GUMBO

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file .303 Billy MARTIN【ビリー・マーチン】

2012-04-30 | MNO
【ケンカ屋】
Billy MARTIN

1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースでメジャーデビューを飾ったマーチン。
52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると
53年には打率.257 15本塁打 75打点、
ワールドシリーズでは打率.500 2本塁打 8打点と大爆発。
シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。

喧嘩っ早い性格も手伝って、
小さい身体ながら、プレーはハード。
大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。

その後も57年に打率.289 10本塁打をマークするなど、
いぶし銀のプレーでヤンキースを支え、
計4度の世界一に貢献。
その存在感を大いに知らしめていたが、
57年オフ、クラブで乱闘騒ぎを演じ、
ヤンキースはマーチンを放出。
1961年まで、実に5球団を渡り歩き、
同年、現役を引退した。

引退後、ツインズでスカウトやコーチを務め、
69年、同チームで監督に就任するといきなり地区優勝。
さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。
さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝・・・と
手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、
ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。

愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
1.監督常に正しい。
2.監督が間違ってると感じたら1を見よ。
などと書いた貼り紙をするなど、
その激しく熱いリーダーシップでチームを牽引、
77年にはワールドシリーズを制覇するが、
自分の言う事を守らなかった選手や、
怠慢プレーをした選手などには容赦なく怒号を飛ばし、
喧嘩寸前の罵り合いを演じる事も辞さなかった。
が、その反面、快くプレーしてもらうために
妙な管理体制はとらなかった。
門限なども特に設定せず、遊びたい時は遊びたいだけ遊べ。
と、プレーヤーを大人として扱った。
選手からは絶大な信頼を得たが、
自分を監督に据えたスタインブレナーとは実は犬猿の仲で
レジー・ジャクソンの起用法など、
たびたび衝突をくり返した。
http://www.youtube.com/watch?v=z_zDcQV6_6k
上記のように、仲の悪さを逆手にとったようなCMまで作られたが
結局スタインブレナーはマーチンを5度クビにし、4度復帰させた事になる。

その後、80年にアスレチックスの監督に就任。
機動力野球を展開し、リッキー・ヘンダーソンを育て、
81年にはチームを地区優勝に導いた。

89年、交通事故で命を落とした。

選手通算 1021試合 打率.257 64本塁打 333打点
監督通算1253勝 1013敗 

file .302 Daryl SPENCER【ダリル・スペンサー】

2012-04-24 | STU
【Big Dee】
Daryl SPENCER

1952年、ニューヨークジャイアンツでデビューを飾ったスペンサー。
53年に118試合に出場、打率.208ながら20本塁打を打ち、
その才能の一旦を見せつけた。
54~55年は兵役に就き、プレーの機会は無かったが
56年に復帰すると、二塁/遊撃をこなしながら
打率.221 14本塁打 42打点をマーク。
57年は遊撃に定着し、打率.249 11本塁打 50打点、
大型内野手として、着実な成長を見せた。

本拠地がサンフランシスコに移動した57年は打率.256 17本塁打 73打点。
主砲ウィリー・メイズに次ぐ、打点/出塁率をマークすると
59年は打率.265 12本塁打 62打点。
ポジションこそ二塁に変わったが、レギュラーの座を確固たるものにした。

60年以降はカージナルス/ドジャース/レッズとチームを転々とし、
64年、日本に渡り、阪急ブレーブスに入団。
65年には打率.311 38本塁打をマークするなど、
7年で打率.275 152本塁打 391打点の活躍を見せた。

内野手/捕手を吹っ飛ばす激しいスライディングで敵を震え上がらせる一方、
190cmの巨体ながら二塁守備を器用にこなし、
対戦チームの投手のクセを熱心に研究し、攻略した。
そういったプレーぶりや姿勢は日本の野球に大きな影響をもたらしたのであった。
サイクルヒットの概念を日本に定着させたのもスペンサーだといわれている。

メジャー通算 1098試合 打率.260 105本塁打 428打点。

file .301 Larry WALKER【ラリー・ウォーカー】

2012-04-19 | ABC
【Boogie】
Larry WALKER

高校時代はアイスホッケーの選手だったウォーカー、
ほぼ野球未経験だったにも拘らず、
その身体能力の高さを買われて、1984年、
エクスポズに入団。

1990年、打率.241 19本塁打 51打点 21盗塁をマークし、
チームのレギュラーに加わると、着々と力を付け、
92年には打率.301 23本塁打 93打点 18盗塁。
オールスター出場、ゴールドグラブ受賞、MVP投票5位…と
リーグを代表するスラッガーに成長を遂げた。

95年、ロッキーズに移ると、さらに打撃が開花。
この年、打率.306 36本塁打 101打点、
97年には、打率.366 49本塁打 130打点 33盗塁でMVP受賞。
98年、打率.363 23本塁打 67打点で首位打者獲得、
99年も打率.379 37本塁打 115打点で2年連続の首位打者に輝いた。

当時のロッキーズにはトッド・ヘルトン、
ヴィニー・カスティーヤ、ダンテ・ビシェット、
アンドレス・ガララーガといったパワフルな面々が揃っており、
特に97年はガララーガ、ウォーカー、カスティーヤが40本以上の本塁打を放ち、
相手投手を恐怖に陥れていたが、
ウォーカーは打撃だけでなく、走塁、守備も一級品。
90年代屈指の5ツールプレーヤーであった。

2000年、肘の怪我で87試合の出場にとどまったが、
2001年は打率.350 38本塁打 123打点と復活。

その後、2004年のシーズン途中にカージナルスへ移籍すると、
二番打者としてアルバート・プホルスらとチームを牽引。
チームを地区優勝に導くと、プレーオフでも大活躍。
惜しくも世界一には及ばなかったが、
その存在感を大いに知らしめた。

もともと故障に泣かされがちだったウォーカー、
シーズン140試合以上の出場は17年のキャリアで4度のみ。
2005年、肘の怪我とヘルニアに苦しめられ、
この年限りで現役を引退した。

陽気な性格で知られ、
オールスター出場時にランディ・ジョンソンと相対した際、
頭部後方に暴投したジョンソンに対し、
ヘルメットを後ろに被り、右打席に立ってみせるというパフォーマンスを演じた事もある。
さらに『3』の数字に異常なまでの拘りを持ち、
現役中の背番号は全て『33』
結婚式の開始時間も3:33分に設定する程だった。

首位打者3回、本塁打王1回、ゴールドグラブ7度受賞、
オールスター5度出場。

まさに時代を代表するスーパープレーヤーであった。

通算1988試合 2160安打 打率.313 383本塁打 1311打点 230盗塁。

file .300 Joe RUDI【ジョー・ルディ】

2012-04-18 | PQR
【レジーでは無く…】
Joe RUDI

1964年にアスレチックスと契約を交わしたルディは、
67年、20歳の時にメジャーデビューを果たす。
その後、数年間は伸び悩むが、70年に打率.309 11本塁打 42打点をマーク。
その才能を開花させた。

以来、レジー・ジャクソンや、サル・バンドーらと共にチームを支え、
72年、打率.302 19本塁打 75打点(MVP投票2位)
73年、打率.270 12本塁打 66打点
74年、打率.293 22本塁打 99打点(MVP投票2位)
…と、この間のアスレチックス3年連続世界一に大きく貢献。
勝負強い打撃と左翼手としての堅守、
そして何よりその真摯なプレースタイルが、高い評価を得るに至った。

その後も、チームの要として活躍し、
1977年にはエンゼルスへ移籍。

ボソックスを経て、
82年、古巣のアスレチックスで現役を引退した。

ちなみに、引退時のチーム監督ビリー・マーチン。
マーチンは、ヤンキース監督時代、
FA移籍でやってきたレジー・ジャクソンと度々揉めたが、
監督として本当に欲しかったのは、
尊大で、守備が下手なレジーではなく、
地味なれど、献身的なフォアザチーム精神を持つ
ジョー・ルディだったという。

通算1547試合 打率.264 179本塁打 810打点