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file.094 Willie MAYS 06【ウィリー・メイズ 06】

2006-10-29 | willie mays
【1951-1973】
Willie MAYS

~あなたが、今までに見た野球選手の中で
最高のプレーヤー誰だと思いますか???~
記者にこう聞かれたウィリー・メイズは、
迷わず、こう答えた。
「俺だよ」

1951年から1973年にかけて
常にメジャーリーグのトップ・スターの座に
君臨し続けたウィリー・メイズ、
通算660本のホームランを放ったパワーは言うに及ばず、
生涯打率.302、合計で10度の3割をマークした確実性、
4回の盗塁王を獲得したスピード、
12年連続のゴールドグラブに輝いたばかりでなく
メジャーリーグ外野手、史上最多の7290の守備機会を誇るフィールディング。
......まさに史上最高のパーフェクトプレーヤーといえよう。

メジャー入りする前から、野球のみならず、
バスケット・ボールやフット・ボークでも実力を発揮していたメイズ、
卒業後は、ニグロ・リーグのブラック・バロンズに所属していたが
ニューヨーク・ジャイアンツがその才能を買い、
1950年、契約を結んだ。

ルーキーイヤーは、22打席連続無安打を記録するなどの
序盤の不振を乗り越え、見事、20本塁打をマークし、
文句無しの新人王を獲得し、早くもチームの中心選手になった。

2年目のシーズン途中から、兵役に就くため、チームを離れるが、
兵役から帰った54年には、打率.345を打ち
早速初タイトルの首位打者とシーズンMVPを獲得。
この年のメイズは、前半戦だけで36本のホームランを打っていたが
監督のレオ・ドローチャーの指令で、後半、長打狙いの打撃を封印し、
出塁に徹した結果の高打率であった。

また、この年、ジャイアンツは世界一に輝くのだが、
メイズはワールド・シリーズ初戦であの『ザ・キャッチ』を演じ、
一躍メジャー屈指のスーパースターの座に躍り出たのであった。

翌55年には打率.319 51HR 127打点で本塁打王を獲得、
56年、36本塁打を放ちながら40盗塁をマークし盗塁王を獲得、
57年、打率.333、35本塁打、38盗塁で2度目の盗塁王、
58年、打率.347、29本塁打、31盗塁で3度目の盗塁王、
59年、打率.313、34本塁打、104打点に加え、27盗塁で、4度目の盗塁王を獲得し、
まさに手がつけられないオールラウンダーぶりであった。

また、持ち前の明るいキャラクターで、
マスコミやファンにジョークを交えながら接し、
試合が終わると、球場付近の路上で子供達と、
スティック・ボール(お遊びの野球)に興ずる姿は、
親近感をわかせ、その人気はますます高まった。
オールスターには当然のごとく、史上最多の20回出場を果たしている。

59年、ジャイアンツがサンフランシスコに移動すると
メイズの打撃は円熟期を迎える。
61年、打率.308 40本塁打 123打点の好成績を残すと、
62年に打率.304 49本塁打に、キャリアハイの141打点をマークしたのをはじめ、
65年に打率.312 52本塁打と自己最多ホームランを記録するなど
66年まで8年連続で打点100以上を叩き出し、
4度の40HR以上をマークした上に
6度の打率.300以上、62、64、65年と3度の本塁打王に輝き、
65年には自己最多の52本塁打を放ち、2度目のシーズンMVPに輝いている。
当時、メジャーの選手達から「最悪の球場」と言われた
強風吹きすさぶキャンドル・スティック・パークが本拠地だった...
という、ハンデを背負いながらの猛打なだけに
その価値は高いといえよう。
また、ジャイアンツがニューヨークを本拠地とし続けていれば
ベーブ・ルースの記録を最初に破ったのはメイズだった...
とも言われている。
もっともそれは『if』に過ぎないのだが.......。

チーム事情により盗塁の数は減ったが、
アグレッシブな走塁は衰える事なく、
常連となっていたゴールド・グラブ賞も途切れる事なく受賞し続けている。
オーランド・セペダやウィリー・マッコビーと共に
ジャイアンツの主軸として活躍するだけでなく、
ハンク・アーロンと両輪で、球界を代表する
大打者の座に君臨し続けた。

67年、36歳になったメイズは、
この年あたりから徐々に成績が下降し始める。
引退した73年まで、30本塁打も100打点も
マークする事が出来なかった。
常に全力プレーを心掛けた金属疲労の結果であった。
が、極端な投高打低の年であった1968年に
打率.289、23本塁打で、気をはいたり、
40歳になった71年に23盗塁をマークするあたり、
その身体能力の高さに驚きを隠し得ない。
現役の晩年は、ニューヨーク・メッツに移籍、
ニューヨーカーは、衰えが見え始めたメイズを
暖かく応援し続けた。
そしてメイズもルーキーイヤーのような溌溂としてプレーで
ファンに応えたのであった。

ウィリー・メイズはアスリートであったばかりでなく
ファンキーなダンサーのような選手だった。
ファンはそのダンスに酔いしれ、
それは、引退後、30年以上経った今も語り継がれているのだ。

通算3283安打、660本塁打、1903打点、338盗塁。
1979年に野球殿堂入りを果たしている。


file.093 Johnny BENCH【ジョニー・ベンチ】

2006-10-28 | Big Red Machine
【始祖・ベンチ】
Johnny BENCH

ビッグ・レッド・マシンと呼ばれ
相手投手に恐れられていた1970年代のレッズにあって
投手陣を支える正捕手として、
強力打線の中心打者として、
チームを牽引したジョニー・ベンチ。
通算2048安打、389本塁打を放った強打の捕手の代表格である。

オクラホマのド田舎で生まれたベンチは、
1965年、レッズに入団。
68年には捕手のレギュラーとなり
15本塁打、82打点をたたき出す活躍を見せ新人王に輝く。

69年、打率.293、26本塁打、90打点と力を付けたベンチは
70年、打率.293、45本塁打、148打点と爆発し2冠王を獲得、
チームをリーグ優勝に導き、シーズンMVPに輝いた。
が、ワールド・シリーズでは、オリオールズに完敗、
ベンチの鋭い打球はブルックス・ロビンソンに吸い取られてしまった。
72年も打率.270、40本塁打、125打点で2冠王、再びシーズンMVPを獲得し、
『強打の捕手』ぶりをおおいに見せつけ、チームをリーグ優勝に導くが
ワールド・シリーズでは、アスレチックスに敗れ去った。

その後も攻・守にわたりチームを牽引したベンチ。
74年、打率.280、22本塁打、129打点で3度目の打点王。
翌75年は、打率.283、28本塁打、110打点をたたき出し、
チームをリーグ優勝に導き、ワールド・シリーズでも勝利。
レッズの世界一に大きな貢献を果たした。

76年は、打率.234、74打点と低迷するが
ワールドシリーズでは大活躍、打率.533の猛打で
2年連続世界一の原動力となり、シリーズMVPに輝いた。

守備面においても、
ベンチは『改革者』であった。
当時、キャッチャーは右手をミットに添える、
両手取りが当たり前だったが、
ベンチはランディ・ハンドリーが使い始めた
新型の柔らかいミットをハンドリー以上に使いこなし、
さらに右手を背中に回し、左手のみで投手からの
投球を受ける、『片手取り』を確立した。
牽制や盗塁阻止などの際、
ミットの中のボールをつかむまでに時間がかかる....などと
この捕球法を否定する選手もいたが、
その機敏な動きと、強いリスト・強肩が生む正確な送球は
そういった否定組を逆に唸らせた。
また、座ったまま牽制球を投げる技や、
球界初のキャッチャー専用のヘルメットの使用など、
ベンチは、現在のキャッチャー像の始祖ともいえる偉大な選手である。

そのベンチ、選手生活晩年は1塁や3塁を守る事が多くなった。
酷使した足腰はもはやホームベースを守る事が
出来なくなっていたのである。

83年、引退するが、ゴールド・グラブ10回受賞が証明する
強肩も含めたその守備力と、いわずもがなの打撃力。
甘いマスクで高い人気をはくし、
オールスター出場は14回にものぼった。

若かりし折、かのテッド・ウィリアムスに
『将来の殿堂選手』と、その才能を買われていたベンチ。
その予言通り、89年に殿堂入りを果たしている。



file.092 Vic WERTZ【ヴィック・ワーツ】

2006-10-27 | VWX
【偉大なるセンターフライ】
Vic WERTZ

1947年から、63年にかけて
実に7球団を渡り歩き、
通算で1692安打、1178打点。
266本のホームランを
スタンドにブチ込み、
オールスターにも4回出場、
100打点を超える事5度。

この時代を代表する
スラッガーの一人といっていいだろう。

しかし、ヴィック・ワーツが球界の歴史に
深くその名を刻んだのは、
たった1つのアウトである。
すなわち『ザ・キャッチ』の大飛球となった
センターフライである。

1954年のジャイアンツvsインディアンズの
ワールドシリーズ、ワーツは、4試合で
16打数8安打、1本塁打、3打点と
手がつけられない大爆発ぶりであった。
あの打球が抜けていれば、
シリーズMVP選手として、その名は
後生まで伝えられていたかもしれない。

が、ワーツは生前、この『ザ・キャッチ』について
記者に聞かれた時、こう答えていたという。

「あの打球が抜けていたら、今頃 誰も俺の事なんか覚えていないさ」

file.091 Hank AARON 01【ハンク・アーロン01】

2006-10-26 | hank aaron
【ミルウォーキー時代】
Hank AARON

遊撃手として、ニグロリーグの
クラウンズに在籍していたアーロン、
52年にミルウォーキー・ブレーブスと契約すると
54年にはメジャーに昇格した。
デビュー当時はチェンジアップに苦しみ
なかなか数字を残せないでいたが、
打撃コーチとマンツーマンで修練を積み克服、
低かった打率を.280まで押し上げるも、
9月の試合で怪我を負い
1年目はシーズン途中で終えてしまった。
が、この怪我は『兵役』からアーロンを救い、
後の通算755HRという数字に大きな影響を及ぼす事になった。

55年には早くも打率3割をクリア、
打点106もマークし、チームの主力打者に成長する。

が、順風満帆に見えるアーロンの選手生活も
黒人であるが故の不自由に、やはり見舞われていた。
アーロンがいるとも知らずに、
トイレで黒人に対する悪質なジョークを
ベラベラ喋っていたジョー・アドコックや、
ゴキブリをアーロンに見立ててからかった
殿堂投手・ウォーレン・スパーン.....。
彼等とはすぐに理解しあえたが、
その他、ホテルやレストランなど、
黒人に対する仕打ちはまだまだ色濃く残っていた。

そんな中でもミルウォーキーのファンは暖かく
アーロンも含め、ブレーブスの選手を熱く応援した。
市民は選手を誇りに思い、服や日用品をはじめとして
車や家までもタダ同然の価格で選手達に提供した。

アーロンがこの時代、プレーヤーとして
正当な評価を得られていなかったのは田舎街のミルウォーキーのチームに
在籍していたからだ...という意見も少なく無いが、
アーロンはこれをキッパリと否定している。
『ニューヨークでは自分は迷子のようになっていたであろう.....。』
マスコミなどの目があまり届かないような田舎だったからこそ
アーロンはのびのびと自分の実力を発揮する事が出来たのだ。

ミルウォーキー時代のアーロンは、
7度の100打点以上、10度の打率.300以上をマーク。
56年に打率.328 26本塁打で首位打者に。
57年は打率.322 44本塁打 132打点で本塁打、打点の二冠。
59年、打率.355 39本塁打で2度目の首位打者に輝き、
さらに60年は126打点で打点王、
63年は44本塁打 130打点で2度目の二冠に輝くなど、
選手としての絶頂期にあったと言える。
また57年のヤンクスとのワールド・シリーズでは
.393、3HR、7打点の活躍でチーム初の世界一に大きく貢献し
勝負強さを都会のチームに見せつけた。

あまり語られないが、守備や走塁面においても
ライバルのウィリー・メイズにひけを取らなかった
5ツールプレーヤーであった。

65年をもって、ブレーブスはミルウォーキーから
アトランタに移動するが、この頃、アーロンは
より、ホームランを意識した打撃をするようになっていた。

file.090 Roy CAMPANELLA【ロイ・キャンパネラ】

2006-10-25 | ABC
【笑顔のキャンピー】
Roy CAMPANELLA

1921年、フィラデルフィアで生まれたキャンパネラ、
8年間、メキシコ・リーグやニグロ・リーグで活躍した後、
45年にドジャースと契約、マイナーで2度のMVPを獲得するなど
大活躍し、48年、メジャーに昇格すると
49年にはドジャーズのレギュラー捕手となる。
強打・好守の捕手として、同時代に活躍した
ヤンキースのヨギ・ベラと双んでメジャー最高の捕手の座を確立。
1949年から56年まで8年間、オールスター戦に出場している。

51年、.325、33HR、108打点
53年、.312、41HR、142打点
55年、.318、32HR、107打点....と
文句のつけようの無い成績を残し
MVPに輝き、55年には
ワールド・シリーズでも2試合連続本塁打を放つなど
大活躍。ドジャース初の世界一に大いに貢献した。

1958年、不幸が起こる。
キャンパネラは運転していた車が横転、
首などの骨を折る重傷を負い
車椅子での生活を余儀なくされる。
胸から下がほとんど動かない状態であったが
それでも物理療法により、腕・手はかなり回復した。
しかし選手生活を続ける事は出来ず、
現役を引退した。

1959年、ドジャースは、
キャンパネラの引退試合を行った。
この試合には9万3千人もの観衆がつめかけ
キャンパネラを感激させた。

その後もキャンパネラはアドバイザーとして
ドジャーズ組織に残り、1993年
カリオルニアの自宅で息を引き取った。

現役時代、僚友のジャッキー・ロビンソンとは
決して仲が良かったわけではない。
白人に対し、闘志を剥き出しにしたジャッキーに対し
キャンパネラは誰に対しても、いつも笑顔を絶やさなかった。
ジャッキーは、それが理解できなかった.....といわれている。

キャンピーの社交性を、へつらっている..と言ってしまうのは簡単だが
感情に任せてしまうより、逆に難しいとも言える事である。
そして、キャンピーは敢えてそうしていた訳ではない。
それがロイ・キャンパネラという人間だった....
ただそれだけの事なのである。



file.089 Tony LaRUSSA【トニー・ラルーサ】

2006-10-24 | JKL
【弁護士資格を持つ監督】
Tony LaRUSSA

62年、アスレチックスと契約したラルーサは、
18才の若さでメジャーデビューを飾った。
が、結局ケガとの戦いもあり、プレーヤーとしては
通算132試合の出場と打率.199という数字しか残せず引退。
同じ「ショートのポジションで18才デビュー」した
ロビン・ヨーントやアレックス・ロドリゲスのようにはいかなかった。
自らの力量と限界を悟ったのか、
72年、フロリダの法律学校に通いはじめ、努力の結果
見事学位を取得する。
その後、弁護士資格も取得するが、ラルーサの野球人生は続いた。
カージナルスのマイナー監督を経て、1979年には
晴れてホワイト・ソックスの監督に就任。
83年にはチームを地区優勝に導くなど、結果を出すも
86年には解任の憂き目にあう。

87年、解雇されたラルーサを古巣アスレチックスが
監督として迎え入れる。
ラLーサの名将としての歴史はここから花開く。
デニス・エカーズリーをクローザーに転向させ、
投手の分業制を確率。
リッキー・ヘンダーソン、ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアなど
タレント揃いのチームを見事まとめあげ、
チームバッティングや走塁の意識を高め、
88年から3年連続でリーグ優勝、
89年にはワールドチャンピオンに輝いた。
その後、96年にカージナルスの監督に就任し、
96、2000、2002、2004、2006年と
地区制覇及びリーグ優勝に輝いている。
2006年、ワールド・シリーズで
かつての盟友ジム・リーランド率いるタイガースと対戦。
この両将、勝てばいずれも
「ナ・リーグ、ア・リーグの両方で世界一」の
称号を得る事になる。

file.088 Jim LEYLAND【ジム・リーランド】

2006-10-21 | JKL
【ヘビースモーカー・ジム】
Jim LEYLAND

現役時代は一度もメジャーの舞台に立つ事なく、
26才の若さで引退したリーランド。
その後、指導者としての経験を積み、
ホワイト・ソックスでトニー・ラルーサのもと、
三塁コーチを勤めた後、
86年にパイレーツの監督に就任。
若きバリー・ボンズやボビー・ボニーヤ擁するチームを強化し、
90年から3年連続で地区優勝に輝いた。
パイレーツ時代はワールド・シリーズには進めなかったが
97年、フロリダ・マーリンズの監督に就任すると
チームをワイルド・カードでのプレーオフ進出に導き
ワールド・シリーズでもインディアンズをくだして
見事ワールド・チャンピオンの座についた。

選手を信頼し、意気に感じさせる事が得意なリーランド。
2006年は弱小チームだったデトロイト・タイガースを
ワールド・シリーズに導き、
師匠(?)のトニー・ラルーサとの初対決にのぞむ事になった。

「監督も選手と供に戦っている―――」
リーランドは監督でありながら、
選手と同じ歯の付いたスパイクを履いて指揮を司っている。