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file.066 Jackie ROBINSON 03 【ジャッキー・ロビンソン 03】

2006-02-27 | 2013年映画『42』
【生意気なニガー】
Jackie ROBINSON

波瀾のデビュー・イヤーを終え、
選手としてのジャッキーはますます冴えを見せるようになる。
49年には.342の高打率をマークし、首位打者を獲得、
また好機に強い打撃も披露、ホームラン16本にして
打点124を荒稼ぎした。
チームもジャッキーに牽引され、2年ぶりのリーグ優勝を飾った。
以降、6年連続して3割以上を打ち その間、毎年.400以上の出塁率も記録した。
ポジションは一塁から二塁に変わり、遊撃のピー・ウィー・リースと
無敵のダブルプレー・コンビを結成した。

フィールド上では、その実力を遺憾なく発揮していたジャッキーであったが
それ以外ではまだまだ暗雲は立ち去っていなかった。

1950年、ジャッキーの恩人たるブランチ・リッキーは
ジャッキーに対し「もう、一人立ちしていいぞ」と告げた。
それは、本来のジャッキー・ロビンソンに戻っていいぞ...という意味であった。
要するに、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」ジャッキーではなく
「言われたら、言い返す。やられたら、やり返す」ジャッキーに戻る...という事だ。
ジャッキーは自分の言い分をハッキリと言い、審判の、納得のいかない判定には
バットを叩き付けて激昂した。

白人に対し「大人しい・従順」な態度を見せて
認められる事はジャッキーの本意では無かった。
力と自尊心を持って白人社会と同等に共存する......。
それがジャッキーの思うところの「本当の自由」であった。

が、このジャッキーの変化に対し、『生意気なニガー』というレッテルを
貼られるまで時間はそうかからなかった。
どちらかというと大人しく、波風をたてない
同僚の黒人捕手ロイ・キャンパネラとの確執を取り沙汰される事もあった。
キャンパネラとは、関係が冷えた時期があったのは事実であったようだが、
それらの外部からの雑音はジャッキーのプレーには
何ら、影響を与える事は無かった。

file.065 Jackie ROBINSON 02 【ジャッキー・ロビンソン 02】

2006-02-24 | 2013年映画『42』
【1947年】
Jackie ROBINSON

1947年、晴れてメジャーデビューし、
黒人で初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン。
72年に心臓病で53年の生涯を終えるが、
その人生は想像以上に波瀾に満ちたものであった。

47年、ドジャースの一塁手として
打率.297を打ち、29盗塁を決めて盗塁王、
さらにこの年から新設された新人王を獲得、
一見華やかなデビューであったが、
人種差別による様々な嫌がらせを受けながらの成功であった。
同僚、観客、相手チームのベンチ、新聞記者....etc.....。

が、ドジャースのオーナーでありジャッキーをメジャーデビューさせた
張本人、ブランチ・リッキーは本来血の気の多いジャッキーに
あらゆる野次や迫害に対し、沈黙を持って耐えろ...と命じていた。
それは、当時黒人が受け入れられるのに最良の方法であった。

ジャッキーは耐えながら、ゲームでは遺憾なく
その実力を発揮、次第にチーム・メイトから認められるようになる。

また、敵チームから容赦なく浴びせられる
強烈かつ下品な野次は、ドジャースのチームを
一丸とさせる最高の要員にもなっていた。
ジャッキーが入団した当時、反感を持っていた選手達が
対戦相手チームの野次に対し、何も言えないジャッキーを庇って
野次り返すようになっていた。

デビューして数年、ジャッキーは
ひたすら「耐えて」いたのであった。

file.064 Luis APARICIO Jr 【ルイス・アパリシオ】

2006-02-20 | ABC
【ベネズエラの英雄】
Luis APARICIO

ベネズエラは長年に渡り、
メジャー・リーグの名遊撃手を産出してきた。
チコ・カラスケルに始まり、ルイス・アパリシオ、
デーブ・コンセプシオン、オジー・ギーエン
オマー・ビスケル......。

ルイス・アパリシオの父、ルイス・アパイシオ・シニアも、
これら、ベネズエラ出身の名遊撃手に名を連ねても
おかしくない名選手であった。
事実、1936年にはセネターズから獲得の声がかかった程であった。
しかし人種差別がまだ色濃い時代にあってシニアのメジャー入りは
叶わぬ夢と消えた。

「俺はメジャー・リーグに入れなかったわけじゃない、
飛行機に乗るのが嫌だっただけだよ。」
シニアは悔し紛れに、息子にこう聞かせたという。

野球に没頭する息子、アパリシオを母親は
よく思っていなかった。
親子二代でメジャーへの夢に破れるのを見たくはなかったのだろう。
アパリシオのユニホームを燃やしてしまった事もあるという。

が、ルイス・アパリシオ・ジュニアはメジャー・リーグの
歴史に残る名遊撃手となった。

56年にチコ・カラスケルを押し退けて
ショートのレギュラーを奪取すると
その卓越した守備力でチームを牽引。
攻撃面でも、『ゴー・ゴー・ソックス』と呼ばれた
シソックスの機動力野球を支えるリード・オフマンとして活躍、
2番を打つネリー・フォックスと
『無敵のヒット・エンドラン・デュオ』を形成した。

56年に21盗塁で盗塁王に輝くと、
64年まで9年連続で盗塁王を独占。
ゴールド・グラブも計9度受賞するなど
選手として一時代を築いた。

チームがワールドシリーズ進出を果たした
59年には、打率.257、6本塁打、51打点ながら
リーグトップの56盗塁と、守備力が評価を得て
MVP投票では2位にランキングされる。

オリオールズに在籍していた66年は、
打率.276、6本塁打、41打点、25盗塁をマーク、
チームの世界一に大きな貢献を果たした。

84年にベネズエラ人としては、初の野球殿堂入りを果たすが、
その知らせが伝えられた時、
ウィンターリーグの試合中のベネズエラの球場では
試合が一時中断し、観客・選手らが一緒になって
ベネズエラ国歌を斉唱したという。

親子二代の夢が叶った瞬間であった。

05年のワールド・シリーズ、
一試合目の始球式の栄誉にあずかったのは
他でもない、ルイス・アパリシオ・ジュニアであった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=aparicio

file.063 Carl YASTRZEMSKI 【カール・ヤストレムスキー】

2006-02-16 | YZ
【YAZ】
Carl YASTRZEMSKI

3419安打は歴代6位、塁打は5539で8位、
二塁打が646で7位、1844打点は11位、
選んだ四球は1845で6位、輝かしい記録の数々は、
歴代2位の3308試合をかけて積み重ねてきた数字である。
23年間の長きにわたり、チームの中心打者であった証しでもある。

『ヤズ』ことカール・ヤストレムスキーは、
二塁手として1958年にレッド・ソックスと契約した。
60年に外野へコンバートされると、
翌年、かの大打者テッド・ウィリアムスの後継者たる
レフトのレギュラーを与えられる。
63年には早くも打率.321で首位打者の栄冠に輝くが、
66年までの6年間、ホームラン20本台が65年の一度だけと、
いまひとつパワフルな打撃には欠けていた。
ヤズに転換期が訪れたのは67年、かねてからの
ウェイト・トレーニングが効を奏したのか
この年いきなりリーグトップとなる44本のホームランを放つ。
打率.326 打点121もリーグトップで
1966年のフランク・ロビンソンに続く三冠王に輝いた。
また、チームの21年ぶりの優勝の立て役者としてMVPも獲得、
結局は敗れたワールド・シリーズでも打率.400、3本塁打を打ち気を吐いた。

両リーグを通じて、圧倒的に投高打低68年には
リーグでただ一人、打率.300台(.301)を打ち、首位打者を獲得。
以後69年、40本塁打、111打点、
70年、打率.329、40本塁打、102打点と好成績を残し
いよいよテッドの後継者たる大打者への道を歩むかに見えた。

が、71年に15本塁打に終わると、
以後、ヤズの長打力は影を潜め、83年の引退まで13年間、
20本塁打以上が3度、80打点以上が5度に終わるなど、
元の中距離打者に戻ってしまう。
また3割以上の打率も74年の.301しか記録できず
三冠王の面影は無くなってしまっていた。
しかしながらヤズがレッド・ソックスの主砲及び、
精神的支柱であることには何の疑いもなかった。
事実、23年のキャリアにおいて、100安打以上が22度、
唯一、それを逃した81年はストライキで試合数が少なかった年である。
この安定感こそがヤズの最大の武器であった。
加えて、ヤズは打撃だけのプレーヤーでは無かった。
ゴールド・グラブは7回受賞し、最多捕殺も7回を記録している。

レッド・ソックスの監督を勤めたラルク・ホウクはこう言う
『殿堂入りしている強打の打者はたくさんいるが、ヤズはそれだけの選手ではなかった。
1塁の走者を3塁まで進めるバッティングや、必要とあらば盗塁もした。
ダブルプレーを阻止する果敢なスライディングだって出来た。
敵のチャンスを奪う強肩も見せた。彼は全てが素晴らしかった。』

1983年ヤズは引退を決意、その最後のゲーム、
セレモニーで自分の後継者ジム・ライスをしっかり抱き締めると
自身も試合で1安打を放ち、8回にベンチに下がった。
悲しみにくれるファンを喜ばせたのはライスの決勝の3ランホーマーだった。

試合後の記者会見、ヤズは明るい笑顔でこう語った。
『今、全てが終わって10歳は若返った気分だ。』

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=YASTRZEMSKI

file.062 Al KALINE 【アル・ケーライン】

2006-02-13 | JKL
【ミスター・タイガース】
Al KALINE

05年、デトロイトのコメリカ・パークで行われたオールスター、
元同僚のウィリー・ホートンと共に始球式を行ったアル・ケーライン。
1953年から22年間にわたりタイガースひと筋でプレー。
通算安打3007本、399本塁打、1583打点を誇り、
古くからのタイガースファンからの尊敬を一身に集める
『ミスター・タイガース』である。

53年にマイナーを経ずに
メジャーデビューしたケーラインは
54年、19才で、打率.276、4本塁打。
翌55年には20才で、打率.340、27本塁打、102打点を打って
史上最年少となる首位打者を獲得する。

この首位打者獲得には
テッド・ウィリアムスのアドバイスが
大きな役割を果たしたと言われている。
またこの年、こちらも最年少記録でオールスター出場を果たす。

56年、打率.314、27本塁打、128打点、
57年、打率.295、23本塁打、93打点.....と、
スランプ知らずの快進撃を見せたケーライン。
爆発的な長打力は期待出来なかったが、
勝負強い、安定した打撃が持ち味でタイガース随一の
主力打者としてチームを牽引した。

59年、打率.327、27本塁打、94打点の好成績、
さらに60年代に入り、ケーラインの打撃にはますます磨きがかかる。
63年には打率.312、27本塁打、101打点と
3度目の100打点以上をマークした。

68年、シーズン成績こそ、打率.278と平凡に終わったケーラインだが
ワールド・シリーズで爆発、
この年、最高の活躍を見せたボブ・ギブソン擁する
カージナルスを相手に奮闘。
シリーズMVPは『投』の伏兵ロリッチが獲得するが
『打』ではケーラインがチームを牽引、
打率.379 本塁打2 打点8の大活躍で
チームの世界一におおいに貢献した。

右翼の守備ではロベルト・クレメンテと
比肩される程の名手ぶりを発揮、
堅実な動きとズバ抜けた強肩で、
10度のゴールド・グラブ賞に輝いている。

通算15回のオールスター出場を誇り、
背番号6は当然のごとく永久欠番に指定されている。

80年、野球殿堂入りを果たしている。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=kaline

file.061 Brooks ROBINSON 【ブルックス・ロビンソン】

2006-02-10 | PQR
【Human Vacuum Cleaner】
Brooks ROBINSON

メジャーリーグの歴史において史上最高の三塁手は誰であろうか??
この答えは最終的には二人に絞られるであろう、
フィリーズのマイク・シュミットと
オリオールズのブルックス・ロビンソンである。
二人とも殿堂入りを果たした名選手だが、
打力ではシュミット、
守備でロビンソン.....こういう意見は多いであろう。
しかし、シュミットは10度のゴールドグラブに輝き、
ロビンソンはシュミットを600本以上も上回るヒットを放っている。
ただ、シュミットはこう言っている。
「ブルックス・ロビンソンがいる限り、俺は最高の三塁手にはなれないんだ。」

ロビンソンの名を一躍高めたのは、
間違いなく1970年のワールド・シリーズであろう、
ビッグ・レッド・マシーンと呼ばれる前のレッズを相手に戦ったこのシリーズ、
ロビンソンはレッズ打者のヒットをことごとく凡打に変えた。
ライナー性の当たりに飛びつき、
難しいゴロを併殺打に変え、
二塁打になってもおかしくない打球を
単なる三塁ゴロにしてしまった。
レッズの強打者ジョニー・ベンチは
『これから左打ちの練習をするよ、
三塁の方へは打球を飛ばしたくないからね』と語り、
監督のスパーキー・アンダーソンは、
『アイツが夢にまで出てきやがる!! 
守備でも打撃でもレッズはコテンパンにやられたからな!』と語った。
そう、このシリーズ、ロビンソンは守備だけでなく
打撃でも打率.429、2ホーマー、6打点の大活躍を見せ、
シリーズMVPに輝いているのである。

ブルックス・ロビンソンは「守備の人」とされがちだが、
打撃においても充分実績を残した。
62年には打率.302、23本塁打、86打点
64年は打率.317、28本塁打、118打点で打点王と
シーズンMVPに輝いている。
結局6度の20本塁打以上と8度の90打点以上をマーク、
通算2848本のヒットと1357打点をたたき出した。
23年の選手生活の全てwpオリオールズに捧げ
その間、オールスターに16回出場、MVPと打点王を各1度づつ、
ゴールドグラブに至っては史上最多の16回、栄冠に輝いている。

かのオジー・スミスは、
ロビンソンのプレーの印象は??と聞かれこう答えた、
『まるで私のプレーを見ているようだ』。

ちなみに、ブルックス・ロビンソンは
トリプルプレーを完成させてしまう打球を4度も打っている。
4打席で12のアウトを、一人で取られてしまっているとは。
幾多のヒットをアウトに変えた選手らしからぬ珍記録ではある。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121301

file.060 Willie McGEE 【ウィリー・マッギー】

2006-02-06 | MNO
【グラウンドを駆けるE.T】
Willie McGEE

80年から90年にかけて
カージナルスのGM兼監督として
チームを3度のリーグ優勝(うちワールド・チャンプが1度)
に導いたホワイティ・ハーゾグ監督は、
広いブッシュ・スタジアムにフィットする、
機動力と守備力を全面に押し出したチーム作りを行っていた。
スターティング・ラインナップには
スイッチ・ヒッターの選手が多かったが
その一人がウィリー・マッギーである。

82年、メジャーに定着すると、打率.296と盗塁24の活躍をみせ、
一躍、注目を浴びる。
ポストシーズンでも好成績を残し、カージナルスの世界一に貢献。
その後も年々成績を上げ、
85年には打率.353、10本塁打、82打点で
首位打者に輝きMVPをも獲得する大活躍、
リーグを代表する選手の一人となる。

塁に出れば、意欲的な走塁で塁間を駆け、
外野の守備でも俊足を活かし華麗なプレーを披露、
長打力こそ無かったが、
ハーゾグ監督率いる当時のカージナルスには欠かせない存在であった。

首位打者になった85年は主に2番打者として活躍したが、
87年にはヴィンス・コールマン、オジー・スミスに続く3番打者として
打率.285、11本塁打で105打点を稼ぎ、
チームのリーグ優勝に大きな貢献を果たした。

90年、シーズン途中でア・リーグのアスレチックスへトレードされるが
カージナルスで規定打席に達していたマギーはア・リーグの選手ながら
打率.335でナ・リーグの首位打者を獲得するという珍記録を達成、
翌年にはジャイアンツへ移籍、その後も安定した成績を残し
41才になった1999年、古巣カージナルスで引退した。

いつも困っているような少し情けない顔が特徴で、
『E.T』などという、恐らくあんまり嬉しくなかったであろう
ニックネームまでつけられた。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=118694

file.059 Hank SAUER 【ハンク・サウアー】

2006-02-03 | STU
【大器晩成】
Hank SAUER

1941年から47年にかけて、
メジャーではわずか47試合の出場にとどまっていたサウアー、
20代のほとんどをマイナーで過ごしていた事になる。

48年、31才のサウアーは
打率.260、35本塁打、97打点。
ようやくメジャーでのレギュラーポジションを獲得する。

が、この活躍をフロックと考えたか、
在籍球団のレッズは49年のシーズン中に、
サウアーを放出し、カブスへ移籍させる。
しかしカブス移籍後もサウアーの勢いは止まらない、
この年、2チーム合計で、打率.275、31本塁打、99打点。
翌、50年は、打率.274、32本塁打、103打点。
52年は、打率.270、37本塁打、121打点をマークし、
本塁打、打点の二冠を獲得。
チームは5位と低迷していたが、
サウアー自身はMVPに輝いている。

52年まで、ナ・リーグではラルフ・カイナーが、
7年連続でホームラン王に君臨していたのだが、
サウアー唯一のホームランキングは、
そのカイナーと並んでのタイトル獲得であった。

53年、故障もあってホームラン19本に終わったサウアーだが、
日米野球で来日すると、12試合で12ホーマーをかっ飛ばし、
見事に帳尻を合わせたのであった。

54年には打率.288、41本塁打、103打点をマーク。
変わらないスカッガーぶりをみせつけるが、
その後は、ふるわず、59年、ジャイアンツで
現役を引退した。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121710