GUMBO

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file.185 Bobby BONDS【ボビー・ボンズ】

2007-03-31 | ABC
【Mr.30・30】
Bobby BONDS

68年、憧れのウィリー・メイズと同じ、
ジャイアンツでデビューしたボンズ。
初安打を満塁本塁打で飾る..という
ド派手なデビューを果たし、85試合に出場、打率.259をマークした。

翌69年、打率.259、32本塁打、45盗塁と
二年目にして、いきなり30/30を達成、
パワーのあるリードオフマンとして、
早くもチームの看板選手の仲間入りを果たす。

70年は、200安打を記録、打率.302、26本塁打、48盗塁と
スピード、パワーに加え、確実性も見せつけたが、
一方で、当時のメジャー記録である
シーズン189三振を喫するなど、粗さも目立った。
ちなみにこの記録は、2004年に、レッズのアダム・ダンが更新した。

71年、打率.288、33本塁打、102打点、
73年には、39本塁打、43盗塁....と、2度目の30/30をマーク、
看板通りの活躍を続けていたボンズ。
75年、ヤンキースへトレード移籍すると
その後、エンゼルス、ホワイトソックスをはじめ、
毎年のようにチームを変えたが、
そんな中、トレードマークの30/30を3度マークするなど、
どのチームでも変わらず、スピードとパワーを見せつけた。

81年、35才のボンズは、カブスで現役を引退、
通算1886安打、332本塁打、1024打点、461盗塁をマーク、
メイズや、アンドレ・ドーソンと並ぶ、
「スピードのあるスラッガー」の先駆者的存在といえよう。
ちなみに生涯1757三振は堂々、歴代11位の大記録(?)である。

引退後は、ジャイアンツなどでコーチに就任、
93年~96年の間は、最愛の息子バリーとは、コーチと選手として
同チームに在籍した。

2003年、肺癌と脳腫瘍のため57才の若さで亡くなった。

file.184 Al ROSEN【アル・ローゼン】

2007-03-30 | PQR
【Flip】
Al ROSEN

1942年にインディアンズと契約を交わしたローゼン。
9年かけて、ようやく三塁手のレギュラーになった50年に
打率.287、37本塁打、116打点と、好成績を残し、
本塁打王に輝き、一躍、チームの主力選手となる。

以後、6年連続で20本塁打、100打点以上。
52年、105打点で打点王に獲得すると
53年には、打率.336、43本塁打、145打点、
わずか1厘差で、打率は2位終わり、
三冠王こそ逃すが、本塁打&打点の二冠に輝き、
シーズンMVPも獲得。
その打撃力を大いに見せつけ、
リーグを代表するスラッガーへと成長した。

54年は、打率.300、24本塁打、102打点で
チームのリーグ優勝に貢献、
オールスターでも2本塁打するなど活躍。
ウィリー・メイズの『ザ・キャッチ』で有名な、
ジャイアンツとのワールドシリーズでは、
3試合に出場、打率.250をマークするが、
世界一に輝く事は出来なかった。

54年頃から、故障に苦しんでいたローゼン。
55年、打率.244と怪我によるスランプに陥ると
地元ファンからの容赦ないブーイングを浴びせられるようになる。
嫌気がさしたローゼンは、56年に現役を引退した。

通算192本塁打、717打点。
実働7年と、短い選手生活であったが、
強烈な印象を残した。

現役を退いた後は、
ヤンキースの球団社長や、アストロズのGM等を歴任、
その辣腕をふるった。

file.183 Mel STOTTLEMYRE【メル・ストットルマイアー】

2007-03-29 | STU
【1964】
Mel STOTTLEMYRE

1964年、ヤンキースは、
オリオールズや、ホワイトソックスと
激しいペナント争いを展開していた。
夏場――、チームのローテーションは崩壊寸前、
老兵フォードを初め、皆、怪我で調子を落とし始めていたのだ。

そんな中、監督のヨギ・ベラは、マイナーから22才のホープ、
メル・ストットルマイアーをメジャーに昇格させた。
――8月の事であった。

昇格後、ストットルマイアーは
新人とは思えない無駄の無いフォームと
抜群の制球力で快投を続け、
13試合に出場し、防御率2.06、9勝の大活躍。
救世主的役割を果たし、
チームの逆転優勝に大きく貢献した。
カージナルスと戦ったワールドシリーズでは、
第2戦に先発し、ボブ・ギブソンに投げ勝つ....という大金星をあげるが、
チームは惜しくも敗れ去った。

ストットルマイアーは、
その後も、ヤンキースのエースとして活躍。
65年には防御率2.63、20勝をマークし、
68年~69年には、2年連続で20勝以上をあげる。

結局、65年~73年までの9年間、
毎年250イニング以上投げて12勝以上をマークする...という
安定した投球を続けたが、チームが低迷していた為に、
ワールドシリーズ制覇はおろか、
リーグ優勝経験すら、64年の一度きりに終っている。

74年、肩の故障で現役を引退、
防御率2.97、164勝...の通算成績を残している。

引退後は、メッツや、ヤンキースなどのコーチを歴任。
メッツでは86年に1度、ヤンキースでは96年、98~2000年の4度
ワールドチャンピオンを経験し、現役時代に果たせなかった夢を
コーチとして実現させた、

file.182 Joe ADCOK【ジョー・アドコック】

2007-03-28 | ABC
【アーロン、マシューズ、アドコック】
Joe ADCOK

1950年、レッズの外野手としてデビューを果たしたアドコック。
52年まで3年間、レッズに在籍していたが、
打撃面では、さしたる成果を得られず、
53年、ブレーブスへトレードで移籍し、
一塁のレギュラーを獲得する。

54年、23本塁打、87打点と、長打力が開花。
56年には、打率.291、38本塁打、103打点と好成績を残し、
エディ・マシューズ、ハンク・アーロンと共に、
ブレーブスの中軸打線を形成するようになる。

また、アドコックは、時折ド派手な活躍を見せ、
ファンに大きなインパクトを与えた。
53年には、ポロ・グラウンドのセンターの観覧席に打球を打ち込み、
57年には、エベッツ・フィールドのレフトの大観覧席にボールを叩き込む。
いずれも、『メジャー史上初』の快挙。
54年の7月31日には、1試合で5打数4本塁打、1二塁打を放つが、
1試合で18塁打は、当時のメジャー新記録であった。

58年は、怪我の影響もあり、
105試合の出場にとどまるが、19本塁打、54打点で
ブレーブスのリーグ優勝及び、世界一に貢献した。

以後、ブレーブスでは、59年~62年まで、
4年連続で25本塁打以上をマーク。
怪我に苦しみ、しばしば試合を欠場しながらも、
61年には、マシューズ、アーロンを上回る35本塁打を放つなど、
チームの看板打者の一人として活躍した。

63年からは、インディアンズ、エンゼルスとチームを移籍、
66年、38才で現役を引退した。

67年、インディアンズの監督に就任するが、
結果を残せず、1年限りで解雇されてしまった。

大学生になるまで、
野球をただの一度もプレーした事のないアドコックだったが、
通算336本塁打、1122打点の成績を残した。

file.181 Dick GROAT【ディック・グロート】

2007-03-27 | GHI
【1960.NL.MVP】
Dick GROAT

大学時代は、バスケで全米代表としてプレー経験があるグロート。
52年、パイレーツに入団すると、マイナーを経ずに
遊撃手として、即メジャーデビューを果たした。
この年、95試合に出場したグロートは、
打率.284、29打点と結果を残し、新人王投票では3位にランクされた。

53~54年は、兵役で試合には出場せず、
55年、復帰。
57年に、打率.315、7本塁打、54打点をマーク。
弱かった打撃力が、ようやく開花した。

スピードは無かったが、野球頭脳に優れており、
状況に応じた打撃が持ち味、
ヒット・エンドランの達人であった。
守備面でも、堅実なグラブさばきと、
的確なポジショニングで投手を助け、
名手、ビル・マゼロスキと鉄壁の二遊間を形成した。

60年、グロートは打率.325、2本塁打、50打点の成績で
チームのリーグ優勝と、世界一に大きく貢献。
シーズンMVPを獲得する。
リーダーシップを買われての受賞だったが、
同僚のロベルト・クレメンテが、
打率.314、16本塁打、94打点という好成績を残していたために
このMVP獲得は、人種差別問題として、物議をかもした。

63年にカージナルスへ移籍。
移籍一年目で打率.319をマークすると、
64年、打率.292、70打点でチームのリーグ優勝及び
ワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たした。

その後、
フィリーズ、ジャイアンツとチームを変え、
67年、現役を引退した。

通算2138安打、打率.286。

file.180 Tony PEREZ【トニー・ペレス】

2007-03-22 | Big Red Machine
【ビッグ・レッド・マシーンのリーダー】
Tony PEREZ

1964年にレッズでメジャーデビューを果たしたペレス。
レギュラーの座を獲得したのは67年、
この年、三塁手として打率.290、26本塁打、102打点を打ち、
MVP投票で8位にランクされる程の活躍を見せる。

69年には37本塁打、122打点とパワーも見せつけ、
70年、打率.317、40本塁打、129打点の大活躍で
チームをリーグ優勝に導いた。
が、ワールドシリーズでは5試合で打率.056と絶不調、
チームもWロビンソンを擁するオリオールズに敗れ去った。

以後も、レッズの主砲として活躍。
爆発的な長打力こそ無かったものの、勝負強い打撃を披露し、
67年~77年の11年間、連続して90打点以上をあげ、
その間、100打点以上を6度マークした。

72年、一塁にコンバートされ、21本塁打、90打点の成績で
チームのリーグに貢献するがワールド・シリーズでは、
今度はレジー・ジャクソン擁するアスレチックスに惜敗。
ペレス自身は打率.435と活躍したが、再び涙を飲んだ。

その後、レッズの強力打線はいつしか
『ビッグ・レッド・マシーン』と呼ばれるようになり、
ペレスは、そのリーダー的存在になっていた。
キューバ生まれの明るいペレスは、そのキャラクターで
レッズベンチの盛り上げ役として振る舞い、
チームをおおいに盛り上げた。

75年、20本塁打、109打点をマークし、
チームをリーグ優勝に導くと、レッドソックスとのワールドシリーズでも
3本塁打、7打点と大暴れし、レッズの勝利に貢献。
シリーズ3度目の出場で、ようやく世界一の美酒を味わう事が出来た。

翌76年もワールドシリーズ制覇に貢献し、
ペレス率いるレッズは、頂点を迎えるに至った。
.....が、この年のオフ、ペレスは複数トレードで
エクスポズへ放出され、13年在籍したレッズを離れる事になってしまう。

以後、エクスポズ~レッド・ソックスとチームを変え、83年フィリーズへ移籍。
ピート・ローズやジョー・モーガンといった
息の合ったメンバーと共に、フィリーズを牽引しチームをリーグ優勝へ導いた。
翌84年、レッズに復帰。
86年まで、現役最後の3年間を愛着のある古巣レッズで過ごした。

通算2732安打、379本塁打、1652打点。
2000年に殿堂入りを果たした。

息子のエドアルドもメジャーリーガーで、
2007年現在、通算で445安打、79本塁打を記録している。

file.179 Carlton FISK【カールトン・フィスク】

2007-03-21 | DEF
【パッジ】
Carlton FISK

歴代1位となる、2226試合にわたって、捕手としてプレーした
メジャー史上、屈指の名捕手である。

67年、ドラフト1位でレッドソックスに入団、
72年、131試合に出場しレギュラーに定着する。
『打てる捕手』フィスクは、実質1年目のこの年、
打率.293、22本塁打と看板にたがわぬ打棒を見せつけ、新人王を獲得。
さらに、盗塁阻止率1位を記録するなど守備面での評価も高く
ゴールド・グラブ賞も受賞。
最高のスタートを切った。

2年目も26本塁打を放ち、相変わらずのパンチ力を見せたフィスクだが、
74年は怪我で52試合のみの出場。
75年も同じく怪我で79試合の出場にとどまるが
打率.331、10本塁打、52打点と、好成績を残し、リーグ優勝に貢献。
球史に残る熱戦となった、レッズとのワールドシリーズでは
第6戦の12回裏、永遠に語り継がれる劇的なサヨナラホームランを放つなど
大活躍するが、チームはレッズに惜敗、涙を飲んだ。

ちなみに、6戦のホームランを打った際、
レフト方向、ギリギリで飛ぶ打球を追いながら、
両手で『切れるな!!』とやったジェスチャーは、
負け試合でのシーンにも関わらず、
メジャー史でも有数の名シーンとして語り継がれ、
現在、フェンウェイの左翼ポールには
フィスクの名前が付けられている。

77年には打率.315、26本塁打、102打点をマークするなど、
攻・守にわたってチームを支えていたフィスク。
その捕手としての存在感は、ヤンキースのサーマン・マンソンから
ライバル視をムキ出しにされるほどであったが、
82年、フロントのミスもあり、ホワイト・ソックスへFA移籍。

新しい環境でもフィスクは攻・守に活躍を続け、
83年~85年は3年連続で20本塁打以上。
特に85年は打率こそ.238ながら37本塁打、107打点と
37才にして二部門でキャリアハイとなる好成績を残し、
健在ぶりを示した。

88年に40才を迎えたフィスクだが
打棒は衰えず、この年、打率.277、19本塁打、
89年も打率.293、13本塁打。
43才になった91年には18本塁打、74打点と
衰えを知らない打撃力を誇示、ホームベースを守り続けたが
チームのオーナーとの確執が悪化し、
93年、解雇されると、そのまま現役を引退した。

『パッジ(ずんぐりむっくり)』のニックネームは
息子が名付け親である。
レッド・ソックスで付けていた背番号『27』を
ホワイト・ソックスでは『72』に変えたが、
これは、新人王を獲得し、さらに前述の息子が誕生した
『1972年』にあやかったものである。

通算2356安打、376本塁打、1330打点。
2000年に殿堂入りを果たした。

file.178 Willie WILSON【ウィリー・ウィルソン】

2007-03-20 | VWX
【スピード・スター】
Willie WILSON

歴代12位となる668盗塁を記録した外野手、
80年代を代表するスピードスターの一人。

74年にドラフト1位でロイヤルズに入団したウィルソン。
78年に127試合に出場し、メジャーに定着、
198打数43安打の打率.217ながら、46盗塁をマーク、
その快足ぶりを大いにアピールした。

79年はレギュラーに定着し
打率.315、6本塁打、83盗塁を記録し盗塁王を獲得、
以後、5度の打率.3割以上、
11年連続30盗塁以上をマークするなど、
ジョージ・ブレットらと共に
ロイヤルズの最盛期を担う役割を果たす事になる。

80年、リーグ最多となる230安打に加え、
打率.326、79盗塁でチームをリーグ優勝に導くと
82年は、打率.332、37盗塁で首位打者の栄冠に輝いた。
守備面においても、ゴールド・グラブこそ一度の受賞にとどまるが
快足を活かした広い守備範囲でチームに貢献した。

83年のオフ、麻薬の服用が明るみに出て刑務所に入る事件を起こしたウィルソン。
が、翌84年は打率.304、47盗塁としっかり結果を残し、
85年には打率.278、43盗塁、21三塁打の成績でロイヤルズをリーグ優勝に導き
カージナルスと戦ったワールドシリーズでも
打率.367の大活躍で、チームの世界一に大いに貢献した。

91年、アスレチックスへFA移籍。
リッキー・ヘンダーソンと時折、快足1ー2番コンビを形成するが、
93年には今度はカブスへ移籍、
94年、38才で現役を引退した。

19年の現役生活で、2207安打、打率.285。
通算13本のランニングホームランと、
5度のシーズン最多三塁打が光る。

同時期にデビューしたリッキー・ヘンダーソンに隠れる形となったが、
強豪ロイヤルズの歴史を飾るリード・オフマンであった。

file.177 Red SCHOENDIENST【レッド・シェーンディーンスト】

2007-03-18 | STU
【名脇役】
Red SCHOENDIENST

好打、好守の二塁手として19年の長きにわたってプレーした職人。
三振が少ない粘りのある打撃が持ち味。
通算で2449安打をマークしている。

1942年にカージナルスと契約を交わしたシェーンディーンスト。
45年にはメジャーに昇格し、打率.278、26盗塁をマーク、
レギュラーに定着した。
以後、イノス・スローターや、スタン・ミュージアルらと
チームを支える中心選手として活躍を続けた。

俊敏な動きで広い守備範囲を誇り、
確実性も兼ね備えた、当代随一の二塁手であり、
かのハンク・アーロンも
「二塁手としての全てを持っているプレーヤーだ」と手放しで絶賛している。

52年打率.303をマークすると
翌53年は打率.342、15本塁打、79打点の好成績、
54年も打率.315で3年連続の打率3割以上をマーク。
好守に加え、打撃面でも開眼し、リーグを代表する二塁手となった。

56年のジャイアンツを経て、
翌57年シーズン途中からは、ブレーブスへ移籍。
この年のブレーブスは、優勝のための最後のピースとして
内野の要となる好守・好打の二塁手を必要としており、
シェーンディーンストは、それに『うってつけ』の選手であった。
新天地でシェーンディーンストはその才能をおおいに見せつけ、
新たな僚友ハンク・アーロンと共にチームを牽引し、
打率.309、15本塁打、65打点でリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでも活躍し、ブレーブスを世界一に導いた。
この年のMVP投票のアーロン、ミュージアルに次ぐ3位...という結果が
その救世主的な活躍ぶりを物語っている。

61年からは古巣カージナルスへ戻り
63年に現役を引退。

65年からは監督としてカージナルスを指揮し、
67年にワールドシリーズ制覇。
2度のリーグ優勝に輝き、通算で1041勝をおさめている。

1989年、殿堂入りを果たしている。

file.176 Frank ROBINSON【フランク・ロビンソン】

2007-03-16 | PQR
【三冠王】
Frank ROBINSON

メジャー史上唯一、ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグの両方で
MVPを獲得している名選手である。
通算2943安打、586本塁打、1812打点をマーク。

1956年、メジャーデビューした20才のロビンソンは、
打率.290、38本塁打、83打点の大活躍で新人王を獲得。
翌57年は打率.322のハイアベレージを残し、
59年には打率.311、36本塁打、125打点....と
アーロンやメイズに比肩するスラッガーに成長。

61年には打率.323、37本塁打、124打点でチームのリーグ優勝に貢献し、
シーズンMVPを獲得する。

翌62年も打率.342、39本塁打、136打点をマーク、
MVP級の活躍を見せたロビンソンは、
56年~65年のレッズ時代、7度の30本塁打以上、
4度の100打点以上、5度の打率.3割以上を記録。
63年には、拳銃不法所持で逮捕されるという不祥事も起こすが、
リーグ屈指のスター選手の地位は揺るぎないものであった。

黒人の地位向上のための公民権運動にも深く関わっていたロビンソンは、
次第にレッズのフロントから疎ましく思われるようになる。

「ロビンソンはロートルで、衰えが見え始めている」
66年、もっともらしい理由を付けられて、ロビンソンは
アメリカン・リーグのオリオールズへトレード放出される。

このトレードは、ロビンソンを大いに発奮させた。
新たな僚友、ブルックス・ロビンソンや、ブーグ・パウエルらと共に
快打を連発し、打率.316、49本塁打、122打点で三冠王を獲得。
チームをリーグ優勝に導く大活躍でシーズンMVPに輝くと
ワールド・シリーズでも、2本塁打を放ち、
ドライスデール&コーファックスを擁するドジャースを粉砕。
世界一の美酒に酔いしれた。

69年も32本塁打、100打点をマークしたロビンソン、
70年は打率.306、25本塁打でチームをリーグ優勝に導き、
レッズと戦ったワールドシリーズでも2本塁打と活躍し
2度目のチャンピオンリングを手にした。

72年、ドジャース
73年、エンゼルスとチームを変えたロビンソン。
75年には初の黒人監督(兼選手)としてインディアンズの指揮を司った。
76年、現役を引退。
以降も、ジャイアンツや、オリオールズ、エクスポズ~ナショナルズと
監督を歴任したが、チームを優勝に導く事は出来なかった。

柔和な顔付きとは逆に、短気で血の気が多いロビンソン、
新人の頃は、相次ぐ死球攻めに遭うなど、
その選手生活は平坦なものではなかった。
監督就任時も、ピッチャーのゲイロード・ペリーから
「黒人監督よりサラリーが下回るんだったらチームを出してくれ」
.........などと最低な台詞を吐かれた事もあった。

エクスポズ~ナショナルズ監督時は、厳格な姿勢をしばしば見せ、
造反選手に見せしめとも思われるペナルティを課したり、
試合中、納得のいかないジャッジを下した審判と1分ちかくベンチ外で睨み合ったり
.........と、およそイメージとはかけ離れた顔を幾度か見せた。
マイク・ソーシア&ブレンダン・ドネリー vs ロビンソン&ホセ・ギーエンの
「パインタール」事件も、印象深い事件だった。

82年、殿堂入りを果たしている。

file.175 Bob HORNER【ボブ・ホーナー】

2007-03-15 | GHI
【赤鬼】
Bob HORNER

アリゾナ州立大学で通算56本塁打.....の実績を引っさげて
78年、全米1位指名でブレーブスに入団したホーナー。

マイナーでプレーする事なく、即メジャー入りを果たした超エリート、ホーナーは、
5月16日のデビュー戦、バート・ブライレーヴンから本塁打を放つ活躍で、
大器の片鱗を大いに見せつけた。
結局この年、打率.266、23本塁打、63打点で新人王を獲得。
翌79年は、打率.314、33本塁打、98打点の好成績、
21才にして、リーグを代表するスラッガーに成長する。

80年も35本塁打を放ち、MVP投票で9位にランクされる活躍を見せたホーナー、
86年には1試合で4本塁打の離れ業を演じるなど、
78年から86年まで7度の20本塁打以上をマークした。

86年のシーズンオフにFA宣言をしたホーナーだったが、
高額のFA契約を敬遠したい各球団のオーナー陣の共謀に遭い、
どのチームからも獲得の声はかからなかった。
足許を見たブレーブスは、減棒での再契約を提示していたが、
ホーナーは、これを拒み、年棒3億円で日本のスワローズと契約、
87年、海を渡った。

現役バリバリのメジャーリーガー、ホーナーは、日本で暴れまくった。
5月5日、タイガース戦で挨拶代りの一発を放つと、翌日には3本塁打。
結局、初めの4試合で6ホーマーの大活躍を見せ、その力を大いに見せつけた。
日本球界は騒然となり、『赤鬼』『ホーナー旋風』....の文字が
連日のように新聞各誌をにぎわせた。

結局、怪我もあり93試合の出場に終わったホーナーだが
打率.327、31本塁打、73打点は堂々たる数字であった。

が、相手投手陣の執拗な四球攻めや、チームの練習方法、追い回すマスコミなど、
日本球界に嫌気がさしていたホーナーは、
『ベースボールとは、とても呼べないようなスポーツをプレーするために
 地球を半周もさせられた』....と捨て台詞を残し帰国。
翌88年、カージナルスでメジャーに復帰した。

カージナルスでは60試合に出場し、わずか3本塁打しか打つ事が出来なかったホーナー。
30才の若さながら、この年限りであっさりと現役を引退してしまった。

file.174 Phil GARNER【フィル・ガーナー】

2007-03-14 | GHI
【scrap iron】
Phil GARNER

71年、ドラフト1位でアスレチックスに入団したガーナー。
75年にはセカンドのレギュラーとして160試合に出場、
76年は打率.261、8本塁打、74打点に35盗塁を記録。
勝負強い打撃と俊足を見せつけた。

77年に複数トレードでパイレーツに移籍すると長打力が開花、
この年、打率.260、17本塁打、77打点、32盗塁をマーク。

79年は、打率.293、11本塁打、59打点。
守備面でも、二塁で83試合、三塁で78試合、遊撃で12試合する
ユーリティリーぶりでチームに貢献。
『ファミリー』の一員として、
ウィリー・スタージェルやデイブ・パーカーらと共に
チームをリーグ優勝に導いた。
ワールドシリーズでは、打率.500、5打点と大暴れし
パイレーツ世界一の原動力となった。

ガーナーの真骨頂は、そのハッスル・プレーであろう。
いつもユニホームを砂や泥で汚しながらプレーする姿に
いつしか『scrap iron(鉄クズ)』というニック・ネームで
呼ばれるようになった。

81年シーズン途中でアストロズへ移籍。
82年には13本塁打、83打点と、
変わらないクラッチヒッターぶりを見せつけた。

88年、5球団目となるジャイアンツで現役を引退。
通算1594安打、738打点、225盗塁を記録している。

引退後は、92年からブリュワーズ、
2000年から2001年までタイガースの監督を歴任。
2004年からは、古巣アストロズの監督に就任し、
05年、チームをリーグ優勝に導いている。

file.173 Mickey MANTLE【ミッキー・マントル】

2007-03-11 | MNO
【The Mick】
Mickey MANTLE

ルース、ゲーリック、ディマジオ...と並ぶ
ヤンキースの大スター選手である。
通算536本塁打、1509打点を叩き出し、
史上最高のスイッチ・ヒッターとも呼ばれる。

オクラホマのド田舎生まれのマントル。
メジャーデビューは、51年、19歳の時である。
96試合に出場し、13本塁打を放ち、大器の片鱗を見せつける。
が、この年のワールド・シリーズがマントルの運命を変えてしまう。
世界一を争う相手チーム、ジャイアンツのルーキー、
ウィリー・メイズの打球を追っていた時に、
グラウンドの排水溝の蓋部分につまづいて、膝を故障してしまう。
この故障は、マントルの選手生活に常につきまとうのである。

ともあれ、19歳で華々しくデビューを飾ったマントルは
翌52年には打率.311、23本塁打を放ち、
ディマジオの後継者として、一躍ニューヨークのスターの座を獲得した。

54年には27本塁打、102打点、
55年は34本塁打で初の本塁打王に輝き、
56年は、打率.353、52本塁打、130打点で三冠王、
シーズンMVPも獲得する。

マントルの真骨頂は、何と言っても飛距離の出る大本塁打であろう。
53年に放った場外ホーマーは、実に171.8メートルを記録したという。

18年のキャリアで10度の3割、9度の30本塁打以上、9度の90打点以上をマーク。
加えて、3度のシーズンMVPに輝いている。
黄金時代のヤンキースを支えた、華やかなスーパースターであったが、
その選手生活は、骨髄炎や、骨折、腰部の腫瘍や軟骨組織の断裂、病魔....など、
度重なる故障との戦いの日々でもあった。

61年は、マントルとM・M砲を形成していたロジャー・マリスが61本塁打を放ち、
『ベーブ・ルース』の年間60本塁打の記録を更新した年であったが、
実はマントルも絶好調で、打率.317、54本塁打、128打点をマークしている。
病気でシーズン終盤に離脱を余儀無くされたが、
それがなければ、あるいはマントルが、61本以上の本塁打を放っていたかもしれない。

マントルは、ワールドシリーズでの猛打でも、その名を馳せている。
12度にわたるシリーズ出場で、チームを7度の世界一に導き、
通算で18本塁打、40打点を叩き出し、いずれも未だメジャー記録である。

また、一族の男が皆早死をしているのを気にして
自分も必ず若くして死ぬ...と決めてかかり、体のケアもろくにせず、
親友のホワイティ・フォードと夜の街で不摂生の限りをつくした。
結局64歳まで生きたマントルは、晩年、若い頃の放蕩三昧を相当悔やんでいたという。

先輩のディマジオが気難しく、同僚とも一線を引いていたのに対し、
マントルは、天真爛漫、社交的、ジョーク好きで、誰からも愛された。
そして、どんな人間に対しても分け隔てなく接した。
ある日、試合終了後にチーム全体で食事をしようと
街のレストランにバスで乗り付けた際、
そのレストランが『黒人入店お断り』だったために
チーム唯一の黒人選手であるエルストン・ハワードは
バスの中で待機させられるハメになった。
すると、マントルがレストランから二人分のサンドウィッチを抱えて
バスに戻って来た.........「君と一緒に食いたかったんだ、エリー。」

選手生活晩年は、重ねた故障の影響で、
まともに走る事すらままならず、守備位置はセンターから一塁へ。
1968年、現役を引退。
74年に殿堂入りを果たし、95年、ガンのため他界。
背番号7は言うまでもなくヤンキースの永久欠番である。

余談だが、マントルが引退後に始めた事業のひとつに
フライドチキンのチェーン店があるのだが、
マントル自身が考え出した、宣伝コピーが傑作である。

『もっと、うまいチキンを食べたかったら、雄鶏になるしかないよ!』




file.172 Pete ROSE【ピート・ローズ】

2007-03-10 | Big Red Machine
【チャーリー・ハッスル】
Pete ROSE

球史に燦然と輝く通算安打4256を誇るヒット・メーカーである。

ローズは、1963年にレッズの二塁手としてデビュー、
この年、打率.273、6本塁打の成績で新人王を獲得するが
翌64年は打率.269に終わり、二年目のジンクスに苦しんだ。

ローズがブレークしたのは、65年。
打率.312で209安打、11本塁打、81打点をマークし
MVP投票で6位にくい込む活躍を見せた。
翌65年も205安打に打率.313の好成績を残し、
結局24年のキャリアで、実に15回の打率3割以上を記録した。

ローズの魅力は何と言っても、
そのハッスル・プレーにあったといえよう。
特に、空を飛ぶかのようなヘッド・スライディングは
多くの観衆を沸せ、ローズの代名詞となった。
目立ちたがり屋のスタンド・プレーヤーであるローズは
自分のプレーでファンが喜べば、ますますヒート・アップし、
それが、数々の乱闘にもつながる程だった。

また、ヒットを打つ才能だけでなく、
二塁手から外野手へ、さらに三塁手~一塁手と
チーム事情によるコンバートにも難無く対応する器用さも
持ち併せていた。
ローズは、前述のポジション全てで
500試合以上に出場している。

68年、打率.335で初の首位打者を獲得すると、
69年も.348の高打率で2年連続の首位打者に。
70年には打率.316、15本塁打でチームをリーグ優勝に導き、
72年も打率.307を打って、リーグ優勝に貢献するが
ワールド・シリーズでは、両年とも、栄冠を掴む事は出来なかった。

73年は、打率.338で3度目に首位打者と初のMVPに輝き
メジャー屈指のヒット・メーカーとしての地位を揺るぎないものにする。

ローズを核弾頭とするビッグ・レッド・マシーンが
球界を席巻したのは75~76年の2年間である。
75年、ローズは210安打で、打率.317を打ち、112得点はリーグ1。
チームもリーグ優勝し、ワールド・シリーズでは、
レッド・ソックスとの激闘の末、勝利をおさめ、世界一に....。
ローズも、シリーズ打率.370をマークしMVPに輝く活躍を見せた。
翌76年も、215安打の打率.323と
リーグトップの130得点を稼ぎ、リーグ優勝に貢献。
ワールド・シリーズではヤンキーズを全く寄せつけず
4連勝で2年連続の世界一に輝いた。

その後、79年にフィリーズへ移籍した後も
ローズのヒット・パレードは続き、この年、打率.331をマーク。
80年の世界一にも多大な貢献を果たした。

84年、エクスポズへ移籍し、4000本安打を達成すると
同年8月、選手兼監督としてレッズに復帰。
43歳のローズは、攻・守に衰えが目立っていたが、
タイ・カッブの4189安打を抜き去るべく、『自分』を起用し続け
甲斐あって、85年、4192本目のヒットを放ち、記録達成。
一塁ベース上では息子と抱き合い涙を流す感動の場面を演じたが
一方では「自身の出場機会を最も不条理に扱ったプレーイング・マネージャー」
との声もあがった。

86年に現役を引退、監督に専念、
89年に、野球賭博が発覚し、球界から永久追放と相成った。

現在に至るまで、ローズの復権は度々、取り沙汰されたが
相変わらずの派手なギャンブル好きや、軽はずみな言動など....
その素行を見ると、その道のりはますます険しくなっているように思える。

.....が、ローズが、堂々の殿堂入りクラスの大選手だった事実は歴然。
魅力溢れるローズのプレーで、メジャーファンになった日本人も多いのである。

file.171 Jeff BURROUGHS【ジェフ・バロウズ】

2007-03-08 | ABC
【1974 AL MVP】
Jeff BURROUGHS

1969年、セネターズに全米1位指名で入団したバロウズ。
70年にメジャーデビューし、73年に30本塁打を打って
レギュラーに定着。

翌74年は、打率.301、25本塁打、118打点の好成績で
全米1位指名選手の実力を見せつけ、
優勝したアスレチックスのレジー・ジャクソンや
ジョー・ルディを抑えてシーズンMVPに選出される。

75年、24本塁打、94打点を叩き出すも打率.226。
76年は打率.237に加え本塁打18本と
2年続けて不振に苦しんだバロウズは、
77年、トレードでブレーブスに入団し、
打率.271、41本塁打、114打点と爆発。
意地を見せつける。

翌78年も打率.301、23本塁打と結果を残したバロウズ、
85年に34歳で現役を引退するが、
79年以降は、目立つような数字を残す事は出来なかった。
通算240本塁打、882打点。

バロウズの息子、ショーンは、
リトルリーグ時代から注目を浴びるような麒麟児で、
98年、父親同様1位指名されパドレス入団を果たした。
03年にレギュラーに定着し、
04年も打率.298を残すが、05年は不振。
06年はデビルレイズへ移籍するが8試合の出場に終わり、
未だブレークを果たせてはいない。