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file .240 Branch RICKEY【ブランチ・リッキー】

2008-02-29 | 2013年映画『42』
【名GM】
Branch RICKEY

1905年、捕手として、セントルイス・ブラウンズに入団したリッキー。
1914年まで現役を続けたが、選手としては芳しい成績を残すには至らなかった。

が、現役メジャーリーガーとしてプレーする傍ら、
ミシガン大学で法律の勉強や、野球部の選手を指導していたリッキーは、
スカウトとしての眼力や監督・コーチとしての才能を育み、
1914年、プレーイング・マネージャーとしてブラウンズの指揮を司る事になる。

監督となったリッキーは、
画期的な練習方法(例えばバッティング・ケージ内の打撃練習)や、
選手への講義など、当時としては斬新な試みに挑戦するものの
成績面では結果を残す事が出来ず、
1919年、今度はカージナルスの監督に就任する。

名選手・ホーンズビーらを要するカージナルスだったが
当時は弱小球団であった。
リッキーはチーム強化のため、監督とGMを兼任し、
メジャーとは全く別の組織だったマイナーリーグのチームを買収し始める。
独立したリーグだった筈のマイナーチームを
自球団の育成機関にするためである。
安い資金で大勢の有望選手を囲い込み、育てる.....。
リッキーの作戦は功を奏し、レッド・シェーンディーンストや
ディジー・ディーン、スタン・ミュージアル、マーティー・マリオン、イノス・スローター等の
名選手を次々と輩出。
カージナルスは1928年から34年まで4度のリーグ優勝に輝いている。
当時のコミッショナー、ケネソー・ラウンディスは、
マイナーリーグのファーム化に懸念を示したが、
強豪・ヤンキースなどがカージナルスに追随したため、
結局、独立したマイナー・リーグは消滅。
完全にメジャーリーグの選手育成機関に成り下がってしまった。

1942年、リッキーはドジャースのGMに就任する。
ここでも彼は、当時としては考えられなかった改革を推し進める。
........黒人選手との契約である。

おりしも、黒人選手のメジャー入りに強く反対していたケネソー・ラウンディスは、コミッショナーを退任。
替わって、就任したハッピー・チャンドラーは黒人へ門戸を開く事をたからかに宣言しており、
舞台は整っていたのである。
リッキーは早速、ジョージ・シスラーらに、黒人選手のスカウティングを命じ、
かのジャッキー・ロビンソンを発掘。

かくして、ブルックリン・ドジャースに黒人メジャーリーガーが誕生、
リッキーからの『ひたすら耐えろ』という過酷な命令を忠実に守ったロビンソンの大成功によって、
ジャイアンツをはじめ、各球団がドジャースの後に続き、
メジャー・リーグは新時代へ突入する事になるのであった。

が、その成功の裏で、ニグロ・リーグは衰退を極め、
1960年頃には完全に消滅してしまった。
ブランチ・リッキーはその後も、ドン・ニューカムやロイ・キャンパネラ等の
名黒人選手を発掘するが、ニグロ・リーグには何の補償も行わなかった。

その後、
ドジャースを辞めたリッキーは、
古巣カージナルスへの復帰などを経て、
1965年、84歳で死去、
67年に野球殿堂入りを果たした。