の時にインディアンズに移籍。
速球のみに頼るスタイルを変え、変化球をマスターし開花。
50年に18勝すると、51年には防御率3.02 20勝をマーク、
52年にも、防御率2.90 23勝を記録し、
ボブ・レモンらと並ぶチームの大黒柱に成長した。

血走った目で、溢れすぎの闘争心をムキ出しにし、
対戦する打者は、皆、ウィンにとっては親の仇のごとく。
ホームベース寄りに立つ打者には容赦なくブラッシュボールを放った。
練習の最中、15歳の息子にヒット性の当たりをを立続けに打たれると、
事もあろうに、ウィンは愛息めがけてブラッシュボールを投付けた。
「どっちが偉い人間か解らせる必要があったからな!!」
ミッキー・マントルにピッチャー返しのヒットを打たれると
牽制球でマントルにぶつけようとした事もあった。

「俺は頭は狙わないぜ!..............ただ、あばら骨なら話は別だ。」

その後もウィンは、恐怖の投球で安定した成績を残し、
54年、防御率2.73 23勝でインディアンズの、
59年、防御率3.17 22勝でホワイトソックスのリーグ優勝に貢献。
特に59年は史上最年長の39歳でのサイ・ヤング賞受賞と相成った。

63年、43歳になったウィンは1勝をマーク、
通算300勝とし、現役を引退した。

溢れる闘志は打撃面においても遺憾なく発揮され、
通算打率.214 17本塁打 173打点と、
しばしば代打で起用されるほどの実力を誇った。

1999年、この世を去っている。

「俺の邪魔をする打者は、例えそれが自分の婆ちゃんでも容赦はしないぜ。」

file.191 Hoyt WILHELM【ホイト・ウィルヘルム】

2007-04-18 | VWX
【ザ・ナック】
Hoyt WILHELM

魔球・ナックルボールを武器に
歴代5位の1070試合に登板した名投手。
主にストッパーとして活躍し、
通算122勝 227セーブ 防御率2.52をマークした。

1942年、19才の時にプロ入りを果たしたウィルヘルムだったが、
メジャーデビューまで、実に10年を要した。
その間、兵役に就き第二次世界大戦中、屈指の激戦となった
『バルジ戦役』にも従軍、
『パープル・ハート勲章』を受賞するなど殊勲を挙げた。

52年、29才になったウィルヘルムはジャイアンツでデビュー。
この年、71試合に登板し、15勝 11セーブ 防御率2.43をマーク、
最優秀防御率のタイトルを獲得し、
新人王レースで2位、MVP投票でも4位につける大活躍を見せた。
54年には57試合に登板し12勝、
ジャイアンツのリーグ優勝、及びワールドシリーズ制覇に
多大な貢献を果たした。

以後もナックルボールを武器に活躍を続けるも、移籍をくり返したウィルヘルム。

58年シーズン途中に先発投手としてオリオールズへ入団すると
9月には、マントル、ベラを擁するヤンキース相手に
ノーヒット・ノーランを達成し、一躍その名を全米に知らしめた。

59年、15勝に加えリーグトップの防御率2.19をマークし、
先発投手としても成功を収めていたウィルヘルムだったが
ホワイト・ソックスへ移籍した63年からは、再度ストッパーに転向。
この年から3年連続で20セーブ以上を記録、
64年から5年連続で1点台の防御率。
65年には45才にして72試合に登板するなど
衰えをしらない投球を見せつけた。

その後、エンゼルやブレーブス、カブス、ドジャースに在籍し、
72年、49才で現役を引退。

85年に野球殿堂入り。
2002年、この世を去った。


file.189 Mookie WILSON【ムーキー・ウィルソン】

2007-04-10 | VWX
【Mook】
Mookie WILSON

歴史に残る一塁ゴロで有名な
スイッチ・ヒッターの快速外野手。

77年、ドラフト2位でメッツに入団したウィルソンは、
80年にメジャーデビューを飾る。

82年打率.279、5本塁打、58盗塁をマークし
外野のレギュラーの座を掴むと、
83年も打率.276、54盗塁、
チームの1番打者に定着した。

86年、打率.289、9本塁打、25盗塁をマークし
チームのリーグ優勝に貢献。
レッドソックスと覇を競ったワールドシリーズでは
打率.269、3盗塁を記録。
熱戦となった第6戦では、
あの有名なビル・バックナーの
サヨナラエラーを呼ぶ一塁ゴロを放ち、
奇蹟の逆転勝利及び世界一の一翼を担った。

この打席でウィルソンは、ファールなどで
10球投げさせる粘りを発揮。
勝利への執念が生んだエラーといえるだろう。

89年、シーズン途中にブルージェイズへ移籍、
90年には31盗塁をマークするなど
まずまずの活躍を続けたが、
91年に現役を退いた。

通算1397安打、327盗塁、打率.274。

ちなみに現カージナルスの元打点王
プレストン・ウィルソンはムーキーの義理の息子である。


file.188 Quilvio VERAS【キルヴィオ・ヴェラス】

2007-04-07 | VWX
【1995年・盗塁王】
Quilvio VERAS

89年にメッツに入団したヴェラス。

95年にマーリンズへ移籍すると
正二塁手として124試合に出場し、
打率.261、5本塁打、32打点、56盗塁をマーク、
いきなりの盗塁王に輝き、
新たなスピードスター候補として
順調なキャリアスタートを切った。

96年は、怪我の影響もあって73試合の出場に終わるが、
97年、トレード移籍したパドレスで、
打率.265、33盗塁の成績を残し、
98年は、打率.267、45打点、24盗塁で
パドレスのリーグ優勝に貢献する。

99年、キャリア・ハイの打率.280をマーク。
ブレーブスへ在籍していた2000年も、
シーズン途中まで打率.309を打つなど、打撃開眼かと思わせた。
が、怪我でシーズン後半は出場できず、
翌2001年も怪我で71試合の出場に終わると、
チームを解雇されてしまい、
以降、メジャーリーグの舞台から姿を消してしまった。

通算750安打、183盗塁。
選球眼が良く、通算死四球は427、
通算打率.270に対して出塁率.372と
1割以上も高い数字を残している。

file.178 Willie WILSON【ウィリー・ウィルソン】

2007-03-20 | VWX
【スピード・スター】
Willie WILSON

歴代12位となる668盗塁を記録した外野手、
80年代を代表するスピードスターの一人。

74年にドラフト1位でロイヤルズに入団したウィルソン。
78年に127試合に出場し、メジャーに定着、
198打数43安打の打率.217ながら、46盗塁をマーク、
その快足ぶりを大いにアピールした。

79年はレギュラーに定着し
打率.315、6本塁打、83盗塁を記録し盗塁王を獲得、
以後、5度の打率.3割以上、
11年連続30盗塁以上をマークするなど、
ジョージ・ブレットらと共に
ロイヤルズの最盛期を担う役割を果たす事になる。

80年、リーグ最多となる230安打に加え、
打率.326、79盗塁でチームをリーグ優勝に導くと
82年は、打率.332、37盗塁で首位打者の栄冠に輝いた。
守備面においても、ゴールド・グラブこそ一度の受賞にとどまるが
快足を活かした広い守備範囲でチームに貢献した。

83年のオフ、麻薬の服用が明るみに出て刑務所に入る事件を起こしたウィルソン。
が、翌84年は打率.304、47盗塁としっかり結果を残し、
85年には打率.278、43盗塁、21三塁打の成績でロイヤルズをリーグ優勝に導き
カージナルスと戦ったワールドシリーズでも
打率.367の大活躍で、チームの世界一に大いに貢献した。

91年、アスレチックスへFA移籍。
リッキー・ヘンダーソンと時折、快足1ー2番コンビを形成するが、
93年には今度はカブスへ移籍、
94年、38才で現役を引退した。

19年の現役生活で、2207安打、打率.285。
通算13本のランニングホームランと、
5度のシーズン最多三塁打が光る。

同時期にデビューしたリッキー・ヘンダーソンに隠れる形となったが、
強豪ロイヤルズの歴史を飾るリード・オフマンであった。

file.169 Billy WILLIAMS【ビリー・ウィリアムス】

2007-03-04 | VWX
【Sweet Swingin' Billy】
Billy WILLIAMS

1961年、打率.278、25本塁打の成績を残し
新人王に選ばれたウィリアムス。
以降、73年まで13年連続で
20本塁打以上、80打点以上を記録し、
アーニー・バンクスやロン・サントらと共に、カブスを牽引。
Sweet Swingin'のニック・ネームの通り、
華麗なスイングと甘いマスクで人気をはくした。
63年から70年の8年間にわたり、1117試合連続出場を果たすなど
怪我知らずの鉄人ぶりで、チームに多大な貢献を果たした。

64年、打率.312、33本塁打、98打点
65年、打率.315、34本塁打、108打点...と
2年続けて、ハイレベルな数字を残したウィリアムス。
衰えの見え始めたバンクスに代わる
チームトップの打者としてカブスの打線を支えるが、
当時のカブスは、好選手を揃えながら、
なかなか優勝出来ない.....という非運のチームであった。

70年、打率.322、42本塁打、129打点と爆発。
205安打で、最多安打をマークし、
MVP投票では2位に付ける活躍を見せる。

72年は、打率.333、37本塁打で首位打者を獲得、
MVP投票は、またしても2位に終わった。

76年、アスレチックスでその現役生活を終えるが
75年にそのアスレチックスで唯一のリーグ優勝を経験した。
が、プレーオフで敗れ去り、自身も3試合、7打席で
ヒットを打つ事は出来なかった。

87年に野球殿堂入りを果たし、
背番号26はカブスの永久欠番に指定された。

file.154 Bobby VALENTINE【ボビー・ヴァレンタイン】

2007-02-14 | VWX
【名将かウザキャラか??】
Bobby VALENTINE

ヴァレンタインは、68年にドラフト1位でドジャースに入団。
内外野を守れるユーリティリー・プレーヤーとして活躍、
72年には打率.274、32打点とまずますの成績を残す。
73年からは、エンゼルスに在籍。
74年に打率.269、39打点をマークするが、
足の故障と、打撃面の非力さの所為か、
以後は年間100試合以上の出場を果たせず、
79年、マリナーズで現役を引退する。

その後、メッツのコーチに就任を経て
85年シーズン途中にレンジャースの監督に就任、
35歳の若き指揮官は、85年最下位だったチームを
翌86年には2位にまで浮上させる。
が、レンジャースでは優勝に至らず
95年に日本の千葉マリーンズの監督に就任。
その明るいキャラクターと統率力で
万年Bクラスだったチームを2位にまで引き上げ
一躍人気監督となる。
が、当時チームのGMだった広岡達郎と衝突し
1年でチームを追われてしまう。

96年から、今度はメッツの監督となったヴァレンタイン、
2000年には、メッツvsカブスの日本での公式戦で来日、
大きな声援を受け、改めて日本での人気の高さを立証した。
また、この年はメッツをリーグ優勝に導き、
ワールド・シリーズ進出を果たしたが、
世界一には届かなかった。

2004年から千葉マリーンズの監督に復帰。
05年にはチームを31年ぶりの日本一に導き
日本での評価を絶対的なものとした。

メッツ時代の1999年、
退場をくらったのにも関わらず、
ヒゲメガネで変そうしてベンチ入りをしたり、
コーチ時代は、相手投手の集中力を乱すべく
3塁コーチャーズボックス内で変な動きをしてみせたり...と
ユニークなエピソードが多いヴァレンタイン。
日本でも、キャラクターで絶大な人気を誇るが、
本国ではトミー・ラソーダと共に
『ウザい目立ちたがり屋』キャラ扱いされる事もしばしばある。

file.109 Lou WHITAKER【ルー・ウィテカー】 

2006-12-01 | VWX
【Sweet Lou】
Lou WHITAKER

日本では知名度は、限り無くゼロに近いが、
タイガース一筋で現役を終えた名セカンドである。

ショートを守るアラン・トラメルとは、
メジャー史上において、最強とも言われる二遊間コンビを形成、
19年にわたり、息の合ったプレーを披露し、ファンを沸せた。

1977年、トラメルとともにメジャー昇格を果たしたウィテカーは
78年には二塁のレギュラーに定着。
この年、トラメルも遊撃のポジションを確保し、共に新人王レースを争うが、
打率.285、58打点のウィテカーが勝り、見事、新人王に輝く。
以降、リード・オフマンとして安定した打撃を見せると共に
ゴールドグラブ3度に輝く好守で、チームを支えた。
相棒のトラメルとは、メジャー記録の1915試合でコンビを組み、
二塁手として、歴代4位にあたる1527個の併殺を決めた他、
数々のファインプレーを演じた。

打撃面においても、徐々に長打力と勝負強さを身に付け、
83年、打率.320、12本塁打、72打点、17盗塁、
MVP投票8位にランキングされる程の活躍を見せると、
84年には打率.289、13本塁打、56打点で
チームのリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでも出塁率.409と活躍、
タイガースを世界一に導いた。

85年には打率.279、21本塁打、73打点を打つなど
1985年以降、20本塁打を4度記録している。

1995年、打率.293の成績を残しながら、現役を引退したウィテカー、
トラメルの方も翌96年、後を追うかのごとく、キャリアを終えた。

通算2369安打、殿堂の声が聞かれてもおかしくない程の名選手であるが
オールスター戦で、ユニホームを忘れ、球場のショップで買ったレプリカジャージに
マジックで背番号等を書き込んで試合に出場した...という間抜けなエピソードを持つ。

file.092 Vic WERTZ【ヴィック・ワーツ】

2006-10-27 | VWX
【偉大なるセンターフライ】
Vic WERTZ

1947年から、63年にかけて
実に7球団を渡り歩き、
通算で1692安打、1178打点。
266本のホームランを
スタンドにブチ込み、
オールスターにも4回出場、
100打点を超える事5度。

この時代を代表する
スラッガーの一人といっていいだろう。

しかし、ヴィック・ワーツが球界の歴史に
深くその名を刻んだのは、
たった1つのアウトである。
すなわち『ザ・キャッチ』の大飛球となった
センターフライである。

1954年のジャイアンツvsインディアンズの
ワールドシリーズ、ワーツは、4試合で
16打数8安打、1本塁打、3打点と
手がつけられない大爆発ぶりであった。
あの打球が抜けていれば、
シリーズMVP選手として、その名は
後生まで伝えられていたかもしれない。

が、ワーツは生前、この『ザ・キャッチ』について
記者に聞かれた時、こう答えていたという。

「あの打球が抜けていたら、今頃 誰も俺の事なんか覚えていないさ」

file017 Maury WILLS 【モーリー・ウィルス】

2005-08-03 | VWX
【ドジャース戦法の要】
Maury WILLS

60年代、3度のリーグ優勝と、
2度のワールド・チャンピオンに輝いたドジャース。
投の要は間違い無く、ドン・ドライスデールと
サンディ・コーファックスの2人だが、
打の要はモーリー・ウィルスであろう。

メジャー2年目の60年、打率.295、50盗塁で
チームのリードオフマンに定着。
62年には打率.299、104盗塁の大活躍でシーズンMVPを獲得、
ドジャースのみならず、リーグを代表する選手となる。

65年は、打率.286で94盗塁を決め、本塁打0ながら
MVP投票では3位にランクされた。
チームは、ワールドシリーズを制覇し、
ウィルス自身もシリーズは絶好調、打率.367、3盗塁と
大活躍であった。

当時のドジャースには圧倒的な長距離打者が不在で、
ウィルスや、ウィリー・デービスら、
俊足好打の打者が出塁し、塁上をかきまわし、
ようやくもぎ取った最少得点を、
ドライスデールや、コーファックスといった投手陣が守り抜く...
というような機動力野球を展開していた。
そんな中、ウィルスは結局、60年から65年にかけて
6度の盗塁王に輝き、打線を牽引した。
ドジャースの打線はウイルスを中心に繋がっていたのである。
このドジャースの戦い方は「ドジャース戦法」と呼ばれ、
牧野 茂によってV9時代の読売ジャイアンツに導入された。
そしてウィルスは、こうした組織野球戦術には
欠かせない選手だったのである。

67年にパイレーツに移籍、68年には52盗塁を決めるなど
スピードに衰えは見られず、その後、エクスポズを経て
1972年、古巣ドジャースで現役を退いた。

80年、マリナーズの監督に就任したウィルスだったが、
こちらの分野では全く振るわず、
81年途中で解雇の憂き目にあっている。
また、息子のバンプもレンジャーズなどで6年間に渡りメジャーで活躍、
通算196盗塁を記録し、父親譲りの俊足を披露した。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=124371

file009 Mitch WILLIAMS 【ミッチ・ウィリアムス】

2005-07-15 | VWX
【Wild Thing】
Mitch WILLIAMS

メジャーリーグで“ワイルド・シング”といえば、
野球ファンならおなじみ、インディアンズの
リッキー・ボーンであろう。
もちろん、 リッキー・ボーンは実在の選手ではない、
映画「メジャーリーグ」の主人公の一人の名前である。
が、“ワイルド・シング”と呼ばれたピッチャーは存在した。
フィリーズ他に在籍したミッチ・ウィリアムスである。

86年レンジャーズでデビュー、
2年連続で80試合以上に登板、8勝づつをあげる。
89年にはカブスへ移籍。
この年、4勝、36セーブ、防御率2.76で
サイ・ヤング賞で9位につける程の活躍を見せた。

91年にフィリーズへ移籍、
12勝、30セーブ、防御率2.34の好成績を残し、
サイ・ヤング賞投票では6位。
リーグを代表するストッパーの地位を確立した。

投げた後倒れてしまうほどの
激しい投球フォームから豪速球をくりだし、
そのワイルドなピッチングにファンは
映画「メジャーリーグ」の
リッキー・ボーンの姿を重ね合わせた。
いつしかウィリアムスはワイルド・シングと呼ばれる程の
人気選手になっていた。

しかし、黄昏時は意外と早くやってきた。

93年ウィリアムスは43セーブをあげ、
フィリーズの地区優勝に大きく貢献。
プレイオフでも2勝2セーブと大車輪の活躍を見せ、
チームをリーグ優勝に導いた。
しかし、ウィリアムスのスタミナは
ブルージェイズとのワールド・シリーズまではもたなかったのか、
第4戦で3点差を守れず、
第6戦ではジョー・カーターに痛恨の優勝決定サヨナラ弾を浴びるなど、
一転、戦犯扱いになってしまう。

ショックから立ち直れない上に、
自宅に届くフィリーズファンからの脅迫状や
脅迫電話にすっかり参ったウィリアムス。
追われるようにフィリーズを出ていくが、
以降は全く冴えない投手に成り下がってしまう。
95年に引退、97年に復活をかけ現役復帰するも最悪の成績で結局引退。
94年から97年にかけて記録したセーブはわずか6セーブにとどまった。