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file .220 "Cool Papa" Bell【クールパパ・ベル】

2007-09-21 | Negro League
【史上最速】
"Cool Papa" Bell

サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンに比肩する
ニグロ・リーグきっての名選手の一人。

1922年、セントルイススターズに投手として入団。
ナックルボールを駆使し、活躍するが、
24年、俊足を買われ、野手に転向。
そのたぐい稀なるスピードとバットコントロールを武器に
リーグを代表するスター選手へと変貌を遂げた。

19歳の若きベルが、涼しい顔で
オスカー・チャールトンを打ち取る姿を見て、
監督が「奴はクールだ」と唸ったのが
ニックネームの由来。
以後、本名で呼ばれる事は無かった。

ベルの武器は何と言っても
その『足』であり、数々の伝説を残している。
◎犠牲フライで2塁からホームイン
◎打者走者のベルに、自分の打ったゴロが当たった。
◎送りバントで一塁から三塁へ達した。
等々.......。
にわかには信じ難い話ばかりだが、
そんな伝説が流布するほど、ベルの足は速かったのだろう。

スターズ退団後は、
ホームステッドグレイズ、
ピッツバーグ・クロフォーズといった名門チームに在籍。
ペイジ、ジョシュ・ギブソン、オスカー・チャールトン、
バック・レナード、ジュディ・ジョンソンら
キラ星の如きスター選手と共に
溌溂としたプレーを披露した。

特にクロフォーズ時代の33年には年間175盗塁を記録し、
その脚力を存分に見せつけ、
メキシカン・リーグでは打率.437を打ち、
三冠王に輝いている。

オールスターチームにも何度も選出され、
メジャー・リーグ選抜チームを度々苦しめた。
メジャーチームとのエキシビジョンでは通算打率.390強を誇っている。

結局、メジャーリーグでの活躍はかなわなかったが、
後輩の選手のメジャー入りを、しばしば手助けした。
売り出し中のモンテ・アーヴィンに首位打者の座を譲ったり、
ユーティリティー・プレーヤーだったジャッキー・ロビンソンに
二塁手に専念するようアドバイスを送ったり......。
ルー・ブロックを見いだし、
カブスのスカウトを勤めていたバック・オニールに紹介したのも
ベルであった。

サチェル・ペイジは、
『ベルのスピードはすげえ。
ライトを消して、部屋が暗くなる前には、
もうベッドに潜り込んでるんだぜ!!』
というジョークが好きで、
よく口にしていたという。

1974年、野球殿堂入りを果たしている。

file .219 Ted RADCLIFFE 【テッド・ラドクリフ】

2007-09-20 | Negro League
【二刀流】
Ted RADCLIFFE

ラドクリフが生まれたのは
ハンク・アーロンの生誕地ということで有名な
アラバマ州、モービル。
イリノイ・ジャイアンツでの打撃投手や
移動バスの運転手を経て、
1928年、デトロイト・ウルヴスで
投手としてデビューを飾った。

ラドクリフをユニークな選手たらしめているのは
何と言っても、彼が『投手』と『捕手』の
二刀流選手であるという事であろう。
31年にはホームステッド・グレイズ、
32年にはピッツバーグ・クローフォーズと
当時、最盛を誇った伝説の2チームに在籍。

ダブル・ヘッダーの第一試合ではマスクをかぶり
サチェル・ペイジの投球を受け、
第二試合で、今度は投手として登板し
相手チームを完封した事もあるなど
投打に活躍を続けたラドクリフ。
当然のようにオールスターチームに幾度も加わり、
エキシビジョンゲームでは
メジャーリーグチームをしばしば撃破した。

ペイジとは腹心の友となり、
ビスマルク・チャーチルズなど複数のチームで共にプレー。
引退後は、インディアンズでスカウトを勤めるなど
野球に携わり続けた。

プロ生活合計30チームに在籍し
4000本安打、400本塁打に加え、
500勝、4000奪三振を記録したといわれるラドクリフ。
ニグロ・リーグの歴史上、最もユニークな選手の一人であり、
さらに数字も伴った大選手でありながら、
野球殿堂入りは果たしていない。

2005年、死去。

file .218 Lester LOCKETT【レスター・ロケット】

2007-09-13 | Negro League
【2度の打率4割】
Lester LOCKETT

高校時代、野球のみならず
バスケ、アメフトなどでも活躍していたロケット。

結局、プロスポーツでは野球を選択し、
シカゴアメリカンジャイアンツ、
ボルチモアエリートジャイアンツ、
バーミンガムブラックバロンズなど、
多くのチームでプレー。

内外野、どこでも守れる
ユーティリティープレーヤーだったが、
主に三塁手として活躍。
38インチもの長尺バットで
ヒットを量産し、
キャリア中、2度の4割を記録。
4度のオールスター出場を果たした
スタープレーヤーの一人であった。

濃い霧の発生していた日の試合で
高い内野フライを打ったロケットが、
打球を野手が見失っている間に
ホームインしてしまった.....
という珍プレーもあった。

1950年頃、引退。
その後は、警備員など、多くの職業に就いたという。

file .217 John 'mule' MILES【ジョン・マイルス】

2007-09-12 | Negro League
【ラバの蹴り】
John 'mule' MILES

主にシカゴアメリカンジャイアンツでプレーした
ジョン・マイルス。

筋肉質の体で、強肩の持ち主。
打率は一切気にせず、
ボールを遠くに飛ばす事だけを考えているような、
当時のニグロ・リーグを代表するパワーヒッターであった。

1948年、マイルスは11試合連続本塁打をマークする。
メジャー記録が、ドン・マッティングリーとデイル・ロングの8試合だから
11試合という数字は60年近く破られていない大記録である。

1952年に現役を引退するが、
最後の4年間はやはりマイナー・リーグでプレーしている。
結局、メジャーリーグには昇格出来なかったものの、
マイナー時代のチーム・メイトの全員から
他の白人選手同様の扱いを受け、
プレーを楽しんだという。

ニックネームのmule(ラバ)の由来は、
マイルスの打撃を見た彼の知人が
『まるでラバの蹴りのように激しくボールを叩く』と表現したためである。

file .215 Stanley 'doc' GLENN【スタンレー・グレン】

2007-09-11 | Negro League
【強肩キャッチャー】
Stanley 'doc' GLENN

フィラデルフィア・スターズに7年在籍した
ニグロ・リーグを代表する『守備的キャッチャー』。

グレンは、高校生の時、
オスカー・チャールトンにより見いだされ、
プロ野球選手となった。
7年で通算192本塁打を打つものの、
打撃面においては、同じポジションの
ジョシュ・ギブソンにはかなわなかったが、
ニグロ・リーグ界きっての強肩を武器に
正捕手の座を守り通した。
1946年と50年には、かのサチェル・ペイジの女房役も勤めたという。

1950年オフ、
ミルウォーキー・ブレーブスがグレンに目をつけ
マイナー契約を交わす。
ブレーブスにはウォーカー・クーパーやデル・クランドールといった
キャッチャーがチームに君臨しており、
結局、グレンはメジャーには上がれなかった。
が、彼はマイナー・リーグでのプレーを大いに楽しんだという。

引退後は電気会社のセールスマンなどで生計をたてていたが、
その後、ニグロリーグ協会に加わり、
自分の経験を綴った本を出版するなど、
亡きバック・オニールの遺志を継ぐ『伝道師』として
精力的に活動を続けている。

ちなみに、グレンの『ドク』なるニック・ネームは
引退後、医学療法士を目指していた事に由来するという。

file .214 Artie WILSON【アーティ・ウィルソン】

2007-09-10 | Negro League
【ウィルソンシフト】
Artie WILSON

バーミンガム・ブラックバロンズでプロ野球選手としての
キャリアをスタートさせたウィルソン。
5年間で平均打率.370を打ち、
48年には打率.402でブラックバロンズをリーグ優勝に導き
チームの主力打者として、おおいに活躍した。

49年、ヤンキースが彼に注目、
しばらく、傘下に置いていたが
あまりの薄給に、ウィルソンはパドレスとの契約を試みる。
ヤンキースは当時のコミッショナー、ハッピー・チャンドラーにこれを
不法と訴え、ウィルソンのパドレス入りは消滅した。

結局ウィルソンはブルワーズの傘下、
オークランド・オークスへ売却され、
49年のシーズン、打率.348、47盗塁をマーク。
その打撃力とスピードを見せつける。

左打者、ウィルソンの打撃は徹底した流し打ちで、
相手チームの監督は、ウィルソンが打席に立つと、
内外野を左に寄せる『ウィルソン・シフト』を敷いたという。

その後も安定した活躍を続けたウィルソンだったが、
51年、ニューヨーク・ジャイアンツに移籍すると
念願のメジャー・リーグデビューを果たす。
既にモンテ・アーヴィンがチームの主力打者として活躍しており、
同じ年にウィリー・メイズもジャイアンツでデビュー。
俊足・好打の左翼手として期待が寄せられたが、
力を発揮するには至らず、
アーヴィンや新人王に輝いたメイズらの活躍とは逆に
30試合で打率.182と低迷。
以後は、メジャーリーグの舞台でプレーする事は無かった。

file .213 John KRUK【ジョン・クラック】

2007-09-09 | JKL
【フィラデルフィアの人気者】
John KRUK

86年、パドレスでメジャーデビューを果たしたクラック。
1年目、122試合で打率.309を打ち、
その打撃力を見せつけると、
87年は打率.313、20本塁打、91打点とブレークした。
88年、打率.241、
89年も31試合を終えた時点で打率.184と低迷を続けると
シーズン途中でフィリーズへトレード移籍。
発奮したクラックは、移籍後、打率.331、38打点と活躍、
ヒット・マシーンの健在ぶりを示した。

クラックにとって、フィリーズは居心地が良かったのか
以降、安定した数字を残す。
90年、91年と打率.290以上を打つと、
92年に打率.323、10本塁打、70打点の好成績。
93年は、打率.313、14本塁打、85打点、111四球、
チームをワールドシリーズ出場にまで導いた。

ガッチリした..と、いうよりは太った体型に似つかない
柔らかいリストで、右に左に打球を飛ばす。
加えて、選球眼も良く勝負強さも抜群。
一塁と外野をソツなくこなす守備力も持ち合わせ、
ワイルドなチームカラーにピッタリなキャラクターで人気も高かった。

....が、好事魔多し。
94年、シーズン途中、睾丸に癌があるのが分かり手術。
95年は年棒を下げ、
ホワイト・ソックスへFA移籍、
45試合で打率.308と看板通りの活躍を見せるが
この年限りで現役を引退してしまった。

通算100本塁打、打率.300、592打点。

現在はESPNで解説者として活躍。
すっかりおなじみの顔となっている。