【ケンカ屋】
Billy MARTIN
1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースでメジャーデビューを飾ったマーチン。
52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると
53年には打率.257 15本塁打 75打点、
ワールドシリーズでは打率.500 2本塁打 8打点と大爆発。
シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。
喧嘩っ早い性格も手伝って、
小さい身体ながら、プレーはハード。
大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。
その後も57年に打率.289 10本塁打をマークするなど、
いぶし銀のプレーでヤンキースを支え、
計4度の世界一に貢献。
その存在感を大いに知らしめていたが、
57年オフ、クラブで乱闘騒ぎを演じ、
ヤンキースはマーチンを放出。
1961年まで、実に5球団を渡り歩き、
同年、現役を引退した。
引退後、ツインズでスカウトやコーチを務め、
69年、同チームで監督に就任するといきなり地区優勝。
さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。
さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝・・・と
手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、
ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。
愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
1.監督常に正しい。
2.監督が間違ってると感じたら1を見よ。
などと書いた貼り紙をするなど、
その激しく熱いリーダーシップでチームを牽引、
77年にはワールドシリーズを制覇するが、
自分の言う事を守らなかった選手や、
怠慢プレーをした選手などには容赦なく怒号を飛ばし、
喧嘩寸前の罵り合いを演じる事も辞さなかった。
が、その反面、快くプレーしてもらうために
妙な管理体制はとらなかった。
門限なども特に設定せず、遊びたい時は遊びたいだけ遊べ。
と、プレーヤーを大人として扱った。
選手からは絶大な信頼を得たが、
自分を監督に据えたスタインブレナーとは実は犬猿の仲で
レジー・ジャクソンの起用法など、
たびたび衝突をくり返した。
http://www.youtube.com/watch?v=z_zDcQV6_6k
上記のように、仲の悪さを逆手にとったようなCMまで作られたが
結局スタインブレナーはマーチンを5度クビにし、4度復帰させた事になる。
その後、80年にアスレチックスの監督に就任。
機動力野球を展開し、リッキー・ヘンダーソンを育て、
81年にはチームを地区優勝に導いた。
89年、交通事故で命を落とした。
選手通算 1021試合 打率.257 64本塁打 333打点
監督通算1253勝 1013敗
Billy MARTIN
1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースでメジャーデビューを飾ったマーチン。
52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると
53年には打率.257 15本塁打 75打点、
ワールドシリーズでは打率.500 2本塁打 8打点と大爆発。
シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。
喧嘩っ早い性格も手伝って、
小さい身体ながら、プレーはハード。
大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。
その後も57年に打率.289 10本塁打をマークするなど、
いぶし銀のプレーでヤンキースを支え、
計4度の世界一に貢献。
その存在感を大いに知らしめていたが、
57年オフ、クラブで乱闘騒ぎを演じ、
ヤンキースはマーチンを放出。
1961年まで、実に5球団を渡り歩き、
同年、現役を引退した。
引退後、ツインズでスカウトやコーチを務め、
69年、同チームで監督に就任するといきなり地区優勝。
さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。
さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝・・・と
手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、
ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。
愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
1.監督常に正しい。
2.監督が間違ってると感じたら1を見よ。
などと書いた貼り紙をするなど、
その激しく熱いリーダーシップでチームを牽引、
77年にはワールドシリーズを制覇するが、
自分の言う事を守らなかった選手や、
怠慢プレーをした選手などには容赦なく怒号を飛ばし、
喧嘩寸前の罵り合いを演じる事も辞さなかった。
が、その反面、快くプレーしてもらうために
妙な管理体制はとらなかった。
門限なども特に設定せず、遊びたい時は遊びたいだけ遊べ。
と、プレーヤーを大人として扱った。
選手からは絶大な信頼を得たが、
自分を監督に据えたスタインブレナーとは実は犬猿の仲で
レジー・ジャクソンの起用法など、
たびたび衝突をくり返した。
http://www.youtube.com/watch?v=z_zDcQV6_6k
上記のように、仲の悪さを逆手にとったようなCMまで作られたが
結局スタインブレナーはマーチンを5度クビにし、4度復帰させた事になる。
その後、80年にアスレチックスの監督に就任。
機動力野球を展開し、リッキー・ヘンダーソンを育て、
81年にはチームを地区優勝に導いた。
89年、交通事故で命を落とした。
選手通算 1021試合 打率.257 64本塁打 333打点
監督通算1253勝 1013敗