GUMBO

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file .290 Manny SANGUILLEN【マニー・サンギーエン】

2010-03-28 | STU
【Sangy】
Manny SANGUILLEN

1969年、129試合に出場し
打率.303 5本塁打 57打点をマーク。
25歳で、強豪パイレーツの正捕手となったサンギーエン。
70年には打率.325 7本塁打 61打点。
71年は打率.319 7本塁打 81打点、
オリオールズとのワールドシリーズでも打率.379と活躍し、
チームの世界一に大きく貢献した。

パナマ生まれの陽気なサンギーエンは、
チーム屈指の人気者で、同僚のロベルト・クレメンテとは
大の親友であった。

巧打者でありながら極度の悪球打ち。
それだけに四球は極端に少なく、
プロ13年で四球が30を超えたのは一度だけである。

72年にクレメンテが飛行機事故で海に消えると、
73年は、クレメンテが守っていた右翼を60試合近く守った。

75年、打率.328 9本塁打 58打点と、
変らぬ好打者ぶりを発揮したサンギーエンだったが、
77年、監督とのトレードという珍事でアスレチックスに移籍。
が、翌年にはパイレーツに戻り、
79年、控え捕手ながら、チームの世界一に再び貢献した。

1980年、現役を引退。

通算1448試合 打率.296 65本塁打 585打点 1500安打

同年代にマンソン、フィスク、ベンチなど
殿堂級の偉大な捕手が揃っていただけに、決してメジャーな存在では無いが
70年代を代表する、名捕手の一人である事に間違いは無い。

72年のオフ、
ロベルト・クレメンテの葬儀にサンギーエンは唯一参列していない。
何故なら、その時サンギーエンは、
クレメンテの遺体を探すダイバーチームに参加していたからである。

現在は、パイレーツの本拠地PNCパーク内で
バーベキュー屋を営んでいる。

file .289 Nomar GARCIAPARRA【ノマー・ガルシアパーラ】

2010-03-19 | GHI
【スーパースターの早過ぎる落日】
Nomar GARCIAPARRA

1994年、ドラフト1位指名で
レッドソックスに入団したガルシアパーラ。

96年にメジャーデビューを果たし、
翌97年、2年目にしてリーグトップの209安打
打率.306 30本塁打 98打点 22盗塁という
素晴らしい成績を残し、新人王を獲得する。

98年も打率.323 35本塁打 122打点、
MVP投票で2位にランキングされるほどの活躍ぶり、
24歳にして、リーグを代表するスーパースターの地位を確率した。
当時、ア・リーグには、
ガルシアパーラの他、
マリナーズのアレックス・ロドリゲス、
ヤンキースのデレク・ジーター・・と
実力とカリスマ性を兼ね備えた大型スター遊撃手が3人も君臨しており、
この3人は、並び称される事が多かった。

99年、ガルシアパーラはさらなる飛躍を見せる。
この年、打率.357 27本塁打 104打点で首位打者を獲得。
さらに2000年は打率.372 21本塁打 96打点で2年連続の首位打者。
26歳にして、古豪レッドソックスの『顔』に成長を遂げた。

打撃のみならず、守備もゴールドグラブ級。
さらに端正でハンサムな顔だち。
バッターボックス内では、せわしなく動き回り、
1球ごとに外しては、プロテクターやバッティンググローブを締め直す。
スター性に加え、上記のようなユニークな仕草を見せる
キャラクターの立ったスーパースターであった。

2001年、本来ならこの年にメジャー入りしたマリナーズのイチローと
激しい首位打者争いを繰り広げてもおかしく無かった筈だが
手首の怪我で、シーズンのほとんどを棒に振ってしまう。

復活を期した2002年は打率.310 24本塁打 120打点、
2003年も打率.308 28本塁打 105打点をマークしたが
守備面での衰えが見え始め、
2004年、契約問題で揉めた球団は、
シーズン途中にガルシアパーラを放出してしまう。

以後は、怪我に泣かされた。
2004年~2009年の6年間、
100試合以上の出場を果たしたのは2度だけ、
2006年(チームはドジャース)こそ打率.303 20本塁打 93打点をマークするが
その後は、泣かず飛ばず。
チームを移籍しても注目を浴びる事もほとんど無く、
2010年春・・・、
古巣レッドソックスとマイナー契約を結び
レッドソックスの選手として現役を引退した。
35歳・・・怪我さえ無ければ、まだまだ溌剌とプレー出来たであろう。

通算1434試合、1747安打 打率.313 229本塁打 936打点

かの大テッド・ウィリアムスは
初めてガルシアパーラをテレビで目の当たりにした際、
旧友のドム・ディマジオに電話をかけている。
「おい、お前さんガルシアパーラを知ってるか??
 奴を観てると誰かを思い出さないか??
 わからんのか! ディマジオだよ!
 奴は、あのジョー・ディマジオを彷彿とさせるじゃないか!!」

file .288 Dan QUISENBERRY【ダン・クイゼンベリー】

2010-03-18 | PQR
【サブマリンストッパー】
Dan QUISENBERRY

1975年、ドラフト外契約でロイヤルズに入団したクイゼンベリー。
79年にメジャー初登板を果たし、32試合 3勝 5セーブ 防御率3.15をマーク、
まずまずの結果を残した。

が、当時の監督ジム・フレイは、今のままだと、
この程度が限界の並みの投手に終わってしまうと考え、
コントロールに光る物があるクイゼンベリーを伸ばすため、
アンダースローへの転向を画策。
80年のオープン戦、対戦相手のパイレーツにいた
サイドスローのストッパー、ケント・テカルヴィに引き合わせる。
テカルヴィに師事し、アンダースローに転向したクイゼンベリーはこの年、大変身。
75試合 12勝 7敗 33セーブ 防御率3.09、リーグ最多セーブをマークする。

クイゼンベリーの武器はなんと言っても、コントロールの良さと
精度の高いシンカーである。
相手をねじ伏せるような速球は無く
ランナーをしばしば出したが、必殺のシンカーでゴロを打たせ打ち取る。
当時のロイヤルズは、フランク・ホワイトを始め、ジョージ・ブレットら
内野に名手が多かった事もクイゼンベリーに幸いしていた。

「クイゼンベリーは、30-30-30を達成したんだぜ
 100イニング以上投げて三振がわずか37
 で、30セーブをあげて、奴が投げてる間・・・
 30ものファインプレーが産まれたんだよ」
これは、ジョージ・ブレットの弁である。

その後も、クイゼンベリーは、
チームのストッパーとして活躍。
82年~85年にかけて4年連続でリーグ最多セーブを記録。
83年には、32試合 5勝 45セーブ 防御率1.94、
ア・リーグでは前人未到の40セーブを記録し
85年は84試合 8勝 37セーブ 防御率2.37、
カージナルスとのワールドシリーズでも4試合に登板し1勝 防御率2.08。
チームの世界一に貢献した。

チームとも、終身雇用の契約を交わすなど、
まさに絶頂のクイゼンベリーだったが、
86年以降、徐々に調子を落として行く。
88年には、終身雇用だった筈がチームを解雇され、
カージナルスに移籍。
89年は63試合 3勝 6セーブ 防御率2.64で
セットアッパーとしてチームの勝利に貢献するも、
90年、大けがの影響もあって、そのまま現役を引退した。

愛嬌のある風貌と、頭の回転の早さを活かした軽妙な発言で
大いに、人気を博したクイズことクイゼンベリーだったが、
98年、ガンでこの世を去った。

通算674試合 56勝 244セーブ 防御率2.76

メジャーリーグの歴史で、最も成功した
アンダースロー投手といえるだろう。

file .287 John ROCKER【ジョン・ロッカー】

2010-03-09 | PQR
【でも憎めないよね~】
John ROCKER

1999年、ブレーブスは、メッツとの
リーグチャンピオンシップを控えていた。
この年、4勝 38セーブ 防御率2.49で
チームの守護神に成長したジョン・ロッカーは
対戦前、「メッツは、あんだけ好打者を揃えながら、なんでウチに3勝しか出来ねえの??」
(この年、メッツはブレーブスに対し、3勝9敗)
とメッツを挑発した。
当然、メッツファンの怒りを買ったロッカー、
第3戦で、9回を抑えると、試合後ファンを挑発するような態度を見せ、
メッツファンの怒りは倍増した。
「メッツのファンは人間以下、野蛮な奴らだ」
「メッツファンなんて地獄に落ちろ!」等、
ブーイングを浴びせるメッツファンに、ロッカーは更なる挑発を繰り返す。

結局、このブレーブスはワールドシリーズ進出を果たすも、
シリーズではヤンキースに敗れ去った。

同年、年末・・・
スポーツイラストレイテッド誌に掲載されたロッカーのインタビューは、
衝撃的な内容だった。
「ニューヨークは最悪だよ、疲れるし、イライラするな
 地下鉄の7番線で球場に行くとするだろ・・
 ありゃまるでベイルートだね!
 髪を紫に染めたガキはいるわ、そんで隣にはエイズ患者だな、
 で、その隣が刑務所に4回入った野郎で、
 さらにその隣は4人の子がいる20歳のママってわけさ
 気が滅入ってしょうがないね!」

「ニューヨークで最悪なのは外国人の連中だね。俺は奴らの事があんまり好きじゃねえな
 タイムズスクエアに行って1ブロックほど歩いてみ、誰も英語で話しちゃいねえ。
 アジア人や、韓国人、ベトナム人、インド人、ロシア人、スペイン系、なんでもござれだ
 奴ら、どうやってこの国に入ってこれたんだよ?」
...等

この記事により、
ロッカーは、一躍メジャーリーグのヒールとして名を馳せる事となり
ハンク・アーロンや、同僚のトム・グラヴィン、チッパー・ジョーンズなどが
公式にロッカーを避難した。

さらに、ニューヨーク市長のジュリアーニが、
ロッカーの地下鉄利用を禁じ、怒るファンにも自制を求める事態にまで発展。
ロッカーは試合後の移動にも警護をつけなくてはいけなくなってしまった。

その後・・・
インデジアンズやレンジャーズを経て、
2003年に、現役を引退。
通算13勝 22敗 88セーブ 防御率3.42

引退後は、タレント活動にも熱心で
数々のコメディ番組に出演。

引退前の2002年には
The Greenskeeper(邦題・殺戮職人芝刈男)にも出演。
※映画学校の一年生でも、もうちょっとマシな映画作るだろ・・と思うよな
 超が付く程のゴミ映画で、ロッカーは、演技力なぞ微塵も必要としないような役を
 嬉々として(?)演じている。

file .286 Ellie HENDRICKS【エロルド・ヘンドリックス】

2010-03-06 | GHI
【最強オリオールズの頭脳】
Ellie HENDRICKS


1969年~71年にかけて
アール・ウィーバー率いるオリオールズは
3年連続でリーグ優勝を果たした。
(ワールドシリーズ制覇は70年)
チームには、ブルックス/フランクの両ロビンソンを筆頭に
ブーグ・パウエル、デイブ・ジョンソンなど
名選手がズラリと並んでいた。

また、投手陣においては、
71年に、ジム・パーマーやパット・ドブソンら4人が20勝以上するなど
まさにオリオールズ史上、最強の布陣であった。
その最強投手陣を牽引したキャッチャーが
エリー・ヘンドリックスである。

メジャーデビュー(68年)は27歳と遅い。
69年にレギュラーに定着し、打率.244 12本塁打 38打点。
チームはリーグ優勝を果たすも、
ワールドシリーズではミラクルメッツの引き立て役となってしまった。

70年もチームはリーグ優勝。
ヘンドリックスは、ジム・パーマーなど
名投手をリードしつつ、打率.242 12本塁打 41打点。
レッズとのワールドシリーズでも
打率.364 1本塁打 4打点と活躍、
チームの世界一に大きく貢献した。

71年は、パーマー、ドブソン、クェイヤー、マクナリーの4人が20勝以上をマーク。
ヘンドリックスは、この豪華投手陣の女房役として奮闘し
打率.250 9本塁打 42打点をマークした。

その後、72年にトレードでカブスへ移籍したのを皮切りに
古巣オリオールズに戻ったり、出たりを繰り返しながら
79年までプレー、同年、現役を引退した。

ヘンドリックスがレギュラーだったのは、
オリオールズ黄金期の1969年~1971年の3年だけである。
メジャー史上屈指の名捕手・・・というわけにはいかないものの、
この輝ける3年間はヘンドリックスの栄光であったに違いない。

2005年、死去。

感情を抑えられないウィーバーや
プライドの高いパーマーの間に入って
淡々と、自分の仕事をこなしていただけあって
ヘンドリックス自身は温厚そのものであった。
ウィーバーと犬猿の仲で知られる名物審判のロン・ルチアーノは
自身の著書で、
「ヘンドリックスのクレームの付け方は、
 メジャーでも随一のスマートさを誇っていた」
と書いている。

file .285 Albert BELLE【アルバート・ベル】

2010-03-05 | ABC
【意外と、勉強は出来たらしい】
Albert BELLE


実働12年ながら
その間、圧倒的な打撃力と、
同じく圧倒的なトラブルメーカーぶりで
異様な存在感を示したスラッガーである。

大学時代から、その実力を遺憾なく発揮し、
1987年、インディアンズから2位指名を受け入団。
89年にメジャーデビューを果たすと
91年、打率.282 28本塁打 95打点をマーク。
当時、貧打に喘いでいたチームにとって
待望のスラッガーの登場であった。

以後も、チームの主力打者として
その打撃力を遺憾なく発揮したベル。
93年、打率.290 38本塁打 129打点で打点王を獲得すると
95年には、打率.317 50本塁打 126打点で二冠王。
チームのリーグ優勝に大いに貢献した。
ちなみに、この年のリーグMVPは
打率.300 39本塁打 126打点のモー・ヴォーン(レッドソックス)。
数字上ではベルの方が上を行っていたが、
マスコミに対する粗暴な態度が災いしての落選・・と言われている。

96年も打率.311 48本塁打 148打点(打点王)・・・と
豪打爆発のベルだったが、
97年、FA移籍でホワイトソックスへ入団。
同チームには、かのフランク・トーマスもおり、
稀代のスラッガーの競演は、ファンの期待を膨らませた。
この年・・・
ベル/打率.274 30本塁打 116打点
トーマス/打率.347 35本塁打 125打点
翌98年・・・
ベル/打率.328 49本塁打 152打点
トーマス/打率.265 29本塁打 109打点
コンビを組んだのは上記の2年だけであったが、
どちらかが突出した成績をおさめると、
どちらかが少々調子を崩す・・・・・、
数字だけ見れば、そろい踏み・・・
という訳には行かなかったようである。

99年からは、オリオールズに在籍
2000年の打率.281 23本塁打 103打点という成績を最後に
以後は、故障等で試合に出場出来ず、
そのまま引退してしまった。

通算打率.295 381本塁打 1239打点、
殿堂入りも可能な成績ではあるが、恐らく無理だろう。
理由は何といっても、そのトラブルの多さである。

●ファンにボールをぶつけて骨折させる。
●デッドボールに怒り、ピッチャーをボコボコにする
●ハロウィンの日に、お菓子をねだりに来たチビッ子達を車で追いかけ回す。
●コルクバットの使用がバレると、
同僚のジェイソン・グリムズリーを使って証拠隠滅を計る
 (審判団の部屋に忍び込ませ、審判団に没収されたバットを同僚のそれとすげ替えさせた)
●賭博
●暴言
・・・etc・・・
トラブルのデパート状態である。

最近、ここまでの悪童はMLBでは聞かなくなってしまった。
・・・不謹慎かもしれないが寂しい気もする。