GUMBO

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file .314 Jim MORRIS【ジム・モリス】

2014-02-01 | MNO
【オールドルーキー】
Jim MORRIS


テキサスのとある高校。
野球部の監督は、ナインを鼓舞するべく
彼らとある約束をする。
『チームが地区大会で優勝したら、自分はメジャーのテストを受ける』

その約束は実現するに至った。
チームは見事地区大会で優勝の栄冠を勝ち取ったのだ。
監督は、約束を守り、プロテストを受けた。

監督の名はジム・モリス、35歳。
実はモリスは1983年にミルウォーキー・ブルワーズからドラフト1位指名を受けた
元プロ野球選手なのであった。
結局メジャーでの登板は叶わず引退し、物理の教師として働きながら
野球部のコーチを勤めていたが、
速球のスピードは衰えてはいなかった。

テストの結果は合格。
タンパベイ・デビルレイズに入団し、
マイナーリーグでの活躍を経て、
99年9月、ついにメジャーのマウンドに立った。
この年、5試合に登板し防御率5.79 0勝。
翌年2000年は16試合で防御率4.35 0勝。
2年で21試合に出場し、2度目の現役生活を終えた。

登板した21試合で、勝ち星もセーブもホールドも0。
が、35歳のルーキーの感動は、
『オールド・ルーキー』というタイトルで映画化され、
ジム・モリスの名もメジャーリーグの歴史にささやかながら永遠に残る事となった。

file .310 Pedro MARTINEZ【ペドロ・マルチネス】

2014-01-04 | MNO
【ヘッド・ハンター】
Pedro MARTINEZ


ドジャースでエースに君臨していた兄ペドロを追うように
1992年に同チームに入団したペドロ。
93年にメジャーに定着し、リリーフ投手として65試合に出場
防御率2.61 10勝 2セーブをマーク、
兄と共にチームの勝利に貢献するも
オフにエクスポズへトレード移籍の運びとなる。

エクスポズ1年目の94年、先発に転向し防御率3.42 11勝をあげると
95年は防御率3.51 14勝をマーク、96年も兄ラモンと投げ合うなど防御率3.70 13勝と
チームに欠かせないエース級の投手に成長を遂げた。

が、ペドロの伸びしろは、こんなもんじゃなかった。
97年、投手コーチのボビー・クエイヤーからチェンジアップの強化を勧められたペドロは
見事これに成功。落差の大きな新チェンジアップを軸に、
投球の幅が格段にアップし、防御率1.90 17勝を記録。
サイ・ヤング賞を受賞し、
一躍、超一流投手の仲間入りを果たす。

150キロ後半の豪速球に加えコントロールは抜群。
キレ味鋭いハードカーブに件のチェンジアップを織り交ぜ
時には打者を威嚇すべく頭付近をえぐるように投げ込む。
付いたニックネームは『ヘッド・ハンター』
才能を満開に開花させたペドロを打ち崩すのは容易では無かった。

98年にレッドソックスに移籍すると
防御率2.89 19勝でチームのポストシーズン進出に貢献。
99年は防御率2.07 23勝をあげ、最優秀防御率・最多勝・最多奪三振・二度目のサイ・ヤング賞を受賞。
2000年も防御率1.74 18勝で、最優秀防御率・最多奪三振・三度目のサイ・ヤング賞と
まさに八面六臂の大活躍を見せた。

「呪いなんて俺は信じない。バンビーノの奴をここに連れて来い。ケツにぶち込んでやる!」
レッドソックスはバンビーノことベーブ・ルースを放出して以来、
ワールドシリーズ制覇から遠ざかっていた。
あと1勝で世界一というチャンスを4回迎えて全て逃しているような事実も
『バンビーノの呪い』の神秘的な信憑性を高めていた。
闘争本能剥き出しのペドロは、レッドソックス入団後、
当然の如く、チーム最大の仇『バンビーノ』に噛み付いた。

01年は怪我で途中離脱し18試合の登板に終わったペドロだったが
02年は防御率2.26 20勝、03年は防御率2.22 14勝…と看板に恥じない投球を披露。
そして04年ペドロは、防御率3.90 16勝と調子を崩したものの、チームはリーグ優勝。
カージナルスとのワールドシリーズでも1勝をあげ、レッドソックス86年ぶりの世界一に
大きく貢献し、前述の公約(?)を守った。

05年からはニューヨークメッツに移籍。
ボソックス時代の圧倒的な投球は若干影を潜めるものの
正確無比のコントロールとキレのある変化球は健在、
06年に通算200勝、07年に通算3000奪三振を記録した。

09年、フィリーズに移籍。
チームのリーグ優勝に貢献するも、
ワールドシリーズではヤンキースの松井秀喜の打棒の前に屈し、
2敗を喫し、そのまま現役を引退した。

通算476試合 防御率2.93 219勝 3154奪三振。
メジャーの歴史でも屈指の右投手で、
マウンド上では、打者に牙をむく鬼神のような獰猛さを見せたが
実際は悪フザケが好きな、陽気なドミニカンであった。

file .304 John OLERUD【ジョン・オルルド】

2013-07-07 | MNO
【マイナー知らず】
John OLERUD

大学時代、野手・投手の二刀流で八面六臂の大活躍のオルルドだったが、
就学中にくも膜下出血を煩い、頭部の手術を施された。

1989年のドラフトにおいては、件の手術の影響で、
大学時代の活躍の割には低い3位という順位でブルージェイズから指名。
その年の9月にはマイナーを経ずにメジャーに昇格、
6試合、8打席のみではあったが、3安打し、早速メジャーで結果を残した。

翌1990年は打率.265 14本塁打で新人王投票で4位。
1991年は打率.256 14本塁打を打ち、地区優勝に貢献すると
1992年には打率.284 16本塁打 66打点で、
今度はチーム初のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

93年、オルルドは脅威の覚醒を見せた。
打率.363 24本塁打 107打点 出塁率.473。
初のオールスターにも出場し、首位打者も獲得、
2年連続の世界一に、これ以上無い形で貢献し、
大ブレークを果たすに至った。

その後は、93年程の派手な数字を残す事は出来ないものの、
卓越した選球眼で高い出塁率を記録、
97年にトレードでメッツに移籍した。
メッツでの1年目は打率.294 22本塁打 102打点、サイクルヒットも記録。
翌98年には打率.354 22本塁打 93打点をマーク、再び存在感をアピールし、
99年にはプレーオフで大活躍、リーグ優勝こそ逃すものの、
勝負強い一面を見せつけた。



2000年には故郷ワシントン州のマリナーズへFA移籍、
一塁手部門で、自身初となるゴールドグラブ賞を受賞。
イチローが加わった2001年は打率.301 22本塁打 95打点で
2度目のサイクルヒットを記録するなど、ぶっちぎりの地区優勝に貢献した。
2002年も打率.300をマークするが、
以降は徐々に成績が振るわなくなっていく。
2004年シーズン途中にヤンキースに移籍すると
2005年、レッドソックスを最後に現役を引退した。

卓越した打撃術でヒットを量産すると同時に
選球眼も確かで、通算の出塁率は、打率.295に対し.398を誇った。
学生時代に手術を受けた頭部を守る為、守備中もヘルメットを着用。
シリアスな原因ではあったが、それがユニークな存在感につながった。

通算2234試合 打率.295 255本塁打 1230打点。

file .303 Billy MARTIN【ビリー・マーチン】

2012-04-30 | MNO
【ケンカ屋】
Billy MARTIN

1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースでメジャーデビューを飾ったマーチン。
52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると
53年には打率.257 15本塁打 75打点、
ワールドシリーズでは打率.500 2本塁打 8打点と大爆発。
シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。

喧嘩っ早い性格も手伝って、
小さい身体ながら、プレーはハード。
大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。

その後も57年に打率.289 10本塁打をマークするなど、
いぶし銀のプレーでヤンキースを支え、
計4度の世界一に貢献。
その存在感を大いに知らしめていたが、
57年オフ、クラブで乱闘騒ぎを演じ、
ヤンキースはマーチンを放出。
1961年まで、実に5球団を渡り歩き、
同年、現役を引退した。

引退後、ツインズでスカウトやコーチを務め、
69年、同チームで監督に就任するといきなり地区優勝。
さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。
さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝・・・と
手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、
ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。

愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
1.監督常に正しい。
2.監督が間違ってると感じたら1を見よ。
などと書いた貼り紙をするなど、
その激しく熱いリーダーシップでチームを牽引、
77年にはワールドシリーズを制覇するが、
自分の言う事を守らなかった選手や、
怠慢プレーをした選手などには容赦なく怒号を飛ばし、
喧嘩寸前の罵り合いを演じる事も辞さなかった。
が、その反面、快くプレーしてもらうために
妙な管理体制はとらなかった。
門限なども特に設定せず、遊びたい時は遊びたいだけ遊べ。
と、プレーヤーを大人として扱った。
選手からは絶大な信頼を得たが、
自分を監督に据えたスタインブレナーとは実は犬猿の仲で
レジー・ジャクソンの起用法など、
たびたび衝突をくり返した。
http://www.youtube.com/watch?v=z_zDcQV6_6k
上記のように、仲の悪さを逆手にとったようなCMまで作られたが
結局スタインブレナーはマーチンを5度クビにし、4度復帰させた事になる。

その後、80年にアスレチックスの監督に就任。
機動力野球を展開し、リッキー・ヘンダーソンを育て、
81年にはチームを地区優勝に導いた。

89年、交通事故で命を落とした。

選手通算 1021試合 打率.257 64本塁打 333打点
監督通算1253勝 1013敗 

file .297 Tino MARTIEZ【ティノ・マルティネス】

2011-09-28 | MNO
【バンティーノ】
Tino MARTIEZ

1988年、マリナーズから1位指名を受けプロ入りしたマルティネス。
大学時代に強打者として名を馳せ、ドラフト後に開催されたソウル五輪では
四番打者としてアメリカの金メダル獲得に多大な貢献を果たした。

1992年に打率.257 16本塁打 60打点をマークし、
チームのレギュラー選手に成長したマルティネスは、
95年には打率.293 31本塁打 111打点・・・ようやくその才能を開花させた。

翌96年はヤンキースにトレード移籍。
117打点をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。
ポストシーズンでは不振を極め、ブレーブスとのWSでは
打率.091 0打点とドン底の絶不調に陥るも、
チームは世界一に輝いた。

97年、打率.296 44本塁打、141打点とMVP級の成績を残すと
98年以降、4年連続で90打点以上を叩きだすと共に、
ポストシーズンでも印象に残る活躍をみせ、
98~2000年の3年連続世界一に大きく貢献。
派手さは無いものの、勝負強いバッティングと堅実な守備。
勝利に対する飽くなき姿勢はポール・オニールと双璧で、
トーリヤンキース黄金期の棟木としてチームをガッチリと支えた。

2001年、打率.280 34本塁打 113打点と
変わらぬ打撃でチームのWS進出の一翼を担ったマルティネスだったが
02年にチームに加入したジェイソン・ジアンビに追われるように
カージナルスにFA移籍。
引退したマーク・マグワイアの後釜として大いに期待されるも
打率.261 21本塁打 75打点・・・と
前年の数字を下回る成績に終わり、
翌03年も同様に全盛期の打撃には程遠い内容に終わった。

04年、デビルレイズへトレード移籍し、
05年は古巣ヤンキースへ復帰。
ジアンビのバックアップ的な役割を期待されての
ヤンキース加入だったが、
開幕戦では打席に立つと客席総立ちの歓声で迎えられ、
変わらぬNYでの人気ぶりを証明した。

結局、05年限りで現役を引退。
通算1925安打、339本塁打、1271打点、打率.271

file .282 Masanori MURAKAMI【村上雅則】

2009-05-24 | MNO
【Herman take a hike!】
Masanori MURAKAMI

1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。

いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。

本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。

8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。

翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。

当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。

ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。

ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
 Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。

66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。

マッシー村上、真の『パイオニア』である。

file .277 Ray KNIGHT【レイ・ナイト】

2009-01-30 | MNO
【良妻】
Ray KNIGHT

1970年、ドラフト10位でレッズに入団したナイト。
74年にメジャーデビューを果たしたが、
思うような結果を残すには至らなかった。
また、75~76年の間、まさに『ビッグ・レッド・マシーン』の絶頂期には
メジャーでのプレーを果たせず、歴史的チームの一員になり損なってしまう。

77年に再度メジャーへ昇格し、
78年までの2年間、80試合程度の出場ではあるが
着実に力を付けていく。

78年オフ、ピート・ローズがチームを去り、
三塁のポジションが空くと、
ナイトに、そのポジションが与えられた。
ようやく定位置を得た26歳のナイトは奮起し、
79年、打率.318、10本塁打、79打点でブレーク。
MVP投票で5位につけるなど、大躍進する。

82年、アストロズへトレード移籍すると
この年、打率.294、6本塁打、70打点
83年も打率.304、9本塁打、70打点....と
抜群の安定感でチームに貢献。
レッズ時代に続き、新チームでもオールスター出場を果たすなど、
順風満帆に見えたナイトだったが、
84年、シーズン途中でメッツに移籍すると、
85年、打率.218、6本塁打、36打点.....と
極端に成績を落としてしまう。

『奴はいらない。放出してしまえ』
メッツのフロントはナイトを終わった選手として
不要論をぶちまけたが、
監督のデーブ・ジョンソンは、頑なにそれを拒否した。
ナイトの経験を必要な力と信じたのである。

そのオフ、意気に感じたナイトは猛ハッスル、
減量に務め、自宅の庭に設置したバッティングケージで
打撃練習に没頭した。
「頑張って、メッツのサードはあなたのポジションよ!!!」
82年に娶った二人目の妻ナンシー・ロペス(殿堂入りの名女子ゴルファー)
は、夫の練習中、可能な限り傍らにおり、エールを送った。

86年、ナイトは、ハワード・ジョンソンやケビン・ミッチェルといった
イキのいい若手選手を制して三塁の定位置を獲得、
打率.298、11本塁打、76打点...と華麗に復活。
カムバック賞を受賞したばかりか
レッドソックスとのワールドシリーズでも
打率.391、1本塁打、5打点、4得点の大暴れ!
メッツの世界一に大きく貢献し、シリーズMVPを獲得。
監督の妻の恩に十二分に報いたのであった。

86年の大活躍で燃え尽きてしまったのか、
ナイトは88年、タイガースでそのキャリアを終える。

通算1495試合、1311安打、84本塁打、打率.271。


file .271 Rey ORDONES【レイ・オルドネス】

2009-01-17 | MNO
【the man from cuba】
Rey ORDONES

キューバはハバナ出身のオルドネス。
1996年、アメリカに亡命し、ドラフト外入団でメッツと契約、
その年、メジャーデビューを果たした。
(亡命キューバ人としては史上2人である。)

打率.257、1本塁打、30打点、1盗塁と
打撃面では非力で出塁率も低く、見るべき点は皆無であったが、
オルドネスの武器はその遊撃守備にあった。

守備範囲がズバ抜けて広く、
頻繁に見せるアクロバッティングなフィールディングは
見る者を、おおにに魅了した。

守備に堅実さが加わった1997年からは
99年まで3年連続でゴールドグラブを受賞し、
オジー・スミスですら
「ありゃ俺の再来だぜ」と公言してはばからず、
その世の常のものとは思えない華麗な守備は、
日本のスポーツ番組も、単独でオルドネスを特集した程であった。

99年は、4失策で守備率.994をマークし
101試合連続無失策の記録を樹立したものの、
2000年、東京での開幕シリーズでエラーしてしまい
記録がストップしてしまう....という事もあった。

守備では他を寄せ付けない存在感を見せつけていたオルドネスだったが、
打撃だけは上達する事は無かった。
99年にマークした打率.258、1本塁打、60打点、出塁率.319という数字が
キャリアハイな位である。

2004年にカブスで23試合プレーしたのを最後に
メジャーではプレーしていない。

通算9年間で、打率.246、12本塁打、287打点を記録。

打撃スタッツでは平凡以下の数字しか残せなかったが
その守備は、永くメジャーファンの間で語り継がれるであろう。


file .270 Thurman MUNSON【サーマン・マンソン】

2008-12-31 | MNO
【captain of the bronx zoo】
Thurman MUNSON

1969年にメジャーリーガーとしての
キャリアをスタートさせたマンソン。
翌70年には打率.302、6本塁打、53打点で、新人王を獲得。
ファイト溢れるプレーと勝負強い打撃を見せ
プロ2年目にして、名門ヤンキースの正捕手の座を確固たるものにした。

73年には打率.301、20本塁打、74打点をマークするなど
クラッチヒッティングに定評のあったマンソンは、
75年には4番打者を任されるようになり、
打率.318、12本塁打、102打点と、その期待に見事に応えてみせた。

チームに勝利に貢献するべく、頑丈な身体でホームベースを死守、
自分の出来得る最大限のパフォーマンスを怠る事は無かった。
そんな熱いプレーをチームの首脳も見逃す訳もなく、
マンソンは、76年ゲーリック以来となる、チームの『キャプテン』に指名される。

意気に感じたマンソンは打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁と
変らぬ勝負強い打撃を披露し、チームをリーグ優勝に導き、
シーズンMVPを獲得。
レッズとのワールドシリーズを制する事は出来なかったものの、
自信は打率.529と気を吐き、
キャプテン・マンソンは、リーグを代表するキャッチャーにまで登りつめた。

77年、ヤンクスとマンソンに大きな転機が訪れる。
FAでレジー・ジャクソンがチームに入団したのである。
自己顕示欲と、エゴの固まり....、
自尊心は果てしなく高い...............。
尊大なジェクソンは、チーム内での己の立場を確固たるものにするべく、
チームリーダーのマンソンを批判し始めた。

が、そんな挑発にマンソンが動じるわけもなく、
打っては、3番打者として打率.308、18本塁打、100打点、
守っては、ギドリーや、ハンターらを巧みにリードし、
人望厚いキャプテンとして個性派揃いのチームを見事に統率、
チームをリーグ優勝に導いた。
レジー・ジャクソンが大爆発したドジャースとのワールドシリーズでも、
負けじとばかりに打率.320をマークし、
ヤンキースの世界一に大きな貢献を果たした。

78年も世界一のリングをゲットしたマンソンだったが、
79年に悲劇が待ち受けていた。
8月2日、自らが操縦した自家用機が墜落し、
32歳で、その命を落としてしまったのだ。

通算1423試合、1558安打、打率.292、113本塁打、701打点。

口べたで、マスコミとの折り合いは決して良くなく、
その所為か、ファンからも、無愛想と誤解されていたというマンソン。
が、実際はジョーク好きの明るい性格で、
チームメイトからは絶大な信頼を置かれていた。

ライバルのカールトン・フィスクを異常なまでに意識し、
フィスクの守備成績まで常に調べていたという。

レッズのスパーキー・アンダーソンは、
自軍の名捕手ジョニー・ベンチと比較し、
「ベンチとマンソンを比べるなぞ、ベンチに失礼だよ」などと宣ったが、
マンソンも前述のフィスクやベンチに比肩しうる名捕手であった。

その死から数日後、
ヤンキースタジアムでマンソンの追悼セレモニーが行われた。
「He lived. He led. He loved」
~彼は生き、導き、愛された~
弔辞を読み上げたボビー・マーサーは
この日、サヨナラ打を含む2本のホームランを放ち、
天国の親友に勝利を捧げたのであった。


file .265 Greg MADDUX【グレッグ・マダックス】

2008-12-13 | MNO
【プロフェッサー】
Greg MUDDUX

1986年、一人の偉大な投手が、
シカゴ・カブスで、メジャーデビューを飾った。
グレッグ・マダックスである。
この年、2勝(4敗)防御率5.52に終わったマダックスは、
翌年も6勝(14敗)防御率5.61と結果を残すに至らなかったが、
88年にブレーク。
18勝(8敗)防御率3.18...と目覚ましい進化を遂げ、
オールスターにも出場。
89年は、19勝(12敗)防御率2.95。
92年には20勝(11敗)防御率2.18をマークし、
キャリア初のサイ・ヤング賞を受賞している。

ストレートのスピードこそ平凡以下なマダックスであったが、
唯一無比なるコントロールが最大の武器。
相手の心理を読みつつ、
打者の手元で変化するツーシームや変化球を、
ストライクゾーンギリギリの所にキめ、打者を翻弄。
特にシンカーぎみに深く沈む必殺のサークルチェンジは
幾多の強打者を悩ませた。
『投手にとって最高の仕事は27球で試合を終わらせる事』
....という名言でも解るとおり、
打者の『打ちたい気持ち』を利用し、
打たせて取る頭脳的なピッチングを展開、
グラウンド外での眼鏡姿も相まって、
『プロフェッサー(教授)』なるニックネームまでいただいた。
また、出塁させてしまった走者には、ほとんど関心を示さず、
牽制や盗塁阻止、クイックモーション等、
走者をアウトにする行為はほとんど無視した。
あくまでも、打者を打ち取る..............
それがマダックスのポリシーであった。

93年からアトランタ・ブレーブスに移り、全盛期を迎える。
移籍一年目で20勝(10敗)防御率2.36/サイ・ヤング賞
94年、16勝(6敗)防御率1.56/サイ・ヤング賞
95年、19勝(2敗)防御率1.63/サイ・ヤング賞.......と、
4年連続でサイ・ヤング賞に輝く偉業を達成し、
トム・グラヴィン、ジョン・スモルツらと共にチームを支え、
3度のリーグ優勝に大きく貢献。
特に、95年のインディアンズとのWSでは
2試合に投げ、1勝、防御率2.25と活躍、
世界一の美酒におおいに酔い痴れた。

その後も、芸術的なピッチングを続けたマダックスは、
97年~2000年まで、4年連続で18勝以上をあげるなど、
88年~2004まで17年連続で15勝以上をマーク。
その間、防御率が3.50を上回ったのは、わずか3度...と
凄まじい程の安定感を誇っていた。

38歳になった2004年から
カブス~ドジャース~パドレス~ドジャースと
チームを変えて投げ続けたマダックスだったが、
2008年、42歳で惜しまれつつ現役引退を発表。

通算744試合、355勝(227敗)、防御率3.16、
流石のコントロールで、通算四球はわずか999(1シーズン平均45)。

卓越したフィールディングも代名詞の一つであり、
ゴールド・グラブ受賞は、実に18度を数えた。
また、打撃も決して悪くなく、
通算打率.171をマークしている。

まさに不世出の大投手であった。

file .264 Sam McDOWELL【サム・マクダウェル】

2008-10-04 | MNO
【Sudden Sam】
Sam McDOWELL

1961年、18歳でメジャーデビューしたマクダウェル、
さすがに荷が重く、制球難にも苦しみ、
63年までの3年間で6勝12敗と、
結果を出すには至らなかった。

そんなマクダウェルだったが、1964年、
突如、その才能を開花させる。
31試合に登板し、11勝、防御率2.70、
ようやくローテーションピッチャーとして
チームに貢献する事が出来たのであった。

65年、マクダウェルはさらにパワーアップ、
長身の左腕から繰り出される豪速球とチェンジアップで打者を圧倒。
防御率2.18、17勝、325奪三振をマーク、
防御率と奪三振のタイトルに輝き、
初のオールスター出場も果たした。

その後、
67年~72年まで6年連続で二桁勝利、
65年~70年まで、やはり6年連続の200奪三振以上(最多奪三振は5度)、
68年~71年まで4年連続でオールスター出場...など
マクダウェルのパワーピッチングは冴えに冴え渡った。
特に70年は、防御率2.92、キャリア初の20勝、304奪三振をマーク、
サイ・ヤング賞投票でも3位に入る活躍ぶりを見せた。

....が、その反面、コントロール難は修正がきかず、
64年~71年まで8年連続で100与四球を記録、
デビューの頃苦しんだ制球難を克服する事は出来なかった。

そんなマクダウェルだったが、
30歳を迎えると、
突然、その投球に衰えが見え始める。
原因は酒であった。
過剰に摂取したアルコールは、マクダウェルの才能を蝕んでいく。
結局、75年パイレーツで現役を引退。

通算425試合、防御率3.17、141勝134敗。

引退後はアルコール中毒との戦いが待っていたがこれを克服、
カウンセラーとしてレンジャーズやブルージェイズに在籍、
その人生をモデルにした、テレビドラマも制作された。


file .259 Don NEWCOMBE【ドン・ニューカム】

2008-08-02 | MNO
【Newk】
Don NEWCOMBE

ニグロ・リーグのニューアーク・イーグルスで活躍していたニューカムが
ブルックリン・ドジャースと契約を交わしたのは1946年。
メジャーデビューを果たしたのは1949年。
3年間、待たされたフラストレーションを一気に爆発させたニューカムは、
この年、防御率3.17、17勝の大活躍。
チームをリーグ優勝に導き、
ワールドシリーズでは、2敗を喫するが、
ヤンキース相手に好投を見せ、その勇姿を選手やファンの心に焼き付けた。

翌50年、防御率3.70、19勝
51年には、防御率3.28、20勝、リーグトップの164奪三振.....と、
早くも、ドジャースのエースに君臨していたニューカムであったが、
52~53年は兵役のため、チームを離れた。

豪速球とカーブが武器のニューカム、
未だ、人種差別が幅をきかせていたこの時代、
白人打者相手に闘志むき出しの投球で、
相手を震え上がらせた。
敵軍コーチから、人種絡みの汚い野次を飛ばされた時には
打者に対して、頭部を狙ったかのようなピッチングで威嚇。
恐怖にかられた、その打者は
味方ベンチの、コーチに対し、
「てめえ黙りやがれ!! 俺が殺されるだろう!!」と
キレる始末であったという。

54年、兵役から戻っていたニューカムは、
身体のキレが戻らず、防御率4.55、9勝と調子を崩すが
翌55年は見事復活。
防御率3.20、20勝の好成績で
チームのワールドシリーズ進出に大きく貢献。
シリーズでは、1試合で6失点を喫し、
勝利投手にはなれなかったが、ドジャースは見事、優勝。
宿敵ヤンキースを倒しての世界一を果たし、
ニューカムも、大いに仲間と喜びを分かち合った。

56年は防御率3.06、27勝.....と大活躍、
MVPとサイ・ヤング勝のダブル受賞を果たしたが、
新人王、シーズンMVP、サイ・ヤング勝を全て獲得した選手は
今のところ、このニューカムのみである。

その後、ニューカムは
チームがブルックリンからLAに移ると、
大きく調子を崩し、58年シーズン途中でレッズへ移籍、
59年に防御率3.16、13勝をマークするなど奮闘したが
60年を最後にメジャーのチームで投げる事は無かった。

ちなみにメジャー時代から、野手顔負けの打撃力を見せつけていたニューカム。
通算打撃成績は、打率.271、15本塁打、108打点を誇り、
62年、外野手として日本のドラゴンズで活躍した際には、
81試合で打率.262、12本塁打、43打点をマークした。

メジャー通算149勝、防御率3.56、1129奪三振。


file .258 Hideo NOMO【野茂英雄】

2008-07-31 | MNO
【英雄】
Hideo NOMO

1989年オフ、8球団からの指名を受け
抽選の結果、バファローズに入団した野茂。
身体を半回転させて投げる、いわゆる「トルネード投法」から繰り出される
速球と鋭いフォークボールでパ・リーグの打者を圧倒、
防御率2.91、18勝、287奪三振など、
投手8部門で1位となり、シーズンMVPと新人王をダブル受賞、
鮮烈なデビューイヤーを飾った。

以降、4年連続の最多勝、最多奪三振など、
快刀乱麻の活躍を続け、日本球界を代表するエースとなった。

93年オフ、最大の理解者であり後ろ盾であった仰木彬監督が退団すると
野茂を取り巻く環境が一変する。
新監督の鈴木啓示は、これまで野茂が取り組んでいた
合理的なトレーニングを否定。
トレーナーの立花龍司を遠ざけ、自身の精神論を押し付けた。
その結果なのか、野茂は右肩を痛め、この年、17試合の登板にとどまり、8勝に終わる。

94年オフ、契約問題などで球団とこじれた野茂は、
任意引退の形をとり、バファローズを退団。
メジャー・リーグ挑戦の意向をあきらかにする。

95年、ドジャースとマイナー契約を交わした野茂。
日本のマスコミ、識者の多くが「我が儘」「無謀」と評する中、
5月にメジャーデビューを果たすと、この年、
防御率2.54、13勝、236奪三振をマーク、
最多奪三振に加え、新人王に輝いた。
さらに6月の月間MVP受賞やオールスター戦での先発登板など、全米を席巻。
スト問題などで人気低迷が叫ばれていたメジャー・リーグを再び盛り上げるのに一役買い、
さらに、日本でも社会現象になるほどの大フィーバーを演出した。

96年には、ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成するなど活躍し
防御率3.19、16勝、234奪三振。
97年は防御率4.25ながらも14勝、233奪三振をマークし、
メジャーを代表する投手として、その地位を確立した。

98年シーズン途中でメッツへ移籍し、2球団で6勝。
99年からはブルワーズ、タイガースとチームを変え、
2001年、レッドソックスへ移籍、
防御率4.50、13勝、リーグトップの220奪三振をマーク、
初登板のオリオールズ戦では二度目となるノーヒットノーランを達成し、
再び、全米の注目を集めた。

2002年、FAでドジャースへ復帰すると
この年、防御率3.39、16勝、193奪三振の好成績。
翌2003年も防御率3.09、16勝、177奪三振....と
古巣で安定した投球を続けた野茂であったが、
2004年、不調に陥り、防御率8.25、4勝に終わると、
2005年、移籍先のデビルレイズでも思うような活躍が出来ず
その後、2年間はメジャーの試合で投げる事は無かった。

今日、多くの日本人選手が
メジャーリーグの舞台でプレーしているが、
彼らに道を切り開いたのは、間違い無く野茂である。
日本でのメジャーリーグ人気に火を付けたのも言うまでもなく野茂である。
また、カル・リプケンJr.と子供野球教室を実施したり、
ノモ・ベースボール・クラブを結成し、
社会人野球を盛り上げようと奮闘するなど、
ベースボールに対する真摯な姿勢は、多くの尊敬を集めている。

2008年、ロイヤルズで、
3年ぶりにメジャーのマウンドに立った野茂。
3試合で9失点を喫すると
7月、「悔いが残る」現役引退を発表した。

メジャー通算320試合、123勝、109敗、防御率4.21、1915奪三振。
パイオニアが残した堂々たる数字である。

file .253Wally MOON【ウォーリー・ムーン】

2008-07-12 | MNO
【Moon shots】
Wally MOON

1954年、プロ初打席を場外ホームランで飾ったムーン、
この年、24歳のムーンは151試合で
打率.304、12本塁打、76打点、18盗塁と大活躍。
スタン・ミュージアルやレッド・シューンディーンストらと共にチームを牽引、
同年デビューのアーニー・バンクスやハンク・アーロンらを抑え、
見事、新人王を獲得した。

翌55年も打率.295、19本塁打をマークし
デビューイヤーがフロッグで無い事を証明すると、
以後、カージナルスの主力選手として攻守にわたり活躍。
57年にはキャリアハイとなる24本塁打を放ち、
スラッガーとしての更なる成長を見せた。

58年オフ、
この年絶不調に終わったドジャースは、
名門復権のキーマンとしてムーンに白羽の矢を立てた。
結局、トレードでドジャースに移籍したムーンは、
見事その期待に応え
打率.302、19本塁打、74打点。
勝負強い打撃と好守を見せ、
リーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでもホームランを打つなど活躍し
チームを世界一に導いた。
MVP投票では4位に終わったが、チーム内での得票数では
ホッジスやスナイダーといった名だたる名プレーヤーの上を行っており
その活躍ぶりがいかにクラッチだったかが証明された。

60年、打率.299、13本塁打。
61年、打率.328、17本塁打、88打点.......と
以降もドジャースの主力打者として活躍を続けたが、
61年をピークに年々成績が落ちていき、
65年、53試合で打率.202、1本塁打に終わると、
この年のワールドシリーズ優勝を土産に
現役から退いた。

通算1457試合、打率.289、142本塁打、664打点。

file .232 Jesse OROSCO 【ジェシー・オロスコ】

2007-12-18 | MNO
【馬車馬】
Jesse OROSCO

史上最多の1252試合に登板、
24年間投げ続け、8チームを渡り歩いた息の長いリリーフ投手。

オロスコは78年ツインズにドラフト2位入団するが、
デビューは79年のメッツであった。

メジャーに完全に定着したのは82年。
この年54試合に登板し防御率2.72、
4勝をあげるも10敗を喫してしまい、
イマイチ信頼感に欠く内容となってしまった。

が、83年に62試合、防御率1.47、13勝/17セーブと
素晴らしい成績をマークすると、
翌84年は60試合、防御率2.59、10勝/31セーブ。
チームの信頼を得るに至った。

左腕から繰り出されるムーブするストレートとシンカーを駆使し打者を翻弄。
83年以降は引退するまで全てリリーフ登板であった。

86年は58試合、防御率2.33、8勝/21セーブで
チームの地区優勝に貢献。
プレーオフ/ワールドシリーズでも、8試合に登板し
3勝2セーブを記録するなど、メッツの2度目の世界一に大きな役割を果たした。

88年、ドジャースへトレードされると
55試合、防御率2.72、3勝/9セーブをマーク、
自身2度目の世界一の美酒に酔いしれた。

89年、インディアンズへFA移籍、
その後もブルワーズやオリオールズ等で
セットアッパーとして活躍。
目立たないながらも、安定感のある働きを見せ、
95年~99年は5年連続で60試合以上登板。
40歳になった97年は、キャリアハイの71試合、防御率2.32、6勝をマーク.....と
見事なまでの馬車馬ぶりを発揮した。

2003年、現役を引退。
通算防御率3.16、87勝、144セーブ。
1970年代~2000年代...と4ディケードを黙々と投げ抜いた、
メジャー史上屈指の仕事人投手である。