【ベイビー・ブル】
Orland Cepeda
先だって行われたWBCでドミニカや
キューバといった強豪と戦ったプエルトリコ、
現在はメジャーリーグにイヴァン・ロドリゲスや
ホルヘ・ポサダ、モリーナ兄弟といった
優秀なキャッチャーを輩出している。
そのプエルトリコにおいて、ロベルト・クレメンテと並んで
英雄として讃えられているのが
オーランド・セペダである。
「ブル」と呼ばれたプエルトリコの伝説的強打者
ペドロ・セペダを父に持つことから
ベイビー・ブルと呼ばれた。
1955年、ジャイアンツと契約した17歳のセペダは、
マイナーで抜群の成績を残し、58年にはメジャーに昇格、
ドジャーズ戦、メジャー初打席でホームランを放つ華々しいデビューを飾り、
打率.312 本塁打25 打点96の好成績で新人王を獲得する。
実力が充分で、明るく奔放な性格のセペダはサンフランシスコで絶大な支持を得た。
セペダは、ほぼ同期のウィリー・マッコビーと同じファーストを守っていたが、
結果的にセペダはマッコビーにポジションを譲り、レフトを守る事になる。
すると、セペダを絶対的に支持するファンは、マッコビーがエラーをすると
『セペダの方が上手い』と彼を罵り、セペダがレフトでまずい守備をすると
『マッコビーの所為でセペダが慣れないレフトを守らなくてはいけない』と
マッコビーを攻めたてた。
結局、ビル・リグニー監督は外野守備の下手なセペダをファーストに固定し、
マッコビーを外野に据えた。
59年に本塁打46、打点142で二冠に輝いたセペダは
その後もコンスタントに打ち続け、ウィリー・メイズやマッコビーと
無敵の中軸トリオを結成する。
61年には打率.311、46本塁打、142打点で
本塁打と打点の二冠に輝く。
以降も64年まで30本塁打以上、95打点以上を
コンスタントにたたき出した。
が、1965年、試合中の怪我で33試合の出場に終わると、
翌66年にはカージナルスへ放出されてしまう。
カージナルスでもセペダの打棒は鋭さを失わず、
67年には、打率.325 打点111で、打点王とMVPに輝く活躍を見せる。
以後、ブレーブス、アスレティックス、レッド・ソックス、ロイヤルズと
移籍をくり返し、1974年に引退する。
現役生活17年で、12度の20本塁打以上、
9度の90打点以上を誇り、オールスター出場7度の名選手であった。
引退後は、マリファナ所持で刑務所に入った事が影響し、
殿堂入りから遠のいていたが、99年晴れて殿堂選手となった。
ちなみにセペダは熱心な創価学会員である。
Orland Cepeda
先だって行われたWBCでドミニカや
キューバといった強豪と戦ったプエルトリコ、
現在はメジャーリーグにイヴァン・ロドリゲスや
ホルヘ・ポサダ、モリーナ兄弟といった
優秀なキャッチャーを輩出している。
そのプエルトリコにおいて、ロベルト・クレメンテと並んで
英雄として讃えられているのが
オーランド・セペダである。
「ブル」と呼ばれたプエルトリコの伝説的強打者
ペドロ・セペダを父に持つことから
ベイビー・ブルと呼ばれた。
1955年、ジャイアンツと契約した17歳のセペダは、
マイナーで抜群の成績を残し、58年にはメジャーに昇格、
ドジャーズ戦、メジャー初打席でホームランを放つ華々しいデビューを飾り、
打率.312 本塁打25 打点96の好成績で新人王を獲得する。
実力が充分で、明るく奔放な性格のセペダはサンフランシスコで絶大な支持を得た。
セペダは、ほぼ同期のウィリー・マッコビーと同じファーストを守っていたが、
結果的にセペダはマッコビーにポジションを譲り、レフトを守る事になる。
すると、セペダを絶対的に支持するファンは、マッコビーがエラーをすると
『セペダの方が上手い』と彼を罵り、セペダがレフトでまずい守備をすると
『マッコビーの所為でセペダが慣れないレフトを守らなくてはいけない』と
マッコビーを攻めたてた。
結局、ビル・リグニー監督は外野守備の下手なセペダをファーストに固定し、
マッコビーを外野に据えた。
59年に本塁打46、打点142で二冠に輝いたセペダは
その後もコンスタントに打ち続け、ウィリー・メイズやマッコビーと
無敵の中軸トリオを結成する。
61年には打率.311、46本塁打、142打点で
本塁打と打点の二冠に輝く。
以降も64年まで30本塁打以上、95打点以上を
コンスタントにたたき出した。
が、1965年、試合中の怪我で33試合の出場に終わると、
翌66年にはカージナルスへ放出されてしまう。
カージナルスでもセペダの打棒は鋭さを失わず、
67年には、打率.325 打点111で、打点王とMVPに輝く活躍を見せる。
以後、ブレーブス、アスレティックス、レッド・ソックス、ロイヤルズと
移籍をくり返し、1974年に引退する。
現役生活17年で、12度の20本塁打以上、
9度の90打点以上を誇り、オールスター出場7度の名選手であった。
引退後は、マリファナ所持で刑務所に入った事が影響し、
殿堂入りから遠のいていたが、99年晴れて殿堂選手となった。
ちなみにセペダは熱心な創価学会員である。