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file .206 Catfish HUNTER【キャットフィッシュ・ハンター】

2007-06-30 | ABC
【なまずか金魚か??】
Catfish HUNTER

1965年、アスレチックスと契約を交わしたハンター。
本名は、ジェイムス・ハンターであったが、
『なまず釣り』が趣味だった事から、
オーナーのチャールズ・o・フィンリーから
『キャットフィッシュ・ハンター』と命名される。

マイナーを経験せず19歳でメジャーデビューを飾ったハンターは、その年8勝。
翌66年は9勝をあげるが、両年とも防御率が4点台と、
ブレークにはほど遠い成績に終わっていた。

その才能が開花したのは67年。
17敗を喫するも、13勝 防御率2.81と
ローテーション・ピッチャーとして申し分無い働きを見せ、
チームの主力投手に成長を遂げると
70年まで4年連続で二桁勝利をマーク。
68年には5月8日のツインズ戦で完全試合を達成した。

豪速球の持ち主では無かったが、
コーナーに投げ分けるコントロールの良さが光る
本格派投手であった。

71年、25歳のハンターはさらなる成長ぶりを見せつける。
この年、21勝 防御率2.96の好成績で大ブレーク。
翌72年も21勝 防御率2.04でリーグ優勝に大きく貢献。
レッズとのワールドシリーズでも2勝をマークし
チームを世界一に導くと、73~74年も20勝以上。
チームのエースとして、アスレチックスの
3年連続ワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たした。

74年.......25勝 防御率2.49で、
最多勝と最優秀防御率及び、サイ・ヤング賞を受賞し
キャリア最高の年を送ったハンターだったが、
アスレチックスの契約不履行により自由契約の身になると、
5年間375万ドルという当時としては破格の契約で
75年に、ヤンキースへ入団。
あまりの高額契約にマスコミやファンから
『ゴールド・フィッシュ・ハンター』などと揶揄されるが
この年、23勝 防御率2.58。
堂々のピッチングぶりで周囲の雑音をシャットアウトした。

結局、その後、
77年、78年とヤンキースで2度の世界一を味わったハンターは
33歳になった79年、現役を退いている。

通算224勝、防御率3.26。
87年に野球殿堂入りを果たし、
99年、ルー・ゲーリック病でこの世を去った。

file .204 Jack CLARK【ジャック・クラーク】

2007-06-24 | ABC
【切り裂きジャック】
Jack CLARK

73年、ジャイアンツにドラフト指名され、入団。
75年には19歳の若さでメジャーデビューを果たしたクラーク。
77年に136試合に出場し、打率.252 13本塁打をマークすると
翌78年には打率.306 25本塁打 98打点の好成績を残し
オールスターにも初出場を果たすなどブレーク。
一躍、チームの看板選手となった。

以後、79、80年と20本塁打、80打点以上をマークし、
勝負強い打撃を披露したクラーク。
82年には打率.274 27本塁打 103打点の好成績で
MVP投票で7位につける大活躍ぶりであった。

85年、カージナルスへ移籍。
機動力野球を推進していた当時のカージナルスにおいて
貴重なパワーヒッターとして、おおいに期待されての入団であったが
打率.281 22本塁打 87打点を打ち、チームのリーグ優勝に貢献。
期待通りの活躍ぶりを見せると
87年も打率.286 35本塁打 106打点とキャリアハイの好成績を残し、
カージナルスをリーグ優勝に導く大活躍。
MVP投票でも3位にランクされ、最高の年を送った。

また、87年~80年の4年間はいずれも100四球を超える選球眼を披露したが、
一方で、この間、3度の100三振以上を喫するなど
堅実さと粗さの同居するユニークな存在感を示していた。

88年、ヤンキースへ移籍し、27本塁打 93打点、
89年、パドレスで26本塁打 94打点
91年はレッドソックスで28本塁打 87打点と
行く先々でクラッチヒッターぶりを見せたクラーク。
結局92年、36歳で現役を引退。
1826安打 340本塁打 1180打点の通算成績を残した。

怪我が多く、粗い打撃の印象が強いが
通算打率.267に対し、出塁率は.379を誇るなど、
フォア・ザ・チームに徹する一面も見せ、
ゴールド・グラブの受賞経歴こそ無いが、
85年に一塁手にコンバートされるまでは、
外野手として、毎年のように10捕殺以上をマークし
強肩ぶりを発揮していた。

file .203 Tony PENA【トニー・ペーニャ】

2007-06-23 | PQR
【独特の捕球スタイル】
Tony PENA

右足を伸ばして、地面にペタンと座る...という
独特の捕球スタイルが特徴的だった、
80年代を代表する捕手の一人。

1980年、23歳でメジャーデビューを飾ったペーニャ。
82年に138試合に出場、正捕手の座を獲得すると、
翌83年、打率.301 15本塁打 70打点の好成績に加え、
ゴールドグラブも受賞し、デビュー4年目で
リーグを代表する捕手に成長を遂げた。

84年も打率.286 15本塁打 78打点と勝負強い打撃を披露、
83年から85年まで3年連続でゴールドグラブを受賞、
攻守両面においてチームを支えた。

87年にカージナルスへ移籍、
チームのリーグ優勝に貢献すると
90年にはレッドソックス、
94年~96年まではインディアンズ....と
豊富な経験と守備力を買われ、
移籍を繰り返したペーニャ。
97年、ホワイトソックスとアストロズでプレーするが
この年限りで現役を引退した。

通算1687安打 107本塁打 打率.260

息子のトニー・ペーニャもメジャーリーガーで、
2007年6月現在、ロイヤルズで内野手としてプレーしている。

file .202 Dave WINFIELD【デイブ・ウィンフィールド】

2007-06-14 | VWX
【2001 HOF】
Dave WINFIELD

MLB、NBA、NFL....と、3種目のプロスポーツで
ドラフト指名されたウィンフィールド。
結局、MLBのパドレスに入団するのだが、
マイナーを経る事無く、1年目からメジャーで活躍し
56試合で打率.277 3本塁打 12打点の成績を残す。

翌74年には20本塁打し、その才能の片鱗を感じさせるが
75~76年は、いずれも10本台の本塁打数に終わり、
打撃面においては、伸び悩みを見せていた。

そんなウィンフィールドだったが
77年、25本塁打 92打点、
78年には24本塁打 97打点.......と
ようやく高いレベルで安定した数字を残せるようになり、
79年は打率.308 34本塁打 118打点。
キャリアで唯一のタイトルとなる打点王を獲得し
完全なるブレークを果たした。

81年、高額契約でヤンキースへ移籍。
82年、83年、いずれも30本塁打 100打点以上をマークし、
84年は、同僚のマッティングリーと熾烈な首位打者争いを展開。
最終戦でマッティングリーに競り負けてしまい、タイトルこそ逃すも、
打率.340 19本塁打 100打点を記録。

以後も、ヤンキースでは、
6度の20本塁打以上と100打点以上をマークするなど
看板通りの大活躍を見せる事となった。

が、その一方で、
81年のワールドシリーズでは、22打数1安打と大ブレーキ。
オーナーのスタインブレーナーからは
シーズンの序盤しか華々しい活躍が出来ない
『ミスター・メイ』と皮肉られ、
83年には、練習でのキャッチボール中に、
ボールをカモメに当て死亡させ、
動物虐待のかどでトロント警察に逮捕されるなど
散々な目にあってしまう。

ともあれ、ヤンキースで選手としての絶頂期を迎えたウィンフィールドは
90、91年はエンゼルスで活躍。

92年は逮捕された苦い経験を持つトロントへ移籍、
40才にして打率.290 26本塁打 108打点をマークし
チームをリーグ優勝に導くと、
ワールドシリーズでも、
第6戦で、世界一を決めるタイムリーヒットを放つなど大活躍。

ツインズで迎えた93年には3000本安打も記録し、
95年、43才で現役を退いた。

通算3110安打 465本塁打 1833打点 223盗塁 打率.283
ナ・リーグ、ア・リーグの両リーグでゴールドグラブを受賞するなど
外野守備の評価も高かった。

2001年には殿堂入りを果たす。

file .201 Rick MONDAY【リック・マンデー】

2007-06-01 | MNO
Rick MONDAY

アリゾナ州立大学のスター選手だったマンデーは
1965年、メジャーリーグの第1回ドラフトで全米1位指名を受け、
アスレチックスへ入団。
66年にメジャー昇格を果たしたマンデーは、
67年、打率.251 14本塁打 58打点をマーク。
外野のレギュラーの座を確保する。

が、周囲の期待とは裏腹にマンデーは伸び悩んだ。
選球眼が良く、出塁率は悪くなかったものの、
三振が多く、本塁打も思ったようには出ない.........。

71年、打率.245 18本塁打に終わったマンデーは、
72年にカブスへ放出される。

新天地カブスでは、73年、74年と
2年連続で20本台の本塁打を放つなど、
マンデーの打撃は上昇の気配を見せ、
76年には打率.272 32本塁打 77打点、
とキャリア最高の成績をマーク。
また、この年の4月、
マンデーを国民的なヒーローに押し上げる、ある事件が起きる。
.......4月25日、カブスvsドジャース、
4回裏、ドジャースの攻撃中、
レフトスタンドから、2人の男がグラウンドに闖入してきた。
男達は、抱えていた星条旗に油をそそぎ、
マッチで火をつけようとしている。
それに気づいたマンデーはセンターの守備位置から
彼等のもとに駆け寄り、星条旗を奪うと
そのままドジャースのベンチへ駆け込んだ。
闖入者達は警備員に取り押さえられ、
そのまま御用となった。
............かくして国旗は、リック・マンデーによって、守られたのである。
球場内には観客が歌う『ゴッド・セイブ・アメリカ』が響き渡り
次のマンデーの打席ではスターティング・オベーションの嵐が吹き荒れた。

大統領から感謝の声明を送られるなど
押しも押されぬ、国民的スターとなったマンデーだが、
野球の成績は76年を境に下降の一途をたどる。
77年にはドジャースへ移籍、
79年、怪我でほぼ一年を棒にふると
80年からは控えに回されてしまった。

81年、66試合の出場ながら
打率.315 11本塁打 25打点の好成績をマークしたマンデー。
エクスポズとのプレーオフでは
リーグ優勝を決める本塁打を放つ、派手な活躍を見せた。
ワールドシリーズ進出を阻まれたエクスポズファンは
マンデーを『ブルー・マンデー(憂鬱な月曜日の意//R&Bの有名なヒット曲のタイトルでもある)』と呼び
悔しさをあらわにした。
結局、ドジャースは世界一に輝き、
マンデーも優勝の美酒におおいに酔う事となったが、
84年、通算1619安打 241本塁打 打率.264の成績を残し
現役を引退した。