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file.087 Ered LYNN【フレッド・リン】

2006-09-22 | JKL
【金粉ツインズ】
Ered LYNN

2001年、シアトル・マリナーズのイチローが新人王とMVPをダブル受賞したが
その時、よく引き合いに出されていたのが、フレッド・リンである。
リンは1975年、打率.331、21HR、105打点の成績を残し、
やはり新人王とMVPをダブル受賞した。
これは長いメジャー・リーグの歴史において初めての偉業。
加えて、その数字が語る打撃のみならず、中堅の守備でも
広い守備範囲と強肩を誇り、ボソックスファンにとっては、
まさに期待のニュー・ヒーローの誕生であった。
「Gold Dust Twins」
ファンはリンと、同年デビューのジム・ライスのコンビをこう呼んで
この先チームを支えていくであろう2人を讃えた。
大舞台にも強く、ポストシーズン、オールスター戦、共によく打った。
特にオールスターでは、9試合の出場で4本のホームランを放っている。

大胆な守備や、激しいスライディングなど、
アクレッシブなプレーを心掛けていたリンは
そうしたプレーがもたらすケガにも悩まされた。
ケガの影響もあったのだろうか、
1975年は打率.314を残したものの、
ホームランは10本と激減、打点も65にとどまり、
翌76年はホームラン18本、打率.260と中途半端な成績に終わってしまう。

が、リンは、78年に打率.298 22HRで復活すると、
79年には.333の高打率に加え、39HR、133打点を打ち、
打撃3部門全てにおいて、新人王に輝いた75年を上回った。
MVP投票でも4位に付け、誰もがリンの復活を確信した。

しかし、リンが眩いばかりの光を放ったのは、この年が最後になってしまった。

81年からエンゼルス、85年からはオリオールズと移籍を重ね、
90年、パドレスでそのキャリアを閉じるが、
その間、リンは打率.300も30HRも100打点も、
残す事は出来無かった。

ケガが多く、140試合以上出場の年すら4回しかないリンだったが、
そのキャリアを、毎年162試合出場の計算で平均すると
打率.293、25HR、91打点という数字が残る。
スラッガーとして、悪くない数字だと....思う。

file.086 Dom DiMAGGIO【ドミニク・ディマジオ】

2006-09-20 | DEF
【リトル・プロフェッサー】
Dom DiMAGGIO

2000年、危篤状態に陥ったテッド・ウィリアムスを見舞おうと、
かつてのチームメイト2人が、長い道のりを車で走っていた。
一人は、遊撃手であったジョニー・ペスキー、
そしてもう一人が中堅手だったドミニク・ディマジオである。
病床のウィリアムズにドミニクは歌をプレゼントする―――
かつての偉大なる大打者テッド・ウィリアムズは手を叩いて喜び、
そして間もなく、この世を去った。

ドミニク・ディマジオは言うまでもなく
かのジョー・ディマジオの弟、いわゆるディマジオ3兄弟の末弟である。
兄二人に比べ体格は小柄、パワーに欠け、眼鏡をかけている...。

偉大なる兄ジョーや同僚テッド・ウィリアムズに隠れた目立たない選手
という想像をしがちだが、ドミニクは決してそのような選手ではない。
パワー不足ではあるが、ミートするバッティングを心掛け
出塁する事に徹した。足も速く、塁に出れば投手をかく乱し
次打者のペスキーの打撃を助けた。
リーグ随一のリード・オフマンであった。

センターの守備も秀逸、当時の中堅手の中でも5指には数えられたといわれ、
連続安打記録を更新中のディマジオの鋭い当たりを好捕した事もあった。
1946年、いわゆる『マッド・ダッシュ』でレッド・ソックスの世界一の夢を
奪い取ったカージナルスのイノス・スローターの走塁.......
スローターは一塁から、センター前の単打性の当たりで一気に本塁を陥れたわけだが、
これは、中堅手がドミニクから控えの選手に交代したのが一番の要因といわれている。
事実、スローター自身もそれを認めている。

ドミニクが選手として成功したその秘訣は
『己を知る』という事に尽きるだろう。
他人の勝手な期待など無視し、自分の才能とその限界を
素直に受け入れ、それ以上を求めず、自分の出来る事を精一杯やった。
ドミニクは、それで充分満足だったし、
チームの勝利にも充分つながっていたのである。

通算打率.294 安打1680 本塁打87 打点618、
この数字を残して、わずか11シーズンで
ドミニクはあっさりと現役を引退する。
超がつく程の理論家だったテッド・ウィリアムズまでが
舌を巻いて認めていたというドミニクの頭脳。
それは引退後の活動におおいに役立った。
ドミニクはプラスチックの製造会社のオーナーとして
大成功を収めたのである。

人生は一度だが、その間、人間は色々な事を試す機会がある。
ドミニクの生き方に学ぶ事は多い。

file.085 Tommy HENRICH【トミー・ヘンリック】

2006-09-17 | GHI
【RED ASS】
Tommy HENRICH

1948年頃、ヤンキースと対戦していたブラウンズの監督ザック・テーラーは
トミー・ヘンリックを打席に迎えて、自軍のピッチャー、フレッド・サンフォードに
マウンドでこう聞いた。
「お前、何を投げるつもりだ??」
「速い球を四つ投げます」
「どういう意味だ??」
「ストレートの四球で歩かせるんですよ。勝負にいったらカモられる。」

ヘンリックは、もともとはインディアンズの
マイナーチームに所属していたが、
1937年、ヤンキースに加わった。
41年には31本塁打を打ち、そのパワーを見せつけるが
43年から45年は兵役に就くため、プレーは出来無かった。

ヘンリックの選手としての価値は
残した数字だけで測れるものではない。
ここぞという場面で必ずと言っていい程打つ.....。
試合の終盤の方はよく打つ.....。
大試合に強い.....。
ランナーを進めるための進塁打は当たり前.....。
チームを支える精神的支柱でもあった.....。
『オールド・リアイアル(頼れるベテラン)』
これは人気アナウンサーのメル・アレンがヘンリックに
つけたニックネームだ。
1949年、怪我でディマジオを欠いたヤンキースが
代りに四番に据えたのは誰あろう、ヘンリックであった。
そしてこの年、ヘンリックは自身も足の怪我と戦いながら
24本のホームランと85打点をたたき出した。
走る事が苦痛であったため、二塁打や三塁打は減ったが、
86個もの四球を選び、打率.287にして出塁率は.416にも昇った。
ディマジオのいないチームを満身創痍の身体で
率先して引っ張り優勝に導いた。
MVP投票でも6位にランクインされた。

守備面においても練習を欠かさず、
風の強い日などは、フライ打ちの上手い同僚を
打席に立たせ、ノックを入念におこなっていた程だ。
強肩であったが、特別足が速かったわけではない、
が、自身の持てる最大の能力を、打撃面だけでなく
守備面においても、惜しみ無くチームに捧げた。

ディマジオやマントルのような華やかは光は放ってはいない、
だが、このような『いぶし銀』の選手が、
チームの勝利に飽くなき執念を持った選手が、
どんなに劣勢であろうと絶対にあきらめなかった選手が、
ヤンキースの黄金時代を支えていたのも事実である。

file.084 Rod CAREW【ロッド・カルー】

2006-09-13 | ABC
【Sure Shot】
Rod CAREW

ウェイド・ボッグスやトニー・グウィンと並んで
メジャーリーグ史上有数の『安打製造機』と呼ばれるカルー。
バットを寝かせて構える独特のフォームから、
どんなボールも全方向に打ち返すしなやかな打撃術で
通算打率.328/通算3053本安打/首位打者7回/最多安打3回......など
『安打製造機』の称号にふさわしい実績を誇っている。

カルーは、1945年、パナマ運河を走る鉄道車両の中で産声をあげた。
車内で産気づいた母親を助けたのが、
ロドニー・クラインという医師。
カルーの本名は、ロドニー・クライン・カルー、
恩人の名前をいただいたものである。

成長したカルーは才能豊かなメジャーリーガーの卵となり
1964年、ツインズと契約を果たした。

ツインズでは二塁手、エンゼルスでは主に一塁手として活躍したカルー、
そのなめらかなスイングは、オリオールズの打撃コーチをしていた
ジム・フレイをして「天才」と言わしめ、
まずは、メジャーデビューを果たした67年、
打率.292、8本塁打、51打点で新人王を獲得。
69年に打率.332、8本塁打で首位打者を獲得すると、
72年、打率.318で二度目の首位打者に。
73年、打率.350、6本塁打、62打点、
74年、打率.364、3本塁打、55打点、
75年、打率.359、14本塁打、80打点.....と
4年連続で首位打者の栄冠を勝ち取った。
1977年にはテッド・ウィリアムス以来の
打率.400に迫る.388を打ちMVPに輝き、
加えて、14本塁打、100打点もマーク、勝負強い打撃を披露した。
また、ホーム・スチールを何度か決めるなど、
俊足の持ち主でもあり、通算で353もの盗塁を決めている。

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To all the party people that are on my bozack.
I've got more action than may man John Woo.
And I've got mad hits like Iwas ROD CAREW
『パーティ好きの奴らのためにおっ始めるぜ!
俺のアクションはジョン・ウーより凄え!
おまけにロッド・カルーみたいにヒット(曲)もたっぷりあるぜ』
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上記はビースティ・ボーイズのヒット曲『Sure Shot』の中の歌詞だが
これだけでも、カルーがいかに安打製造機として認識されているか
おわかりになると思う。


カルーは、催眠療法からヒントを得、
練習中や、試合中、集中したい時は瞑想にふけった。
精神を一点に集中させ、どんな状態でも、何がおころうとも
平静心を失わない術を身に付けたのだ。
カルーの、状況判断に長けた安定感抜群の打撃、
それは、そんな独特のトレーニングから生み出されたものなのである。

79年からエンゼルズへ移籍、
80年には打率.330.、83年には打率.339をマークするなど、
新チームでもヒットを量産し、看板通りの打撃を見せつけるが、
首位打者のタイトルとは無縁であった。

85年、現役引退するが、この85年を除いて、
キャリア全ての年にオールスター出場を果たすなど人気も高かった。

私生活ではユダヤ系の女性と結婚した事から
いわれのない人種的偏見の標的にされ、
18歳の愛娘を白血病で失うなど、
不幸な事もあったが、
2005年に発表された
『ラテンアメリカのベストナイン』では
二塁手として選出され、
背番号29は在籍した2チーム両方で永久欠番になっている。

file.083 Duke SNIDER【デューク・スナイダー】

2006-09-07 | DEF
【シルバー・フォックス】
Duke SNIDER

1950年代、ニューヨークには3人の球界を代表するセンターがいた。
ヤンキースのミッキー・マントル
ジャイアンツのウィリー・メイズ
そして、ドジャースのデューク・スナイダーである。

高校時代に、野球のみならず、優れたクォーターバックとして
アメフトもプレーしていたスナイダーは、47年ドジャースに入団
49年に23本塁打、92打点でレギュラーの座をつかむと、
50年、打率.321、31本塁打、107打点と大きく成長、
52年、21本塁打、92打点、
53年には打率.336、42本塁打、126打点で
チームを2年連続のリーグ優勝に導いた。
54年、打率.341、40本塁打、130打点
55年、打率.309、42本塁打、136打点...と
驚異的な爆発力でチームを支えたが
特に55年はワールドシリーズでも大暴れ、
打率.320、4本塁打、7打点の大活躍で
チームに初のワールドチャンピオンの座をもたらした。

その後も、ジャッキー・ロビンソンやロイ・キャンパネラと共に
ドジャースの屋台骨を支え、
チームを6度のポスト・シーズン、
1959年も合わせ、2度のワールド・チャンピオンに導いた。
ちなみにスナイダーはワールド・シリーズ11本塁打26打点の
ナ・リーグ記録保持者である。

58年以降、チームがLAを本拠地にすると
ヒザの故障と440フィートのライトフェンスに苦しんだ
スナイダーは急激に成績を落とし始める。
LAでの5年間、30本塁打以上を一度もマークする事が出来ず、
最高でも59年の23本。
出場試合も減り、加えて、
チームは、モーリー・ウィルスらを中心としたスピードを活かした野球に軌道修正。
居場所を失った感のあるスナイダーは、63年にメッツへ放出される。
移籍が決まった折にはルーム・メイトであったドン・ドライスデールは
人目も憚らず涙を流して泣いたという。

新天地メッツで復活をかけ、シーズンに望んだスナイダーであったが、
36歳のスナイダーに、往年の輝きは戻らなかった。
この年、打率.243、14本塁打、45打点...と寂しい数字に終わると、
64年はジャイアンツへ。
かつてのライバル、ウィリー・メイズと奇しくもチームメイトになったわけだが、
ここでも打率.210、4本塁打と低迷。
この年限りでユニホームを脱いだ。

通算2116安打、407本塁打、打率.295。
1980年に晴れて野球殿堂入りを果たしている。

選手としてファンにおおいに愛されたスナイダーは
引退後、モントリオール・エキスポズの実況アナウンサーを勤め
こちらの分野でも多大な人気を得たのである。

file.082 Richie ASHBURN【リッチー・アッシュバーン】

2006-09-03 | ABC
【ロス婦人の受難】
Richie ASHBURN

マイク・シュミットと並んで、
フィラデルフィアのファンに愛されるアッシュバーン、
走・攻・守全てにおいて高レベルのプレーヤーであった。

アッシュバーンといえば、何といっても
その卓越した中堅守備である。
肩と守備範囲に自信を持つアッシュバーンは
極端な前身守備でいくつもの打球を処理し、
さらに何人もの走者を強肩で刺した。
過去に8回ほどしかないシーズン500刺殺を4度もマークし
捕殺部門でも3回のリーグ1位を記録している。

打撃でもスプレーヒッターぶりを披露、
選球眼がよく、右打席から、全方向に打球を放ち、
15年のキャリアで、打率3割以上を9度マーク。
2574安打を放ち、通算打率.308を誇る。
55年、打率.338、3本塁打、42打点で初の首位打者を獲得すると、
58年、打率.350、2本塁打、33打点で二度目の首位打者に輝いた。

そしてアッシュバーンのバット・コントロールが
いかんなく発揮されたのが1957年の8月17日のゲームであろう
この日のある打席、アッシュバーンが打ったファウル・ボールが
試合を観戦していたアリア・ロスなる老女の鼻を直撃、
鼻を折ったロスはすぐに担架に乗せられたが、
アッシュバーンが再度放ったファウル・ボールは
無情にも再び担架上のロス婦人を直撃したのであった。

引退後はフィリーズのキャスターを務め
長くファンに親しまれたアッシュバーンであったが
選手としてのキャリアの最終年は
最弱球団だった頃のメッツであった。
1962年、ダントツの最下位に終わったメッツで
チームMVPに選ばれたアッシュバーンは
こう吐き捨てた
「史上最低チームの最高殊勲選手って....そりゃどういう意味だい???」