GUMBO

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file .282 Masanori MURAKAMI【村上雅則】

2009-05-24 | MNO
【Herman take a hike!】
Masanori MURAKAMI

1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。

いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。

本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。

8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。

翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。

当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。

ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。

ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
 Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。

66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。

マッシー村上、真の『パイオニア』である。

file .281 Lou PINIELLA【ルー・ピネラ】

2009-05-23 | PQR
【sweet lou】
Lou PINIELLA

1969年、ロイヤルズで本格的なキャリアをスタートさせたピネラ。
主にレフトを守り、打率.282、11本塁打、68打点で、新人王を獲得。
翌70年も打率.301、11本塁打、88打点を叩きだし、
チームの主力の一人として活躍した。
72年には打率.312、11本塁打、72打点をマーク、
初のオールスター出場も果たし、その名を大いに売った。

74年、30歳でヤンキースへトレード。
移籍一年目こそ、打率.305、9本塁打、70打点と安定した打撃を見せたが
75年、76年は、怪我の影響もあって不調をかこった。

77年、あのレジー・ジャクソンがヤンキースへ移って来た年。
ピネラは規定打席には足りないものの、打率.330、12本塁打、45打点と復調。
ドジャースとのワールドシリーズでも3打点をあげる活躍を見せ、
チームの世界一に貢献した。

その後も、78年に打率.314、6本塁打、69打点をマークするなど
勝負強い打撃で、レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン、ミッキー・リバースといった
アクの強い面々と並び、チームの勝利に貢献したピネラ。
結局84年までプレーし、ヤンキーズのユニホームで現役を引退した。

通算1705安打、102本塁打、766打点、打率.291。

現役時代のピネラは、熱血漢で激情家。
スウィート・ルーなるニックネームで呼ばれていた程のハンサム・ガイだったが、
チャンスで凡退などした時には、
興奮状態でベンチに戻り、バットでウォータークーラ、椅子、天井のライト........etc
手当たり次第に破壊しつくした。
ピネラがこの状態になると、さしものレジー・ジャクソンも武闘派ビリー・マーチンも
立ち向かう事は敵わず、及び腰になって逃げ回った。

また、スタンドから罵詈雑言をファンから浴びせられた際には
「打てないのはテメエの所為だ。テメエのワイフがしつこいから
 俺はいつもクタクタだ。あの女をベットから連れ出してくれさえすれば、俺の体力も復活するんだがな!!」
などとやり返したという。

現役引退後は、レッズやマリナーズの監督として采配をふるい、
しばしば、現役時代を彷彿とさせる、瞬間湯沸かし器ぶりを見せつけている。


file .280 Joe TORRE【ジョー・トーリ】

2009-05-16 | STU
【名選手/名監督】
Joe TORRE

1960年、19歳でフリーエージェントとして
ミルウォーキー・ブレーブスと契約を交わしたトーリ。

その年にはメジャーデビューを果たし
翌61年には正捕手としてレギュラーを獲得、
ハンク・ハーロン、エディ・マシューズといった錚々たる面々と共に
チームを支える一角を担った。

63年、打率.293、14本塁打、71打点をマークすると
64年には打率.321、20本塁打、109打点と打撃開眼。
65年は打率.291、27本塁打の猛打に加え、
ゴールドグラブも獲得するなど、
24歳にしてアーロン、マシューズに並ぶ、
チームの中心選手となった。

66年も打率.315、36本塁打、101打点...と好成績を残し、
63年~67年まで5年連続でオールスターに出場。
押しも押されぬリーグのトップ選手となったトーリだったが
69年、カージナルスへトレード入団すると、
同じポジションに名捕手ティム・マッカーバーがいた影響で
内野手にコンバート。
主に、一、三塁を守りながら、打棒でチームに貢献、
70年、打率.325、21本塁打、100打点、
71年には打率.363、24本塁打、137打点、
首位打者と打点王の二冠に加え、最多安打、シーズンMVPにも輝き、
最高のシーズンを送った。

75年からメッツでプレー、
77年にはシーズン途中からプレーイングマネージャーとなるも
この年限りで現役を退いた。

その後、
メッツ、ブレーブス、カージナルスで采配をふるったものの
さしたる結果を残せず、名監督と呼ばれるには程遠かったトーリだったが、
96年にヤンキースの監督に就任すると運命が変った。
ポール・オニール、ティノ・マルティネス、デビッド・コーン、
チャック・ノブロック、クレメンス、さらには
バーニー・ウィリアムス、デレク・ジーター、
ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラら、
チームの勝利に並々ならぬ執念を燃やすプロ集団を見事にまとめあげ、
12年間で地区優勝10度、リーグ優勝6度
ワールドシリーズ制覇を3年連続を含む4度、達成するなど
名将の名を欲しいままにした。

2008年からはドジャースを指揮、
08年はチームを地区優勝に導いている。

選手としては通算2342安打、252本塁打、1185打点、打率.297。
名監督として名高い人物であるが、
選手としても一流であった。