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file .306 So TAGUCHI【田口壮】

2013-07-11 | STU
【99】
So Taguchi

日本でブルーウェイブの外野手として10年間活躍した田口が
FAで渡米し、カージナルスに入団したのは2002年。
折しもマリナーズのイチローがセンセーショナルな働きを見せた2001年のオフであった。

イチローの活躍もあって注目を浴びた田口だったが、
試練が待ち受けていた。
開幕ロースターから外れ、シーズン途中にはメジャー昇格を果たすも、
結局は定着出来ず、打率.400と健闘するが、19試合の出場に終わる。

翌03年も開幕はマイナーで迎え、夏場に昇格。
その後はメジャーに残り、43試合、打率.259 3本塁打 13打点。
翌年に期待を持ったままシーズンを終えた。

04年は開幕からメジャーに定着。
109試合で打率.291 3本塁打 25打点をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
名将トニー・ラルーサから優秀なユーリティリープレーヤーとして認められるに至った。
堅実な守備、徹底したチームバッティング、チャンスでは勝負強いシェアな打撃を披露する。
決して派手では無いが、ここぞという時に必要な玄人好みの仕事人として、
チームに欠かせない重要な選手となった田口は、
05年、143試合 打率.288 8本塁打 53打点に加え
リーグ1位となる得点圏打率.407をマーク。
名門球団で、いぶし銀の輝きを放った。

田口がセントルイスでファンから大きな賞賛を浴びたのは06年。
シーズンは134試合 打率.266 2本塁打 31打点に終わったものの、
リーグ優勝シリーズ第2戦で、メッツの守護神ビリー・ワグナーから、
値千金の決勝ホームランを放つ大活躍。
チームもワールドシリーズ制覇を果たし、
田口は輝けるチャンピオンリングを手中に収めた。

07年も打率.290 3本塁打 30打点、代打打率.406。
代走や守備固めでも堅実な働きを見せチームの勝利に貢献した田口であったが、
08年はカージナルスが契約をせず、フィリーズで、開幕を迎える。
シーズン前半に守備でミスを犯した田口を、
フィリーズの監督マニエルはラルーサほどには重用しなかった。
チームはワールドシリーズを制覇し、
2個目のリングを手にした田口であったが、
88試合の出場にとどまり、打率.220 0本塁打 9打点と、
決して満足のいくシーズンでは無かった。

09年はカブスに移籍するが6試合のみの出場に終わり、
10年から日本球界復帰を果たした。

メジャー通算 672試合 打率.279 19本塁打 163打点。

如何なる場面でも堅実、かつ勝負強いプレーを見せた田口。
その明るくて気さくなキャラクターも手伝って、
セントルイスでの人気は絶大。
09年に地元紙が行った2000年代のカージナルスのベストナイン投票では、
ベストベンチ要員に選出。
日本においても、その文才を活かしたホームページでの日記が人気を博した。

file .305 Ben Chapman【ベン・チャップマン】

2013-07-08 | 2013年映画『42』
【野次】
Ben Chapman

1930年代前半のヤンキースにおいて、
俊足巧打の外野手として名を馳せたチャップマン。
31年から3年連続で盗塁王を獲得。
100打点を2度マーク、クラッチヒッターぶりもみせつけ、
41年にホワイトソックスを最後に引退するまで、
オールスターにも4度の出場を果たした。

引退後、45年にフィリーズの監督に就任。
その年、ドジャーズでジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューを果たした。
チャップマンはドジャースとの試合で、
口汚い侮辱的罵詈雑言をジャッキーに対して野次った。
ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーから、
怒りを押さえる事を固く約束させられていたジャッキーはただ黙っている。
その時、ジャッキーに冷たい態度を取っていたドジャースの選手が
フィリーズベンチに向かって野次を返す。
「うるせえ! 口答え出来る奴に野次りやがれ! 臆病者め!」
ドジャーズベンチが一体になった瞬間であった。

ジャッキー・ロビンソンをめぐるストーリーにおいて、
チャップマンは何かと悪役を強いられる。
が、南部のテネシー州出身のチャップマンからしてみれば
致し方ない事だったのかもしれない。

チャップマンは疑う余地のない名選手だ。

ジャッキーの一件も、悪いのは人種差別であって、
チャップマンでは無いのだ。

file .304 John OLERUD【ジョン・オルルド】

2013-07-07 | MNO
【マイナー知らず】
John OLERUD

大学時代、野手・投手の二刀流で八面六臂の大活躍のオルルドだったが、
就学中にくも膜下出血を煩い、頭部の手術を施された。

1989年のドラフトにおいては、件の手術の影響で、
大学時代の活躍の割には低い3位という順位でブルージェイズから指名。
その年の9月にはマイナーを経ずにメジャーに昇格、
6試合、8打席のみではあったが、3安打し、早速メジャーで結果を残した。

翌1990年は打率.265 14本塁打で新人王投票で4位。
1991年は打率.256 14本塁打を打ち、地区優勝に貢献すると
1992年には打率.284 16本塁打 66打点で、
今度はチーム初のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

93年、オルルドは脅威の覚醒を見せた。
打率.363 24本塁打 107打点 出塁率.473。
初のオールスターにも出場し、首位打者も獲得、
2年連続の世界一に、これ以上無い形で貢献し、
大ブレークを果たすに至った。

その後は、93年程の派手な数字を残す事は出来ないものの、
卓越した選球眼で高い出塁率を記録、
97年にトレードでメッツに移籍した。
メッツでの1年目は打率.294 22本塁打 102打点、サイクルヒットも記録。
翌98年には打率.354 22本塁打 93打点をマーク、再び存在感をアピールし、
99年にはプレーオフで大活躍、リーグ優勝こそ逃すものの、
勝負強い一面を見せつけた。



2000年には故郷ワシントン州のマリナーズへFA移籍、
一塁手部門で、自身初となるゴールドグラブ賞を受賞。
イチローが加わった2001年は打率.301 22本塁打 95打点で
2度目のサイクルヒットを記録するなど、ぶっちぎりの地区優勝に貢献した。
2002年も打率.300をマークするが、
以降は徐々に成績が振るわなくなっていく。
2004年シーズン途中にヤンキースに移籍すると
2005年、レッドソックスを最後に現役を引退した。

卓越した打撃術でヒットを量産すると同時に
選球眼も確かで、通算の出塁率は、打率.295に対し.398を誇った。
学生時代に手術を受けた頭部を守る為、守備中もヘルメットを着用。
シリアスな原因ではあったが、それがユニークな存在感につながった。

通算2234試合 打率.295 255本塁打 1230打点。