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file.058 Tim RAINES 【ティム・レインズ】

2006-01-30 | PQR
【親子鷹】
Tim RAINES

77年、ドラフト5位でエクスポズに入団したレインズは、
81年外野のレギュラーに定着し、
打率.304、37打点をマーク。
さらに88試合で71盗塁を決める驚愕のデビューを飾る。
翌、82年は、打率.277、78盗塁、
83年は打率.298、11本塁打、71打点、90盗塁をマークするなど、
81年~84年まで、4年連続で盗塁王に輝き、
リーグを代表するリード・オフマンの地位を確率する。

80年代から90年代初頭において
ア・リーグにはリッキー・ヘンダーソンが
最高のスピード・スターとして君臨していたが、
ナ・リーグでは、レインズと
カージナルスのヴィンス・コールマンが
これに対抗しうる存在であった。

選球眼も良く、通算出塁率は、.385。
11度の70四球以上を記録している。

86年、打率.334、9本塁打、62打点、70盗塁を記録、
首位打者と最高出塁率の二冠を獲得。
堂々の成績でFAの資格を得るが、
契約金の高騰を危惧した各チームのオーナー同士の共謀により
他チームへの移籍は叶わず、
エクスポズと、前年より低いサラリーで再契約せざるを得なくなる。
それでもレインズはクサらずプレーを続け、
87年、打率.330、50盗塁をマークするなど
チームの勝利のため出塁し、走った。

91年、ホワイト・ソックスへ移籍したレインズは
51盗塁するがヘンダーソンに7及ばず、
翌92年の45盗塁も、新鋭のケニー・ロフトンに及ばず、
93年からは、積極的に走らなくなった。

96年、実に18年ぶりのワールド・チャンピオンに輝いた
ヤンキースの歓喜の輪の中にレインズがいた。
この年、ヤンキースに移籍したレインズは、
59試合に出場、打率.284、9本塁打、33打点をマークし
チームの復活におおいに貢献。

98年にも打率.290、47打点でチームに貢献、
再び、世界一の美酒に酔いしれる事になる。

99年、アスレチックスで引退を決意したレインズだが
2001年オリオールズでメジャー昇格を目指す息子、
レインズJrとのプレーを目指し現役復帰、
古巣エクスポズとマイナー契約を交わす。
Jrがメジャーでの初ヒットを放った翌日の2001年10月3日、
オリオールズに移籍したレインズはついにケン・グリフィー父子に次ぐ
史上2組目の父子同時試合出場を果たすのであった。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=120891

file.057 Bobby GRICH 【ボビー・グリッチ】

2006-01-27 | GHI
【過小評価】
Bobby GRICH

69年から71年までの間、リーグの頂点に
君臨したボルチモア・オリオールズは
ディフェンス面を重視したチーム作りを心掛けていた。
70年に、オリオールズに入団したグリッチは、
チームコンセプトに合った
素晴らしい内野手に成長する。

72年にショートの定位置をつかみ、
打率.278、12本塁打、50打点をマーク。

翌年にはセカンドへコンバートされるが、
二塁手・グリッチは本領を発揮、広い守備範囲をほこり
73年から76年の間、4年連続でゴールド・グラブ賞に輝いた。
打撃面でも、74年に打率.263、19本塁打、82打点をマークするなど、
勝負強い、中距離打者ぶりを発揮し、
チームの勝利に貢献した。

77年、カリフォルニア・エンジェルズに移籍したグリッチは、
チームのリーダー的存在となり2度の地区優勝に貢献。
79年には打率.294、30本塁打101打点という
スラッガー並みの成績を残す。

ストライキのため試合数が減った81年は
打率.304、22本塁打で、
唯一の打撃タイトルとなる本塁打王に輝いている。
また、通算打率が.266と、安定感には欠けていたが
選球眼が良く、出塁率は打率より1割以上高い.371を記録している。

その高い守備力でチームに勝利をもたらしたグリッチは
『最も過小評価されている選手の一人』といわれている。

現在もカリフォルニアに住み、時にはエンジェルズの選手に
アドバイスを送る事もあるという。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=grich

file.056 J.R.RICHARD 【J.R.リチャード】

2006-01-23 | PQR
【青天の霹靂】
J.R.RICHARD

69年にドラフト1位でアストロズに入団したリチャード、
2mを超える長身から放つ100マイルの豪速球と
90マイルを越すスライダーは打席に立つ打者を震えあがらせた。

71年9月、デビュー戦でいきなり15奪三振の快投を見せ、完投で初勝利を飾る。
かのウィリー・メイズも3つの三振をくらったという。
が、制球難からメジャー定着には到らず、4年間メジャーとマイナーを行き来する。

リチャードが頭角を現したのは75年以降。
75年12勝をあげると、翌76年には20勝、
さらに77年から79年まで3年連続の18勝をあげ、
79年には最優秀防御率、
名実共に、アストロズのエースとなった。
この5年間、2年連続となる最多奪三振2度を記録する一方で
最多与四球も3度記録している。
色々な意味でエキサイティングな投手だったようだ。

ちなみに78~79年の2年連続300奪三振以上は
当時、ノーラン・ライアンとサンディ・コーファックスしか記録しない。
J.R.リチャードは、偉大な豪速球投手の道をひた走っているように見えた。

80年、アストロズにノーラン・ライアンが入団する、
2人の奪三振ショーをヒューストンのファンは期待した。
ライアンの入団に刺激されたのか、リチャードは前半戦だけで10勝の大活躍、
防御率に至っては1点台であり、まさに脂の乗り切った絶好調のピッチングを見せていた。
当然オールスターにも選出され、先発して2回無失点の好投を演じる。

が、謎の病魔がリチャードの体を徐々に蝕んでいた。
後半戦序盤、ブレーブス戦でめまいを訴え降板、
すぐにDL入りした。
その後も体調が好転せず、7月30日、練習中に昏倒、
病院に運ばれると卒中と診断される。
手術は成功するも左半身は麻痺状態のまま。
その後マイナーで復活を目指し調整していたが
二度とメジャーのマウンドに立つ事は出来なかった。

引退後、私生活のトラブルが相続き、
94年、ホームレスの状態で発見され、教会の保護を受ける。
現在は牧師となっているそうである。

絶頂期に再起不能になってしまったリチャード、
もし、彼が健康体を保つ事ができたら......
その記録はどこまで伸びていたのだろうか???

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121145

file.055 Dave STIEB 【デイブ・スティーブ】

2006-01-20 | STU
【3度目の正直】
Dave STIEB

2005年、西武ライオンズの西口が一年間で2度にわたり、
惜しいところでノーヒッターを逃した。
西口は02年にもロッテ相手に
あと一人というところでノーヒッターを逃しており
過去3度にわたり、偉業を達成し損なった事になる。

メジャーリーグにも同じような軌跡をたどった投手がいた。
主にトロント・ブルージェイズで活躍したデイブ・スティーブである。

78年にドラフト5位でブルージェイズに入団したスティーブは
スライダーを武器に79年にはメジャーデビューを果たし
この年、8勝をマーク。
82年には、防御率3.25、17勝をあげ、
サイ・ヤング賞投票で、4位にランクされる活躍を見せるなど、
ブルージェイズで15勝以上6回を含め10回の10勝以上をマークし
チームのエースとして活躍した。
85年には、防御率2.48で、最優秀防御率のタイトルも獲得し、
オールスターには7回出場、
80年代を代表する投手のひとりであった。

1988年、スティーブはシーズン終盤、
2試合続けてノーヒッターの快挙を逃す事になる。
両試合とも9回二死までノーヒットという
非常に惜しい試合であった。
が、1990年ついに女神が
スティーブに微笑みかける。
9月2日のインディアンズ戦でようやく
ノーヒット・ノーラン達成。
またこの年は、防御率2.93、
キャリアハイの18勝をあげ、最高の年となった。

が、スティーブが輝きを放ったのはこの90年が最後で、
翌年から成績を急激に落とし、93年引退。
98年に現役復帰を果たすも、
1勝2敗2セーブの成績に終わった。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=stieb

file.054 Wilie McCOVEY 【ウィリー・マッコビー】

2006-01-16 | MNO
【ストレッチ】
Wilie McCOVEY

今や、SBCパークの名物となった
バリー・ボンズのスプラッシュ・ヒットだが、
打ったボールが着弾する入り江は「マッコビー湾」と呼ばれている。
マッコビー湾、言うまでもなく、サンフランシスコの人気スラッガー、
ウィリー・マッコビーの名をいただいたものである。

59年、サンフランシスコ・ジャイアンツに入団したマッコビーは、
7月にはメジャーへ昇格、4安打を放ち、鮮烈なデビューを飾る。
その後、52試合の出場ながら打率.354、本塁打13の活躍を見せ、
見事新人王を勝ち取った。
出場試合が半分に満たないにも関わらず新人王を獲得した選手は
マッコビー後、いまだ出ていない。

衝撃のデビューイヤーを過ごした割に、その後3年間は
本領を発揮しきれないでいたが、
63年、44本塁打、102打点をマークし
ついにホームランキングに輝いた。
以降、ウィリー・メイズやオーランド・セペダと共に
破壊力抜群の中軸打線を組み、サンフランシスコでは、
メイズに並ぶスター選手になる。
ちなみに、3人で組んだこの強力打線は60年代の10年の内、
7年はこの3人でホームランキングの座を独占したことになる。

65年から70年はマッコビーの実力はピークに達していた
この6年間、実に6年連続の30本塁打、90打点以上をマークし
特に69年は打率.320、45本塁打、126打点で
本塁打・打点の二冠に輝きMVPも受賞する。

70年に39本塁打、126打点の好成績を残したのを最後に
マッコビーは怪我に泣かされるようになる、
その影響もあってか以前の豪打が嘘のように低迷する。
71年以降は30本塁打、100打点いずれもマークする事は出来なかった。
さらにパドレス、アスレチックスへと移籍を繰り返し
76年には82試合でわずか7本塁打しか打てず、引退が囁かれはじめる。

が、77年、古巣ジャイアンツに復帰したマッコビーは、
28本塁打、86打点でカムバック賞を受賞する。

結局80年に引退するが、マッコビーは521本塁打を放ちながら、
実は22シーズンで8度しか規定打席に達していないのである。
もし、健康体を保つ事が出来たならば、盟友メイズの660本は
超えていたかもしれない。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=mccovey

file.053 Gary GAETTI 【ゲイリー・ガイエティ】

2006-01-10 | GHI
【数字に表れない魅力】
Gary GAETTI

82年、チーム状態が最悪だったツインズだったが、
その所為か、積極的にルーキーを起用し、
ケント・ハーベックや
ゲイリー・ガイエティといった
後にチームを支える主力打者になる選手が定位置を勝ち取った。
そんな中、ガイエティは、
この年25本塁打、84打点をマーク。

さらに、
86年、打率.287、34本塁打、104打点、
87年、打率.257、31本塁打、109打点.....と
2年続けて、好成績を残し、
チームの期待通りの主力選手に成長する。

強烈な打球も体ごと突っ込んで
アウトにする三塁の守備と、
大舞台に無類の勝負強さを発揮する打撃でチームを牽引。
特に、87年のツインズ世界一の際は、
ポスト・シーズン合計3本塁打、9打点と大暴れし、
カービー・パケットやハーベックと共にチームの勝利に
おおいに貢献した。

以降も、クラッチな活躍を続け
ツインズを支えたガイエティだったが
91年、エンゼルスへ移籍。
95年にはロイヤルズへチームを変え、
95年、打率.261、35本塁打、96打点、
36歳にして、キャリアハイの本塁打をマーク。
96年には、23本塁打、80打点でチームのリーグ優勝に貢献した。

2000年、ボストンでその現役生活にピリオドを打った。

2280安打、360本塁打、1341打点は立派な数字だが、
いわゆる『マネー・ボール』的観点で見ると
その評価は芳しくないだろう。
しかしそんな数字以上に、ファイトを剥き出しにした
アグレッシブなプレーが強烈な印象を残した選手であった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=GAETTI

file.052 Satchel PAIGE【サチェル・ペイジ】

2006-01-09 | PQR
【球史最高のエンターティナー】
Satchel PAIGE

数々の伝説に彩られた史上最高の投手、
それがサチェル・ペイジだ。
通算2000勝、ノーヒット・ノーラン100回以上など、
途方もない夢のような数字がペイジを取り巻いているが、
その数字の真贋など、どうでもいい事である。

ボブ・フェラーは言った
『自分の速球など、ペイジのそれに比べればチェンジアップにすぎない』
ジョー・ディマジオは語った。
『自分の目で見た最高の投手だ。』

この言葉だけで充分ではないだろうか。
サチェル・ペイジこそが人類最強の投手なのである。

20歳の時、ニグロ・リーグの
チャタヌガ・ブラック・アウツに入団したペイジ、
その驚異的なピッチングでたちまちリーグのスター選手になると
人気球団ピッツバーグ・クロフォーズに破格のサラリーで入団する。
このチームには『黒いベーブ・ルース』ジョシュ・ギブソンも在籍しており
ここにベースボール史上最高のバッテリーが誕生する。
ペイジ在籍時のクロフォーズは驚異的な強さを誇り、
その豪速球とギブソンの豪打はチームの看板であった。

その後、球団と揉めたペイジはクロフォーズを抜け、
カンザスシティ・モナークスへ入団、
このモナークス在籍時にはニグロ・ワールド・シリーズで
かつての相棒ジョシュ・ギブソンとも対決。
第二戦ではギブソンに対し、わざと満塁の状況を作って投げ、
見事三球三振に斬って取った。

ペイジがニグロ・リーグで最高のスターたり得た理由は
成績と投球内容が良かった...というだけではない。

前述のようにわざとピンチの場面を演出したり、
外野手無しでゲームを行ったり、
三振予告をし、内外野手を全員ベンチに引っ込ませて投げたり、
試合前の練習ではホームベースの上にマッチ箱を置いて
それをボールで倒したり.......と
ペイジは最高かつ規格外のエンターテイナーだったのである。

ゲームごとに契約し、どこのチームでも投げられる無所属選手となったペイジは、
40年頃から『ペイジ・オールスターズ』を結成、
中南米を始め各地を転戦し、現役メジャーリーガーのオールスターチームをも
たびたび撃破している。
腕を故障して引退の危機を迎えた際には、インディアンの酋長から貰ったという
『ヘビ油』を塗ってもとの豪速球が復活したという。

1947年、コミッショナー、ハッピー・チャンドラーの英断により
黒人選手に対し、メジャーリーグの門戸が開かれた。
その第一号が若きジャッキー・ロビンソンであった事にペイジはショックを受けるが、
翌48年シーズン途中、クリーブランド・インディアンズがペイジとの契約を果たす。
ここに42歳のルーキーが誕生、伝説の投手を一目見ようと球場には8万人もの客が押し寄せた。

ルーキー・イヤー、ペイジは後半戦のみで6勝1敗という成績を残す。
インディアンズ退団後はビル・ベックの誘いを受けセントルイス・ブラウンズに入団、
52年には46歳の高齢ながら12勝をマークし怪物ぶりを見せつけた。
結局メジャーでは28勝31敗という数字を残し引退、数字だけ見れば物足りないかもしれない。
が、サチェル・ペイジがメジャー・リーグのみならず、ベースボールの歴史に残した足跡の前には
数字など何の意味も持たない。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=120181

file.051 Tom SEAVER 【トム・シーバー】

2006-01-08 | 1969/Miracle Mets
【主神オーデーン】
Tom SEAVER

1966年、ドラフト1位でブレーブスに指名されるも、
紆余曲折の末、新興球団のニューヨック・メッツに入団したシーバー。
決して大きくない体格をカバーするべく研究を重ね、
下半身に重きを置いたストライドの長いフォームを確立。
低い体勢から放たれた速球は打者の手元で浮き上がる.......。
いつからか『ライジング・ファースト・ボール』と呼ばれた
この速球を武器に大投手への道を駆け上り、
92年、98.8%という史上最高の得票率で
堂々、殿堂入りを果たす事になる。

シーバーが入団した1966年当時、
メッツは毎年100敗は確実の最弱球団であった。
「メッツの試合より酷い試合がある。メッツのダブル・ヘッダーだ。」
監督のケーシー・ステンゲルまでもが自虐のジョークを吐く程だった。

1969年、メッツの監督はギル・ホッジスに変わっていた。
シーバーも67、68年と連続して16勝をあげ防御率も2点台と、
弱小チームのエース的存在として孤軍奮闘していた。

そして69年メッツが奇蹟を起こした。

8月初旬の段階では、1位に9.5ゲームもの差をつけられていたが
中旬から怒濤の快進撃を見せ、
ついにはワールドチャンピオンにまで輝いた。
シーバーはシーズン後半戦10連勝を含む25勝、防御率2.21、
リーグ優勝決定戦、ワールドシリーズでも1勝づつをあげる大活躍。
左腕のジェリー・クースマンや
若きノーラン・ライアンらと共にチームを牽引した。
ミラクル・メッツの最優秀主演男優賞たるシーバーは
この年、最多勝とサイ・ヤング賞を受賞する。

70年、防御率2.81、18勝、
71年、防御率1.76、20勝、
72年、防御率2.92、21勝......と、活躍を続け、
73年は、防御率2.08、19勝で、チームのリーグ優勝に貢献した。

75年も防御率2.38、25勝と好成績をマーク、
結局メッツでは8年間で5回の最多奪三振、2度のサイ・ヤング賞
3度の最優秀防御率....と、その勢いは止まる事を知らなかった。

有名なスポーツライターのロジャー・エンジェルは
シーバーを評してこう書いている。
『メッツにとって、かけがえのない北欧神話の主神オーデーンのような存在だ』

また、ポップ・アートの巨匠、アンディ・ウォーホールも
自身のシルクスクリーン・アートで、シーバーを題材にした作品を製作している。

77年シーズン途中、フロントとの確執から
レッズにトレードされたシーバーだが
2チーム合計で21勝をマーク。
78年にはノーヒット・ノーランを達成するなど防御率2.88、16勝。
81年には防御率2.024、14勝で最多勝を獲得し
そのピッチングぶりは衰えを知らなかった。
83年以降は古巣メッツやホワイト・ソックス、
レッド・ソックスを渡り歩き
85年には齡40にして16勝を稼ぐ活躍を見せた。

86年、通算311勝、防御率2.86で引退したシーバー、
実は打撃も悪くなかった。
キャリアで12本のホームラン86打点をあげている。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121961


file.050 Minnie MINOSO 【ミニー・ミニョソ】

2006-01-07 | MNO
【6ディケード】
Minnie MINOSO

51年、シカゴで始めての黒人選手として
ホワイト・ソックスに入団。
いきなりリーグ2位の打率.326とリーグトップの31盗塁を決め、
鮮烈にデビューする。
53年、打率.313、15本塁打、104打点、
54年も、打率.320、19本塁打、116打点と勝負強い打撃を披露。
MVP投票でも上位にくい込む活躍ぶりを示した。
以降も、安定した働きでチームに貢献したミニョソだが
58年、インディアンズにトレード。
2年連続で打率.300以上、20本塁打以上を放つなど、
チームが変わっても、変わらぬ安定感を発揮した。

60年、ホワイト・ソックスに復活。
打率.311、20本塁打、105打点の好成績を残した。

ボールにぶつかる名手としても知られ(?)
最多死球は10度にもわたる。
クラウチングスタイルの打撃フォームが原因だといわれているが、
喜んで進んでぶつかりに行っていた..という声も聞かれる。

1964年、いったん引退するも、
76年に54歳にしてホワイト・ソックスで復活、
1安打を放ち、打率.125を記録。
さらに58歳になった80年、またもホワイト・ソックスで復活、
2打席でヒットは0、打率.000という数字が残った。
まったく戦力として計算できない老選手がメジャーリーグの
ロースターに入るに到った背景には、当時のホワイト・ソックスオーナー
ビル・ヴェックとの関係があったわけだが、
ミニョソをメジャーリーグ入りさせた人物が
当時インディアンズのオーナーだった他ならぬビル・ヴェック。
亡くなったヴェックの葬儀にはホワイト・ソックスのユニホームを着て
参列したミニョソであった。

93年、ホワイト・ソックスは70歳のミニョソをロースターに入れ
メジャーのゲームに出場させようと計ったが、さすがに
メジャーリーグ機構がそれをストップした。
結局ミニョソは独立リーグのセントポール・セインツで
出場の機会を得、四球を選び出塁した。
セインツのオーナーは他ならぬビル・ヴェックの息子
マイク・ヴェックである。

通算、1963安打、1023打点、
盗塁王に3回輝いている。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=MINOSO