GUMBO

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file.033 Dale MURPHY 【デール・マーフィー】

2005-10-28 | MNO
【果たせなかった400HR】
Dale MURPHY

2005年、アトランタ・ブレーブスでメジャーデビューした
ジェフ・フランコアはその打撃と守備で全米の注目を集めた。
多くの昔ながらのブレーブスファンは
「デール・マーフィーの再来」と口を揃えた。

A-Rodことアレックス・ロドリゲスは
マリナーズに入団した際、
尊敬するデール・マーフィーの背番号『3』を選んだ。

デール・マーフィーは捕手として76年に
アトランタ・ブレーブスでメジャーデビュー、
送球難から一塁....外野とコンバートをくり返す。
80年、打率.281、33本塁打、89打点と、素質が開花するが、
ハイライトは何といっても
82年から87年の6年間であろう。

82年、打率.281、36本塁打、109打点、23盗塁をマーク、
見事シーズンMVPに輝き、
翌83年も打率.302、36本塁打、121打点で打点王、
30盗塁を決め、3割30本30盗塁を達成、
2年連続のシーズンMVPに輝いた。

さらに84年は打率.290、36本塁打、100打点、
85年は打率.300、37本塁打、111打点で、
2年連続の打点王を獲得。
この数年間はマーフィーのためにあった..........
と言っても過言ではないほどの活躍ぶりを見せた。

又、強肩も含めた外野守備が評価され、
82年から5年連続のゴールド・グラブを受賞している。
まさにウィリー・メイズばりの
パーフェクト・プレーヤぶりであった。

87年にキャリア・ハイの44本塁打を放った後、
急激に成績が下降していく、
82年から90年まで9年連続で
20本塁打以上をマークしているものの
安定性に欠くバッティングが続き、
引退した93年はロッキーズで悲願の
400ホームラン達成を目指すが、
80年代を代表するスーパースターは
この年、1本の本塁打も打てないままバットを置いた。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=119545

file.032 Vida BLUE 【ヴァイダ・ブルー】

2005-10-24 | ABC
【麻薬に溺れた選手晩年】
Vida BLUE

1969年にアスレティックスでメジャーデビューを果たし、
1970年の後半からメジャーに定着。
1971年、防御率1.82、24勝という好成績を残し
サイ・ヤング賞とシーズンMVPを獲得、一躍スター選手になる。

メジャーリーグの大投手として、栄光の道を歩む筈だったブルーだが
72年、ある転機が訪れる。
オーナーのチャールズ・O・フィンリーと年棒の件で揉めてしまい、
折り合いがつかないと分かると、突然引退宣言をしてしまう。
結局6月には復帰し、アスレチックスは世界一に輝くが、
その間チームメイトの支援や応援はほとんど無かった。
投球内容も、前年のキレはなく
6勝10敗という成績に終わる。

が、73年、華麗に復活。
防御率3.28、20勝で、リーグ優勝に貢献、
チームは世界一に輝き、
74年も防御率3.25、17勝。
アスレチックスは3年連続世界一を達成するが、
ブルーは、ワールドシリーズでは勝ち星をあげる事は出来なかった。

75年は、防御率3.01で、22勝、
76年、ヤンキースとの高額な移籍の契約がコミッショナーから
差し止めを食らったりと紆余曲折があったが、
78年、8選手プラス金銭と交換でジャイアンツに移籍、
新天地でも3年連続で10勝以上をあげ、
オールスターにも出場するなど、まずまずの成績を残すが
82年今度はロイヤルズへ移籍、
この頃から麻薬に手を染めはじめる。

83年には麻薬売買で逮捕、チームにも解雇の憂き目にあう。
一年間の出場停止を経て85年ジャイアンツで復帰するが
麻薬から足を洗うことは出来ず、退団、そのまま引退した。

オールスター出場4回のスター投手にしては
あまりにも寂しい引き際であった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=111119

file.031 Rickey HENDERSON 【リッキー・ヘンダーソン】

2005-10-17 | GHI
【ハーイ、リッキー】
Rickey HENDERSON

盗塁の最多年間記録130を達成したリッキーは
「キャッチャーのまぐれ送球や審判の誤審がなければ150は出来たね」と豪語、
自信過剰な嫌な発言である。
ルー・ブロックが持つ通算938盗塁の記録を破った時は
「ブロックは偉大な選手だが、リッキーはそれを超えた!!」と宣った、
先人の偉大な業績をコケにする嫌な発言である。

79年にアスレチックスでメジャーデビュー、
89試合で33盗塁を決め、その脚力を猛アピール。
80年には打率.303を打ち、100盗塁、
82年に、130盗塁をマークし、年間最多盗塁の記録を達成する。

85年にヤンキースへ移籍し、80盗塁を決めるが
打撃面でもパンチ力を見せ始め、24本塁打を放つ。
以降も、ズバ抜けた選球眼を活かした出塁率と
その足で活躍を続け、80年代は、
盗塁王の座をほぼ独占する。

89年シーズン途中でアスレチックスに復帰。
ポストシーズンで大活躍を見せワールドシリーズ制覇に貢献すると、
90年には打率.325、28本塁打、61打点、65盗塁で
チームのリーグ優勝に大きく貢献、シーズンMVPに選ばれる。
91年、58盗塁で11度目の盗塁王を獲得すると
この年通算939盗塁に達し、ルー・ブロックの通算盗塁記録を破った。

93年、トロントに移籍し、ここでもワールドシリーズ制覇の一端を担い、
94年からのアスレチックス以降、チームを転々とし、
自身の盗塁記録を更新し続けた。

ダントツトップの通算1406盗塁や
リードオフマンの誇り、通算1位の2295得点
さらに膨大な盗塁数を支えた高い出塁率の源、通算2位の2190四球など
メジャーリーグの歴史にその名を残すプライド高き名リードオフマンである。
.............が、
前述のような社会性に欠けた発言をしたり、
アスレチックス時代の同僚カンセコの遅刻グセに何故か対抗意識を燃やし
キャンプになかなか合流しなかったり、
ワールド・シリーズの試合中にチームメイトとポーカーを楽しんだり
珍言や奇行には事欠かない『迷選手』でもある。

しかし、そんなリッキーにも感動のエピソードがある。
アメリカ人少女エリン・ステーツちゃんとの心暖まる交流である、
89年、5歳のエリンちゃんは両親と出かけたアスレチックスの試合で
「ハーイ、リッキー」と書かれたバナーを持って観戦した。
エリンちゃんはリッキーの大ファンだったのだ。
バナーに気付いたリッキーはエリンちゃんに向かって手を振ったばかりか
試合後、ボールまで進呈し、
ここからエリンちゃんとリッキーの、
言ってみれば『子供同士』の交流が始まるのだ。

が93年リッキーがブルージェズに移籍すると
エリンちゃんは寝込んでしまう程のショックを受け、
さらに『リッキーにさようならを言うチャンスさえなかった』という
発言が地元紙に掲載され、全米の話題となった。
これを知ったリッキーはもちろん号泣!
試合でオークランドに訪れた際には感動の再会を果たし
涙に濡れる2人がしっかりと抱き合う写真が、
「ウソだと言ってリッキー」なるお得意の見出しと共に新聞の紙面を飾った。
翌年ひょっこりとアスレチックスに復帰したリッキー、
エリンちゃんが狂喜した事はいうまでも無かった。

2人の交流はその後も続いているようである。

file.030 Roberto CLEMENTE 【ロベルト・クレメンテ】

2005-10-16 | roberto clemente
【ライフル・アーム】
Roberto CLEMENTE

米スポーツ界の英雄クレメンテ、
1972年、ニカラグア地震の被災者を救うべく救援物資と共に飛行機に乗り込んだが
飛行機はカリブ海に墜落、帰らぬ人となった。
メジャーリーグで最も権威のある賞のひとつ
『ロベルト・クレメンテ賞』はあまりにも有名だ。

しかしクレメンテはその人格やボランティア精神のみで語るべき選手ではない。
プレーヤーとしても、類い稀なる才能と
それに見合った成績を残した偉大なアスリートである。
悪球をものともしない打撃で4度の首位打者に輝き
身体能力を最大限に活かした右翼の守備で12度のゴールドグラブに輝き
ライフル・アームといわれた強肩で幾多の走者を刺し、塁上に釘付けにした
盗塁数こそ少ないがひとたび走者になれば俊足を飛ばして塁間を駆け抜けた。
積み重ねた安打は3000本ジャスト。
メジャーリーグにおいて、超一流打者の証ともいえる3000本安打を
クレメンテは亡くなる1972年のシーズン最終戦で達成した。

1953年、ブルックリン・ドジャースに入団したクレメンテは
メジャーに昇格することなく、
ウェーバー指名でパイレーツに入団、55年にはレギュラーに定着した。
打撃面に関しては際立った成績は残せなかったが、守備に関しては
その実力を存分に見せつけていた。
1960年ついに打撃が開花、打率.314 本塁打16 打94の成績を残し
チームを88年ぶりのリーグ優勝に導いた。
その年のワールド・シリーズ、
同僚ビル・マゼロスキの劇的なサヨナラホームランがあまりにも有名だが
クレメンテも全試合でヒットを放ち貢献している。
以後8年連続で.310以上の打率を残し、
61年、打率.351、23本塁打で初の首位打者に輝くと
64年、打率.339、65年は.326で2年連続の首位打者。
66年には202安打、打率.317、29本塁打、119打点シーズンMVPを獲得。
67年も、打率.357、23本塁打、110打点で、4度目の首位打者に輝いた。
68年.297で連続3割は途切れるが、
その後4年連続で.310以上の打率を記録するなど抜群の安定感を見せた。
ちなみに70年は打率.352、71年は.341....と
まさに衰えを知らないクレメンテのヒット・メイカーぶりであった。

1971年、強豪オリオールズをくだしたワールドシリーズでは
打率.414に加え2本のホームランを放ち堂々シリーズMVPに輝いている。
18年のキャリアで本塁打30本を記録した事はなく
20本以上も3度と、中距離打者のクレメンテであったが
このシリーズでは、長打力も見せつけたのだ。
72年が最後のシーズンになってしまったが38歳のクレメンテの打撃力は衰えを知らず
打率.312をマークしている。

クレメンテが亡くなった翌年の73年、
本来なら引退後5年で得られる殿堂入り資格を、特例で与えられ、
93%の票を得て野球殿堂入りを果たした。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=112391

file.029 Keith HERNANDEZ 【キース・ヘルナンデス】

2005-10-15 | GHI
【フィールド上の司令塔】
Keith HERNANDEZ

滑らかな動きで、
11度のゴールド・グラブに輝いた名一塁手。
71年にドラフト42位でカージナルスに入団。
74年にはメジャーに昇格し、
79年才能が開花、打率.344で首位打者を獲得し、
さらにウィリー・スタージェルと共にMVPを獲得する。
82年、打率.299、本塁打7本ながら94打点をたたき出し
19個の盗塁を記録するなど攻・走・守にわたってチームを牽引、
カージナルスをリーグ優勝に導くと
ワールドシリーズでも8打点の大活躍、チームの世界一を演出した。

83年麻薬服用が発覚するとメッツにシーズン途中で放出される。
が、ヘルナンデスのキャリアハイライトはこのメッツで迎える事になる。
キャプテンに指名されると、リーダーシップを発揮、
86年、打率.310、13本塁打、83打点、
メッツの世界一におおいに貢献した。

打撃タイトルは79年の首位打者1度のみ、
ホームランも20本以上を一度も記録していないが
17年で8度の80打点以上をマークするなど
クラッチな打撃が光った。

ヘルナンデスはまさにフィールド上の司令塔であった。
守備においては、一塁を守りながら、
相手打者の特性を研究し、味方内野陣に
的確なポジショニングをアドバイスしした。
打席に立てば、相手投手の球種や排球パターンを素早く判断し
勝負強い打撃を披露、自分が打てない場合でも味方の打者に
情報を伝達していた。
野球というスポーツを熟知した、玄人好みのプレーヤーである。

1983年のメッツvs カブス戦、
三塁走者のヘルナンデスが
三塁コーチのボビー・バレンタインと共謀し、
ベース上で奇声を発して飛び上がり、相手投手を驚かせ、
その動作を止めボークを誘うというセコい作戦を実行した。
結果、一度目で審判に注意され、二度目ではアウトを宣告されてしまう。
しかもバレンタインコーチは退場の憂き目にあってしまう。

ゴールド・グラブ11回受賞、通算2182安打、
オールスター5回の名選手の物とは思えない
お茶目なプレーであった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=115826

file.028 Willie MAYS 02 【ウィリー・メイズ 02】

2005-10-14 | willie mays
【アバウト メイズ】
Willie MAYS

メイズの攻略法は『ワイルド・ピッチだ』
【ビル・リグニー】

私は、ルースがメイズより良いプレーヤーだなんて信じられない。
ルースは、野球界のアーノルド・パーマーだが、
メイズのように走れなかったし、メイズのように守れなかっただろ??
【サンディ・コーファックス】

私は打者にメイズの居ない所に打つな...とは言えない。
彼等が何処に打っても、メイズはそこに居るからな。
【レオ・ドローチャー】

カリスマってのは『ウィリー・メイズ』って意味だろ??
【テッド・クルゼウスキ】

メイズやマントルのようになりたかったが、その夢はかなわなかった。
ワールド・チャンピオンのリングの価値さえ、その夢の前では霞んで見えるぜ。
【レジー・ジャクソン】

打撃では私の方が上だと確信を持って言えるが
オールラウンドな選手としてはメイズは最高だ。
【ハンク・アーロン】

ボウイ・キューンはメイズを球界から永久追放にしやがった!!!
俺はキューンを永久追放にしてやりてえ!!
【フランク・シナトラ】

オールスターゲームってのは、メイズの為に発案されたんだろ??
【テッド・ウィリアムス】

メイズは、ベースランニングの芸術を野球の中に取り戻してくれた男だ
【タイ・カッブ】

file.027 Bert BLYLEVEN 【バート・ブライレーヴン】

2005-10-14 | ABC
【芸術のカーブ】
Bert BLYLEVEN

通算三振数は3701。
ノーラン・ライアン、クレメンス、ランディ・ジョンソン、
スティーブ・カールトンに続く歴代4位の記録でる。
が、ブライルベンの武器はライアンのような豪速球ではなく、
えげつなく曲がるカーブである。
右打者に対して、背中を通りそうなボールが外角低めに決まる.....。
22年の投手生活で20勝は一度、オールスターは2度。
通算287勝をコツコツと積み上げた。

1970年、19才の若さで
メジャーデビューを果たしたブライレーヴン、
一年目で防御率3.18、10勝をあげると、
71年には防御率2.81で16勝。
72年は防御率2.73で17勝をマークし、
着々と実績を積み上げていく。

大ブレークを果たしたのは73年、
この年防御率2.52で20勝をあげ、
サイ・ヤング賞レースにおいて、
7位にランクインする活躍を見せた。

以後、70年から10年連続で10勝以上を記録。
パイレーツに在籍していた79年には
防御率3.60、12勝をマークし、
ウィリー・スタージェルやデイブ・パーカーらと共に
『ファミリー』の一員としてパイレーツを牽引。
ワールド・シリーズでも1勝をあげ、
チームの世界一に大きな役割を果たした。

81年からはインディアンズへチームを変え、
82、83年と怪我の影響による不振にあえぐが、
84年、防御率2.87、19勝と復活。
85年、シーズン途中でツインズへ移籍するが、
この年から89年まで4年連続で10勝以上をマーク、
安定した投球を見せた。

現役のクレメンスらはともかくとして、通算3000奪三振以上を記録しながら
野球殿堂入りが果たせないでいる投手はブライレーヴンただ一人である。
数字に反してその存在は地味と言わざるをえないが
もっと注目されてしかるべき大投手である。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=111126§ion1=1&statSet1=1§ion2=1§ion3=1&statSet3=1&statSet2=1

file.026 Bobby MURCER 【ボビー・マーサー】

2005-10-13 | MNO
【親友に捧げたホームラン】
Bobby MURCER

1979年8月1日、
当時のヤンキースのキャプテン、サーマン・マンソンが
不慮の飛行機事故でこの世を去った。
6日に葬儀が行われたが、その時弔辞を読んだのが
ボビー・マーサーである。

マーサーは65年にメジャーデビューし、
強打の外野手としてヤンキースを支えた。

69年、打率.259、26本塁打、82打点。
この年から、本格的にメジャーでのキャリアをスタート。

71年に打率.331、25本塁打、94打点の好成績。
72年、打率.292、33本塁打、96打点、
73年には打率.302、22打点、95打点をマークするなど
この3年間はMVP投票で、いずれも
10位以内にランクインする活躍ぶりを見せた。

70年にはダブルヘッダーで4打数連続ホームランを放ち、
移籍したカブス時代には
見舞った難病の少年との約束を果たすホームランを放つ。

さて、マンソンの葬儀が行われた
1979年8月6日、ヤンキースvs オリオールズ。
この年カブスからシーズン途中で戻っていたマーサーにとってこの試合は、
親友マンソンのためにも勝たなくてはいけない大切な試合であった。
試合は序盤劣勢だったが、マーサーはサヨナラ打を含む2本のホームランを放ち
天国のマンソンに捧げるのである。

75年からはジャイアンツ、77年からはカブス、
79年途中にヤンきースへ戻るが
それぞれのチームで勝負強い打撃を披露、
通算1862安打、1043打点の数字を残し
83年に引退した。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=MURCER

file.025 Denny McLAIN 【デニー・マクレーン】

2005-10-12 | MNO
【最後の30勝投手】
Denny McLAIN

1968年、カージナルスvsタイガースのワールドシリーズ
目玉は何といっても
カージナルスのボブ・ギブソンと
タイガースのデニー・マクレーンのエース対決であった。
ギブソンは防御率1.12で22勝
マクレーンは防御率1.96で31勝
共に1点代の防御率、さらに
両者とも、その年のサイ・ヤング賞とMVPを受賞している。

2人は2試合に顔を合わせ2試合ともギブソンが投げ勝った。
マクレーンは6試合目でようやく勝ち投手になるが
このシリーズ、ギブソンは驚くべき投球を見せて
マクレーンに格の違いを見せつけた。
そして結局タイガースがワールドチャンピオンになったこのシリーズ、
MVPを獲得したのはギブソンにも投げ勝ち3勝を挙げた
伏兵のミッキー・ロリッチ投手であった。
栄光のシーズンを送ったマクレーンであったが
ワールド・シリーズでは主役になる事は出来なかった。

63年、19才の若さでメジャーデビューを果たしたマクレーン、
65年に16勝、防御率2.61の好成績を残すと、
66年には防御率.392ながら20勝。
そして、68年に31勝をマークした。

翌69年、24勝で最多勝&サイ・ヤング賞を獲得するが
以後は不摂生の限りをつくし、移籍をくり返した挙げ句
28歳の若さで引退した。

引退後も事業に失敗したり、コカインの密輸に関わったり
散々であった。

通算131勝、防御率3.39。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=118787

file.023 Willie MAYS 01 【ウィリー・メイズ 01】

2005-10-11 | willie mays
【デビュー】
Willie MAYS

メジャー史上最もファンキーな名選手メイズ。
走・攻・守、全てにおいて高いレベルで秀でたアメリカ野球界の至宝である。
そんなメイズもデビュー時には打撃面でおおいに苦心した。
初打席から20打席以上ヒットを打つ事が出来なかったのである。
ようやく名投手ウォーレン・スパーンから本塁打を放ち
打率.000から脱したが、その後も3試合ほど当たりが出ず
さすがのメイズも当時のジャイアンツ監督、レオ・ドローチャーに泣きを入れた。
「私にはメジャーのピッチャーは打てません」
それに対してドローチャーは
「君は打たなかったがチームは勝っている、
明日も明後日も君はジャイアンツのセンターを守れ」
とメイズに言葉をかけた。
さらに..
「カール・ハッベルじゃあるまいし、ユニフォームのズボンをもっと上げな、
下げていると審判がストライクゾーンを低くとって、低めのボールで苦労するぜ」
とアドバイスした。

助言に従ってズボンを上げたメイズはその後調子を上げ、
デビューシーズン、打率.274 本塁打20 打点68で新人王を獲得するのであった。

file022 Rusty STAUB 【ラスティ・スタウブ】

2005-10-04 | STU
【ラ・グラン・オランジェ】
Rusty STAUB

23年間のキャリア、歴代11位の2951試合出場
通算2716安打、オールスター出場6回の名選手だが
日本ではほとんど知名度が無い。

62年コルト.45sに入団、翌年にはレギュラーの座をつかむ。
67年には打率.333を記録し、
69年、エクスポズに移籍、打率.302に加え29本塁打を放ち、
球団初のスター選手となる。
70年には30本塁打、94打点、
71年は、打率.311、19本塁打、97打点をマーク。
芸術的とも言われるコンパクトなスイングで、
勝負強い安定感溢れる打撃が持ち味。
エクスポズではラ・グラン・オランジェのニック・ネームで親しまれた。

打撃タイトルには縁が無かったが、
勝負強い安定感抜群の打撃でチームに貢献した。
ずんぐりした体型に似合わず守備も上手く、4度の最多捕殺をマークした。
エクスポズの次に在籍したメッツでもファンやチームメイトから
一目おかれる存在感を示してきたプロフェッショナルなスタウブ。
73年、15本塁打、76打点、出塁率.361でチームをリーグ優勝に導くと
75年には打率.282、19本塁打ながら105打点をたたき出した。

76年から79年途中まではタイガースでプレー、
2度の100打点以上をマークするなど、相変わらずのクラッチヒッターぶりを示し、
81年にメッツに再び移籍すると、代打の切り札として
その勝負強さを発揮した。

85年に引退したが、彼の23年間を支えたのは、
野球というスポーツのプレー全てに関して
入念な準備と練習・研究を怠らなかった事である。
メジャーデビュー当時は芳しい結果が残せなかったスタウブだが
練習に練習を重ね、オールスター級の選手にまで登りつめた。
通算盗塁数は47に過ぎないが、走塁面においても
研究を怠らず、ベースランニングの評価は高かった。
1983年以降は代打の切り札として活躍したが、
ゲーム中には必ずクラブハウスで縄跳びなどをしながら
いつ声がかかってもいいように準備をしていたという。

1984年のある試合、40歳になっていた古豪スタウブは代打で登場すると
その年唯一のホームランとなる決勝の2ランホーマーをカッ飛ばすのだが
1963年、19歳でホームランを打ったスタウブは
10代と40代でホームランを打った史上2人目のプレーヤーとなる。
ちなみに1人目のプレーヤーとは、かの球聖タイ・カッブである。

古いエクスポズファンの人気は絶大で、メッツ在籍時には
敵チームであるはずのエクスポズファンからも大きな声援を受けていた。
勿論、背番号10はナショナルズの永久欠番である。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=staub