GUMBO

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file .307 Ron LeFLORE【ロン・ルフロア】

2013-08-24 | JKL
【break out】
Ron LeFLORE

デトロイトのスラム街生まれのルフロアは、
9歳で酒を
11歳でタバコを覚え、
12歳でコールガール相手に筆おろしを済ませ、
13歳で麻薬に手を出すなど、
すくすくとスラムの悪童として育ち、
小学校を何度も変えるレベルの問題児にまで成長した。

その後も順調に道を踏み外すルフロアは、
19歳の時に、近所のバーへライフルを持って強盗に入り、
あっけなく御用。
3年の実刑判決を受け、刑務所に入った。

とっとと娑婆に出たいルフロアは、
刑務所内で野球を始める。
スポーツに勤しんでいると印象が良くなり、
仮釈放の機会が増えるからだ。
また、野球を通して看守と親しくなれるというのも大きな利点であった。
元々ズバ抜けた身体能力の持ち主だったルフロアは、
周囲の人間にルールなどを教えてもらいながら
アスリートとしての才能をグングン伸ばし、
塀の中のスタープレーヤーにまで昇りつめた。

やがてめでたく仮釈放と相成ったルフロアは、1973年、
ム所で知り合った人間のコネでデトロイトタイガースの入団試験を受け、なんと合格。
それどころか、74年のシーズン途中にメジャーへ昇格し、
59試合で打率.260 23盗塁をマーク。
翌75年は打率.258 8本塁打 37打点 28盗塁。
突出した成績とはいかないまでも、
学生時代に野球の経験が無いとは思えない活躍を見せる。

76年は大幅な成長を遂げ、
打率.316 4本塁打 39打点 58盗塁。
オールスターにも出場。
数年前には強盗で収監されていた男は、
ついにアメリカンドリームを実現させた。


77年は、打率.325 16本塁打 57打点 39盗塁。
78年は、打率.297 12本塁打 62打点 68盗塁で初のタイトルとなる盗塁王を獲得。
リーグを代表するスピードスターへと登り詰めたルフロアは、
80年にエクスポズへ移籍し、打率.250 4本塁打ながら97盗塁で2度目の盗塁王。
その後、82年にホワイトソックスで現役を引退した。

通算1099試合 1283安打 打率.288 59本塁打 455盗塁。

街のゴロツキからメジャーリーグのオールスター級の名選手へ、
映画のようなサクセスストーリーを演じたルフロア。
しかし、生来の盗み癖が完治した訳ではなく、
ロッカールームに無造作に置かれてる現金をかっぱらいたい衝動にかられたり、
街に出ては、ショウウィンドウを叩き割って商品を持ち去る妄想にとらわれたりと、
ルフロアなりの葛藤もあったという。

file .296 Gregg JEFFERIES【グレッグ・ジェフリーズ】

2011-04-05 | JKL
【神童】
Gregg JEFFERIES

元プロ野球選手だった父親から英才教育を受け、
中学~高校時には、
大学の選手にまじってプレーする程の怪童だったジェフリーズ。
当然、全米が注目するトッププロスペクトとなり、
1985年、高校卒業と同時にメッツに1位指名され入団。
マイナーリーグでも2度に渡り最優秀選手に輝くなど
期待通りの成長を見せていた。

87年、弱冠19歳でメジャーデビューを飾ると
89年にはセカンドのレギュラーに定着し、
打率.258 12本塁打 56打点 21盗塁。
90年は.283 15本塁打 68打点 11盗塁、
順調に成長を続けていると見えたのだが、
91年、打率.272 9本塁打に終わると、
92年、メッツはジェフリーズをトレード放出。

移籍先のロイヤルズでも.285 10本塁打 75打点 19盗塁・・と
プロ入り前の期待とは大きくかけ離れた成績に終わったジェフリーズは
93年、今度はカージナルスへトレード移籍。
かつての神童は齢25にしてジャーニーマンのような扱いを受けた。

が、この年ついにジェフリーズの天賦の才が花開く。
.342 16本塁打 86打点 46盗塁。
翌94(短縮シーズン)年も.325 12本塁打 55打点 12盗塁。
2年続けてオールスターにも出場し、
ついにリーグ屈指の名選手と相成ったジェフリーズは
95年、FAでフィリーズへ入団。
.306 11本塁打 56打点 9盗塁をマークし、
サイクルヒットも記録するが、
足の怪我の影響もあり、以降は成績が振るわず、
結局2000年、タイガースで現役生活を終えた。

抜群の野球センスを持っていた所為か
二塁~三塁~1塁~外野・・・と
ポジションを転々としながら
通算1465試合 .289 126本塁打 663打点 1593安打を記録した。

file .273 Charlie LAU【チャーリー・ロウ】

2009-01-22 | JKL
【ロウ師】
Charlie LAU

1956年から11シーズンに渡り、
タイガースや、オリオールズで
捕手としてプレーしたロウ。
選手としては、通算527試合、打率.255、16本塁打、140打点...と
平凡以下の成績しか残せず、67年に現役を引退する。

ロウの名が広く球界に知れ渡るのは
コーチとしてロイヤルズに入団してからであった。

打席で前屈み状態になり、
体重を軸足にかけ、ボールを待ち、
そして身体をひねるようにスイングする。
前屈み状態になる事でストライクゾーンを狭め、
打球は右へ左へ打ち分けるスプレーヒッティングを心がける。

その打撃法はメジャーリーグに広がり、
それまで打撃のバイブルとされていた
テッド・ウィリアムスの論理に取って変ったと言われており、
当のテッドはロウの方法論を忌み嫌っていたという...。

ロウの一番弟子といえば、
何と言ってもジョージ・ブレットであろう。
師の教えに忠実に従ったブレットの偉業は
今更語る事も無い事である。

特に76年は、ブレットとハル・マクレー、
同じ師を持つチームメイト同士が
激しい首位打者争いをくり広げ、
(結果は1厘差でブレットに軍配)
ロウの名を一層、世に知らしめる事となる。

他にも、ピート・ローズやトニー・グウィン、ウェイド・ボックスら、
錚々たる面々に影響を少なからず与えた...と考えられている。

1984年、51歳の若さで癌の為、死去。

ブレットは語る。
「ロウの教え.......、当初は、それが私の人生を
 どれほど変える事になるか、全く解っていなかったよ」


file .236 Don LARSEN【ドン・ラーセン】

2008-01-02 | JKL
【1956.10.8】
Don LARSEN

1956年のワールドシリーズは、
ヤンキースのドジャースの戦いになった。
互いに2勝し、勝てば『王手』となる第5戦、
ヤンキースの先発投手はドン・ラーセンであった。

ラーセンは、1953年、『史上最弱球団』セントルイス・ブラウンズでデビュー。
成績は、7勝12敗、防御率4.16であった。

54年、オリオールズに移籍するが
3勝21敗という、驚異的な勝負弱さを発揮してしまう。

55年、今度はヤンキースに移籍。19試合に登板し、9勝2敗、防御率3.06...と、
投法をノーワインドアップに変えたのが功を奏し、
見違えたような投球を見せる。

56年、ローテ入りを果たしたラーセンは、
11勝5敗、防御率3.26をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
ドジャースとのワールドシリーズに臨んだ。

ラーセンは、第2戦で先発するも
コントロールが乱れ、2回4失点で降板。
敗戦投手にこそならなかったが、
大舞台で結果を出す事は出来なかった。
ヤンキースはこの試合で2連敗、
が、この後2連勝し2勝2敗の五分となった。

第5戦、ラーセンに汚名返上の機会が与えられた....。

この日のラーセンはコントロールが冴えに冴えた。
ギル・マクドゥガルドやミッキー・マントルの好守にも助けられ、
デューク・スナイダー、ロイ・キャンパネラ、
ギル・ホッジス、ジャッキー・ロビンソンらを擁するドジャース打線に
ヒットどころか、四球すらも与えない。
.........結果、完全試合。

球場は興奮の渦に巻き込まれ、
ラーセンは、チームメイトの手荒い祝福を受けた。
このシリーズ、ヤンキースは見事世界一に輝き、
ラーセンは、シリーズMVPの栄誉を手にした。

一躍時の人となったラーセンだったが、
この完全試合を機に、一流投手へと変貌を遂げる....と、いうわけにはいかなかった。
翌57年こそ、10勝をあげるが、59年、6勝に終わると
その後はアスレチックス、ホワイトソックス、ジャイアンツetc...とチームを渡り歩き、
67年、カブスで現役を引退。
62年、ジャイアンツで2度目のワールドシリーズ制覇の美酒に酔う事こそ出来たものの、
通算81勝、防御率3.78....と平凡な数字しか残す事は出来なかった。

file .213 John KRUK【ジョン・クラック】

2007-09-09 | JKL
【フィラデルフィアの人気者】
John KRUK

86年、パドレスでメジャーデビューを果たしたクラック。
1年目、122試合で打率.309を打ち、
その打撃力を見せつけると、
87年は打率.313、20本塁打、91打点とブレークした。
88年、打率.241、
89年も31試合を終えた時点で打率.184と低迷を続けると
シーズン途中でフィリーズへトレード移籍。
発奮したクラックは、移籍後、打率.331、38打点と活躍、
ヒット・マシーンの健在ぶりを示した。

クラックにとって、フィリーズは居心地が良かったのか
以降、安定した数字を残す。
90年、91年と打率.290以上を打つと、
92年に打率.323、10本塁打、70打点の好成績。
93年は、打率.313、14本塁打、85打点、111四球、
チームをワールドシリーズ出場にまで導いた。

ガッチリした..と、いうよりは太った体型に似つかない
柔らかいリストで、右に左に打球を飛ばす。
加えて、選球眼も良く勝負強さも抜群。
一塁と外野をソツなくこなす守備力も持ち合わせ、
ワイルドなチームカラーにピッタリなキャラクターで人気も高かった。

....が、好事魔多し。
94年、シーズン途中、睾丸に癌があるのが分かり手術。
95年は年棒を下げ、
ホワイト・ソックスへFA移籍、
45試合で打率.308と看板通りの活躍を見せるが
この年限りで現役を引退してしまった。

通算100本塁打、打率.300、592打点。

現在はESPNで解説者として活躍。
すっかりおなじみの顔となっている。

file.163 Reggie JACKSON【レジー・ジャクソン】

2007-02-24 | JKL
【ミスター・オクトーバー】
Reggie JACKSON

強い自己顕示欲.....歯に衣着せぬ物言い、傲慢でエゴイスト.....。
長いメジャーリーグの歴史の中でも
一、二位を争う程の個性派プレーヤー、レジー・ジャクソン。
通算563本塁打に加え、
三振は歴代ワーストの通算2597を記録している。

ジャクソンは、66年にアスレチックスに入団。
68年に29本塁打を放ち、その実力を示すと、
翌69年には、47本塁打をマーク。
早くもチームの主砲として頭角を表した。

71年、32本塁打、80打点でチームを地区優勝に導くと、
73年、32本塁打、117打点で二冠王とMVPを獲得。
ワールドシリーズでも打率.310、6打点と活躍し
怪我で出場出来なかった72年のワールド・シリーズの鬱憤を晴らし
アスレチックスを2年連続の世界一に導いた。

74年もポスト・シーズン合計10打点を叩きだし、
3年連続ワールドシリーズ制覇に大きく貢献。
押しも押されぬチームの顔となったジャクソンは、
この頃から、傲慢な性格が顔を出すようになる。

この頃のアスレチックスのトレードマークであった
『ヒゲ』も、元々はジャクソンが発端。
当時はメジャーでは御法度だった『ヒゲ』も
今ではすっかり定着している。

アスレチックスで2度の本塁打王を獲得し、
球界を代表するスラッガーとなったジャクソンは、
76年のオリオールズを経て、77年、FAで高額契約し、ヤンキースへ移籍。
この年32本塁打、110打点をマークし、チームをリーグ優勝に導いたジャクソンは
ワールド・シリーズで空前絶後の大爆発。
第6戦は3打数連続の本塁打を叩き
前日の試合から4打数連続の本塁打をスタンドにブチ込んだ。
結局、このシリーズは5本塁打、8打点、打率.450の
ワンマンショーで、文句無しのシリーズMVPに輝いた。
シーズン中、イニング途中の守備交代を巡って、
ジャクソンと試合中にベンチで激しい口論を交わした監督のビリー・マーチンも
笑って認めざるをえないド派手な大活躍であった。
(マーチンとはその後も衝突を繰り返し、二人の関係はますます悪化する)

全国区のスーパースターとなったジャクソン、
その尊大な性質にはますます磨きがかかり、
『レジー・バー』なるピーナッツとキャラメルをチョコで包んだ
本人の濃いキャラクターそのもののお菓子が発売されたり、
「J・ロビンソン以降、一番重要な黒人選手は俺だ!」と
全く的外れな迷言を言い放ったり、チームのキャプテン、サーマン・マンソンを中傷したりと、
やりたい放題、言いたい放題で、絶える事なく話題を振りまいた。

以降も、豪快なスイングで2度の本塁打王を獲得したジャクソン、
78年は、ヤンキース2年連続の世界一に大きな貢献を果たし
82年から、エンゼルス、アスレチックスとチームを変え、
87年41歳で現役を引退した。

93年、殿堂入りを果たし、アスレチックス時代の『9』と
ヤンクス時代の『44』は、それぞれのチームで永久欠番となっている。

file.159 Sam JETHROE【サム・ジェスロー】

2007-02-19 | JKL
【JET】
Sam JETHROE

サム・ジェスローは、1942年から、
ニグロ・リーグのバックアイズで7年間活躍。
通算打率.340を打ち、2度の首位打者を獲得、
45年にはチームを世界一に導く活躍を見せるなど
リーグの花形選手であった。

32歳になった1950年、ブレーブスに入団。
球団初の黒人選手としてプレー。
オールド・ルーキーのジェスローはこの年、
打率.273、18本塁打、35盗塁の大活躍。
盗塁王と、史上最年長の新人王を獲得し、
一躍地元のスター選手となる。
2年目の51年も打率.280、18本塁打、65打点、35盗塁と結果を残し、
そのスピード感溢れるプレーぶりに、ファンから『ジェット』の
ニックネームで呼ばれるようになった。

が、52年に打率.232と低迷するとマイナーへ送られ、
そのまま試合に出場する事なくブレーブスを退団。
54年にパイレーツで復帰するも、2試合しか出場できず
そのまま現役を引退した。

マーク・フィドリッチやジョー・シャーボノーと並ぶ
メジャーリーグ史を代表する一発屋選手であるが、
20代の全盛期にメジャーでプレー出来ていれば、
あるいは、ジャッキー・ロビンソンやラリー・ドビーを
上回る活躍を見せていたかもしれない。

file.153 Fergie JENKINS【ファージー・ジェンキンス】

2007-02-14 | JKL
【Fly】
Fergie JENKINS

その輝かしい実績の割に、
日本ではほとんど知られていない殿堂投手である。
通算284勝。
殿堂投手の中で唯一、3000奪三振を奪いながら
1000四球未満しか与えていないコントロール・アーティストである。
ちなみに、現役ではカート・シリング、グレッグ・マダックスの二人が
3000奪三振・1000四球未満を継続中である。
(ペドロ・マルチネスも2007年には仲間入りをするだろう)

1965年、フィリーズでメジャーデビューしたジェンキンスは
66年シーズン途中、カブスに放出される。
65~66年の2年間、8勝しか出来なかったジェンキンスは、
67年、いきなり防御率2.80で20勝し、ブレーク。
翌68年も20勝をあげ、結局72年まで、
6年連続の20勝以上をマーク、
特に71年は、24勝で最多勝、サイ・ヤング賞に輝く大活躍。
ムーブする速球と、鋭いスライダー、シンカーを武器に
一躍リーグを代表する投手へと変貌を遂げ、
アーニー・バンクスやビリー・ウィリアムスらと共に
カブスの屋台骨を支えた。

73年、14勝16敗と、やや低迷したジェンキンスを
カブスはレンジャースへ放出。
30代を迎えたジェンキンスは新天地で意地を見せ、
74年、25勝、防御率2.82と華麗に復活、
サイ・ヤング勝は惜しくも投票順位2位で逃すが、
まだまだ充分働ける事を立証した。
その後、レッドソックス~レンジャース~シソックスと渡り歩き、
ナ・リーグで149勝、ア・リーグで135勝し、
史上4人目の『両リーグで100勝』を達成した投手となった。

1980年シーズン途中、税関でコカインとマリファナ所持が発覚し、
出場停止処分を課せられ、晩節を汚してしまうが、
結局83年、40歳までプレーし、91年に殿堂入りを果たしている。

惜しまれるのは、バンクスやビリー・ウィリアムス同様、
ポスト・シーズンでの登板が一度も無かった事だろう。
華やかなワールド・シリーズで、
彼等の溌溂としたプレーが見られなかったのは残念というしか無い。

file.151 Sandy KOUFAX【サンディ・コーファックス】

2007-02-12 | JKL
【史上最高の左腕】
Sandy KOUFAX

大投手サンディ・コーファックスは、
1955年、ドジャースで大リーグデビューを果たした。
55年は、12試合に投げて2勝、
翌56年も16試合で2勝、
57年は5勝をあげたものの、制球力に難があり、
なかなか才能を開花出来ずにいた。
それでも同僚のジャッキー・ロビンソンなどは
コーファックスの潜在能力を見抜いていたのか、
その起用法を巡って、ウォルター・アルストン監督に
度々意見していたといわれている。

チームがLAに移った58年、
ようやくコーファックスはローテーションを任されるようになる。
この年、11勝をマークするも防御率は4.48、
暴投が多いなど、安定感に欠ける投球を続け、
ブレークには至らない。

59年、8勝。
60年も8勝(13敗)と苦しむコーファックスに
一人の助言者が現れる。
ブルペン捕手のノーム・シェリーである。
シェリーはコーファックスのフォームの弱点を指摘し、
「肩に力が入り過ぎているな。もっとリラックスしな。」
と助言した上で、変化球の有効性についても説いた。

61年、コーファックスは遂に開眼した。
この年から、コーファックスは、
同僚の右腕、ドン・ドライスデールと共に最強の左右コンビを形成、
奇跡のような大活躍を見せるようになる。
チームも、強打一辺倒から、
機動力を駆使した少ない得点を、この二人を中心とした
投手力で守り抜く戦法にシフトした。

1961年――――
 ●18勝ー13敗・防御率3.52・269奪三振(リーグ1位)
1962年――――
 ●14勝ー7敗・防御率2.54(リーグ1位)・216奪三振(リーグ1位)
 6月にメッツ戦でノーヒット・ノーラン達成。
1963年――――
 ●25勝(リーグ1位)ー5敗・防御率2.54(リーグ1位)・306奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞、MVP受賞
 5月、ジャイアンツ相手にノーヒット・ノーラン。
 チームをリーグ優勝に導き、ワールド・シリーズでも2勝、
 第一戦では15奪三振のシリーズ記録を樹立し、シリーズMVPに輝く。 
 ヨギ・ベラは、「コーファックスが25勝した理由はよく解った.....。
 が、理解出来ないのは、何故5敗もしたのか....という事だ。」と語った。
1964年――――
 ●19勝ー5敗・防御率1.74(リーグ1位)・223奪三振
 6月にフィリーズ戦でノーヒット・ノーラン達成。
1965年――――
 ●26勝(リーグ1位)ー8敗・防御率2.04(リーグ1位)・382奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞受賞
 9月にカブス戦で完全試合達成。
 ツインズとのワールド・シリーズでは、3試合に先発し
 2完封で2勝、二度目のシリーズMVP獲得。
 オフにはドライスデールと年俸アップを求め、共闘。
 史上初の代理人による交渉を行い
 見事大型契約を勝ち取る。
1966年――――
 ●27勝(リーグ1位)ー9敗・防御率1.73(リーグ1位)・317奪三振(リーグ1位)
 サイ・ヤング賞受賞

66年、キャリアハイの27勝に防御率1.73の成績を残しながら、
31歳のコーファックスは突然の引退を発表し、
世間を驚かせた。
原因は、登板過多による慢性的な左肘痛、
痛み止めの注射や、当時としては画期的だったアイシングをしながらの投球も
もう限界だった。
「いつまでも、自分の髪には、自分で櫛を入れたいからね」
コーファックスの弁である。

この眩いばかりの6年間・129勝は、他の大投手の300勝に値するものであった。
コーファックス引退後、5年経った1972年、
史上最年少での野球殿堂入りを果たしている。

余談だが、コーファックスの実父は、ジャック・ブラウンという、
コーファックスが3歳の頃、ジャック・ブラウンは失踪。
コーファックスは、母親の再婚相手、アーヴィン・コーファックスの姓を名乗り、
「私の父親はアーヴィン・コーファックスただ一人だ」と語っている。

file.147 Mickey LOLICH【ミッキー・ロリッチ】

2007-02-07 | JKL
【伏兵】
Mickey LOLICH

63年にタイガースで
メジャーデビューを果たしたロリッチ、
巨体から繰り出す速球で打者を圧倒し、
64年に18勝をあげると、
75年まで11年連続で12勝以上、
また抜群のスタミナで、12年連続の
200イニング登板をマークする。

69年に19勝。
71年は25勝をあげ、最多勝・最多奪三振の二冠王。
72年も22勝と大車輪の活躍を見せるが、
ロリッチといえば、何と言っても
1968年のワールド・シリーズであろう。
カージナルスとタイガースがぶつかったこのシリーズ、
カージナルスには、この年脅威の防御率1.12をマークしたボブ・ギブソン、
タイガースには、同じくこの年30勝をあげたデニー・マクレーンが
それぞれ絶対的なエースとして君臨していた。
が、シリーズMVPはギブソンでもマクレーンでもなく、
誰あろうロリッチであった。
ロリッチは、第二戦で1失点の完投勝利、ホームランも放ち、
中2日での第五戦も3失点完投勝利、
さらに中2日で登板した第7戦では、
1失点の完投勝利でギブソンに投げ勝ち、一人で3勝(全て完投)。
一時は1勝3敗で窮地にたたされたチームを救う大活躍をみせた。

1979年、通算217勝、歴代17位の2832奪三振の記録を残し引退。
殿堂入りは果たしていないものの、メジャー史上屈指の左腕に間違いないだろう。

余談だが、ロリッチは元々右利きだった。
交通事故で左の鎖骨を骨折し、リハビリに励むうち
左腕の力が強くなり左利きに変更したのだという。
打者としては通算打率.110とふるわないが、
一応、スイッチ・ヒッターであった。

file.145 Ralph KINER【ラルフ・カイナー】

2007-01-23 | JKL
【歴代3位のホームラン率】
Ralph KINER

「ホームランバッターはキャデラックに乗る。
 シングルヒッターはフォードにでも乗っていろ」
現役生活10年で369本のホームランを放った
カイナーの有名な台詞である。

1941年、パイレーツと契約したカイナーは、
まだマイナーにいた43年に兵役に就き、45年に除隊。
46年、メジャーデビューを果たす。
この年、23本塁打でホームラン王を獲得すると、
翌47年、タイガースから移籍して来た
ハンク・グリーンバーグの指導もあってか、
51本塁打と、前年より倍以上の本数で、2年連続の
ホームラン王に輝いた。
以降.......
48年/40本 49年/54本
50年/47本 51年/42本
52年/37本......と打ちまくり、
長いメジャーリーグの歴史において
ただ一人の『7年連続ホームラン王』の偉業を達成、
メジャーリーグ随一の長距離打者として球界に君臨する。

49年には127打点で打点王も獲得、二冠王に輝いた。

53年、サラリーアップを要求すると
GMのブランチ・リッキーは、『君がいなくてもチームは最下位だ』と
それを却下、カイナーをカブスへ放出してしまう。
結局、カイナーは55年、32歳の若さで、怪我を理由に
あっさりと現役を引退。

引退後は、野球中継のアナウンサーとなった。

オールスターに出場する事6回、
その端正な顔だちもあって、女性人気も高かった。
弱小球団のパイレーツで現役生活のほとんどを過ごした所為で
プレーオフやMVPに縁は無かったが、
太く短い選手生活は、
いわば、打者版のサンディー・コーファックスといえるだろう。

75年、殿堂入りを果たしている。

file.111 Dave KINGMAN【デイブ・キングマン】

2006-12-03 | JKL
【キング・コング】
Dave KINGMAN

恐ろしい程のアッパースイングで
通算442本のホームランを放ったスラッガー。
ただ、通算打率は.236、三振は1816――
粗い打撃が特徴で、安定感という言葉とは無縁だった。

70年にドラフト1位でジャイアンツに入団したキングマンは
72年にレギュラーの座をつかむや、29本のホームランを放つ。

75年、メッツへ移籍。
この年、キャリア初の30本超えとなる36本のホームランを打ち
翌年も37ホームラン、キングマンの飛距離の出るアーチには
かのミッキー・マントルも
「あんなデカいホームランは見た事がない」と舌を巻く程だった。

が、多くのホームランを打つものの、チャンスでは三振をくり返し、
守備が上手いわけでもない外野手をチームは持て余しつつあった。

77年はシーズン途中でメッツから放出されると
パドレス/エンゼルスなど、一年で計4球団を渡り歩いた。

79年、カブスに在籍していたキングマンは
48本で初のホームラン王に輝いた。
打点は115をたたき出し、
打率は奇跡の.285をマーク、打撃開眼かと思われた.....。

が、結局粗い打撃は改善される事なく、
80年以降、メッツ/アスレチックスに在籍。
82年37本で2度目のホームラン王を獲得するも打率は.204の低打率。

気難しい性格で、孤独を愛し、
同僚ともほとんど打ち解けず、
マスコミとの関係は最悪だった。

file.108 Greg LUZINSKI【グレッグ・ルジンスキ】

2006-11-30 | JKL
【The Bull】
Greg LUZINSKI

ほぼ、同期生のマイク・シュミットと
主軸コンビを組んだスラッガーである。

1973年、打率.285 29本塁打 97打点を打ち、実力が開花。
75年、打率.300 34本塁打 120打点と爆発、打点王に輝いた。

ルジンスキの絶頂期は75年から78年、
この4年間でホームラン129本、446打点をたたき出している。

が、チームが世界一になった1980年は打率.228 本塁打19と低迷、
ワールド・シリーズでも3試合に出場し、ヒットすら打つ事が出来なかった。

1981年、ホワイト・ソックスへ移籍、
苦手だった守備の負担を軽減すべくDHとして試合に出場、
82年には102打点、83年には32本塁打と、チームに貢献、
84年に現役を引退する。

決してスーパースターではなかったが、パワフルな打撃はファンを魅了した。
そんなルジンスキを、ファンはザ・ブル(牡牛)と呼び声援を送った。
現在はフィリーズの球場シチズンズ・パークで
ブルズ・バーベキューなるショップを営んでいるという。

file.095 ted KLUSZEWSKI【テッド・クルゼウスキ】

2006-11-07 | JKL
【BIG KLU】
ted KLUSZEWSKI

大学時代は、フットボールの選手だったクルゼウスキ、
48年、レッズでメジャーに定着すると、
53年から3年連続で40本以上のホームランを放ち
リーグを代表するスラッガーに成長した。
また、52年から56年まで5年連続で打率3割を打つなど
確実性も備わっていた。
54年にはホームラン49本、141打点で
堂々の二冠王に輝いている。

ただ、残念ながら、怪我が多く、
1年フルに活躍した年は16シーズン中
4年のみであった。

クルゼウスキといえば、
何と言ってもその丸太のような
太い腕であろう。
一説には腕まわり72cm あったともいわれ
相手投手はしばしば、その迫力に恐れおののいたという。

そんな彼だが、
メジャーリーグの歴史に
意外(?)な影響を及ぼしている。
現在、レッズやロッキーズなどが採用している
袖無しのユニホームだが、
これは、クルゼウスキの着こなしが
発端だという説がある。

クルゼウスキは、その太すぎる腕が
半袖のユニホームに納まりきらず
いつも袖を切って着ていたのだ。
レッズがそれを正式なデザインに採用したのが
袖無しユニホームの起源だという。

ワイルドな魅力溢れるクルゼウスキは、
1988年63才で息をひきとった。

file.089 Tony LaRUSSA【トニー・ラルーサ】

2006-10-24 | JKL
【弁護士資格を持つ監督】
Tony LaRUSSA

62年、アスレチックスと契約したラルーサは、
18才の若さでメジャーデビューを飾った。
が、結局ケガとの戦いもあり、プレーヤーとしては
通算132試合の出場と打率.199という数字しか残せず引退。
同じ「ショートのポジションで18才デビュー」した
ロビン・ヨーントやアレックス・ロドリゲスのようにはいかなかった。
自らの力量と限界を悟ったのか、
72年、フロリダの法律学校に通いはじめ、努力の結果
見事学位を取得する。
その後、弁護士資格も取得するが、ラルーサの野球人生は続いた。
カージナルスのマイナー監督を経て、1979年には
晴れてホワイト・ソックスの監督に就任。
83年にはチームを地区優勝に導くなど、結果を出すも
86年には解任の憂き目にあう。

87年、解雇されたラルーサを古巣アスレチックスが
監督として迎え入れる。
ラLーサの名将としての歴史はここから花開く。
デニス・エカーズリーをクローザーに転向させ、
投手の分業制を確率。
リッキー・ヘンダーソン、ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアなど
タレント揃いのチームを見事まとめあげ、
チームバッティングや走塁の意識を高め、
88年から3年連続でリーグ優勝、
89年にはワールドチャンピオンに輝いた。
その後、96年にカージナルスの監督に就任し、
96、2000、2002、2004、2006年と
地区制覇及びリーグ優勝に輝いている。
2006年、ワールド・シリーズで
かつての盟友ジム・リーランド率いるタイガースと対戦。
この両将、勝てばいずれも
「ナ・リーグ、ア・リーグの両方で世界一」の
称号を得る事になる。