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file.069 Orland Cepeda 【オーランド・セペダ】

2006-03-29 | ABC
【ベイビー・ブル】
Orland Cepeda

先だって行われたWBCでドミニカや
キューバといった強豪と戦ったプエルトリコ、
現在はメジャーリーグにイヴァン・ロドリゲスや
ホルヘ・ポサダ、モリーナ兄弟といった
優秀なキャッチャーを輩出している。
そのプエルトリコにおいて、ロベルト・クレメンテと並んで
英雄として讃えられているのが
オーランド・セペダである。
「ブル」と呼ばれたプエルトリコの伝説的強打者
ペドロ・セペダを父に持つことから
ベイビー・ブルと呼ばれた。

1955年、ジャイアンツと契約した17歳のセペダは、
マイナーで抜群の成績を残し、58年にはメジャーに昇格、
ドジャーズ戦、メジャー初打席でホームランを放つ華々しいデビューを飾り、
打率.312 本塁打25 打点96の好成績で新人王を獲得する。
実力が充分で、明るく奔放な性格のセペダはサンフランシスコで絶大な支持を得た。
セペダは、ほぼ同期のウィリー・マッコビーと同じファーストを守っていたが、
結果的にセペダはマッコビーにポジションを譲り、レフトを守る事になる。
すると、セペダを絶対的に支持するファンは、マッコビーがエラーをすると
『セペダの方が上手い』と彼を罵り、セペダがレフトでまずい守備をすると
『マッコビーの所為でセペダが慣れないレフトを守らなくてはいけない』と
マッコビーを攻めたてた。
結局、ビル・リグニー監督は外野守備の下手なセペダをファーストに固定し、
マッコビーを外野に据えた。

59年に本塁打46、打点142で二冠に輝いたセペダは
その後もコンスタントに打ち続け、ウィリー・メイズやマッコビーと
無敵の中軸トリオを結成する。
61年には打率.311、46本塁打、142打点で
本塁打と打点の二冠に輝く。
以降も64年まで30本塁打以上、95打点以上を
コンスタントにたたき出した。
が、1965年、試合中の怪我で33試合の出場に終わると、
翌66年にはカージナルスへ放出されてしまう。

カージナルスでもセペダの打棒は鋭さを失わず、
67年には、打率.325 打点111で、打点王とMVPに輝く活躍を見せる。
以後、ブレーブス、アスレティックス、レッド・ソックス、ロイヤルズと
移籍をくり返し、1974年に引退する。

現役生活17年で、12度の20本塁打以上、
9度の90打点以上を誇り、オールスター出場7度の名選手であった。

引退後は、マリファナ所持で刑務所に入った事が影響し、
殿堂入りから遠のいていたが、99年晴れて殿堂選手となった。

ちなみにセペダは熱心な創価学会員である。

file.068 Jackie ROBINSON 05 【ジャッキー・ロビンソン 05】

2006-03-14 | 2013年映画『42』
【引退後】
Jackie ROBINSON

引退後のジャッキーは、
製菓会社チョック・フル・オー・ナッツの副社長を務める傍らで
公民権運動や政治活動にも熱心に関わった。
NAACP(全米黒人地位向上協会)の活動を皮切りに
数々の団体に呼ばれ、そのネームバリューを活かし
全国を講演して回った。
ニューヨーク知事のネルソン・ロックフェラーに請われ
彼の片腕として共和党党員になると
チョック・フル・オー・ナッツを退社し、
より深く政治に関わり合いを持つようになる。
1965年には、ロックフェラーのもと、
リンドン・ジョンソン側のスタッフとして大統領選を戦い、
ジョンソンの勝利に多大な貢献をし、
ハーレムに出来た、初の黒人経営による銀行の設立の際には
初代会長に就任した。

マルコム・Xとは対立の立場をとり、
書簡で互いの意見をぶつけ、
マーティン・ルーサー・キング牧師とは、
互いを認めあいながらも、
ベトナム戦争の是非をめぐり
新聞のコラム上などで議論を戦わせた。
ブラック・パンサー党との接触も持ったという、
黒人の運動家にとって、先駆者ジャッキーはやはり
無視できない存在だったのである。

人種の壁を破った偉大なプレーヤーとして、
引退後も精力的に動き回るジャッキーであったが
その長男、ジャッキー・ジュニア.は、大きすぎる父親の存在に押しつぶされ、
次第にその生活が荒れていった。
学校は長続きせず、家出をくり返し、
ベトナム戦争へ出征した後は麻薬に手を染めた。
ついには、麻薬所持で逮捕されてしまう。
約一年の更正施設での生活を経て、ようやく立ち直った
ジュニアだったが、1971年自動車事故により
24才の短い生涯を閉じた。
自分を立ち直らせてくれた更正施設で働く事に
生き甲斐を見つけた矢先の出来事であった。


そして、ジャッキー自身もその一年後
1972年に心臓病でこの世を去るのである。

モハメド・アリ、タイガー・ウッズ、マイケル・ジョーダン......
野球以外にも、偉大な黒人アスリートは多く存在するが、
その道を切り開いたのがジャッキーを始めとする
当時のマイノリティ選手達である。
そして、その中でもジャッキー・ロビンソンは、より特別な存在である。

『人生というものは他の人の人生に少しでも意味を与えた時に、始めて本当の意味を持つ』
ジャッキー・ロビンソンの墓石にはこう刻まれている。

file.067 Jackie ROBINSON 04 【ジャッキー・ロビンソン 04】

2006-03-05 | 2013年映画『42』
【引退】
Jackie ROBINSON

1951年、ブランチ・リッキーに変わり、ウォルター・オマリーが
ドジャースのオーナーに就任した。
最大の理解者リッキーと違い、オマリーは
ジャッキーを「ブランチ・リッキーのお姫さま」と呼び、毛嫌いしていた。
当然、ジャッキーとオマリーは衝突した。
例えば、チーム全員で審判に悪態をついた時
オマリーに呼び出され注意を受けたのはジャッキー一人だった。

また、1954年に監督がチャーリー・ドレッセンから
ジャッキーを嫌うウォルター・オルストンに変わると、
ジャッキーと球団との関係はますます悪くなるのだった。
オルストンとジャッキーは起用法などを巡って
殴り合い寸前の口論をしばしば起こした。
55年にはワールド・チャンピオンになる至福の瞬間もあったが
この頃には、ジャッキーの心は野球ではなく
その他の仕事や運動に向けられていた。
自分の野球選手としての能力が衰えている事にも気付いていた。

56年のオフ、ドジャースは、ジャッキーをジャイアンツにトレードすると宣告した。
ジャッキーは多くのファンの声に応え、プレーを続ける事も考えたが、
結果、引退した。

ジャッキー・ロビンソンが引退後に選んだ仕事は
製菓会社への役員就任であった。