GUMBO

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file .313 Mike SCIOSCIA【マイク・ソーシア】

2014-01-19 | STU
【名捕手から名将へ】
Mike SCIOSCIA

1976年、ドラフト1位指名でドジャースに入団したソーシアは、
80年にメジャーデビュー。
81年には、22歳の若さで、
ベテランのスティーブ・イェガーを押しのけ、
チームの第一捕手の座についた。
この年、打率.276 2本塁打 29打点、
ドジャースのリーグ優勝に貢献、
ヤンキースとのワールドシリーズでは、打撃好調のイェガーに出番を奪われ、
3試合でわずか6打席の出場にとどまるが、チームは優勝。
ほろ苦くも、嬉しい一年になった。

その後は冴え渡るリードと堅い守備でホームを死守。
完全なる正捕手の座に登り詰め、
84年から引退までの9年間、100試合以上マスクをかぶる事になる。

85年、打率.296 7本塁打 53打点 出塁率.407の好成績で
チームを地区優勝に導くと、
88年は、打率.257 3本塁打 35打点ながら、メッツとのチャンピオンシップで
ドワイト・グッデンから同点本塁打を打つなど活躍。
ワールドシリーズでも正捕手として出場し、今度は堂々世界一に貢献。
翌89年からは2年連続でオールスターに選出され、
リーグを代表する捕手に成長した。

92年に、怪我の影響もあって現役を引退したソーシアは、
2000年にエンゼルスの監督に就任。
2002年にワールドシリーズ制覇を果たし、名将として君臨。
その契約は2018年まで結ばれている。

現役成績は、1441試合 1131安打 打率.259 68本塁打 446打点 出塁率.344。

file .312 LaMarr HOYT【ラマー・ホイト】

2014-01-12 | GHI
【一瞬の栄光】
LaMarr HOYT


アパラチアリーグで活躍したのち、
1973年にヤンキースからドラフト指名を受け入団。
一度もメジャーに上がれないまま、
77年にホワイトソックスにトレード移籍したホイトは、
79年、ようやくメジャー初登板を成し遂げると、
80年に防御率4.57 9勝をマーク、頭角を表すに至った。

抜群のコントロールを武器に
キレのあるカーブ、スライダー、チェンジアップを投げ分け、打者を翻弄。
82年には防御率3.53 19勝で最多勝。
83年は防御率3.66ながら24勝をあげ、チームを地区優勝に導き、
最多勝とサイ・ヤング賞を受賞。
木こりのような風貌のムサい髭男が輝かしい栄冠を手中におさめた。

84年、防御率4.47 13勝をマークするも18敗を喫し
85年にはサンディエゴ・パドレスに移籍。
ホイトは新チームでキャリアハイの防御率3.47と好投、
16勝をあげサイ・ヤング勝投手の面目を保つ。

が、終焉はいきなりやってきた。
86年の初頭、2度に渡り麻薬所持の現行犯で逮捕されると
防御率5.15 8勝と低迷。
シーズン終了後の12月、三たび麻薬所持でお縄を受け、
そのままメジャーのマウンドに立つ事なく現役を終えた。

file .311 Zoilo VERSALLES【ゾイロ・ヴェルサイレス】

2014-01-06 | VWX
【ゾロ】
Zoilo VERSALLES


キューバ出身のヴェルサイレスは
1959年、若干19歳にしてワシントン・セネターズの遊撃手としてデビュー。
61年にミネソタツインズに移籍して
打率.280 7本塁打 53打点でレギュラーに定着すると、
以降、華麗な守備でチームを支え、
63年にはオールスター出場に加え、ゴールドグラブも受賞。
リーグ屈指の遊撃手となった。

65年、打率.273 19本塁打 77打点をマーク、
126得点、45二塁打、12三塁打は共にリーグ最多で
チームのリーグ優勝の原動力となり、
打率.321 98打点のチームメイト、トニー・オリバを抑えMVP獲得。
二度目のオールスター出場とゴールドグラブにも輝き、
キャリア最高の年を過ごした。

66年以降は一転、打撃面で苦しむようになり
成績は下降の一途。
68年からチームを転々とし、
72年は来日し広島カープに入団。
元MVPプレーヤーの片鱗を見せつけるには至らず、
打率.189 4本塁打でそのまま現役を引退した。

file .310 Pedro MARTINEZ【ペドロ・マルチネス】

2014-01-04 | MNO
【ヘッド・ハンター】
Pedro MARTINEZ


ドジャースでエースに君臨していた兄ペドロを追うように
1992年に同チームに入団したペドロ。
93年にメジャーに定着し、リリーフ投手として65試合に出場
防御率2.61 10勝 2セーブをマーク、
兄と共にチームの勝利に貢献するも
オフにエクスポズへトレード移籍の運びとなる。

エクスポズ1年目の94年、先発に転向し防御率3.42 11勝をあげると
95年は防御率3.51 14勝をマーク、96年も兄ラモンと投げ合うなど防御率3.70 13勝と
チームに欠かせないエース級の投手に成長を遂げた。

が、ペドロの伸びしろは、こんなもんじゃなかった。
97年、投手コーチのボビー・クエイヤーからチェンジアップの強化を勧められたペドロは
見事これに成功。落差の大きな新チェンジアップを軸に、
投球の幅が格段にアップし、防御率1.90 17勝を記録。
サイ・ヤング賞を受賞し、
一躍、超一流投手の仲間入りを果たす。

150キロ後半の豪速球に加えコントロールは抜群。
キレ味鋭いハードカーブに件のチェンジアップを織り交ぜ
時には打者を威嚇すべく頭付近をえぐるように投げ込む。
付いたニックネームは『ヘッド・ハンター』
才能を満開に開花させたペドロを打ち崩すのは容易では無かった。

98年にレッドソックスに移籍すると
防御率2.89 19勝でチームのポストシーズン進出に貢献。
99年は防御率2.07 23勝をあげ、最優秀防御率・最多勝・最多奪三振・二度目のサイ・ヤング賞を受賞。
2000年も防御率1.74 18勝で、最優秀防御率・最多奪三振・三度目のサイ・ヤング賞と
まさに八面六臂の大活躍を見せた。

「呪いなんて俺は信じない。バンビーノの奴をここに連れて来い。ケツにぶち込んでやる!」
レッドソックスはバンビーノことベーブ・ルースを放出して以来、
ワールドシリーズ制覇から遠ざかっていた。
あと1勝で世界一というチャンスを4回迎えて全て逃しているような事実も
『バンビーノの呪い』の神秘的な信憑性を高めていた。
闘争本能剥き出しのペドロは、レッドソックス入団後、
当然の如く、チーム最大の仇『バンビーノ』に噛み付いた。

01年は怪我で途中離脱し18試合の登板に終わったペドロだったが
02年は防御率2.26 20勝、03年は防御率2.22 14勝…と看板に恥じない投球を披露。
そして04年ペドロは、防御率3.90 16勝と調子を崩したものの、チームはリーグ優勝。
カージナルスとのワールドシリーズでも1勝をあげ、レッドソックス86年ぶりの世界一に
大きく貢献し、前述の公約(?)を守った。

05年からはニューヨークメッツに移籍。
ボソックス時代の圧倒的な投球は若干影を潜めるものの
正確無比のコントロールとキレのある変化球は健在、
06年に通算200勝、07年に通算3000奪三振を記録した。

09年、フィリーズに移籍。
チームのリーグ優勝に貢献するも、
ワールドシリーズではヤンキースの松井秀喜の打棒の前に屈し、
2敗を喫し、そのまま現役を引退した。

通算476試合 防御率2.93 219勝 3154奪三振。
メジャーの歴史でも屈指の右投手で、
マウンド上では、打者に牙をむく鬼神のような獰猛さを見せたが
実際は悪フザケが好きな、陽気なドミニカンであった。

file .309 Ken GRIFFEY Jr.【ケン・グリフィー ジュニア】

2014-01-03 | GHI
【the KID】
Ken GRIFFEY Jr.


ビッグレッドマシーンの一員である
ケン・グリフィーを父に持つサラブレッドのジュニアは、
高校時代に2度の最優秀選手に輝くなど、
天賦の才を遺憾なく発揮。
シアトル・マリナーズから1位指名を受け入団する。
1989年、19才でメジャーに昇格したジュニアは、
打率.264 16本塁打 61打点で新人王投票3位に付ける活躍を見せ、
90年には打率.300 22本塁打 80打点でセンターのレギュラーに定着。
早々とブレークを果たす。

しなやかで美しいフォームから力強い打球を放ち、
走れば俊足、守れば広い守備範囲でスーパープレイを連発。
やんちゃなルックスと、天真爛漫かつ、華やかな佇まいも相まって
若くして当代きってのスーパースターの座に座る事となった。

また90年には現役を続けていた父がマリナーズに入団。
史上初となる親子でスタメン出場を果たし、
更に2者連続本塁打を記録、野球ファンに爽やかな感動を提供した。

91年には打率.327 22本塁打 100打点、
史上最小年齢での100打点をマークすると、
その後も着実にステップアップ。
93年、打率.309 45本塁打 109打点、
ストライキにより8月にシーズンが終了した94年は
打率.323 40本塁打 90打点で本塁打王を獲得、
ストライキが無かったら60本超えも夢では無かった。

フォトジェニックなグリフィーのトレードマークは、
練習中などに帽子を後ろ前に被るスタイルだ。
一部のお堅い関係者からは批判めいた発言もあったが、
グリフィーは、気にする事なく、逆に94年オールスターのホームラン競争で
帽子を後ろ前に被ったスタイルで優勝。
その実力をまざまざと見せつけ周囲を黙らせた。

スーパープレイの代償で左手首を骨折した95年は、
怪我の影響で打撃も鈍り打率.258と調子を落とすも
96年は打率.303 49本塁打 140打点と負傷前よりパワーアップ。
さらに翌97年は打率.304 56本塁打 147打点でチームを地区優勝に導き、
本塁打・打点の二冠王とシーズンMVPを獲得。
ジュニアは父を超え、メジャーリーグを代表する超一流のスーパースターに登り詰めた。

98年、56本塁打。99年、48本塁打と97年も合わせて3年連続で本塁打王に輝いたグリフィーだったが、
自らトレード志願し、2000年からかつて父が在籍したシンシナティ・レッズに入団。
マリナーズファンから脅迫めいた手紙が届くなど、大騒ぎとなった。

レッズ移籍後、30才になっていたグリフィーは、
長く人工芝の球場でプレーしていた所為か、足の故障に苦しめられ、
2000年こそ打率.270 40本塁打 118打点となんとか面目を保つが
01年、打率.286 22本塁打 65打点(111試合)。
02年に至っては、70試合の出場で打率.264 8本塁打 23打点と低迷する。

その後も故障で03、04年と二桁試合数にとどまり、かつての輝きを失ったジュニアは
05年、打率.301 35本塁打 92打点、
07年は、打率.277 30本塁打 93打点とややしばし成績を持ち直すも
足の状態は良くなる事はなく、
08年シーズン途中にホワイトソックスへ、
09年は古巣のマリナーズに戻り、
10年、現役を引退した。

マリナーズ時代は、11年連続オールスター出場に加え、
10年連続ゴールドグラブ賞を受賞。
華々しいキャリアのイメージは大半がマリナーズ時代のものである。
が、ジュニアが90年代最高のスーパースターだった事に異論を持つ者は皆無だろうし、
なんといってもステロイドをはじめとした薬物の噂とは無縁でクリーンだった事実が
グリフィーの価値を大いに高めている。

イチローをはじめとして、多くのメジャーリーガーの憧れの存在であり、
殿堂入り確実な、歴史に残る偉大なレジェンドである事に間違いない。

通算2671試合、打率.284 630本塁打 1836打点 184盗塁。

file .308 Hideki MATSUI【松井秀喜】

2014-01-02 | GHI
【Godzilla】
Hideki MASTUI


読売ジャイアンツでの10年で、1390安打、332本塁打、889打点をマーク、
日本を代表するホームランバッターだった松井が海を渡ったのは2003年。

俊足巧打タイプのイチローが既にスターの仲間入りを果たしていたメジャーリーグに
初のパワーヒッターとして挑戦する事となった松井は
名門ニューヨークヤンキースに入団する。
本拠地の開幕戦で満塁本塁打を放ちファンを熱狂させた松井だったが、
日本時代のような豪打は影を潜め、
ゴロでの凡打が多かった所為で『ゴロキング』などと揶揄される事もあった。
が、結果として打率.287 16本塁打 106打点。
本塁打こそ期待した数字には及ばなかったものの、100打点をマーク。
ポストシーズンでも活躍。
勝負強い打撃はファンの心を掴み、
その穏やかで真摯な物腰の所為かNY記者の投票による『グッドガイ賞』に輝いた。

2004年は一転長距離打者の片鱗を見せつけ
打率.298 31本塁打 108打点。
今のところ日本人野手で唯一となる30本塁打超えを果たす。
勝負強い打撃にも磨きがかかり、
名門ヤンクスの中軸打者としての地位を確立した。

05年は打率.305 23本塁打 116打点。
本塁打こそ減りはしたものの、打率、打点は前年より上昇。
フォアザチームに徹したクラッチな打撃を披露し、
チームメイト、ファンから絶大な信頼を得るに至った。

06年、5月、好調な打撃を見せていた松井だったが
好事魔多し、左翼守備の際に左手首を骨折するアクシデントに見舞われ、
日本時代から続けていた連続試合出場も1768で途切れてしまう。
治療とリハビリを終え、9月にスタメン復帰した折には
ファンからの大きなスタンディング・オベーションで迎えられた。

07年も打率.285 25本塁打 103打点と、勝負強い打撃を披露した松井だったが、
08年は今度は、膝の故障で思うようにプレー出来ず、93試合の出場に留まる。

が、09年、松井はキャリア最高の瞬間を迎える。
シーズン打率.274 28本塁打 90打点でチームを地区優勝及びリーグ優勝に導いた松井は
フィリーズとのワールドシリーズで脅威の大爆発。
1試合6打点を含む打率.615 3本塁打 8打点(6試合)をマーク、
シリーズMVPにも選出され、名門ヤンキースの歴史にその名を英雄として残す事となった。

シーズンオフ、FAとなった松井だったが、
ヤンキースとは契約の折り合いが付かず、
10年、エンゼルズに移籍。
移籍後、初のヤンキースタジアムの試合では、
ファンからのスタンディング・オベーションで迎えられる感動の一瞬もあったが、
数字の方は、打率.274 21本塁打 84打点と、まずまずといったレベル。
期待された数字には至らなかった。

11年はアスレチックスに移籍し打率.251 12本塁打 72打点
衰えを隠せない松井は12年、レイズで34試合に出場したのみで現役引退を表明した。

メジャー通算1236試合、1253安打、打率.282 175本塁打 760打点。
日本時代の松井の数字を考えれば、メジャーでの成績は少々物足りないようにも見える。
だが、その無類の勝負強さと名門ヤンキースにピッタリな穏やかで紳士な佇まいは、
ニューヨークのファンの心に刻み込まれている。
ポストシーズンの通算成績は56試合で、打率.312 10本塁打 39打点。

2013年7月28日、ヤンキースは松井と1日契約を結び、引退セレモニーを開催、
その功績に対し、おおいに報いた。

日本が誇る『ゴジラ』そして『ワールドシリーズMVP』である。