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file .238 Nolan RYAN 02 【ノーラン・ライアン02】

2008-01-14 | nolan ryan
【エンゼルス時代】
Nolan RYAN

72年、エンゼルスへ移籍したライアンを待っていたのは、
その転機を支える事になる、大きな出会いの数々であった。

コーチのジミー・リース、トム・モーガン、
キャッチャーのジェフ・トーボーグ....。

彼等は、ライアンの欠点を指摘し、その克服に
いくらでも、つき合った。
シーズン前の猛練習により、ライアンは配球を学び、
モーションを修正し、コントロールも数段良くなった。

19勝、防御率2.28、329奪三振。
ライアンは遂に満足のいく好成績をおさめる事が出来た。
73年は更なる成長を見せつけ、
21勝、防御率2.87、383奪三振、
シーズン2度のノーヒッターと、サンディ・コーファックスの持つ
シーズン奪三振記録382を更新。

『カリフォルニア・エクスプレス』の誕生であった。

「奴の速球は、俺を殺すかもしれねえ」.....レジー・ジャクソン

「ライアンのボールが耳の後ろを通過した時は死んだかと思った。
 結局凡退したが、ベンチに生きて帰れただけでも幸せだった」.....フィル・ガーナー

「ライアンは恐い。打席ではケツの穴がハミ出ているよ」.....ブルックス・ロビンソン

「メジャーリーグよりも上のリーグがあるとすれば、
 ライアンはそこのピッチャーさ」.....ハル・マクレー

74年、22勝、防御率2.89、367三振、
3度目のノーヒッターに、3年連続の300奪三振......と
快進撃を続けるライアンだったが、
この3年、全ての年で16敗を喫している。
この時期、全球団で最弱といわれたエンゼルス打線が、
もう少しマシだったら....『勝率5割投手』などとは言われていなかったかもしれない。

75年は故障の所為もあって、14勝、186奪三振にとどまったライアン、
76年、体調を万全に戻すと、17勝、327奪三振、
77年、19勝、341奪三振....と
看板通りの『カリフォルニア・エクスプレス』ぶりをフルに発揮、
チームの大黒柱として、リーグを代表するエースとして、
その豪腕をまざまざと見せつけた。

この頃、チームのGMにバジー・ババシが就任。
ライアンとババシの相性は最悪であった。
ノーヒッターがかかった試合で、微妙な当たりがエラーになった時なぞは、
ババシは公式記録員に食ってかかったという。
「お前の所為で奴に大金を出さなきゃいけなくなるだろっ!!」
ライアンは、ノーヒッター達成で25000ドルをチームから受けとれる契約を結んでいたのだった。

1980年、ライアンはアストロズへFA移籍する。
ババシのために投球する事はどうしても出来なかったわけである。

ともあれ、ライアンは故郷に戻る事となった。

file .226 Nolan RYAN 01【ノーラン・ライアン01】

2007-11-16 | nolan ryan
【デビュー/メッツ時代】
Nolan RYAN

生粋のテキサスっ子、ライアン。
家計を助けるべく、13~14歳の頃には、
車を駆り、新聞配達のアルバイトに勤しみ、
一方で、牛を育てて売り、高校生の時分には、学校で野球をプレーする傍らで、
既に自分の牧場まで存在していた。

18歳になったライアンは、メッツから指名を受け入団。
10巡目での指名であった。

マイナーで着実に実績を積み、66年、AAAを経ずにメジャーデビュー。
が、時期尚早だったか、2試合に登板し防御率15.00という散々な成績に終わった。

67年はメジャーで投げる事は無く、
さらに肩の故障でまともに登板する事も出来ない........。
兵役とリハビリに明け暮れる一年となってしまったが、
シーズンオフ、ライアンはリハビリも兼ねてウィンターリーグに参加、
徐々に自身の投球を取り戻していく......。

68年、本格的にメジャーデビューを果たし、21試合で、6勝9敗、防御率3.09。
134イニングで133三振を奪うなど、大きくステップアップしたが、
手のマメが完治しないのと、兵役の所為で、
ローテーションに食い込む事は出来ず、
年齢も近く、仲の良かったトム・シーバーに大きく遅れを取る事となった。

ミラクル・メッツ......。
1969年、弱小球団メッツは奇跡の逆転優勝を成し遂げ、
ワールド・シリーズでも強豪・オリオールズを破り、
ニューヨーク及び、メジャーリーグを大いに盛り上げた。
シーバー、ジェリー・クースマン、タグ・マグローら、
強力な投手陣の中、ライアンも25試合に登板、6勝3敗、防御率3.54と
まずまずの投球を見せ、優勝に貢献するが、監督の信頼を完全に得るには至らず、
先発登板は、10試合にとどまった。

が、ブレーブスとのプレーオフ、第3戦。
先発のゲーリー・ジェントリーが3回途中でKOされると
ブルペンにいたライアンに声がかかる。
ライアンは期待に応え、7回を2失点。
打線の援護もあり、見事、勝利投手となり、優勝の美酒に酔いしれた。

オリオールズとのワールド・シリーズでは、
第3戦、またもジェントリーの後を受け、リリーフ登板。
中堅手トミー・エイジーの好守にも助けられ、
2回1/3を1安打に抑える好投を披露、1セーブを記録した。
シリーズでの登板はこの1試合のみであったが、
プロ入り3年目にしてチャンピオン・リングを手中におさめた。

その後、70~71年と
ライアンはメッツで投げ続け、そこそこの成績をおさめるものの、
才能の開花には至らず、71年オフにカリフォルニア・エンゼルスへトレードの運びとなった。

テキサスの田舎者…ライアンは、NYでの生活になじむ事が出来なかった。
69年の世界一の時も、オフのセレモニーなどにはほとんど参加せず、
逃げるように、故郷のヒューストンはアルヴィンに帰郷している。
何処へ行っても、注目され人の多い都会の生活にペースを乱され、
ピッチングに集中する事が出来なかった。
ライアンのエンゼルスへのトレードは、
『球団史上最悪のトレード』と言われているが、
これは、実はライアン自身が首脳陣に直訴したものであった。

未だその大輪を咲かす事の出来ないライアン。
そんなライアンを、暖かいカリフォルニア......そして未知のアメリカン・リーグが待ち受けていた。