【Herman take a hike!】
Masanori MURAKAMI
1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。
いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。
本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。
8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。
翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。
当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。
ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。
ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。
66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。
マッシー村上、真の『パイオニア』である。
Masanori MURAKAMI
1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。
いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。
本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。
8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。
翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。
当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。
ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。
ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。
66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。
マッシー村上、真の『パイオニア』である。