GUMBO

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file014 Juan MARICHAL 【ホアン・マリシャル】

2005-07-28 | MNO
【Manito】
Juan MARICHAL

1965年、シーズン終盤....
ジャイアンツとドジャースの対戦で、それは起こった。
1回、先発のマリシャルはドジャースの2番打者ロン・フェアリーに
デッド・ボールすれすれの球を投げた。
勿論、打ち取る為の配球である。
しかし、これが事の発端となる。
一方、ドジャースの先発サンディ・コーファックスもウィリー・メイズらに
挨拶変わりの内角球を投げ、一応のお返しをした。

3回、マリシャルが打席に立つ。
コーファックスの第2球を受けたキャッチャーのジョニー・ローズボロが
返球の際、マリシャルの頭をかすめるような球を投げた。
それは、短気なマリシャルを怒らせるのには充分な行為であった。
マリシャルがローズボロに詰め寄るとローズボロも負けじと押し返す。
マリシャルが握っていたバットがローズボロの頭部を襲った。
混乱...乱闘....。
血を流して倒れ込むローズボロ......
コーファックスは乱闘をなだめようと必死になり、
ウィリー・メイズはローズボロの血をふこうと
タオルを持って乱闘の中を右往左往する。
コーファックスはリズムが崩れ、
メイズに一発を喰らい敗戦投手になる.....。

マリシャル....通算243勝 防御率2.89。

60年にメジャーデビューし、
61年、13勝。 62年18勝と、成長を重ね、
63年に防御率2.41、25勝と大ブレークすると、
66年まで、4年連続で20勝以上の好成績をあげ、
リーグを代表するエースの座を獲得する。

以後も、68年に防御率2.43、26勝をマークするなど
61年~71年まで11年連続で10勝以上、
6度の20勝以上を記録し、
メイズやマッコビーらと共にジャイアンツを支えた。

が、前述の事件のネガティブな印象が問題になったのか、
マリシャルの殿堂入りはなかなか決まらなかったのだが、
ジョニー・ローズボロは
「あの事件がマリシャルの殿堂入りを妨げているのだとしたら、それは間違っている」
......とマリシャルの殿堂入りを後押しした。
晴れて殿堂入りが決まったマリシャルは
真っ先にローズボロに感謝の意を表明した。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=MARICHAL

file012 Eric DAVIS 【エリック・デイヴィス】

2005-07-20 | DEF
【メイズの再来】
Eric DAVIS

1980年、ドラフト8位でレッズに入団したエリック・デイヴィスは
走・攻・守が見事に兼ね備わったスーパースター候補であった。
いつしか『ウィリー・メイズの再来』などと騒がれる事になる。
86年、27本塁打 80盗塁というマルチな活躍でレギュラーを獲得する。
翌87年には37本塁打 100打点 50盗塁をマークし、
加えてゴールド・グラブ受賞と、『ウィリー・メイズの再来』が嘘ではない事を証明した。
同時期に活躍したダリル・ストロベリーと同じく、
細みの身体からしなやかなフォームで長打を放つ、
今ではあまり見られなくなったタイプのスラッガーであった。

90年、ルー・ピネラ率いるレッズは破竹の勢いでペナントを制し、
ワールドシリーズ優勝まで登り詰める。
デイヴィスもクリス・セイボー、バリー・ラーキンら同僚と共に
この優勝に貢献するが、同時にこの年はデイヴィスにとって悪夢の始まりでもあった。
シリーズ第4戦、果敢にダイビングキャッチを試みたデイヴィスだったが、
このプレーで腎臓を傷めてしまう。
以後、デイヴィスのプレーは精彩を欠き、成績も下降線をたどる。
91~94年の4年間で39本塁打しか打てず、
94年、デトロイトで34試合打率.183に終ると引退を決意する。

1年を挟み、96年、デイヴィスは古巣レッズで復活を遂げる。
26本塁打 83打点 23盗塁......。カムバック賞受賞。
...........しかし翌97年、今度は結腸ガンが発覚しシーズン途中でのリタイアを余儀無くされてしまう。
今度こそ終りかと誰もが思ったが、98年、またも復活、28本塁打を放つ。

通算打率.269、本塁打282という成績は『ウィリー・メイズの再来』にしては寂しいものであったが、
2度の大きな苦難を乗り越えたデイヴィスは堂々歴史に名を残す名外野手である。


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file011 Joe MORGAN 【ジョー・モーガン】

2005-07-17 | Big Red Machine
【Great Little Joe】
Joe MORGAN

1970年代前半、驚異的な強さで球界を席巻した
ビッグ・レッド・マシーンことシンシナティ・レッズ。
特に75年と76年、2年連続世界一に輝き、
その最強ぶりを発揮するのだが、
いずれの年もシーズンMVPは、身長168cmの、
リトル・ジョーことジョー・モーガンであった。

通算打率.271に対し、出塁率は.392。
決して巧打者ではないが、モーガンのモーガンたる所以はその抜群の選球眼、
通算四球数は1865、これは歴代5位の記録であり、
アーロンやメイズ、ミュージアルといった
大物スラッガーよりも上に位置している。
また、ひとたび塁に出れば、俊足を武器に塁上をかき回し、
689個の盗塁を稼いだ。
いわゆる、野球頭脳の優れたフォー・ザ・チームのプレーヤーであった。
加えて、76年の27本が示すように、意外な長打力も持ち合わせている。
ジョージ・フォスター、トニー・ペレス、
ジョニー・ベンチと強打者を揃えた当時のレッズだったが、
監督のスパーキー・アンダーソンは打線の核として、彼等を差し置き、
ジョー・モーガンに3番打者を任せたのである。

守備面においても、91試合連続無失策記録に
5度のゴールド・グラブ..........
歴代最高の二塁手と言えるだろう。

ヒューストン時代から、その俊足ぶりや守備は高い評価を得ていたが
モーガンの才能が爆発したのは72年にレッズに移籍してからである。
移籍一年目の72年、打率.292、16本塁打、73打点、58盗塁と
4部門、全てにおいて過去最高の成績を残し、才能を開花させると、
翌73年には26本塁打、82打点と、パワーと勝負強さも見せつけ、
さらに前年を大きく上回る67盗塁をマークする。
75年には.327の高打率に加え、94打点、67盗塁と、マルチな活躍でシーズンMVP、
76年も打率.320、27本塁打、111打点、60盗塁の大活躍で2年連続のシーズンMVPに輝いた、
また、この2年間のレッズは、連続してワールドシリーズを制覇し、その
強剛ぶりをおおいに発揮するのだが、モーガンは、
いずれのシリーズでも印象強い活躍を見せた。

特に75年、球史に残るレッド・ソックスとのワールド・シリーズ、
第6戦のカールトン・フィスクの劇的なサヨナラホームランがあまりにも有名だが、
モーガンは第3戦でサヨナラ安打....
第7戦でも最終回に世界一を決める決勝のタイムリー安打を放っている。

34歳になった78年以降、モーガンの打撃は翳りを見せ始める。
引退した84年まで、打率は.250付近を上下する程度、
盗塁も30を超える事は無かった。
が、堅実な守備と、チームプレーで勝利に貢献、

80年、アストロズに移籍すると、球団初の優勝に貢献し、
83年はフィリーズの優勝に大きな役割を果たした。

結局40歳になるまで現役を続け、90年に堂々の野球殿堂入りを果たした。

63年、メジャーデビューを果たしたコルト45sでは、先発メンバー全員ルーキーという珍事が起こったが、
メンバーの中に、ラスティ・スタウブやジミー・ウィンと並んで、モーガンもその名を連ねていた。

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file010 Paul O'NEILL 【ポール・オニール】

2005-07-16 | MNO
【Jethro】
Paul O'NEILL

1978年から95年の長きに渡ってヤンキースは
プレーオフにも出場できない氷河期を迎えた。
しかし、監督にジョー・トーレを迎えた
1996年からヤンキースは復活をとげる、
その名将トーレにとって一番頼もしかった選手こそ、
ジェスロことポール・オニールかもしれない。

オニールは1985年レッズでデビュー、
レッズ時代は打率.250~.270代を打つ平凡な中距離ヒッターであった。
ところが93年にヤンキースへ移籍すると突如アベレージヒッターへ変貌する。
移籍一年目の93年、打率.311、20本塁打をマークすると
94年には、.359のハイアベレージに21本塁打、83打点の好成績、
この年、首位打者を獲得し、MVP投票でも5位にランクされる。
95年22本塁打、96打点をマークすると、
97年に打率.324、24本塁打、116打点でキャリア最高の成績をあげる。
以降、2000年まで4年連続で100打点以上をマークし
チーム随一の勝負強さを見せつけた。
結局、ヤンキースはオニールが在籍していた9年間で
7度の地区優勝、5度のリーグ優勝、
3連覇を含む4度の世界一に輝いた。

バーニー・ウィリアムスとの右中間も鉄壁の守備を誇り、
攻・守にわたり、チームを牽引した、
タフで熱い男、ポール・オニールは
この時期の強いヤンキースのまさにリーダーであった。

2001年オニールは引退を決意するが、
それはダイアモンド・バックスとのワールドシリーズ第5戦で起こった。
9回の表、スタンドから突然のオニール・コールが巻き起こったのだ。
スタジアムを覆い尽くす『オニール!!』の絶叫。
その日は2001年のヤンキースタジアムの最終戦でもあった。

ホルヘ・ポサダは言った....
「ティノ・マルティネスとポール・オニールは私たちに
 大切なことを教えてくれた。彼らはまるで炎のようだった。
 勝つためなら何でもやった。言葉はいらなかった。
 プレーを通じて、王者とは何かをチーム全員に教えてくれたんだ」

file009 Mitch WILLIAMS 【ミッチ・ウィリアムス】

2005-07-15 | VWX
【Wild Thing】
Mitch WILLIAMS

メジャーリーグで“ワイルド・シング”といえば、
野球ファンならおなじみ、インディアンズの
リッキー・ボーンであろう。
もちろん、 リッキー・ボーンは実在の選手ではない、
映画「メジャーリーグ」の主人公の一人の名前である。
が、“ワイルド・シング”と呼ばれたピッチャーは存在した。
フィリーズ他に在籍したミッチ・ウィリアムスである。

86年レンジャーズでデビュー、
2年連続で80試合以上に登板、8勝づつをあげる。
89年にはカブスへ移籍。
この年、4勝、36セーブ、防御率2.76で
サイ・ヤング賞で9位につける程の活躍を見せた。

91年にフィリーズへ移籍、
12勝、30セーブ、防御率2.34の好成績を残し、
サイ・ヤング賞投票では6位。
リーグを代表するストッパーの地位を確立した。

投げた後倒れてしまうほどの
激しい投球フォームから豪速球をくりだし、
そのワイルドなピッチングにファンは
映画「メジャーリーグ」の
リッキー・ボーンの姿を重ね合わせた。
いつしかウィリアムスはワイルド・シングと呼ばれる程の
人気選手になっていた。

しかし、黄昏時は意外と早くやってきた。

93年ウィリアムスは43セーブをあげ、
フィリーズの地区優勝に大きく貢献。
プレイオフでも2勝2セーブと大車輪の活躍を見せ、
チームをリーグ優勝に導いた。
しかし、ウィリアムスのスタミナは
ブルージェイズとのワールド・シリーズまではもたなかったのか、
第4戦で3点差を守れず、
第6戦ではジョー・カーターに痛恨の優勝決定サヨナラ弾を浴びるなど、
一転、戦犯扱いになってしまう。

ショックから立ち直れない上に、
自宅に届くフィリーズファンからの脅迫状や
脅迫電話にすっかり参ったウィリアムス。
追われるようにフィリーズを出ていくが、
以降は全く冴えない投手に成り下がってしまう。
95年に引退、97年に復活をかけ現役復帰するも最悪の成績で結局引退。
94年から97年にかけて記録したセーブはわずか6セーブにとどまった。

file008 Tommie AGEE 【トミー・エイジー】

2005-07-13 | 1969/Miracle Mets
【The Catch 1969】
Tommie AGEE

ザ・キャッチ...といえば
大選手ウィリー・メイズの代名詞だが、
同じニューヨークのチーム、
メッツの同じセンターのポジションで、
さらに同じワールドシリーズの場面で、
ザ・キャッチに劣らぬファインプレーを演じた選手がいる...。

トミー・エイジー

通算安打は999本 本塁打は130本 打率は.250...
成績は一流に程遠いが、MLBで始めてナ・リーグ ア・リーグの
両リーグでゴールドグラブを受賞した選手である。

62年インディアンズでデビューしたエイジーは、
66年、ホワイト・ソックスで
打率.273、22本塁打、86打点をマークし新人王を獲得。
その後、68年にメッツに移籍するも67~68年の間は低迷。
1969年、打率.271、26本塁打の成績を残し復活
ミラクル・メッツの一翼を担った。

久々の好成績と、チームの奇蹟的なリーグ優勝にノったエイジーは
ワールドシリーズの第3戦で魅せた。
7回、若きノーラン・ライアンが招いたピンチ、2アウト満塁。
オリオールズのポール・ブレアが放った
センター右に飛んだヒット性の当りを好捕、
同じ試合で、ランナー2人をおいた状況で
左方向へ飛んだ打球も好捕しており
2度にわたり味方の大ピンチを救った。
エイジーはこの試合、ホームランも放つ大活躍で勝利に貢献し、
結局、メッツはワールドシリーズ初優勝を果たす。

殿堂入りするような選手ではない。
成績だけ見れば2流の選手かもしれない。
だが、エイジーが見せたこの試合のプレーは永遠の輝きを放っている。
http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=110084
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file007 Dave PARKER 【デイブ・パーカー】

2005-07-12 | PQR
【クレメンテの後継者】
Dave PARKER

73年に、パイレーツで颯爽とデビューしたパーカー。
巧長打に優れ、スピードもあり、おまけに強肩。
2年連続の首位打者や、強肩を見せつけ
MVPを獲得したオールスター出場など、
スーパースター・パーカーの70年代は華々しいものであった。
奇しくもピッツバーグは、72年末に
至宝ロベルト・クレメンテを失っていたので
ファンのパーカーに対する期待は過度に膨らんでいく...。
75年、打率.308、25本塁打、101打点の活躍で
外野のレギュラーの座を獲得したパーカーは、
勝負強い打者として安定した働きを見せた。
79年まで5年連続の打率.300以上、
77年に.338の高打率をマークすると
翌78年も.334の高打率に加え30本塁打、117打点
パーカー時代の到来を感じさせた。

80年に入ると膝の故障もあってか、長期にわたるスランプに陥る。
80年から84年まで5年間、打率.300に到達せず、
長打力にも翳りを見せた。
故障自体は、うまくいけば1~2年で治ったかもしれない。
しかしスランプのパーカーを悩ませたのは
実はファンのブーイングや脅迫であった。
球場で射殺する....などという脅しもあり、
そのため球場には警備体制がひかれた。
パーカーの集中力は持続せず、
そのスターとしての地位は完全に失墜した。

失意のパーカーを救ったのは環境の変化であった。
84年にレッズへ移籍すると打棒が復活、
移籍一年目に94打点をあげる活躍を見せ、復活の狼煙を上げると
85年には打率.312、34本塁打、125打点と大爆発、打点王に輝いた。
その後、アスレチックス、ブリュワーズ、
エンゼルス、ブルージェイズと渡り歩き、
84年から、91年までの11年間で打点90以上を6度マークするなど
クラッチ・ヒッターぶりは変わらず、91年、40歳で現役引退したが
ピッツバーグへ戻る事はなかった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=120225

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file006 Tug McGRAW 【タグ・マグロー】

2005-07-09 | 1969/Miracle Mets
【You gotta Believe】
Tug McGRAW

スクリューボールを武器に、
2度にわたり、チームの世界一に貢献した、名リリーバー。
ユーモアあふれる発言で、
ファンや他チームの選手からも愛された選手だった。

65年、メッツでメジャーデビューを果たしたマグロー。
数年の間、伸び悩んだが、
69年、防御率2.24、9勝、12セーブとブレーク。
『ミラクル・メッツ』の一員として、
チームの世界一に大きく貢献。

71年には防御率1.70、11勝、
72年は、8勝、27セーブと、
リーグを代表するリリーバーにの昇りつめた。

73年、チームも自身も不振にあえいでいたが、
自らが生み出した You gotta Believe ~信じることさ!!~ を合言葉に
シーズン最後の追い込み1ヶ月で4勝11セーブを荒稼ぎし、
メッツをリーグ優勝に導いた。

75年からはフィリーズに移籍。
80年には防御率1.46、5勝、20セーブで、
チームを世界一に導くなど、活躍。
フィリーズの5度の地区優勝に貢献した。

明るい人気者のマグローだが、私生活ではそういった華々しい活躍とは裏腹な面もあった。

マイナー時代の夏、恋におちた少女との間に生まれた男の子...。
結局、その少女とは結婚にいたらず、マグローはマイナスイメージになる事を恐れ
生まれた息子のことも15年以上無視し続けた....。

やがて自分にそっくりになった息子を見て、父と子の関係を築こうとする......。

息子、ティム・マグローはアメリカで人気カントリー歌手として大成功をおさめる。
結局タグを「父さん」とよぶ事はなかったという.....。

2004年タグ・マグローは脳腫瘍で、59歳の生涯を閉じることになるが、
離婚を重ねたためにほとんど無一文だったタグ、彼の約一年間の闘病生活を金銭面で支えたのは
一度も父を父と呼ばなかった息子ティム・マグローであった。

通算96勝、180セーブ、防御率は3.14。

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file005 Wade BOGGS 【ウェイド・ボッグス】

2005-07-09 | ABC
【チキン・マン】
Wade BOGGS

芸術的なバッティングセンスを誇る
80~90年代を代表する安打製造機だが、
完璧主義者で、気難し屋。
そしてかなりの迷信家.....。
試合前は必ずチキンとチーズケーキを口にし、
150球の守備練習をこなす。決まった時間に打撃練習を行い、
試合中、打席に入る際は必ずバットで“chai”と地面に書いた。
(これはヘブライ語で“命”という意味)
試合が終ると、今度は必ず
ホットドッグ/ポテトチップス/アイスティーを食した。

76年にレッド・ソックスに入団、
メジャー定着までは6年を要し、
82年、24才で、ようやくデビューするが、
デビュー一年目から才能を開花させ、
104試合の出場で、打率.349の高打率を残し、
早くも安打製造機の片鱗をのぞかせる。

1983年に打率.361、74打点で初の首位打者に輝くと
85年、.368、8本塁打、71打点
86年、.357、8本塁打、78打点
87年、.363、24本塁打、89打点
88年、.366、5本塁打、58打点
....と、高打率で4年連続の首位打者を獲得、
83年から89年までは7年連続で200本安打以上を記録した。
また、ボッグスは選球眼も素晴らしく、
86年から89年の間は、4年連続で100四球以上を選び、
パワーヒッターではないにも関わらず、
通算で、6度の最高出塁率に輝いている。

通算本塁打は118本と、多くはないが、
87年、キャリア唯一の本塁打20本以上となる
24本をマーク、『打とうと思えば打てる』事を示した。

92年、打率.259で、デビュー以来初めての打率2割台と不調に陥り、
93年にはレッド・ソックスからヤンキースへ移籍、
打率.302をマークし、やや復調。
94年には、打率.342、11本塁打、55打点で完全復活を遂げた
96年には、打率.311、2本塁打、41打点でヤンキースをリーグ優勝に導き、
ワールド・シリーズでは打率.273を打ち、チームの勝利に貢献
念願の世界一の美酒に酔いしれた。

97年、打率.292に終わり、翌年、地元のデビルレイズへ移籍、
99年には3000本安打をホームランで達成し、
ベースを回る途中、86年に交通事故でこの世を去った天国の母へ
キッスのプレゼントを送った。

99年、デビルレイズでその現役生活を終えた。

あまり語られないが
ボッグスは97年と99年に1試合づつ
ピッチャーとして試合に出場している。
2試合で1失点、2三振、防御率3.86という
『悪くない』数字を残している。

file004 Jim PIERSALL 【ジム・ピアソール】

2005-07-08 | PQR
【栄光の旅路】
Jim PIERSALL

外野守備の達人として語られる事の多い名手・ピアソールだが
その現役生活は決して順風満帆であったわけではない。
父親に無理矢理野球をやらされていたというピアソールは、
その極度の期待が重圧になったのか、
一種の神経衰弱に陥ってしまう。

試合中、「誰かが俺を殺そうとしている」と守備位置からベンチに戻ってしまう。
バックネットによじ上り、ファンに向かってわめく。
興奮してグランドに降りてきたファンに対して
「お前はナイフを持っているだろう」と殴りつける......etc

結局52年のシーズン途中、6週間にわたり、
精神病院で、電気ショック療法を受ける事になるのだが、
彼が名外野手として名を馳せるのはこの入院以降の事である。

53年、復活すると、打率.272、3本塁打、52打点。
守備での働きが認められたのか、
MVP投票では9位にランクされた。

通算で1604安打、591打点、打率.272。
57年には19本塁打、63打点、
60年は18本塁打、66打点をマークするなど
意外なパンチ力も秘めており、
決して、守備だけの選手では無かった。

61年には打率.322と高打率もマークしている。

ゴールド・グラブ2度獲得、
オールスターにも2度出場している。


※以上の事柄はジミー・ピアソール原作の映画「栄光の旅路」で詳しく描かれている。

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file003 Mark FIDRYCH 【マーク・フィドリッチ】

2005-07-07 | DEF
【The Bird】
Mark FIDRYCH

1976年、デトロイトに
一人のスーパースターが誕生した。
21歳のルーキーピッチャー、
マーク・フィドリッチである。
その風貌がセサミ・ストリートの人気者、
ビッグ・バードに似ている事から
彼はザ・バードのニックネームで呼ばれる事になる。
また、ボールに話しかけたり
味方の好守にオーバーアクションで喜び握手を求めたり、
ベンチで大騒ぎしたり....。
素朴で親近感のわくキャラクターがファンに愛された。
フィドリッチの登板日、スタジアムは必ず満員になり
ファンは「We want Mark ! 」と、スタンドから大声援を送った。

その投球も凄かった......。
5月に初先発し、いきなりの2安打ピッチングで勝利すると、
オールスターにも出場し、先発投手をつとめた。
結局、8連勝を含む19勝、防御率2.34、完投24、完封4という
新人離れした成績で新人王に輝く。

..............その後、故障のため4年間で10勝しかできず
通算29勝で若くして現役を退くことになるが
デトロイトのファンはザ・バードを忘れる事はないだろう。

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file002 Tim McCARVER【ティム・マッカーバー】

2005-07-06 | MNO
【墓と墓の距離は??】
Tim McCARVER

329勝、4136奪三振の
偉大なる左腕スティーブ・カールトンは
親友のマッカーバーとこんな約束を取り交わした。
「2人の墓はバッテリー間の距離(18.44m)に離して隣りに建てよう」

69年のスプリングキャンプ、
カールトンは捕手マッカーバーとともに
『新球スライダー』に磨きをかける。
以後カールトンは大投手の道をあゆむことになる。

マッカーバーの21年のキャリアのうち、
14年はカールトンと同じチームでプレーしている。
特に75-80年のフィリーズ時代には必ず
カールトンの登板試合でマスクを被ったそうだ。

1959年、カージナルスでデビューしたマッカーバーは、
63年に127試合に出場し打率.289、4本塁打、51打点、
正捕手の座を獲得する。
64年は打率.288、9本塁打、52打点をマークし、
ワールドシリーズでも7試合で打率.478と活躍。
チームの世界一に大きく貢献した。

ゆっくりと時間をかけ、
ボブ・ギブソンからも
絶大な信頼を得るに至ったマッカーバーは、
67年、打率.295、14本塁打、69打点の好成績、
攻・守共にチームの勝利に大きく貢献し、
MVP投票では2位につける大活躍。
再びカージナルスの世界一に貢献した。

70年、フィリーズへ移籍。
新天地では、前述の通り、スティーブ・カールトンとの
名コンビを結成。
幾多の名勝負を演出してみせた。

80年、引退。
通算1501安打、645打点。

引退後は、キャスターとして活躍した。

file001 Mario MENDOZA 【マリオ・メンドーサ】

2005-07-06 | MNO
【メンドーサ・ライン】
Mario MENDOZA


カンザスシティの英雄ジョージ・ブレットは、とある取材でこう言ったそうだ。
「オレの日課は、誰がメンドーサより打率が低いかチェックする事さ」
これがキッカケで誕生したのがメンドーサ・ライン、アメリカの野球選手やファンには
広く浸透している単語だそうだ。
すなわち.......
シーズン打率.198 生涯打率.215
これを下回ると、マリオ・メンドーサよりも打撃の弱いダメな打者...というわけだ。
ちなみに.198はメンドーサが1979年に残したシーズン打率、
そしていうまでもなく.215は彼の通算打率。

当時、新球団マリナーズは、現在の楽天イーグルスのような戦力不足のチームだった。
ゆえに打撃が弱くても、メンドーサはその守備力によって
レギュラー・ショートでいられたわけである。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=118945

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