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file.049 Roberto CLEMENTE 02 【ロベルト・クレメンテ】

2005-12-31 | roberto clemente
【マイノリティ】
Roberto CLEMENTE

今日、12月31日はロベルト・クレメンテの命日でもある。
数々の栄光を経て、3000本安打を達成しながら、
悲劇的な最後に終わったクレメンテの生涯。
その人生は、マイノリティゆえの差別との戦いの日々でもあった。

ジャッキー・ロビンソンがドジャースでデビューして以降、
数々の黒人/ラテン系選手がメジャーリーグの舞台で活躍していたが
彼等に対する差別は決して無くなったわけでは無かった。
事実、代表的な例をあげれば、
ハンク・アーロンが1973年に
ベーブ・ルースの本塁打記録を抜いた時も
ジャッキー・ロビンソンが受けたものと同等の
幾多の脅迫や罵声を白人層から受けているのだ。

クレメンテ自身、ピート・ローズと首位打者争いを繰り広げた69年、
一ヶ月近く前に打ったヒットを公式記録員に取り消された事もあった。

先日購入した、とあるメジャーリーグの雑誌に
『クレメンテ賞の光と影』なる見開きの記事が掲載されていた。
社会福祉活動を認められた『ロベルト・クレメンテ賞』受賞者の、
表の顔と異なる裏の顔を紹介した内容であったが、
カル・リプケンjrやトニー・グウィンといった顔ぶれの中に
クレメンテ自身の『裏の顔』も掲載されていた。

要約すると....
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人種差別からくる白人記者との確執が絶えなかったクレメンテは
乱暴な言葉のやりとりも時にはあった。
71年にワールド・シリーズMVPに輝いた時も報道陣に
人種差別に対する不満をブチまけていた――――。
という内容である。
そして記事はこう結んでいる
「クレメンテといえど天使ではなかった」
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有名人であるクレメンテが末端の黒人スポーツ選手や、
発言力を持たない市井のマイノリテイを代表して
新聞記事などを通し、自分達の権利を主張して何の問題があろうか。

差別や迫害を受けていたとしても、
感情を押し殺し、ニコニコしていれば、天使のような人間――――
ということになるのだろうか??

65年、マルコムXが殺され、
68年にはマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されている。
クレメンテが記者に不満をブチまけた71年、
マイノリティの立場が、いかような物だったか 想像にかたくない筈だ。

人種差別はデリケートな問題である。
歴史的背景に対する認識不足の、こじつけのような内容の記事を
楽しむ事はできなかった。

72年12月31日に帰らぬ人となったロベルト・クレメンテ、
彼は福祉に殉じた人間......それだけではない。
我々と同じ笑う事もあれば怒る事もある普通の男だったのだ。
ただ、ひとつ違うのは、野球がべらぼうに上手かったという事だ。

file.048 Pee Wee REESE 【ピー・ウィー・リース】

2005-12-30 | 2013年映画『42』
【生涯の友】
Pee Wee REESE

40年代~50年代のブルックリン・ドジャース黄金期において、
名遊撃手として、チームのキャプテンとして、
絶大な人気と影響力を持っていた選手である。

40年にメジャーデビューを果たしたリースは
41年に152試合に出場し、
ドジャースの遊撃手のポジションを手にした。

43年~45年は兵役でチームを離れるが、
46年に復帰、打率.284、5本塁打、15盗塁をマークした。
47年には、打撃にパンチ力が付き、
打率.284、12本塁打、73打点と、
この年に入団したジャッキー・ロビンソンから
刺激を得たかのようなブレークぶりを見せた。
49年には、打率.279、16本塁打、73打点、
51年には、打率.286、10本塁打、84打点.....と
勝負強いクラッチヒットと堅実な守備でチームを支え、
41年~53年の間、5度のリーグ優勝に貢献したが、
ワールド・シリーズでは、いずれもヤンキースに敗れる...という
屈辱を味わった。

55年、リースは、36才のベテランになっていたが
打率.282、10本塁打、61打点でチームのリーグ優勝に貢献、
ワールド・シリーズでは、打率.296、2打点をマーク、
ドジャース念願の、ヤンキースを破っての世界一に大きな役割を果たした。

オールスターに出場すること10回、
盗塁王と得点王を一度ずつ獲得している。
通算安打数や通算打率など、特に突出した数字を残したわけではないが、
チームの勝利に貢献した印象度が高かったのか、84年に堂々の殿堂入りを
果たしている。

1947年、ニグロ・リーグから
ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグ入りを果たす。
ジャッキーは他球団の選手・監督のみならず、
同僚からも嫌がらせや反発を受けた。
ジャッキーのポジションは遊撃手、下手をすると
黒人選手に定位置を奪われるかもしれないリースは
当然ジャッキーの入団に反発するものと思われた。
しかし、リースは
「彼が自分よりも才能がある選手なのだったら仕方が無いね。
チャンスは誰にでも平等にあるものだよ」
と平然と言ってのけた。
ジャッキー入団後も、リースは彼をかばい続け、助けた。
アトランタで行われたある試合、
敵軍ベンチやスタンドから容赦ない罵声がジャッキーに浴びせられる。
ジャッキーはファーストの守備位置でジっと耐えていた。
すると、リースがスタスタとジャッキーに歩み寄り、
腕をジャッキーの肩に回し、たわいのない話を始めた。
その時の会話の内容は、ジャッキー自身も覚えてないような、
本当にたわいのない話だったのだが、
その行為には大きな意味があった。
リースは観客や相手チームのベンチに
「こいつは俺の仲間なんだ」と
アピールしたのだ。
罵声は一瞬のうちに消えた――――――――。

ジャッキーはこの時、リースを生涯の親友と決め、
二人の友情は生涯変わらなかった。

ジャッキー・ロビンソンは、1972年のオールスターゲームの記念スピーチで
「個人的な話で恐縮ですが....」と前置きし、
会場にいたリースに感謝の念を述べたのだった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121010

file.047 Don MATTINGLY 【ドン・マッティングリー】

2005-12-29 | MNO
【キャプテン】
Don MATTINGLY

巷での殿堂入りを...との声は高いものの、
現実的に難しいといえる選手のひとりが
ドン・マッティングリーである。
2153安打を放ち、オールスターに出場すること6度、
首位打者、打点王、最多安打、MVPにゴールド・グラブ9度、
一見、申し分の無い実績に思えるが、
マッティングリーには背中の故障という不運があった。
この故障が無ければ、一発で殿堂入りが可能な実績が残せたに違い無い。

83年、ヤンキースでメジャーデビューを果たしたマッティングリー、
84年に、同僚であるデイヴ・ウィンフィールドと
シーズン最終戦まで争い、打率.343で首位打者を獲得した後、
85年、打率.324、35本塁打、145打点で打点王とシーズンMVP
86年には打率.352、31本塁打、113打点に加え
238安打を積み重ね、最多安打を獲得。
87年には8試合連続ホームランを記録し
打率.327、30本塁打、115打点の大活躍、
この4年間のマッティングリーはスーパースターに相応しい
八面六臂の大活躍を見せる。

パワーと技をあわせ持った打撃に加え、高い守備力。
柔らかいグラブさばきと優れた状況判断力を誇り
ファーストの守備では、歴代No.1といわれるキース・ヘルナンデス
より上、という声も聞かれるほどだ。
左利きでありながら、セカンドやサードも守らされた事が
その守備力の高さを物語っている。
セカンドでは守備機会は無かったものの、サードでは、
3試合で13回の守備機会があった。

90年代に入り、背中を傷めてから、マッティングリーの成績は
下降線をたどる事になる。
結果的にマッティングリーの殿堂入りを阻んでいるのは、
この90年代の成績とワールド・シリーズ出場経験無しという事実だ。

が、ヤンキースはマッティングリーの攻守にわたる活躍と
80年代のチームを牽引した『チームの顔』そして
『キャプテン』としての役割を評価して彼の背番号23を永久欠番にした。
ルースやゲーリック、ディマジオ、マントル等と肩を並べた事になる。

ルーキーの時分のバーニー・ウィリアムスはチームメイトから
嫌がらせを受ける事がしばしばあったそうだが、その都度
バーニーをかばったのが『キャプテン』マッティングリーであったという。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=118443

file.046 Bruce SUTTER 【ブルース・スーター】

2005-12-28 | STU
【元祖SFF】
Bruce SUTTER

【元祖SFF】
Bruce SUTTER

スーターは、71年にドラフト外でカブスに入団、
スプリット・フィンガー・ファーストボールを武器に
76年、防御率2.70、10セーブをマークし
メジャーのキャリアをスタートさせた。
77年、防御率1.34、31セーブと好成績を残すと
79年には防御率2.22、37セーブ、
サイ・ヤング賞を獲得する。

81年からはカージナルスで活躍。
82年には、防御率2.90、36セーブで
チームのリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでも1勝、2セーブで世界一に貢献。
キャリア最高の年となった。

84年は、防御率1.54に加え、
キャリアハイの45セーブをあげるなど、
安定した投球を続け、
通算で、防御率2.83、68勝、300セーブを記録。
88年に現役を引退した。

リリーバーの殿堂入りが難しいとされる理由のひとつに
登板イニング数の少なさが挙げられるが、
スーターは100イニング以上を5度も記録している。
また、投手の分業制が完全に確率された今、
ゲームを作るセット・アッパーやリリーバーの地位を
より向上させるためにも、スーターのような選手の
殿堂入りは重要な意味を持つと思われる。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=SUTTER

file.045 Tommy JOHN 【トミー・ジョン】

2005-12-24 | JKL
【バイオニック・トミー】
Tommy JOHN

フランク・ジョーブ博士..........、
日本では村田兆治、桑田真澄、荒木大輔らの治療で
有名な医師だが、『トミー・ジョン手術』という名は
意外と知られていない。
ジョーブ博士が開発したジン帯の移植手術.....
始めての患者がトミー・ジョンである。

63年にインディアンズでデビューしたものの、
ブレイクしたのは65年に
ホワイト・ソックスに移籍してからであった、
シンカーを武器に65年から2年連続で14勝をマークすると、
7年間で82勝をあげ、
72年、ドジャースへ移籍する。
その後も74年には、それまでの
キャリア・ハイとなる16勝をマークするなど
安定した活躍を見せていた。

が、7月までに13勝を稼ぎ
絶頂期にあったハズのジョンをアクシデントが襲う。
利き腕である左腕のジン帯が切断されてしまったのだ。
再起不能が囁かれる中、彼を救ったのがフランク・ジョーブ博士であった。
手術は成功、1年半の必死のリハビリを経て、
76年10勝をマークし、カムバック賞を受賞した。
77年、20勝、
78年、17勝、
79年、21勝、
80年、21勝.....と手術前よりパワーアップした感のあるジョンは
結局46才まで投げ続け、手術後だけで、164勝を稼いだ。

不屈の精神で再起不能とまで言われた怪我を克服し、
通算288勝をあげたトミー・ジョン、
手術の事ばかりがクローズアップされるが、
シソックスに在籍した65年から
ヤンキースで投げていた83年まで
不調に終わった69年、81年と
リハビリに費やした75年を除けば
実に19年で16度の10勝以上をマークした
安定感のある名投手である。
その彼が、殿堂入りに必要な
得票率が30%に満たないとは.....
何とも理解できない事実ではある。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=116550

file.044 Jim RICE 【ジム・ライス】

2005-12-23 | PQR
【殿堂入りなるか??】
Jim RICE

2005年、ウェイド・ボッグスと
ライン・サンドバーグが殿堂入りを果たしたが、
2006年も1月に新たな殿堂入り選手が発表される。
元レッド・ソックスのジム・ライスも、
毎年のように有力候補者の中に
名を連ねているが、今だ殿堂入りには到っていない。

71年ドラフト1位でレッド・ソックスに入団したライスは、
75年にレギュラーの座をつかんだ。主なポジションは、レフト。
テッド・ウィリアムスやカール・ヤストレムスキが守った“聖域”である。

正左翼手となった75年は3割20本塁打100打点を打ち、
新人王級の活躍を見せるが、同僚のフレッド・リンにその座は譲った。
リンとライス、本塁打・打点はほとんど互角の数字だったが、
打率で大きく差をつけられたのだ。
このシーズン、骨折のアクシデントさえなければ、
ライスが新人王の栄冠に輝いていたかもしれない。

が、その後、コンスタントに看板通りの活躍をしたのはライスの方だった。
77年、打率.320、39本塁打、114打点
78年には打率.315、46本塁打、139打点と
破壊力満点の数字を残し、シーズンMVPも獲得、
79年も打率.325、39本塁打、130打点をマークし
テッドの後継者として相応しい活躍ぶりを示した。

80~82年はやや破壊力に翳りを見せたが
83年、30にして、再び立ったライスは不死鳥のごとく復活、
86年まで4年連続で100打点をあげるクラッチぶりを披露した。

結局、89年に引退するまで最多安打1回、本塁打王3回、打点王に2回輝き、
通算2452安打、382本塁打、1451打点をマークした。

殿堂入りの資格を得ながら、なかなか票が伸びないライスに対し、
ウエイド・ボッグスは、
「ライスよりも多くの票を得られるとは思わなかった。
彼は当時、最高に恐れられた打者だった」と語った。

ちなみに、ボッグスに“チキン・マン”というニックネームを
つけたのは、他ならぬジム・ライスである。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121140