GUMBO

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file .266 Tommy DAVIS【トミー・デイヴィス】

2008-12-14 | DEF
【60sドジャースの打の顔】
Tommy DAVIS

60年代前半のドジャース。
ドライズデール/コーファックスがチームの象徴であったが、
モーリー・ウィリスと、フランク・ハワード、そして二人のデイヴィスも
チームの攻撃の要であった。
二人のデイヴィス.....、
一人はウィリー・デイヴィス、
そしてもう一人がトミー・デイヴィスである。

学生時代はバスケットボールでも鳴らしたデイヴィスだったが、
選んだ進路はベースボールだった。
1960年に、ドジャースの外野のレギュラーをつかみ取ると
打率.276、11本塁打、44打点をマーク。
新人王こそ同僚のフランク・ハワードに持っていかれるが、
その才能をまざまざと見せつける。

61年、打率.278、10本塁打、58打点のデイヴィスは、
翌62年、打率.346、230安打、27本塁打、153打点、18盗塁...、
首位打者、打点王の二冠に輝き、大ブレークを果たすと、
63年も打率.326、16本塁打、88打点、15盗塁....、
前年に続き、首位打者を獲得、
チームをリーグ優勝に導き、
ワールドシリーズでも打率.400の大活躍。
ドライスデール/コーファックス/ジョニー・ポドレスらと共に、
MM砲を擁するヤンキースを散々に打ち破った。

65年、怪我でシーズンの大半を棒にふったデイヴィスは、
66年のオフ、メッツへ放出され、打率.302、16本塁打、73打点。
勝負強い打撃は新天地でも変らず発揮された。

以降、73年まで、実に9度に渡りチームを変えたデイヴィスであったが、
69年は、アストロズとシアトル・パイロッツで80打点、
70年は、アストロズ/アスレチックス/カブスで73打点をマークするなど
クラッチな打撃は影を潜める事は無く、
73年、オリオールズで打率.306、7本塁打、89打点、
74年も打率.289、11本塁打、84打点...と
2年連続でチームの地区優勝に貢献。
30代半ばにして、その渋い打撃は、衰えを知らぬかのようであった。

76年、ロイヤルズでその現役生活に終止符を打ったデイヴィス、
通算1999試合、打率.294、2121安打、1052打点。


サンディ・コーファックスは語る。
「62~63年において、トミー・デイヴィスは、球界で最高の打者だった。
 チームに最良の貢献をしてくれたよ。
 ただ非常に残念な事に、それを認識しているファンは決して多くは無かったんだ」


file .254 Bucky DENT【バッキー・デント】

2008-07-19 | DEF
【Mr.October in 1978】
Bucky DENT

70年、ドラフト1位でホワイトソックスに入団したデントは
73年、メジャーデビュー。
74年には遊撃のレギュラーを獲得し打率.274、5本塁打、45打点、
同年の新人王投票で2位に入る活躍を見せた。

打撃面では、非力で出塁率も低く、多くを望めない選手だったが
堅実な守備でチームを支え、甘いマスクで女性人気も高かった。

1977年、ヤンキースへ移籍。
レジー・ジャクソンやグレイグ・ネトルズ、サーマン・マンソンといった
個性溢れる選手に混じってプレーし、
打率.247、8本塁打、49打点、
9番遊撃としてワールドシリーズ制覇に貢献し、
勝利の美酒に酔い痴れた。

バッキー・デントといえば、
なんと言っても1978年であろう。
この年、ヤンクスとボソックスは同率首位で
レギュラーシーズンを終えた。
そこでワンデイ・プレーオフとなるわけだが、
コイントスの結果、試合はフェンウェイで行われる事になる。
同年、デントは打率.243、5本塁打、40打点に終わっており
相変わらず打撃では活躍を期待できない選手だったが、
この日は違った。
ヤズの本塁打などでボソックスがリードしていた7回、
デントはマイク・トーレスからグリーンモンスターを超える
会心の3ランホームランを放ちチームの勝利に多大なる貢献を果たす。
その後もデントの勢いは止まらず、
ドジャースとのワールドシリーズでは
6試合で打率.440、7打点と大爆発。
同じく大活躍だったレジー・ジャクソン(打率.391、2本塁打、8打点)を抑え、
見事シリーズMVPに輝く。
この年に限っては、Mr.オクトーバーはデントであった。

その後、デントはレンジャーズ、ロイヤルズとチームを変え、
84年に現役を引退。
古巣ヤンキースの監督を務めた事もあったが、
結果を残すに至らなかった。
通算1114安打、40本塁打、423打点、打率.247。

ヤンキースでは5年間にわたり、遊撃のポジションを守ったが、
デント以降、このポジションは選手が定着せず、
95年のデレク・ジーターの登場を待たなくてはならなかった。


file .252 Bobby DOERR【ボビー・ドーア】

2008-06-28 | DEF
【ベストフレンド】
Bobby DOERR

1935年、17歳でレッドソックスと契約を交わしたドーア。
マイナー時代からそのバット・コントロールと守備には定評があり、
若干19歳で37年にメジャーデビューを果たすと、
38年、145試合で打率.289、5本塁打、80打点、
無類の勝負強さを見せつけ、二塁手のレギュラーの座をつかんだ。

39年、打率.318、12本塁打、73打点。
同い年で、マイナー時代からの親友でもあるテッド・ウィリアムスも
この年にメジャーデビューを果たし、その天才ぶりを早くも発揮した。

40年、打率.291、22本塁打、105打点、
41年、打率.282、16本塁打、93打点.....と、
安定したクラッチヒッターぶりでチームの勝利に貢献したドーア。
42年から、6年連続でオールスタ-に出場するなど、
若きチームのスターとして台頭、
リーグを代表する二塁手にまで登り詰めた。

以降、メジャー実働14シーズンで
.290以上の打率6回、
100打点以上、6回をマーク。
46年には打率.271ながら、18本塁打、116打点で、
MVPレースでは3位に付ける大活躍。
敗れはしたものの、ワールドシリーズでも打率.409を打ち、
その勝負強さをフルに発揮。
自慢の二塁守備にも、ますます磨きがかかり、
チームメイトからの尊敬も厚かった。

48年、打率.285、27本塁打、111打点をマーク、
49年も109打点を叩きだすと、
50年、打率.294、27本塁打、120打点とキャリアハイの成績をおさめ、
30代に入っても、変わらぬ勝負強さを誇っていたドーアだったが、
51年、椎間板ヘルニアを煩い、この年限りで現役を引退。
最後のシーズンは、打率.289、13本塁打、73打点、
故障さえなければ、あと数年は元気にプレー出来たであろう。

引退後、テッド・ウィリアムスや、ドム・ディマジオ、ジョニー・ペスキーら、
チームメイト達と、変わらぬ友情を育み続け、
特に、テッドとは、お互い無類の釣り好きとあって、
多くの時間を共に過ごした。

テッドは、基本的には気の良い性格だったが、
気に食わない事があると、すぐカッとなり爆発する....
いわゆる『お子ちゃま』だった。
ドーアは、そんなテッドの相手を、現役時代、
一番多くつとめた男だったが、
そんな関係は引退後も続いたという.......。

通算1865試合、打率.288、223本塁打、1247打点。
1986年、ベテランズ委員会により野球殿堂入りを果たした。


file .251 Walt DROPO【ウォルト・ドローポ】

2008-06-14 | DEF
【1950】
Walt DROPO

NBA、NFLのチームからも契約の打診があったという、
スポーツの才能に恵まれたドローポは、
1947年、レッドソックスと契約を交わした。

49年に一塁手としてメジャーデビューを飾り、11試合に出場、
打率.146に終わったが、
翌50年、打率.322、34本塁打、144打点と大爆発。
ルーキーにしてオールスター出場を果たし、打点王に新人王も獲得。
チームメイトのテッド・ウィリアムスと並ぶ、主力打者として、
おおいに期待を抱かせる、ド派手な活躍ぶりを見せた。

が、51年、打率.239、11本塁打、
これまたド派手に成績を落とすと
52年、シーズン途中、タイガースへリリースされてしまった。
この年、新天地では、打率.279、23本塁打、70打点をマークし
元新人王の面目を保ったが、
53年は打率.248、13本塁打、96打点。
勝負強さは発揮したものの、
かつての栄光を考えると、地味と言わざるをえない成績に終わってしまう。

55年、ホワイトソックスへ移り、
打率.280、19本塁打、79打点をマークしたが、
その後はジリ貧。
レッズ、オリオールズとチームを変え、
61年、現役を引退した。

結局、30本塁打も100打点も
新人王を獲得した1950年しかクリア出来ず、
超一流選手にはなれなかったドローポだが、
12打席連続安打のメジャー記録保持者である。

通算1113安打、152本塁打、704打点。

file .248 Rollie FINGERS【ローリー・フィンガース】

2008-04-23 | DEF
【ひげ】
Rollie FINGERS

スライダーと速球を武器に持つ
メジャーリーグ史上、屈指のフォトジェニックな投手である。

フィンガースは、1968年、アスレチックスでメジャーデビューを果たす。
71年までは、先発、リリーフの両方で登板、
そこそこの結果は残したものの、ブレーク....とまでは行かなかった。

が、72年からリリーフに定着すると、結果が出始め、
この年、11勝21セーブ、防御率2.51、
守護神に定着し、チームをリーグ優勝に導くと、
レッズとのワールドシリーズでも6試合で1勝2セーブと活躍し
世界一に大きく貢献した。

その後も、
73年、7勝22セーブ、防御率1.92
74年、9勝18セーブ、防御率2.65...
キャット・フィッシュ・ハンターやヴァイダ・ブルーといった面々と共に、
安定した投球でチームを支え、
72年~74年のアスレチックス、3年連続の世界一に貢献。
74年は1勝2セーブで、ワールドシリーズMVPにも輝き、
黄金時代の立役者の一人として、おおいに、その力を発揮した。

75、76年も二桁勝利及び20セーブ以上をマークしたフィンガース、
77年、FAでパドレスへ移籍し
リーグが変わるも、そのピッチングに影響は見えず、
8勝35セーブの好成績。
78年も37セーブ、2年連続でリーグ最多セーブに輝き、
その地位を揺るぎないものにした。

81年、トレードで、
今度はブルワーズに移籍。
再び、アメリカンリーグでのプレーとなったが、
この年は、フィンガースにとって、
キャリア中、屈指のシーズンとなった。
6勝28セーブ、防御率1.04。
チームを地区優勝に導き、
サイ・ヤング賞とシーズンMVPのダブル受賞。
リリーフ投手としてはメジャー史上初の快挙である。

82年、29セーブ、防御率2.60。
83年は故障で棒に振ったが、
84年、華麗に復活、23セーブ、防御率1.96をマーク。
齢30台後半にして、翳りの見えない投球を見せていた
カイゼル髭のリリーバー、フィンガースであったが、
85年、17セーブをマークするも防御率5.04と成績を落とすと、
この年、38歳で現役を引退、
輝かしいキャリアにピリオドをうった。

通算114勝、341セーブ、防御率2.90

1992年に殿堂入りを果たしている。


file .247 Roy FACE【ロイ・フェイス】

2008-04-16 | DEF
【193SV】
Roy FACE

メジャーリーグの公式記録で、
タイトルの対象でもある『セーブ』。
この『セーブ』が制定されるに至るきっかけになった投手...と言われている。

フェイスは、1953年、パイレーツでメジャーデビューを果たした。
53~55年は先発とリリーフの掛け持ちであったが、
56年から、リリーフに専念(この年は3試合先発しているが)、
同年、68試合、12勝13敗、6セーブ、防御率3.52を記録する。

以降、必殺のフォークを武器に、
安定した投球内容でチームを支えたフェイスだったが、
59年は、リリーフ登板だけで18勝1敗、防御率2.70...と
とてつもない成績を残した。
MVP投票でも7位にランクされ、初のオールスターにも出場。
地味な役割であったリリーバーのフェイスの存在が、
一躍、クローズアップされる格好となり、
この事が、後の『セーブ』誕生に繋がるのである。

60年、10勝、24セーブ、防御率2.90と前年に引き続き好成績をマーク。
チームもリーグ優勝を果たし、
ビル・マゼロスキの優勝決定サヨナラ本塁打を生んだヤンキースとのワールドシリーズでも、3セーブ。
4試合に登板し、6失点と打たれはしたが、
先発のヴァーノン・ロー、ハービー・ハダックスと共に、
マントル、マリス、ベラ擁する強豪を相手に取り、
奇跡の優勝の立役者の一人として、
チームに大きな貢献を果たしたのであった。

その後も、
62年に28セーブするなど、
リーグ有数のリリーバーとして活躍を続けるが、
69年、3球団目のエクスポズを最後に
現役を引退した。

通算104勝、98敗、193セーブ、防御率3.48。

メジャーリーグが『セーブ』を正式な公式記録に認定したのは、
フェイスが現役を引退した1969年の事である。


file .237 Dennis EcKERSLEY 【デニス・エカーズリー】

2008-01-13 | DEF
【second wind】
Dennis EcKERSLEY

1972年、インディアンズと契約を交わしたエカーズリー。
75年、弱冠20歳でメジャーデビューを果たし、13勝、防御率2.60という好成績を残すも
新人王はフレッド・リンにさらわれてしまう。
エカーズリーはその後も76、77年と連続して2ケタ勝利をマークし
チームの主力投手として活躍、
さらに78年、トレードでレッドソックスへ移籍すると
この年20勝、防御率2.99と絶好調、
いきなりチームのエース格にのしあげる。
「この先、20勝なんていくらでも出来るさ」
若きエースは自身満々でそう嘯いた。

が、『驕る平家も久しからず』とはよく言ったもので、
79年も17勝をあげ、好調を維持したエカーズリーだが、
80年、12勝14敗、防御率4.28と不調に陥ると
81年は9勝、防御率4.27....と徐々に成績が下降線をたどるようになる。

なかなか上昇の気配を見せないエカーズリーは
83年、9勝、防御率5.61に終わると、
84年、シーズン途中でカブスへ放出されてしまう。
移籍後は10勝、防御率3.03と好投を見せたエカーズリー、
85年こそ、11勝、防御率3.08と頑張ったが、
86年、6勝11敗、防御率4.57の低迷ぶりで
87年、今度はアスレチックスへ放出。
「もう俺に売りなんて無いよ。どこへ行っても変わらないさ」
アル中の三流投手に成り下がったエカーズリーは、
望みを失っていた。

しかし、エカーズリーはまだ終わってはいなかった!
当時のアスレチックス監督、トニー・ラルーサと投手コーチのデイヴ・ダンカンの指示で
リリーバーとして起用されるようになり、さらに怪我で戦列を離れたジェイ・ハウエルに代わってクローザーに転向。
アスレチックスでの一年目は6勝、16セーブ、防御率3.03をマークする。
エカーズリーに二度目の風が吹いた。
88年、4勝、45セーブ(リーグ最多)、防御率2.35。
チームのリーグ優勝に貢献すると
89年、4勝、33セーブ、防御率1.56。
今度はワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たし、
チームの大黒柱的存在となる。
その後も、90年、4勝、48セーブ、防御率0.61(!!!).......91年、5勝、43セーブ、防御率2.96と快進撃。

「野球に感謝したい。こんなにも野球を愛せるようになるとは思わなかった」
既にアル中を克服し、抜群の制球力を発揮、
サイドスローからのスライダーもキレまくっているエカーズリーは
心からこう語った。

92年は最高の年となった。
7勝1敗51セーブ、防御率1.91......、
シーズン最多セーブ、MVP、サイ・ヤング賞の三冠を獲得、
6度目のオールスター出場も果たすなど、
押しも押されぬ球界を代表するクローザーへと登り詰めた。

93年からは、3年連続で防御率4点台.....と、
40歳近い年齢的な衰えもあってか、成績は下降していくが、
96年、ラルーサ監督を追ってカージナルスへ移籍すると、
30セーブ、防御率3.30とやや持ち直す。
97年も36セーブをマークするが、ここまでであった。
98年、43歳の老兵は古巣レッドソックスで現役を引退。

通算197勝、390セーブ、防御率3.50

2004年に野球殿堂入りを果たしている。

file .231 David CLYDE 【デビッド・クライド】

2007-11-29 | DEF
【phenom】
David CLYDE


デビッド・クライドは、
ヒューストンのウェストチェスター高校時代、
148イニングを投げ、自責点3、通算18勝0敗....という
驚異的な投球を見せ、全国的な大旋風を巻き起こした。

ファンやマスコミはクライドを『phenom(天才)』と呼び、
騒ぎ立て、新たなスター誕生に大きな期待を寄せた。

1973年、レンジャーズにドラフト1位指名されたクライド。
当時としては破格の125,000ドルの契約金が支払われ、
晴れてクライドは、プロ野球選手として
その一歩を踏み出した。

話題騒然の黄金ルーキーの登板は金になる....。
チームのオーナー、ボブ・ショートは、
プロ入りしたての18歳を、
即刻メジャーで投げさせる事を指示。

かくして、この年の6月、
デビッド・クライドは、ツインズ戦で
早くもプロ初先発。
5回を1安打8三振、2失点で切り抜け、
あのジム・カットに投げ勝ち、
『phenom』の名にふさわしい
鮮烈なメジャーデビューを飾る。

また、この日は、チーム創立以来最高の観客動員数を記録したという。

.......が、この早すぎるデビューがクライドに悪夢をもたらす事になる。
ろくな準備期間も無くメジャーで登板したクライドは、
その大きすぎる期待に充分に応える事は出来なかった。
デビューイヤーは防御率5.01、4勝8敗。
翌74年も防御率4.38、3勝9敗.....と
無惨な成績に終わったクライドは、
75~77年の3年間、利き腕の故障で、
たった1試合にしか登板出来なかった。

78年、インディアンズにトレード移籍。
防御率4.28、8勝11敗...とまずますの数字をマークするが、
翌79年は故障が再発し防御率5.91、3勝4敗。
その後も登板を果たす事は出来ず、
1981年、26歳の若さで現役を引退した。

通算18勝33敗、防御率4.63。

数年をかけて、マイナーでじっくりステップアップする事が出来ていれば........。

「初登板の時は、18歳の高校生に『開胸手術をしろ』...と言われた気分だったよ。」
後にクライドは語った。

file .230 Tony FERNANDEZ 【トニー・フェルナンデス】

2007-11-23 | DEF
【ドミニカが生んだ名手】
Tony FERNANDEZ

ドミニカ生まれのフェルナンデスは、
83年、ブルージェイズでメジャーデビュー。
着実に力を付け、85年に161試合に出場し
ショートのレギュラーの座を獲得する。

広い守備範囲と、美しくしなやかな動きで魅せる守備は絶品、
当時を代表する名手の一人として名を馳せ、
86年~89年まで、4年連続のゴールドグラブを受賞した。

86年、打率.310、10本塁打、65打点、25盗塁
87年、打率.322、5本塁打、67打点、32盗塁....と
打撃、走塁面でも非凡な才能を見せつけたフェルナンデスは
攻守に渡ってチームを牽引。
ブルージェイズを2度の地区優勝に導いた。

91年、ロベルト・アロマー、ジョー・カーター、フレッド・マグリフを含む
大型トレードでパドレスに移籍。

93年、メッツを経て、シーズン途中でブルージェイズに復帰、
古巣で打率.306、4本塁打、50打点、15盗塁と活躍。
チームのリーグ優勝に大きく貢献すると、
フィリーズとのワールドシリーズでも打率.333、9打点と大暴れ。
ブルージェイズを2度目の世界一に導く活躍を見せた。

以降は、毎年のようにチームを変え、
ヤンキースや、インディアンズで活躍。

98年に三たびブルージェイズに復帰すると
打率.321、9本塁打、72打点。
9年間到達していなかった打率3割をクリア。
99年も、打率.328、6本塁打、75打点.....と
巧打と勝負強さを見せつけた。

2000年、その巧打をかわれ、
日本のライオンズに入団。
打率.327、11本塁打、74打点と、
看板通りの打撃を披露した。

2001年、ブルワーズ、ブルージェイズの2球団で
打率.293をマークするも、この年限りで現役を引退。
背番号『1』は、ブルージェイズの永久欠番となった。

通算2276安打、92本塁打、844打点、246盗塁、打率288。

同年代に活躍したオジー・スミスの陰に隠れがちではあるが、
メジャー史にその名を残す、屈指の名遊撃手であった。

file .210 Curt FLOOD【カート・フラッド】

2007-08-26 | DEF
【Get up! Stand up!】
Curt FLOOD

カート・フラッド。
ベース・ボールファンの間では、
やはりメジャー・リーグにおける
FA制度導入のきっかけとなった人物...
という認識が強いであろう。

1969年、シーズンオフに
カージナルスからフィリーズへのトレードを通告されるも、これを拒否。
MLB機構に対し、『保留事項の撤廃』を求め、『独占禁止法違反』で訴えた。
1922年以来の、『MLBニハ独占禁止法ヲ適応セズ』という殻を
初めて破ろうと挑んだ選手がカート・フラッドである。

その鉄の意志で、70年のシーズンは
まるまる裁判に専念したフラッドであったが、
翌71年は、セネターズでプレーする事になる。

72年、最高裁はフラッド敗訴の判決を下す。
己の信念と誇りを賭けての、
フィールド外の戦いに全身全霊を傾けたフラッドは
その時既に現役を引退していた............。

フラッドは、1956年、レッズでメジャーデビュー。
18歳の若さであった。
58年にカージナルスへ移籍し、
センターのレギュラーの座をつかみ取った。
当初は打撃面で苦しむも、
61年、打率.322をマークし、ブレーク。
62年は打率.296、12本塁打、70打点と
勝負強さも発揮した。

63年に打率.302をマークすると
64年は打率.311、5本塁打、46打点、
ボブ・ギブソン、ルー・ブロックらと共に
チームのリーグ優勝に大きな貢献を果たし、
ワールドシリーズでもヤンキースを撃破。
カージナルスの世界一を牽引した。

打撃面においてもその安定した好打ぶりが光ったフラッドであったが、
真骨頂はむしろセンターの守備である。
63年から7年連続でゴールド・グラブを受賞し、
568守備機会無失策のリーグ記録を樹立した。

67年、キャリア・ハイの打率.335をマークし
再びチームの世界一に貢献したフラッドは、
68年も打率.301、5本塁打、60打点。
メジャー史に残る極端な投高打低シーズンでの打率.300の価値は
MVP投票4位という形で評価された。
ワールド・シリーズでは、タイガースとの死闘に破れはしたものの、
フラッドの『リーグを代表する中堅手』の座は揺らぐべくもなかった。

69年のトレード通告、70年の法廷での戦いを経て、
71年、セネターズでプレーしたフラッドは燃焼しきっていたのか、著しく精彩を欠き、
13試合に出場したのみで現役を退いた。

精神的に疲弊せざるを得なかった訴訟の影響が
フラッドの選手生命を絶った形になったが、
己の人生を賭けた戦いは無駄にはならなかった。
フラッドの闘争をきかっけに、問題意識を持った選手達は後を絶たず、
紆余曲折を経てメジャー・リーガー達は現在のFA制度を勝ち取ったのである。

通算打率.293、1861安打、7度のゴールド・グラブ受賞の名選手は
1997年、静かに息を引き取った。

ちなみに現在のFA制度、この規定は『カート・フラッド法』と命名されている。

file .198 Cecil FIELDER【セシル・フィルダー】

2007-05-19 | DEF
【Big Daddy】
Cecil FIELDER

1985年にメジャーデビューを果たしたフィルダー。
87年に14本塁打 32打点をマークするなど、
長距離砲としての片鱗を見せつつも、
出場機会には恵まれていなかった。

そんなフィルダーに転機が訪れたのは89年。
この年、日本のタイガースと契約、
四番打者として猛打をふるい、
9月に怪我で戦線離脱を余儀なくされるも、
106試合で打率.302 38本塁打 81打点の大活躍を見せた。

90年、デトロイト・タイガースと契約し
メジャー復帰を果たす事になったが、
日本で変化球に対応できる打撃技術を学んだフィルダーは
この年、打率.277 51本塁打 132打点で二冠王に輝く大爆発。
特に50本塁打以上の本塁打数は、
77年にジョージ・フォスターが記録した52本以来、
実に13年ぶりの快挙と相成った。

翌91年も打率.261 44本塁打 133打点で2年連続の二冠王。
92年124打点でリーグ1位に輝き、
メジャー復帰以降、3年連続の打点王獲得...と、
パワーと共に、勝負強い打撃も披露した。

96年、シーズン途中でヤンキースに移籍したフィルダーだが、
タイガースと2チーム合計で39本塁打 117打点をマーク。
ヤンキースのリーグ優勝に貢献し、
プレーオフ、ワールド・シリーズでも活躍を見せ、チームを世界一に導いた。

この後、98年まで現役を続け、
インディアンズを最後に引退。

通算319本塁打 1008打点 打率.255 盗塁2を記録した。

引退後は離婚や、ギャンブルによる破産、失踪など、
私生活は荒れ模様を見せ、
現在、ブルワーズで中軸を打つ息子プリンスとも
断絶状態が続いているという.........。

file.179 Carlton FISK【カールトン・フィスク】

2007-03-21 | DEF
【パッジ】
Carlton FISK

歴代1位となる、2226試合にわたって、捕手としてプレーした
メジャー史上、屈指の名捕手である。

67年、ドラフト1位でレッドソックスに入団、
72年、131試合に出場しレギュラーに定着する。
『打てる捕手』フィスクは、実質1年目のこの年、
打率.293、22本塁打と看板にたがわぬ打棒を見せつけ、新人王を獲得。
さらに、盗塁阻止率1位を記録するなど守備面での評価も高く
ゴールド・グラブ賞も受賞。
最高のスタートを切った。

2年目も26本塁打を放ち、相変わらずのパンチ力を見せたフィスクだが、
74年は怪我で52試合のみの出場。
75年も同じく怪我で79試合の出場にとどまるが
打率.331、10本塁打、52打点と、好成績を残し、リーグ優勝に貢献。
球史に残る熱戦となった、レッズとのワールドシリーズでは
第6戦の12回裏、永遠に語り継がれる劇的なサヨナラホームランを放つなど
大活躍するが、チームはレッズに惜敗、涙を飲んだ。

ちなみに、6戦のホームランを打った際、
レフト方向、ギリギリで飛ぶ打球を追いながら、
両手で『切れるな!!』とやったジェスチャーは、
負け試合でのシーンにも関わらず、
メジャー史でも有数の名シーンとして語り継がれ、
現在、フェンウェイの左翼ポールには
フィスクの名前が付けられている。

77年には打率.315、26本塁打、102打点をマークするなど、
攻・守にわたってチームを支えていたフィスク。
その捕手としての存在感は、ヤンキースのサーマン・マンソンから
ライバル視をムキ出しにされるほどであったが、
82年、フロントのミスもあり、ホワイト・ソックスへFA移籍。

新しい環境でもフィスクは攻・守に活躍を続け、
83年~85年は3年連続で20本塁打以上。
特に85年は打率こそ.238ながら37本塁打、107打点と
37才にして二部門でキャリアハイとなる好成績を残し、
健在ぶりを示した。

88年に40才を迎えたフィスクだが
打棒は衰えず、この年、打率.277、19本塁打、
89年も打率.293、13本塁打。
43才になった91年には18本塁打、74打点と
衰えを知らない打撃力を誇示、ホームベースを守り続けたが
チームのオーナーとの確執が悪化し、
93年、解雇されると、そのまま現役を引退した。

『パッジ(ずんぐりむっくり)』のニックネームは
息子が名付け親である。
レッド・ソックスで付けていた背番号『27』を
ホワイト・ソックスでは『72』に変えたが、
これは、新人王を獲得し、さらに前述の息子が誕生した
『1972年』にあやかったものである。

通算2356安打、376本塁打、1330打点。
2000年に殿堂入りを果たした。

file.170 Andre DAWSON【アンドレ・ドーソン】

2007-03-07 | DEF
【Hawk】
Andre DAWSON

アンドレ・ドーソンは、75年ドラフト1位指名でエクスポズに入団。
メジャーに定着した77年に
打率.282、19本塁打、21盗塁の成績を残し新人王を受賞。

ゲーリー・カーターと並ぶモントリオールの若きスター選手の誕生であった。

79年に25本塁打、92打点。
80年~82年は、3年連続で打率.300以上、盗塁25以上をマークし
安定した働きを見せたドーソン。
特に81年(※)は、打率.302、24本塁打、64打点、26盗塁と
絶好調の打撃でエクスポズを牽引、カーターや、ウォーレン・クロマティらと共に
チームの地区優勝に大きく貢献した。

83年、初の30本塁打、100打点以上をクリアし、
リーグ屈指のスラッガーに成長を遂げた....かに見えたドーソンだが
84年~86年にかけては膝の怪我の影響もあって失速。
年齢も30をむかえていたドーソンは、87年、FAでカブスへ移籍する。

新天地での1年目、ドーソンは、
打率.287、49本塁打、137打点と猛打が爆発。
本塁打・打点の二冠王を獲得し、さらにMVPも受賞、
最下位チームからの受賞....という快挙であった。
以降、86年~92年まで、6年連続20本塁打以上、
4度の90打点以上をマークし、
87年4月にはサイクル・ヒットを達成するなど、
順調な選手生活を送っていたドーソンだったが、
ボストンへ移籍した93年頃から、成績が降下。
40歳になったドーソンは、地元のマーリンズで2年間プレーし
96年現役を退いた。

ウィリー・メイズやバリー・ボンズら、
史上6人しか達成していない、300本塁打ー300盗塁を記録し、
ゴールド・グラブは8度受賞。
オールスターにも8度出場したナイス・ガイのドーソン、
輝かしい実績を誇りながら、殿堂入りは果たしていない。

最も過小評価を受けている名選手の筆頭クラスであろう。

※)81年はストライキの影響で試合数が削減されております。

file.167 Dwight EVANS【ドワイト・エヴァンス】

2007-03-01 | DEF
【dewey】
Dwight EVANS

カール・ヤストレムスキーに次ぐ、
レッド・ソックスでの2505試合出場を誇る名選手。

エヴァンスは、69年にレッド・ソックスに入団。
74年、133試合に出場し、打率.281、10本塁打の成績を残し
外野手のレギュラーの座を獲得する。
エヴァンスの売りは、何と言ってもその守備力であろう。
リーグ屈指の強肩の持ち主で、キャリア通算8度のゴールド・グラブに輝いている。
75年のワールド・シリーズでは、
第6戦にジョー・モーガンのホームラン級の当たりをスーパーキャッチ、
世界一は果たせなかったが、熱戦を盛り上げる一端を担った。

デビユー当初、打撃面では、あらゆるフォームを試すなど試行錯誤が続き、
いちいちパッとしない成績が続いたが、
78年、初の20本以上となる24本塁打を放ち、開眼、
長打力が身に付くと、81年には22本塁打で本塁打王を獲得。
89年まで、9年連続で20本塁打以上、3度30本塁打以上を放った。

84年、打率.295、32本塁打、104打点で初の100打点をクリア。
86年は、26本塁打、97打点でチームのリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでは、惜しくもメッツに敗れ去るも
エヴァンス自身はシリーズを通じて打率.308、2本塁打、9打点と
優勝さえしていれば、MVP級の大活躍を見せた。
87年は打率.305、34本塁打、123打点の好成績を残し、
MVP投票で4位にくい込んだ。

87年から、3年連続で100打点以上をたたき出すなど、
ジム・ライスやフレッド・リンとヤズ引退後のレッド・ソックス打線を支えるが、
90年限りでレッド・ソックスを退団。
91年はオリオールズに移籍するが、この年限りで現役を退いた。
通算2446安打、385本塁打。
選球眼の良さも大きな武器で、リーグ最多四球に3回輝いている。

テッド・ウィリアムスや、カール・ヤストレムスキーに比べると
いささか地味な印象はぬぐえないものの、
レッド・ソックス史に大きな足跡を残した名外野手である。

file.160 Willie DAVIS【ウィリー・デイヴィス】

2007-02-20 | DEF
【3-dog】
Willie DAVIS

1960年代を代表する快速選手。

デイヴィスは、1960年にドジャースでメジャーデビュー、
62年には、打率.282、21本塁打、32盗塁の好成績を残す。
チーム内では、モーリー・ウィルスに劣らないスピードを誇り、
主に3番打者として活躍。
ラインドライブヒッターのデイヴィスは、
ウィルスが塁上にいる時はポイントゲッターとして
走者無しの時はチャンスメーカーとして、
状況に応じた積極的な打撃を展開した。
さらに、スピードを活かした広い守備範囲も大きな武器で、
走・攻・守、全ての面でドジャースの『守りの野球』を支えた。

63年、デイヴィス自身は打率.245と低迷するも
チームはワールドシリーズを制覇し世界一に。
64年は打率.294、12本塁打、42盗塁と復調。
65年は調子を崩したデイヴィスだったが、ドジャースはリーグ優勝、
デイヴィスは、ワールドシリーズでも打率.238に終わるが
3盗塁を決め、チームの世界一に貢献した。
66年もチームをリーグ優勝に導くが、
ワールドシリーズではオリオールズの前に敗れ去った。

69年、打率.311、59打点、24盗塁、初の打率.300以上をマークすると、
71年まで3年連続で3割以上を打ち、打撃に安定感が出たデイヴィス。
70年には打率.305、8本塁打で93打点を叩き出し
勝負強さを発揮、以降74年まで5年連続で70打点以上をマークする。

サンディ・コーファックスらが現役を退いた後は
キャプテンとして精神面でもチームを牽引。
トミー・ラソーダ監督とは良好な関係を築けず、
74年、モントリオールにトレードされたデイヴィスだったが
打率.295、89打点の好成績を残し、新天地でも変わらぬ
勝負強さを見せつける。

結局、79年、6球団目のエンゼルスで現役を引退。
通算2561安打、398盗塁、ゴールドグラブ3度受賞。

77年、ドラゴンズ、78年クラウンズと、
2年間に渡って日本でも活躍。
特にドラゴンズ時代は、
狭い名古屋球場で、ジャイアンツの西本から
ランニングホームランを放ち、
そのパワーとスピードを大いに見せつけた。

殿堂入りは適わなかったが、
未だに熱狂的なファンが多い選手である。