GUMBO

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file .277 Ray KNIGHT【レイ・ナイト】

2009-01-30 | MNO
【良妻】
Ray KNIGHT

1970年、ドラフト10位でレッズに入団したナイト。
74年にメジャーデビューを果たしたが、
思うような結果を残すには至らなかった。
また、75~76年の間、まさに『ビッグ・レッド・マシーン』の絶頂期には
メジャーでのプレーを果たせず、歴史的チームの一員になり損なってしまう。

77年に再度メジャーへ昇格し、
78年までの2年間、80試合程度の出場ではあるが
着実に力を付けていく。

78年オフ、ピート・ローズがチームを去り、
三塁のポジションが空くと、
ナイトに、そのポジションが与えられた。
ようやく定位置を得た26歳のナイトは奮起し、
79年、打率.318、10本塁打、79打点でブレーク。
MVP投票で5位につけるなど、大躍進する。

82年、アストロズへトレード移籍すると
この年、打率.294、6本塁打、70打点
83年も打率.304、9本塁打、70打点....と
抜群の安定感でチームに貢献。
レッズ時代に続き、新チームでもオールスター出場を果たすなど、
順風満帆に見えたナイトだったが、
84年、シーズン途中でメッツに移籍すると、
85年、打率.218、6本塁打、36打点.....と
極端に成績を落としてしまう。

『奴はいらない。放出してしまえ』
メッツのフロントはナイトを終わった選手として
不要論をぶちまけたが、
監督のデーブ・ジョンソンは、頑なにそれを拒否した。
ナイトの経験を必要な力と信じたのである。

そのオフ、意気に感じたナイトは猛ハッスル、
減量に務め、自宅の庭に設置したバッティングケージで
打撃練習に没頭した。
「頑張って、メッツのサードはあなたのポジションよ!!!」
82年に娶った二人目の妻ナンシー・ロペス(殿堂入りの名女子ゴルファー)
は、夫の練習中、可能な限り傍らにおり、エールを送った。

86年、ナイトは、ハワード・ジョンソンやケビン・ミッチェルといった
イキのいい若手選手を制して三塁の定位置を獲得、
打率.298、11本塁打、76打点...と華麗に復活。
カムバック賞を受賞したばかりか
レッドソックスとのワールドシリーズでも
打率.391、1本塁打、5打点、4得点の大暴れ!
メッツの世界一に大きく貢献し、シリーズMVPを獲得。
監督の妻の恩に十二分に報いたのであった。

86年の大活躍で燃え尽きてしまったのか、
ナイトは88年、タイガースでそのキャリアを終える。

通算1495試合、1311安打、84本塁打、打率.271。


file .276 Bill BUCKNER【ビル・バックナー】

2009-01-29 | ABC
【Billy Buck is BACK!!!!!!!!】
Bill BUCKNER

ビル・バックナー=WSでのトンネル....。
一度付いてしまったイメージはいかんともし難いが、
バックナーは、当時メジャーでも屈指の、打撃の職人であり、
60~90年代にわたりメジャーに在籍した
4ディケードプレーヤーでもある。


1968年、ドラフト2位指名でドジャースに入団したバックナー。
71年、21歳の若さでメジャーデビューすると、
72年には打率.319、5本塁打、37打点をマーク、
早くも、その好打者ぶりを発揮する事となる。

74年には打率.314、7本塁打、58打点、31盗塁、
76年は打率.301、7本塁打、60打点、28盗塁...と
安定した成績を残していたバックナーだったが、
77年、トレードでカブスへ移籍。
新天地でも78年に打率.323、5本塁打、74打点、
80年には打率.324、10本塁打、68打点で首位打者を獲得するなど活躍。
リーグを代表するヒットマシーンとしての地位を確立した。

バットコントロールに秀で、三振は少ないが
その一方で、早いカウントから打ちに行くので四球も少なく
出塁率は高く無い。
元々は外野手 兼 一塁手だったが、カブス移籍に伴って
本格的に一塁手へコンバート。
名手までとはいかないまでも、守備は悪くは無かった。

その後もカブスの主力打者として活躍、
82年には打率.306、15本塁打、105打点...と
勝負強いクラッチヒッターぶりも見せつけた。

84年、打率.209と低迷するバックナーは
シーズン途中でレッドソックスへトレード移籍、
初のアメリカンリーグであったが、
新天地では打率.278、11本塁打、67打点と
期待通りの働きをしてみせた。

85年、打率.299、16本塁打、110打点と、
ベテランらしい渋い活躍を見せ、
86年も打率.267、18本塁打、102打点..でチームを牽引、
ウェイド・ボッグス、ジム・ライスらと共に、
無くてはならない貴重な戦力として
レッドソックスのリーグ優勝に大きな貢献を果たした。

.......が、思わぬ出来事がバックナーを襲う。
メッツとのワールドシリーズ、
レッド・ソックスが3勝で優勝にリーチをかけた第6戦。
ランナーを置いた状況で、メッツのムーキー・ウィルソンの一塁ゴロをトンネル、
決勝の走者を還してしまい、
チームのサヨナラ負けを大いに演出してしまう。

結局、ワールドシリーズはメッツが制し、
バックナーは最大の戦犯として、
ファンから非難を浴びる事となってしまった。

その後、エンゼルス、ロイヤルズと渡り、
90年、因縁のレッドソックスで22年におよぶキャリアの幕を降ろした。

通算2715安打、183本塁打、1208打点、打率.289。

殿堂入りは果たせず、
バックナーについて語られるのは常にエラーの事ばかりである。
が、10回裏、あと1つアウトを取れば勝ち...という、二死走者無しの状態から、
三連打&ワイルドピッチで同点......。
これは異常ともいえる状況であり、件の敗戦はバックナーの所為とは言い難い。
結局、バックナーは、この歴史的敗戦の責を一人で背負わされてしまったに過ぎないのである。

2008年4月、フェンウェイパーク、
レッドソックスの本拠地開幕戦のオープニングセレモニーは
バックナーの始球式がハイライトであった。
すでにバンビーノの呪いは解かれ、
満員の観客はバックナーに割れんばかりの歓声を送った。
こみ上げる涙をこらえられないバックナー。

バックナーの長い『トンネル』が終わった瞬間であった。

file .274 Max PATKIN【マックス・パトキン】

2009-01-27 | PQR
【クラウン・プリンス】
Max PATKIN

アメリカ野球ファンなら
知っておいて欲しい、有名な『野球道化師』である。

元々は、150km以上の速球を投げる速球投手だったパトキン。
が、制球力がからっきしの三級品だった事と
腕の故障でメジャーへは、上がれないでいた。

1944年、兵役に就いたパトキンは
同じく兵役中のジョー・ディマジオと
戦地での試合で対戦する機会を得た。
メジャーを代表するスター、大ディマジオと
ノーコンの三流投手では勝負になるわけもなく、
ポカーンと大ホームランを打たれてしまう。
が、この被弾がパトキンの人生を大きく変える事となるのだ。
ダイアモンドを優雅に回るディマジオの後を、
その真似をして、フザけて付いて回るパトキン。
球場は、大きな笑いに包まれたのであった。

兵役から戻ったパトキンは、
戦場での爆笑が忘れられなかったのか、
マイナーの試合で、同僚の物真似や、変テコなダンスで
ベンチや、観戦客を楽しませる方に夢中になっていた。
その噂を聞きつけたインディアンズのオーナー、ビル・ベックは、
パトキンを引き抜き、チームの『お笑いコーチ』に任命。
一塁コーチャーズボックスで相手捕手のサインを盗み見るジェスチャーなど
その『芸』は多くのファンを楽しませ、
球団の集客増加に大きな貢献を果たした。

やがて、もう役目は終わった....と考えたベックにより
マイナー・リーグに戻されたパトキンは
野球選手の道をあきらめ、現役引退。
ジョー・ディマジオの後押しもあって、
フリーの『野球道化師』として生きる道を選んだ。

野球道化師・パトキンは、
マイナーリーグの試合を中心に、
呼ばれれば、何処へでも駆けつけ、
ファンを楽しませた。
ゴムのように自在に変化する顔芸や
お得意の、変テコダンスに物真似。
グラウンド上をひたすらゴロゴロ転がると思えば、
砂塵を巻き上げる派手なスライディングを敢行。
口に含んだ水を観客や選手に噴射し、
バッターボックスに向かう選手の頬にキス。
キャップを斜めにかぶり、背番号『?』のヨレヨレのユニホームに身を包んだ
マイナーリーグの人気者は
いつしか『ベースボール・クラウン・プリンス(野球界の道化師王子)』
と、呼ばれるようになり、
約50年、毎日休む事なく土まみれになりながら、
4000試合に〝出場〟し続けた。

95年、怪我を理由に〝引退〟するが、
道化師王子は74歳になっていた。

1999年、79歳で死去。

3000本安打に500本塁打、300勝.........、
球界には、幾多の偉大な選手が存在するが、
パトキンのような人物も、彼らに負けず野球を愛した
堂々の殿堂級人物でろう。

file .273 Charlie LAU【チャーリー・ロウ】

2009-01-22 | JKL
【ロウ師】
Charlie LAU

1956年から11シーズンに渡り、
タイガースや、オリオールズで
捕手としてプレーしたロウ。
選手としては、通算527試合、打率.255、16本塁打、140打点...と
平凡以下の成績しか残せず、67年に現役を引退する。

ロウの名が広く球界に知れ渡るのは
コーチとしてロイヤルズに入団してからであった。

打席で前屈み状態になり、
体重を軸足にかけ、ボールを待ち、
そして身体をひねるようにスイングする。
前屈み状態になる事でストライクゾーンを狭め、
打球は右へ左へ打ち分けるスプレーヒッティングを心がける。

その打撃法はメジャーリーグに広がり、
それまで打撃のバイブルとされていた
テッド・ウィリアムスの論理に取って変ったと言われており、
当のテッドはロウの方法論を忌み嫌っていたという...。

ロウの一番弟子といえば、
何と言ってもジョージ・ブレットであろう。
師の教えに忠実に従ったブレットの偉業は
今更語る事も無い事である。

特に76年は、ブレットとハル・マクレー、
同じ師を持つチームメイト同士が
激しい首位打者争いをくり広げ、
(結果は1厘差でブレットに軍配)
ロウの名を一層、世に知らしめる事となる。

他にも、ピート・ローズやトニー・グウィン、ウェイド・ボックスら、
錚々たる面々に影響を少なからず与えた...と考えられている。

1984年、51歳の若さで癌の為、死去。

ブレットは語る。
「ロウの教え.......、当初は、それが私の人生を
 どれほど変える事になるか、全く解っていなかったよ」


file .272 Bill GULLICKSON【ビル・ガリクソン】

2009-01-21 | GHI
【インスリン投手】
Bill GULLICKSON

高校時代、2年で23勝をあげ、
ノーヒットノーランを3度も達成する怪童ぶりを見せつけ、
1977年、ドラフト1位指名で
モントリオール・エクスポズに入団したガリクソン。
80年、21歳の時に本格的なメジャーデビューを果すと、
この年、防御率3.00、10勝5敗の好成績で
新人王投票2位に付ける活躍を見せ、
チームのローテーション投手の座を獲得する。

その後、
82年防御率3.57、12勝、
83年は防御率3.75、17勝をあげるなど
エクスポズの主力投手として活躍。
80~85年の6年間、200イニング以上登板が3度、
10勝以上が5度、防御率は3点台を切った事はなく、
絶対的なエースとは言わないまでも、
ローテーションをきっちり守る、
優秀なイニング・イーターぶりを発揮する。

86年にはレッズに移籍するが、
ここでも防御率3.38、15勝をマークし、
87年はレッズとヤンキースで14勝をあげた。

88年、日本のジャイアンツへ通算101勝の実績をひっさげてFA移籍。
1年目は、防御率3.10、14勝をマークして
前年に現役を引退した江川卓の穴を埋める活躍を見せるが、
2年目は怪我に泣き、思うような成績を残せず、退団する。

アメリカに戻ったガリクソンは、
90年、アストロズで防御率3.82、10勝の成績を残すと、
翌91年はタイガースで防御率3.90、20勝。
キャリア唯一のタイトルとなる最多勝を受賞する。

その後、2年連続で10勝以上をマークし、
94年に現役を引退。

通算398登板、162勝、防御率3.86。

現役中は糖尿病を患っており、インスリンを打ちながら投球を続けた。

ジャイアンツ(日本)時代にチームメイトだった桑田真澄とは
固い友情で結ばれ、息子のミドルネームを『クワタ』とした程。


file .271 Rey ORDONES【レイ・オルドネス】

2009-01-17 | MNO
【the man from cuba】
Rey ORDONES

キューバはハバナ出身のオルドネス。
1996年、アメリカに亡命し、ドラフト外入団でメッツと契約、
その年、メジャーデビューを果たした。
(亡命キューバ人としては史上2人である。)

打率.257、1本塁打、30打点、1盗塁と
打撃面では非力で出塁率も低く、見るべき点は皆無であったが、
オルドネスの武器はその遊撃守備にあった。

守備範囲がズバ抜けて広く、
頻繁に見せるアクロバッティングなフィールディングは
見る者を、おおにに魅了した。

守備に堅実さが加わった1997年からは
99年まで3年連続でゴールドグラブを受賞し、
オジー・スミスですら
「ありゃ俺の再来だぜ」と公言してはばからず、
その世の常のものとは思えない華麗な守備は、
日本のスポーツ番組も、単独でオルドネスを特集した程であった。

99年は、4失策で守備率.994をマークし
101試合連続無失策の記録を樹立したものの、
2000年、東京での開幕シリーズでエラーしてしまい
記録がストップしてしまう....という事もあった。

守備では他を寄せ付けない存在感を見せつけていたオルドネスだったが、
打撃だけは上達する事は無かった。
99年にマークした打率.258、1本塁打、60打点、出塁率.319という数字が
キャリアハイな位である。

2004年にカブスで23試合プレーしたのを最後に
メジャーではプレーしていない。

通算9年間で、打率.246、12本塁打、287打点を記録。

打撃スタッツでは平凡以下の数字しか残せなかったが
その守備は、永くメジャーファンの間で語り継がれるであろう。