GUMBO

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file .301 Larry WALKER【ラリー・ウォーカー】

2012-04-19 | ABC
【Boogie】
Larry WALKER

高校時代はアイスホッケーの選手だったウォーカー、
ほぼ野球未経験だったにも拘らず、
その身体能力の高さを買われて、1984年、
エクスポズに入団。

1990年、打率.241 19本塁打 51打点 21盗塁をマークし、
チームのレギュラーに加わると、着々と力を付け、
92年には打率.301 23本塁打 93打点 18盗塁。
オールスター出場、ゴールドグラブ受賞、MVP投票5位…と
リーグを代表するスラッガーに成長を遂げた。

95年、ロッキーズに移ると、さらに打撃が開花。
この年、打率.306 36本塁打 101打点、
97年には、打率.366 49本塁打 130打点 33盗塁でMVP受賞。
98年、打率.363 23本塁打 67打点で首位打者獲得、
99年も打率.379 37本塁打 115打点で2年連続の首位打者に輝いた。

当時のロッキーズにはトッド・ヘルトン、
ヴィニー・カスティーヤ、ダンテ・ビシェット、
アンドレス・ガララーガといったパワフルな面々が揃っており、
特に97年はガララーガ、ウォーカー、カスティーヤが40本以上の本塁打を放ち、
相手投手を恐怖に陥れていたが、
ウォーカーは打撃だけでなく、走塁、守備も一級品。
90年代屈指の5ツールプレーヤーであった。

2000年、肘の怪我で87試合の出場にとどまったが、
2001年は打率.350 38本塁打 123打点と復活。

その後、2004年のシーズン途中にカージナルスへ移籍すると、
二番打者としてアルバート・プホルスらとチームを牽引。
チームを地区優勝に導くと、プレーオフでも大活躍。
惜しくも世界一には及ばなかったが、
その存在感を大いに知らしめた。

もともと故障に泣かされがちだったウォーカー、
シーズン140試合以上の出場は17年のキャリアで4度のみ。
2005年、肘の怪我とヘルニアに苦しめられ、
この年限りで現役を引退した。

陽気な性格で知られ、
オールスター出場時にランディ・ジョンソンと相対した際、
頭部後方に暴投したジョンソンに対し、
ヘルメットを後ろに被り、右打席に立ってみせるというパフォーマンスを演じた事もある。
さらに『3』の数字に異常なまでの拘りを持ち、
現役中の背番号は全て『33』
結婚式の開始時間も3:33分に設定する程だった。

首位打者3回、本塁打王1回、ゴールドグラブ7度受賞、
オールスター5度出場。

まさに時代を代表するスーパープレーヤーであった。

通算1988試合 2160安打 打率.313 383本塁打 1311打点 230盗塁。

file .295 Phil RIZZUTO【フィル・リズート】

2011-04-04 | ABC
【Holy Cow!】Phil Rizzuto

生粋のブルックリン子だったリズート。
が、地元球団のドジャースには身長の低さゆえに入団できず、
37年、ヤンキースと契約を結ぶ。

41年にメジャーデビュー。
1年目から.307をマークし、
チームのワールドシリーズ制覇に貢献。
2年目には.284 68打点 22盗塁。
オールスターにも初出場を果たした。

ショートの守備面においては、
肩は強くないものの、
俊敏な動きでカバー、沢山の華麗なダブルプレーを決め、
その動きから『スクーター』のニックネームで呼ばれた。
打撃面では、非力ながら粘っこいアプローチで
相手投手を嫌がらせ、バントをさせれば当代随一の名手であった。

43年~45年、兵役に就いたため
3年間のブランクができたものの、
46年にチームに戻ると、
チームは47年~53年の間、
実に6度のワールドシリーズ制覇を成し遂げ、
リズートは内野守備の要として、
攻撃面でも渋い名傍役として
ジョー・ディマジオやヨギ・ベラといった面々と共にチームの黄金期を支えた。

49年、.275 5本塁打 65打点 18盗塁という平凡な成績にも関わらず
シーズンMVP投票では2位という高評価を得ると
50年は.324 7本塁打 66打点をマークし堂々のMVP獲得。
170cmに満たない小兵が、リーグNo.1選手の栄冠に輝いたのであった。

56年、38歳までヤンキース一筋でプレーを続け、
通算1661試合 打率.273 38本塁打 563打点 149盗塁。

現役引退後はヤンキースのキャスターとして
試合の実況を担当、名調子で人気を博し、
『Holy Cow!』(なんてこった!!!)は
リズートのトレードマークとなった。
ロジャー・マリスが61本目の本塁打を打った試合も実況。
『Holy cow, what a shot!』
(すげえ! なんて当たりだ!!)
・・・と例の名調子で試合実況を盛り上げた。

打撃成績が若干見劣りするためか
チームの黄金期を彩った名選手だったにも関わらず
殿堂入りが遅かった。
ファンはリズート殿堂入りキャンペーンを実施し、
1994年、ようやく晴れて殿堂選手の仲間入りを果たした。

file .285 Albert BELLE【アルバート・ベル】

2010-03-05 | ABC
【意外と、勉強は出来たらしい】
Albert BELLE


実働12年ながら
その間、圧倒的な打撃力と、
同じく圧倒的なトラブルメーカーぶりで
異様な存在感を示したスラッガーである。

大学時代から、その実力を遺憾なく発揮し、
1987年、インディアンズから2位指名を受け入団。
89年にメジャーデビューを果たすと
91年、打率.282 28本塁打 95打点をマーク。
当時、貧打に喘いでいたチームにとって
待望のスラッガーの登場であった。

以後も、チームの主力打者として
その打撃力を遺憾なく発揮したベル。
93年、打率.290 38本塁打 129打点で打点王を獲得すると
95年には、打率.317 50本塁打 126打点で二冠王。
チームのリーグ優勝に大いに貢献した。
ちなみに、この年のリーグMVPは
打率.300 39本塁打 126打点のモー・ヴォーン(レッドソックス)。
数字上ではベルの方が上を行っていたが、
マスコミに対する粗暴な態度が災いしての落選・・と言われている。

96年も打率.311 48本塁打 148打点(打点王)・・・と
豪打爆発のベルだったが、
97年、FA移籍でホワイトソックスへ入団。
同チームには、かのフランク・トーマスもおり、
稀代のスラッガーの競演は、ファンの期待を膨らませた。
この年・・・
ベル/打率.274 30本塁打 116打点
トーマス/打率.347 35本塁打 125打点
翌98年・・・
ベル/打率.328 49本塁打 152打点
トーマス/打率.265 29本塁打 109打点
コンビを組んだのは上記の2年だけであったが、
どちらかが突出した成績をおさめると、
どちらかが少々調子を崩す・・・・・、
数字だけ見れば、そろい踏み・・・
という訳には行かなかったようである。

99年からは、オリオールズに在籍
2000年の打率.281 23本塁打 103打点という成績を最後に
以後は、故障等で試合に出場出来ず、
そのまま引退してしまった。

通算打率.295 381本塁打 1239打点、
殿堂入りも可能な成績ではあるが、恐らく無理だろう。
理由は何といっても、そのトラブルの多さである。

●ファンにボールをぶつけて骨折させる。
●デッドボールに怒り、ピッチャーをボコボコにする
●ハロウィンの日に、お菓子をねだりに来たチビッ子達を車で追いかけ回す。
●コルクバットの使用がバレると、
同僚のジェイソン・グリムズリーを使って証拠隠滅を計る
 (審判団の部屋に忍び込ませ、審判団に没収されたバットを同僚のそれとすげ替えさせた)
●賭博
●暴言
・・・etc・・・
トラブルのデパート状態である。

最近、ここまでの悪童はMLBでは聞かなくなってしまった。
・・・不謹慎かもしれないが寂しい気もする。

file .284 Barry BONDS【バリー・ボンズ】

2009-12-31 | ABC
【最強のプレーヤー】
Barry BONDS


1985年、パイレーツからドラフト1位指名を受けたボンズは
86年にはメジャーデビューを果たし、
打率.223 16本塁打 48打点 36盗塁をマーク。

その後は、やや伸び悩むも
90年、打率.301 33本塁打 114打点 52盗塁と
その果てしない才能が開花。
92年にも打率.311 36本塁打 103打点 43盗塁をマークするなど
トリプル3は当たり前クラスの
球界を代表する5ツールプレーヤーとして
その名を全米に轟かす事となった。

1993年、父ボビー・ボンズも所属した
ジャイアンツへ移籍。
ゴッドファーザーのウィリー・メイズの背番号「24」を希望したが
さすがに永久欠番だったため諦め、父の「25」に収まった。

選球眼が良く三振は少ない。
バットを長く持つ事はせず、
並外れたスイングスピードでコンパクトに振り抜く、
確実性とパワーを兼ね備えた、ボンズにしか出来ない完璧な打撃。
加えて、ゴールドグラブを8度獲得するなど左翼の守備も抜群。
さらに通算514盗塁でも証明されている走塁のセンス。
ジャイアンツ移籍1年目の93年も
打率.336 46本塁打 123打点 29盗塁。
圧倒的な成績で本塁打/打点の二冠を獲得した。

以後も90年代最高のプレーヤーとして
好成績をマークし、史上初の400本塁打/400盗塁を記録するなど
快走を続けるボンズだったが、
マリナーズのケン・グリフィーや、
98年に本塁打狂騒を巻き起こしたマグワイア/ソーサなどに比べると
その評価は正当とは言い難く、全米クラスの知名度で見ると
上記スター選手よりも低い位置にいると言わざるを得なかった。

が、そんなボンズが一気にスーパースターの座に登り詰めたのが
2001年であった。
2000年も、打率.306 49本塁打 106打点という好成績だったボンズだが
2001年、打率.328 73本塁打 137打点。
98年にマグワイアが記録した年間最多本塁打70をあっさりと更新。
2002年には打率.370 46本塁打 110打点でキャリア初の首位打者を獲得、
さらに出塁率は.582...と、本塁打こそ減ったものの
圧倒的な存在感を示した。

2004年には打率.362 45本塁打 101打点に加え
120の敬遠を含む232の四球を選び、出塁率は脅威の.609。
守備/走塁に衰えは隠せなかったが、打撃では比類無き力を見せつけた。

が、この頃からボンズに「薬物使用疑惑」の影が忍び寄りつつあった。

あらゆる記事や暴露本によって、
ボンズの薬物使用は決定的となり、
アウェーの試合では、観客の激しいブーイングを受け、
グラウンドに注射器が投げ込まれた事もあった。
2007年にはハンク・アーロンの通算本塁打755を抜き去るも
疑惑の所為で全米のファンの歓迎を受けたとは言い難い状況になってしまった。
また、この年限りでジャイアンツとの契約が切れると、
その後、契約を結ぶ球団も現れず、
2009年現在、実質引退の形となっており、
数年後の野球殿堂入りの投票でも苦戦が予想されている。

父ボビーが甘やかして育てた所為か、
従兄弟にレジー・ジャクソンがいる...という血の所為か
若い頃から不遜な性格でチームメイトから孤立し、記者の受けも悪かったボンズ。
さらに薬物疑惑の影響も加わって、
バリー・ボンズといえば、メジャーリーグ史上
トップクラスのヒール.......というイメージが固まってしまっている。
また、その華々しいキャリアも、薬物の力を借りた物として
疑問視する声も多い。

しかしながら、多くのメジャーリーガーが
ボンズの打撃成績は、薬物使用が事実でも、その価値が損なわれる事は無いと語っているように
私的な考えながら、通算打率.298、762本塁打、1996打点、514盗塁、出塁率.444という輝かしい数字は
彼がメジャー史上最高のプレーヤーの一人だという事を如実に物語っていると思う。

file .278 OIL CAN BOYD【オイルカン・ボイド】

2009-02-20 | ABC
【缶ビール・ボイド】
OIL CAN BOYD

メジャーリーグ史上、屈指のカラフルな投手である。

1980年、レッドソックスに入団したボイドは
83年、本格的にメジャーデビューを果たし、
防御率3.28、4勝8敗...とまずますの成績を残した。

翌84年は、ローテーションの一角を占め、防御率4.37、12勝12敗。
85年は、272イニングを投げ、防御率3.70、15勝13敗...と
ブルース・ハーストや、若きロジャー・クレメンスらと共に、チームを支え、
86年は防御率3.78、16勝10敗で、リーグ優勝に大きく貢献、
リーグを代表するピッチャーの一人に成長した。

ボイドの名を全国区にまで知らしめたのは
投手としての実力だけでは無く、
むしろ、そのキャラクターの濃さであった。
エキセントリック/短気/派手なパフォーマンス....。
相手打者を打ち取ると、腕を突き上げ咆哮し、
時には、手をひらひらとそよがせて打者を小馬鹿にするような仕草をしてみせた。
86年、好成績を残していながらオールスターに選ばれなかった時は
我を忘れて怒り爆発、精神病院に担ぎ込まれ、
さらに同年、ワールドシリーズ7戦の先発を天候の影響で逃すと、
(スライド登板出来ず、ハーストにその座を奪われた)
子供のように泣きじゃくった。
尊敬するサッチェル・ペイジを真似て
『シンキング・シンカー』『スリッパリー・スライダー』など、
自分の持ち球に名前を付けたりもした。
ちなみに本名はデニス・ボイド。
『オイルカン』のニックネームは、ボイドが大のビール好きで
マイナー時代、試合前に6本もの缶ビールを飲んでいた事に由来する。
ボイドの故郷、ミシシッピでは、ビールをオイルと呼んでいたのだ。

ともあれ、メジャーリーグの名物男として
知られるようになったボイドだが、
87年以降は、腕の故障もあって、精彩を欠いた。
90年にエクスポズへ移籍し、防御率2.93、10勝6敗と好成績をおさめ
久方ぶりに光を放ったが、それまで。
91年を最後にメジャーリーグの世界から姿を消した。

.......が、しかし
『50歳まで投げるのが夢』と語りしボイドが
31歳で夢を捨てるわけが無かった。
その後、97年まで独立リーグを中心に投げ続け、
2005年、45歳にして、独立リーグの『カナディアン アメリカンリーグ』の
ブロックトン・ロックスと契約。
17試合を投げ、防御率3.83、4勝5敗、69三振と、
年齢を感じさせない投球を披露した。

メジャー通算78勝77敗、防御率4.04。

50歳まであと一歩の今も、
虎視眈々とメジャー復帰を目指している.......かもしれない。


file .276 Bill BUCKNER【ビル・バックナー】

2009-01-29 | ABC
【Billy Buck is BACK!!!!!!!!】
Bill BUCKNER

ビル・バックナー=WSでのトンネル....。
一度付いてしまったイメージはいかんともし難いが、
バックナーは、当時メジャーでも屈指の、打撃の職人であり、
60~90年代にわたりメジャーに在籍した
4ディケードプレーヤーでもある。


1968年、ドラフト2位指名でドジャースに入団したバックナー。
71年、21歳の若さでメジャーデビューすると、
72年には打率.319、5本塁打、37打点をマーク、
早くも、その好打者ぶりを発揮する事となる。

74年には打率.314、7本塁打、58打点、31盗塁、
76年は打率.301、7本塁打、60打点、28盗塁...と
安定した成績を残していたバックナーだったが、
77年、トレードでカブスへ移籍。
新天地でも78年に打率.323、5本塁打、74打点、
80年には打率.324、10本塁打、68打点で首位打者を獲得するなど活躍。
リーグを代表するヒットマシーンとしての地位を確立した。

バットコントロールに秀で、三振は少ないが
その一方で、早いカウントから打ちに行くので四球も少なく
出塁率は高く無い。
元々は外野手 兼 一塁手だったが、カブス移籍に伴って
本格的に一塁手へコンバート。
名手までとはいかないまでも、守備は悪くは無かった。

その後もカブスの主力打者として活躍、
82年には打率.306、15本塁打、105打点...と
勝負強いクラッチヒッターぶりも見せつけた。

84年、打率.209と低迷するバックナーは
シーズン途中でレッドソックスへトレード移籍、
初のアメリカンリーグであったが、
新天地では打率.278、11本塁打、67打点と
期待通りの働きをしてみせた。

85年、打率.299、16本塁打、110打点と、
ベテランらしい渋い活躍を見せ、
86年も打率.267、18本塁打、102打点..でチームを牽引、
ウェイド・ボッグス、ジム・ライスらと共に、
無くてはならない貴重な戦力として
レッドソックスのリーグ優勝に大きな貢献を果たした。

.......が、思わぬ出来事がバックナーを襲う。
メッツとのワールドシリーズ、
レッド・ソックスが3勝で優勝にリーチをかけた第6戦。
ランナーを置いた状況で、メッツのムーキー・ウィルソンの一塁ゴロをトンネル、
決勝の走者を還してしまい、
チームのサヨナラ負けを大いに演出してしまう。

結局、ワールドシリーズはメッツが制し、
バックナーは最大の戦犯として、
ファンから非難を浴びる事となってしまった。

その後、エンゼルス、ロイヤルズと渡り、
90年、因縁のレッドソックスで22年におよぶキャリアの幕を降ろした。

通算2715安打、183本塁打、1208打点、打率.289。

殿堂入りは果たせず、
バックナーについて語られるのは常にエラーの事ばかりである。
が、10回裏、あと1つアウトを取れば勝ち...という、二死走者無しの状態から、
三連打&ワイルドピッチで同点......。
これは異常ともいえる状況であり、件の敗戦はバックナーの所為とは言い難い。
結局、バックナーは、この歴史的敗戦の責を一人で背負わされてしまったに過ぎないのである。

2008年4月、フェンウェイパーク、
レッドソックスの本拠地開幕戦のオープニングセレモニーは
バックナーの始球式がハイライトであった。
すでにバンビーノの呪いは解かれ、
満員の観客はバックナーに割れんばかりの歓声を送った。
こみ上げる涙をこらえられないバックナー。

バックナーの長い『トンネル』が終わった瞬間であった。

file .267 Lou BOUDREAU【ルー・ブードロー】

2008-12-15 | ABC
【The Man of 1948】
Lou BOUDREAU

ブードローは、1939年、インディアンズで本格的にメジャーデビュー。
40年には打率.295、9本、101打点という
圧倒的に勝負強い打撃を見せ、遊撃のポジションを手中に収めた。

ブードローの真骨頂は、堅実な守備であろう。
キャリア15年で8度の守備率リーグトップがそれを物語っている。
また、多少の怪我では試合を休まないガッツも持ち合わせており、
「どうも胃の調子が悪いなぁ」と思いながらプレーし続けていたら、
盲腸だった............などという事もあったという。

41年オフ、24歳のブードローは、
球団フロントに『監督志望』の嘆願書を提出した。
驚くべき事に、それは認められ、
42年、弱冠24歳の青年監督(兼選手)が誕生する。

ハードな遊撃のポジションを守りながら、チームを指揮し、
打撃面でも、44年にリーグ首位の打率.327をマークするなど、好結果を残し続けた。
40年~49年にかけて、毎年リーグMVP投票に顔を出し、
8度のオールスター出場を果たしているのだから、
その安定した働きぶりが想像できよう。

ブードローのキャリアのハイライトは、
何と言っても1948年である。
30歳の青年監督兼正遊撃手は、
ジョー・ゴードン、ラリー・ドビー、
ボブ・レモン、ボブ・フェラー、サッチェル・ペイジ(!)ら
豪華キャストを牽引し、チームをリーグ優勝に導き、
打率.355、18本塁打、106打点でリーグMVPを獲得するなど、
自ら主演も務め上げてしまたのである。
また、ワールド・シリーズでも
かのスパーン/セイン用擁するブレーブスを、
雨など降らせてなるものかとばかりに打ち破り、
チームにとって、自分にとって、最高の年を見事に演出してみせた。

その後、ブードローは、
51年に選手兼監督としてブレーブスへ移籍、
52年に現役を引退した。
監督としては、54年までブレーブス、
55年からカンザスシティ・アスレチックス、
60年はカブスを率いた。

通算1646試合、打率.295、68本塁打、789打点、
選球眼に優れ、四球796に対して三振は309、
出塁率.380が光る。

他にもテッド・ウィリアムスを打席に迎えた時に
実行したブードロー・シフト(王シフトの原型?)や、
41年7月17日、ジョー・ディマジオのヒット性のあたりを好捕し、
連続安打試合記録を56でストップさせるなど、
大打者絡みの逸話も多い。

70年、野球殿堂入り。
2001年、死去。


file .261 Jim ABBOTT 【ジム・アボット】

2008-10-01 | ABC
【隻腕のエース】
Jim ABBOTT

1967年、ミシガンで生まれたアボットは、
先天性右手欠損....右手首より先が無い、という
ハンディキャップを背負って生まれた。
両親は、高校を出たばかりの18歳同士、
生まれてきた赤ん坊を見た時の衝撃は計り知れないが、
二人は悲観せず、普通の子供として育て、
アボットのやりたい事を、好きにやらせた。

やがて野球を始めたアボットだったが、
問題は守備であった。
アボットは、投球時にグローブを右手首に乗せ、
投球直後にそのグローブを即座に左手にはめる...という動作を
時間をかけ何度も練習し、ついに会得。
高校、大学と、投手としてプレーし続け、その才能を開花。
ついには、ソウル・オリンピックの代表メンバーに選出され、
金メダル獲得の原動力となった。

1989年、カリフォルニア・エンゼルスに入団したアボットは、
マイナーでのプレーを経ず、防御率3.92、12勝をマーク。
5月17日には、レッドソックス相手に完封、
ロジャー・クレメンスに投げ勝つ...という大金星をあげている。
新人王レースでも5位に付け、
早くも、チームのローテーション入りを果たした。

91年は、アボットにとって、最高の年となった。
防御率2.89、18勝という素晴らしい成績で、
サイ・ヤング賞の投票では3位にランクイン。
チャック・フィンリーやマーク・ラングストンといった面々と共に、
主力投手としてチームを支えた。

92年も7勝ながら防御率2.77と好投し、
安定した投球を見せたアボットだったが
93年、J.T・スノウらとのトレードでヤンキースへ移籍。
この年の9月のインディアンズ戦では、
ノーヒット・ノーランを達成。
インディアンズ打線には
ケニー・ロフトン、カルロス・バイエガ、アルバート・ベル、
売り出し中のジム・トーミー、
この年デビューしたマニー・ラミレスなどがおり、
今見ると、かなり豪華な布陣であった。

その後、ヤンキースを経て、
シソックス、エンゼルス、ブルワーズと渡り歩いたアボットだったが、
91~92年頃のキレのある投球は復活せず、
1999年、ブルワーズを最後に現役を引退した。

通算263試合、87勝、防御率4.25。

とある試合、
無意識にセーフティバントの構えを見せ、
投手がアボットだと気づき、バットを引いた選手に対し、
「何故バントをしなかった?? あの場面ではあり得る作戦だろ?? 
私に気を使う事は無いし、バントをしない事は逆に私を見下してる事になるんだぜ」
と言い放ったという。

男・アボット、歴史に残る名レフティである。

file.260 Norm CASH 【ノーム・キャッシュ】

2008-08-23 | ABC
【Stormin' Norman】
Norm CASH

1973年、7月15日、デトロイト。
デトロイト・タイガースvs カリフォルニア・エンゼルス、
この日、エンゼルスの先発投手、ノーラン・ライアンは
9回2死までタイガースを無安打に抑える
快刀乱麻の投球を見せていた。
........あと一人でノーヒッター........
主砲のノーム・キャッシュが打席に立つと
ライアンは、その眼を疑った。
キャッシュの手に握られていたのは
バットではなく、テーブルの脚だったのだ。
「あんた、何やってんだ、馬鹿な事はやめろ」
審判のロン・ルチアーノはが注意するとキャッシュは真剣な面持ちで言い放った
「どうせ、打てないんだ。コイツだってバットだって一緒だろ!!」

NHLのベアーズからもドラフトされたというキャッシュ。
58年、ホワイトソックスでデビューするも成績は泣かず飛ばず、
ブレークを果たしたのは60年、タイガースへトレードされてからであった。
この年、打率.286、18本塁打、63打点をマークしたキャッシュは
翌61年、自慢のお手製コルクバットで豪打連発。
打率.361、41本塁打、132打点...と脅威の成績を残し
首位打者の栄冠に輝くが、この年は運悪くロジャー・マリスの『61』の年。
キャッシュが注目を浴びる事は殆ど無かった。

コルクバットを捨て、新たな気持ちで迎えた翌62年、
39本塁打を放ちパワーを見せつけたものの、
打率は.243まで降下し、打点も89。
前年に比べおおいに成績を下げた。

以降、63年は打率.270、26本塁打、79打点、
66年は打率.279、32本塁打、93打点と
主砲としては申し分無い働きを見せるキャッシュだったが
61年レベルの成績を残すのには至らなかった。

68年、打率.263、25本塁打、63打点、
物足りない数字ではあったがチームはリーグ優勝。
カージナルスとのワールド・シリーズでは、
打率.385、1本塁打、5打点と大暴れ。
タイガース22年ぶりの世界一に大きな貢献を果たした。

その後、74年までタイガースでプレーし現役を引退。
前述のライアンの一件でも分かる通り、
ユーモアのセンスに溢れ、ファンや他の選手たちに愛された。
ランナーで出て、1~2塁間で挟まれた際には
両手で『T』の字を作り、タイムを要求した事もあるという。

通算1820安打、377本塁打、1103打点、打率.271
一塁守備も名人級であった。

1986年、ボートの事故で死去。


file .257 Clete BOYER 【クリート・ボイヤー】

2008-07-29 | ABC
【名手、日本へ】
Clete BOYER

名三塁手ケン・ボイヤーを兄に持つクリート・ボイヤーは、
18歳の若さでメジャーデビュー。
アスレチックスで47試合に出場し打率.241をマークした。

ブレークしたのは1960年、
ヤンキースへ移籍してからであった。
この年打率.242、14本塁打、46打点、
打撃は荒いものの、ケンと同じ三塁手として、
兄を凌ぐ守備力を見せ、チームのリーグ優勝に貢献した。

1961年、球界がロジャー・マリスの『61』に湧いた年、
ボイヤーは打率.224、11本塁打、55打点をマーク。
明けて62年は打率.272、18本塁打、68打点と
勝負強い打撃を見せ、ヤンキースの2年連続の
世界一に大きな貢献を果たす。

内野の要として
王朝ヤンキースを支えたボイヤー、
64年には、兄ケンの在籍するカージナルズとワールド・シリーズで相まみえ、
惜しくも世界一は逃したものの、
第7戦で兄弟アベックホームランを達成した。

67年、ブレーブスへ移籍、
この年、打率.245、26本塁打、96打点をマーク。
以降も、同僚の大打者ハンク・アーロンらと共に、
攻守にわたって、チームを支えた。

が、そんなボイヤーに大きな転機が訪れる。
1971年、チームを批判する発言をかましたボイヤーは、
シーズン途中で解雇されてしまい、
他球団からの誘いも無く、
ハワイの独立リーグでプレーする事になってしまったのだ。

そんなボイヤーに熱い視線を送っていたのが
日本のホエールズの海外スカウト牛込惟浩氏であった。

牛込氏からスカウトされたボイヤーは
72年からホエールズ三塁手としてでプレー。
4年間で打率.257、71本塁打、218打点をマークすると共に
卓越した守備力で多くの選手、ファンをうならせた。
現役引退後も日本に残り、その技術を後身に伝授した。

その後、アスレチックスやヤンキースのコーチを勤め、
2007年、アトランタにて死去。

メジャー通算1396安打、162本塁打、654打点、打率.242。


file .256 George BELL【ジョージ・ベル】

2008-07-26 | ABC
【ドミニカンは気難し屋】
George BELL

1978年、フィリーズと契約を交わしたベルだったが
80年のオフ、ブルージェイズへ移籍、
81年メジャーデビューを飾った。

その才能が開花したのは84年。
この年、打率.292、26本塁打、87打点をマーク、
同い年のロイド・モスビー、ジェシー・バーフィールドと共に
フレッシュな外野陣を形成した。

85年は打率.275、28本塁打、95打点、21盗塁で
チームの地区優勝に貢献。
86年、打率.309、31本塁打、108打点と
さらに成績を上げ、
87年には、打率.308、47本塁打、134打点で
打点王とシーズンMVPを受賞。
リーグを代表するスラッガーへと成長を遂げた。

神経質で気難しい性格のベルは、
いわゆる「陽気なドミニカン」では無かった。
87年、チームが、あと少しで地区優勝..という
シチュエーションになった時は
勝負のラスト10試合ほど、考え込みすぎて大スランプに陥り、
性格が災いして、地元マスコミとの関係も良くは無かった。

88年、24本塁打、97打点を叩きだすも、
前年に比べ大きく成績を落とし、
89年も18本塁打..と
絶頂時の87年に比べ、数字が落ち始めたベル。

91年カブス、92年からはホワイトソックスとチームを変え、
93年に現役を引退した。

通算1702安打、265本塁打、1002打点、打率.278

file .255 Bob ALLISON 【ボブ・アリソン】

2008-07-20 | ABC
【ツインズ創成期の英雄】
Bob ALLISON

大学時代は野球に加えてフットボールでも
花形選手だったアリソン。
プロ入りに際し、野球の道を選んだアリソンは
ワシントン・セネターズと契約を結ぶ。

1959年、レフトの定位置の座を得たアリソンは
打率.261、30本塁打、85打点の堂々たる成績で
オールスター出場及び新人王獲得と
最高のルーキーイヤーを送る。

61年には29本塁打、105打点、
62年は打率.266、29本塁打、102打点、
チームがミネソタに移り、ツインズとなっても
その豪打は相変わらずであった。

長いメジャーリーグの歴史の中では、
多くのパワーデュオが存在した。
ルース/ゲーリック、メイス/マッコビー、アーロン/マシューズ
カンセコ/マグワイア、オーティズ/ラミレス.....etc
そして、ミネソタにおいては、
通算573本塁打の「キラー」こと
ハーモン・キルブリューのデュエットパートナーが
このボブ・アリソンであった。

巨漢の強打者でありながら、抜群の選球眼、
積極的な守備と巧みなベースランニングも持ち味。
地元では、親友のキルブリューに次ぐ人気を誇った。

63年、打率.271、35本塁打、91打点
64年、打率.287、32本塁打、86打点...と
安定した強打者ぶりを発揮していたアリソン、
65年にはチームのワールドシリーズ進出に貢献し
シリーズ弟2戦では、逆シングルで、難しいフライを好捕、強い印象を残すも
結局、ドライスデール、コーファックスを擁する
ドジャースを破るには至らなかった。

その後もキルブリューや、トニー・オリヴァといった面々と共に
チームを支えたアリソンだったが、
30歳台半ばに差し掛かったあたりで、
攻守にわたり、満足のいくプレーが出来なくなり
70年、現役を引退。
引退後は、コカコーラ社に席を置き、
95年、死去。

通算1281安打、256本塁打、796打点、打率.251。


file .250 Bob CERV【ボブ・サーヴ】

2008-05-13 | ABC
【ルームメイト】
Bob CERV

1951年、25歳の時に
ヤンキースでメジャーデビューを飾ったサーヴ。
55年に55試合の出場ながら打率.341を打つなど
そのセンスを随所に見せつけるが、なかなか出番に恵まれず、
56年オフ、アスレチックスにトレードされる。

新天地でレギュラーの座を獲得したサーヴは
57年、124試合で打率.272、11本塁打、44打点をマーク、
翌58年は数字を大幅に伸ばし、
打率.305、38本塁打、104打点。
MVPレースで、4位につける活躍を見せ、
キャリア唯一のオールスター出場も果たした。

59年、打率.285、20本塁打、87打点のサーヴ、
翌60年、シーズン途中でヤンクスへ出戻ったが、
61年は新球団のエンゼルスへエキスパンションドラフトで移籍。
初試合で本塁打を放つなど、18試合に出場するも、
5月にトレードで三たび、ヤンクスのユニホームに袖を通す事になった。

折しも、この年のヤンクスは、
ロジャー・マリスの『61』で盛り上がった年。
サーヴは、57試合に出場し
打率.271、6本塁打、20打点とまずまずの成績で
チームのリーグ優勝に貢献した。

結局、この後、
62年に移籍先のアストロズで現役を引退。

通算成績は、829試合で打率.276、105本塁打、374打点。

さて、サーヴといえば、
何と言っても、1961年に
ミッキー・マントル、ロジャー・マリスの2人と
ルームメイトだった事で知られている。
上記2人が、ルースのシーズン本塁打記録60超えを目指し
激しい火花を散らしたこの年、
サーヴは、常に彼らの傍らにおり、
2人を見ていたのであった。


file .246 Jesus ALOU 【ヘスス・アルー】

2008-04-14 | ABC
【三男】
Jesus ALOU

言わずと知れた、アルー三兄弟の末弟である。

1963年、二人の兄が在籍しているジャイアンツで
メジャーデビュー。
球団の期待度は、フェリペ、マッティより高かったという。
64年に115試合で、打率.274、3本塁打、28打点、
65年、打率.298、9本塁打、52打点をマーク、
外野のレギュラーを獲得した。

69年、アストロズへ移籍、
70年には打率.306、1本塁打、44打点と
初の打率3割以上を打つが、
非力で四球も少なく、
外野守備も平均レベル。
二人の兄のような華やかな活躍とは無縁であった。

その後、
アスレチックス、メッツとチームを変えるも、
100試合以上出場する事は出来ず、
79年、アストロズで現役を退いた。

通算打率は.280、32本塁打、377打点。

file .245 Matty ALOU【マッティ・アルー】

2008-04-13 | ABC
【次男】
Matty ALOU 

言わずと知れた、アルー三兄弟の次男である。

1960年、兄・フェリペが在籍しているジャイアンツでメジャーデビュー。
61年、81試合に出場し、打率.310をマークするも、
レギュラーには定着出来ず、
66年にパイレーツに移籍してから、
安打製造機としての才能を開花させた。
この年、141試合で打率.342の好成績で見事、首位打者に輝き、
打率.327の兄・フェリペとリーグ打率の1、2位を
兄弟で独占するという快挙を成し遂げた。

以降も66年~69年まで、
4年連続で打率.330以上をマーク。
2度の200安打以上を記録するなどヒットマシーンぶりを発揮。
また、右翼のロベルト・クレメンテの隣を守り、俊足を活かし好守を連発、
リーグ屈指の右中間を形成するなど、
攻・走・守、全ての面で、チームの勝利に貢献した。

71年、カージナルスへ移籍すると、
打率.315、7本塁打、74打点。
シーズン途中にアスレチックスへ移籍した72年も、
打率.307を打つなど、安定した打撃を披露、
チームも世界一に輝き、
マッティも勝利の美酒に酔いしれた。

その後、
ヤンキースやパドレスを経て、
74年、日本のライオンズに入団、
76年まで3年間プレーし、262試合で、258安打を放っている。

メジャー通算打率.307、1777安打、156盗塁。
オールスターには2度出場している。