GUMBO

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file.194 Hal McRAE【ハル・マクレー】

2007-04-28 | MNO
【1976年の首位打者争い】
Hal McRAE

1965年にレッズに入団。
68年にメジャーに昇格するが、守備に難があるためか、
出場機会に恵まれず、レギュラーの座に就く事は出来なかった。

73年、ロイヤルズへトレード移籍すると、
主に指名打者としてゲームに出場。
74年に打率.310 15本塁打 88打点の好成績を残し
ジョージ・ブレットらと肩を並べるチームの主力打者へ変貌する。
ガッツ溢れるプレーが売りで、リーダーシップも発揮、
ロイヤルズの黄金時代を牽引した。

76年、マクレーは打撃絶好調。
同じく好調を維持していた同僚のブレットと
一進一退の首位打者争いを展開した。
勝負は最終打席までもつれこんだが、
ブレットが最終打席でランニングホーマーを放ち
僅差でマクレーを上回り首位打者を獲得。
このランニングホーマーは、
相手チームの左翼手スティーブ・ブライが
打球を見失ったために生まれたもの。
このプレーに対し、マクレーが
『黒人を首位打者にさせまいと、故意に打球を見失った』と発言し
物議をかもした。
結局この年は打率.332 73打点、リーグトップの出塁率.407と活躍し、
チームを地区優勝に導いた。

その後も安定した打撃でロイヤルズを支えたマクレー。
82年には打率.308 27本塁打 133打点をマーク、打点王に輝く活躍を見せ、
39才になった85年には打率.259 14本塁打 70打点でリーグ優勝に貢献。
ワールドシリーズでは3試合の出場にとどまるものの
チームは世界一に輝き、マクレーもチームメイトと共に
喜びを分つ事が出来た。

87年、41才で現役を引退。

通算2091安打 191本塁打 打率.290の数字を残した。

91年~94年までロイヤルズ、
2001年~2002年までデビルレイズで監督を勤めたが
結果を出すには至らなかった。


file.193 Roberto ALOMAR【ロベルト・アロマー】

2007-04-26 | ABC
【メジャー史上トップクラスの二塁手】
Roberto ALOMAR

90年代を代表する名二塁手。
父親、兄の二人もメジャーリーガーである。

1985年、17才でパドレスと契約を交わしたアロマーは、
88年、20才でメジャーに昇格。
新人王レースでは5位に終わるも
打率.266 9本塁打 24盗塁と
一年目のルーキーにしては、まずまずの成績を残す。

翌89年、打率.295 42盗塁
90年は打率.287 60打点.....と、
安定した働きを見せていたアロマーは、
91年、ブルージェイズへトレード移籍する事となった。

新天地でアロマーは大きく飛躍した。
この年、打率.295 9本塁打 69打点 53盗塁、
オールスターゲームは兄サンディと共に出場し、
さらにチームは地区優勝を飾る。

92年は打率.310 8本塁打 76打点 49盗塁をマーク。
ジャック・モリスやデイブ・ウィンフィールド、
ジョー・カーターらと共にチームを牽引し、
ブルージェイズ初のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。
翌93年も、打率.326 17本塁打 93打点 55盗塁と大活躍、
チームも2年連続の世界一に輝くなど最高の年となった。

結局ジェイズでは、92年~95年まで4年連続で打率3割以上をマーク。
守備面においても、5年連続のゴールド・グラブに輝くなど、
華麗かつ堅実な守りを披露。
攻・走・守全てにおいて超一流の名二塁手として、
メジャーリーグのスーパースターの座を確固たるものにした。

96年、オリオールズにFA移籍、カル・リプケンと二遊間を組み、
打率.328 22本塁打 94打点の好成績を残すが、
退場宣告を不服とし、審判に唾を吐きかけるという愚行を演じ、
一時、メジャーのダーティー・ヒーローになってしまう。

99年、インディアンズに移籍すると、
二遊間コンビの相棒に名遊撃手オマー・ヴィスケルを得て
好守に冴えを見せた。
この年、打率.323 24本塁打 120打点 37盗塁。
2001年には打率.336 20本塁打 100打点をマーク。
結局インディアンズには3年間の在籍となったが
その間、二塁と遊撃のゴールド・グラブは
アロマーとヴィスケルが独占した。

メッツに移籍した2002年から、
アロマーは急な衰えを見せ始める。
03年はメッツからシソックスへ、
04年にはダイアモンド・バックスとシソックスへと移籍をくり返すも
かつてのような活躍を見せる事は出来ず、
05年、デビルレイズと契約を交わしたが、
開幕前に引退を表明、静かに現役を退いた。

通算2724安打 210本塁打 474盗塁 打率.300、
ゴールド・グラブ10回受賞、オールスター出場12回
殿堂入りが確実などころか、史上屈指の二塁手として
メジャー史に、その名を残すであろう名選手である。

file.192 Ken SINGLETON【ケン・シングルトン】

2007-04-21 | STU
【隠れた強肩】
Ken SINGLETON

1970年にメッツでメジャーデビューしたシングルトン。
72年にエクスポズへ移籍すると、
73年、打率.302 23本塁打 103打点をたたき出し
MVPレースで9位に付けるなど、ブレークを果たした。

安定感のある打撃だけでなく、
100四球以上を4度、90四球以上を8度マークするなど、
選球眼も抜群であった。
また、ゴールド・グラブ受賞こそかなわなかったが、
73年の20捕殺が物語るように、強肩の持ち主であった。

75年、オリオールズに移籍、
フランク・ロビンソンが抜け、
ブルックス・ロビンソンに衰えが見え始めていた
オリオールズ打線の主軸として期待を集めた。

75、76年と、主軸を打つ打者としては物足りない成績に終わるが、
77年は打率.328 24本塁打 99打点の好成績。
79年も35本塁打 111打点をマークし、
チームのリーグ優勝に大きく貢献、
MVP投票では惜しくも2位に終わったが、
この頃に頭角を現したエディ・マレーと共に打線を支えた。

80年の打率.304 24本塁打 104打点を最後に
シングルトンの打棒は衰えを見せ始める。
が、勝負強さは健在で、
83年には18本塁打 84打点をマーク。
マレーやカル・リプケンらと共に
チームをリーグ優勝に導き、
ポストシーズンは、あまり出番に恵まれなかったものの
フィリーズを破っての、ワールドシリーズ制覇を
チームメイトと共に味わう事が出来た。

84年、現役を引退。
通算で2029安打 246本塁打をマーク。

引退後はヤンキースのブロードキャスターを勤めた。

file.191 Hoyt WILHELM【ホイト・ウィルヘルム】

2007-04-18 | VWX
【ザ・ナック】
Hoyt WILHELM

魔球・ナックルボールを武器に
歴代5位の1070試合に登板した名投手。
主にストッパーとして活躍し、
通算122勝 227セーブ 防御率2.52をマークした。

1942年、19才の時にプロ入りを果たしたウィルヘルムだったが、
メジャーデビューまで、実に10年を要した。
その間、兵役に就き第二次世界大戦中、屈指の激戦となった
『バルジ戦役』にも従軍、
『パープル・ハート勲章』を受賞するなど殊勲を挙げた。

52年、29才になったウィルヘルムはジャイアンツでデビュー。
この年、71試合に登板し、15勝 11セーブ 防御率2.43をマーク、
最優秀防御率のタイトルを獲得し、
新人王レースで2位、MVP投票でも4位につける大活躍を見せた。
54年には57試合に登板し12勝、
ジャイアンツのリーグ優勝、及びワールドシリーズ制覇に
多大な貢献を果たした。

以後もナックルボールを武器に活躍を続けるも、移籍をくり返したウィルヘルム。

58年シーズン途中に先発投手としてオリオールズへ入団すると
9月には、マントル、ベラを擁するヤンキース相手に
ノーヒット・ノーランを達成し、一躍その名を全米に知らしめた。

59年、15勝に加えリーグトップの防御率2.19をマークし、
先発投手としても成功を収めていたウィルヘルムだったが
ホワイト・ソックスへ移籍した63年からは、再度ストッパーに転向。
この年から3年連続で20セーブ以上を記録、
64年から5年連続で1点台の防御率。
65年には45才にして72試合に登板するなど
衰えをしらない投球を見せつけた。

その後、エンゼルやブレーブス、カブス、ドジャースに在籍し、
72年、49才で現役を引退。

85年に野球殿堂入り。
2002年、この世を去った。


file.190 Bill MAZEROSKI【ビル・マゼロスキ】

2007-04-12 | MNO
【MAZ】
Bill MAZEROSKI

メジャーリーグの歴史において、
最高級の守備を誇る名二塁手。
堅実・華麗、広い守備範囲を誇り
スローイングは、スピーディーかつ正確。
完全無比の名手であった。

56年、19の若さでメジャーデビューしたマゼロスキは、
57年に打率.283、8本塁打をマーク、
二塁のレギュラーの座をつかみ取った。

58年には19本塁打、68打点と、パンチ力も見せつけ、
60年は、打率.273、11本塁打、攻守にわたって
チームのリーグ優勝に貢献した。
ヤンキース相手に戦ったこの年のワールドシリーズでは
打率.320、2本塁打、5打点をマーク。
第7戦では、メジャー史上初となる
『世界一決定サヨナラ本塁打』を放ち、
戦力的にはヤンキースに大きく劣っていたパイレーツを
頂点にまで押し上げる大活躍を見せた。
熱狂のピッツバーグ市民達は
『MAZ for PRESIDENT』.....と書いたバナーを掲げ、
歓喜に湧く街を練り歩いた。

その後も、その守備だけではなく、
62年に打率.271、14本塁打、81打点をマークするなど、
ロベルト・クレメンテらと共にチームを支え続けたマゼロスキ。

34才になった71年は、レギュラーの座を
デイヴ・キャッシュに明け渡し、70試合の出場にとどまるもチームはリーグ優勝。
ワールドシリーズには1試合のみプレーしただけであったが、
2度目の世界一の美酒に酔う事が出来た。

72年、パイレーツ一筋を貫き通し、通算2016安打で現役を退いた。

ゴールドグラブ8回。
通算打率.260、138本塁打と打撃面がネックとなり
殿堂入りには時間を要したが、
2001年に堂々の殿堂入りを果たした。

名手マゼロスキ、
17年の現役生活で使用したグローブは、
わずか3個といわれており、
道具にもこだわりを見せ、愛情を注いだ。

file.189 Mookie WILSON【ムーキー・ウィルソン】

2007-04-10 | VWX
【Mook】
Mookie WILSON

歴史に残る一塁ゴロで有名な
スイッチ・ヒッターの快速外野手。

77年、ドラフト2位でメッツに入団したウィルソンは、
80年にメジャーデビューを飾る。

82年打率.279、5本塁打、58盗塁をマークし
外野のレギュラーの座を掴むと、
83年も打率.276、54盗塁、
チームの1番打者に定着した。

86年、打率.289、9本塁打、25盗塁をマークし
チームのリーグ優勝に貢献。
レッドソックスと覇を競ったワールドシリーズでは
打率.269、3盗塁を記録。
熱戦となった第6戦では、
あの有名なビル・バックナーの
サヨナラエラーを呼ぶ一塁ゴロを放ち、
奇蹟の逆転勝利及び世界一の一翼を担った。

この打席でウィルソンは、ファールなどで
10球投げさせる粘りを発揮。
勝利への執念が生んだエラーといえるだろう。

89年、シーズン途中にブルージェイズへ移籍、
90年には31盗塁をマークするなど
まずまずの活躍を続けたが、
91年に現役を退いた。

通算1397安打、327盗塁、打率.274。

ちなみに現カージナルスの元打点王
プレストン・ウィルソンはムーキーの義理の息子である。


file.188 Quilvio VERAS【キルヴィオ・ヴェラス】

2007-04-07 | VWX
【1995年・盗塁王】
Quilvio VERAS

89年にメッツに入団したヴェラス。

95年にマーリンズへ移籍すると
正二塁手として124試合に出場し、
打率.261、5本塁打、32打点、56盗塁をマーク、
いきなりの盗塁王に輝き、
新たなスピードスター候補として
順調なキャリアスタートを切った。

96年は、怪我の影響もあって73試合の出場に終わるが、
97年、トレード移籍したパドレスで、
打率.265、33盗塁の成績を残し、
98年は、打率.267、45打点、24盗塁で
パドレスのリーグ優勝に貢献する。

99年、キャリア・ハイの打率.280をマーク。
ブレーブスへ在籍していた2000年も、
シーズン途中まで打率.309を打つなど、打撃開眼かと思わせた。
が、怪我でシーズン後半は出場できず、
翌2001年も怪我で71試合の出場に終わると、
チームを解雇されてしまい、
以降、メジャーリーグの舞台から姿を消してしまった。

通算750安打、183盗塁。
選球眼が良く、通算死四球は427、
通算打率.270に対して出塁率.372と
1割以上も高い数字を残している。

file.187 Amos OTIS【エイモス・オーティス】

2007-04-03 | MNO
【A.O】
Amos OTIS

70年代、最高の守備を誇った外野手の一人である。

67年、メッツでメジャーデビューを果たしたオーティス。
ブレークしたのは、70年にロイヤルズに移籍してからであった。
この年、打率.284、11本塁打、58打点、33盗塁をマーク、
翌71年は打率.301、15本塁打、79打点、52盗塁、
盗塁王を獲得するなど、
攻・守に冴えを見せ、チームの中心選手に成長した。

73年、打率.300、26本塁打、93打点と好成績を残すと、
76年~78年は、中軸打者として、
ジョージ・ブレットやフランク・ホワイトらと共にチームを牽引、
3年連続の地区優勝に大きく貢献する。
特に78年は、22本塁打、96打点..と、
チーム一の打点をたたき出し、MVP投票で4位をマークした。

80年は107試合の出場にとどまり、
打率.251、10本塁打と、やや低迷したが、
チームはリーグ優勝、
ワールドシリーズではマイク・シュミット率いるフィリーズに
敗れ去ったものの、オーティス自身は打率.478。3本塁打と
大爆発の活躍ぶりを見せた。

84年にパイレーツに移籍すると、
この年限りで現役を引退。

通算で2020安打、193本塁打、1007打点、341盗塁を記録、
ゴールド・グラブ3回受賞を誇る。

file.186 Ozzie SMITH【オジー・スミス】

2007-04-01 | STU
【Wizard of Oz】
Ozzie SMITH

メジャー史上、最高の守備を誇る遊撃手。
80年~92年まで13年間、当然のごとくゴールドグラブ賞に輝き、
88年には、メジャー最高年棒にまで登り詰めた。
通算2460安打、580盗塁が示すように、
『攻撃面』でも、非凡な数字を残している。

スミスは、1977年にパドレスに入団。
78年には、159試合に出場、
遊撃のレギュラーの座を獲得する。

パドレスには、78年~81年の4年間在籍、
平均打率.230、通算本塁打は1本と、打撃面では非力さを露呈したが、
78年に40盗塁、80年に57盗塁を決めるなど、
スピードのあるところを見せつけた。
遊撃守備では、80年に史上最多となる621捕殺をマークし、
初のゴールドグラブを獲得。
その類い稀なる守備力をおおいにアピールする。

82年、ホワイティ・ハーゾク監督に請われ、
ギャリー・テンプルトンと交換で、カージナルスへ移籍。
ハーゾグの推進する機動力野球及び、内野守備の強化に、
スミスはうってつけのピースだった。

パドレス時代、チームからの低評価に不満を持っていたスミスは、
ハーゾグという理解者を得、新天地でいきいきと活躍。
この年、打率こそ.248に終わったが、
内野の要として、守備でチームに大きく貢献、
カージナルスの世界一に大きな役割を果たした。

どんな難しい打球でも、その軽い身のこなしで難無く処理してしまい、
軽業師のようなアクロバッティングな動きで、ファンを魅了。
ズバ抜けて広い守備範囲、華麗さと堅実さを併せ持つスミスの守備は、
対戦チームの選手ですら、思わず見とれてしまう芸術品だった。

打撃面でも努力を重ね、徐々にではあるが、
ズミスは安定した打撃を見せるようになり、
85年には打率.276、31盗塁をマーク。
リーグチャンピオンシップでは、第5戦で決勝のサヨナラアーチを放つなど
パワーに欠けたスミスにしてみれば、まさかの大活躍。
結局打率.435をマーク、シリーズMVPに輝く。

87年には打率.303、40二塁打、78打点、43盗塁と、好成績を残し、
リーグ優勝に貢献、MVP投票でも2位にランクイン。
82年~93年まで、12年連続で20盗塁以上をマークするなど、
守備力だけでなく、スピードもトップクラス。
優秀なリード・オフマンとしてチームを支えた。

94年頃から、身体能力の衰えや、故障の影響もあって
出場機会を減らしていたスミス、
ジャイアンツからやって来たロイス・クレイトンの台頭もあり、
96年、41才で現役を引退した。

シーズンの開幕戦及び最終戦などでは
1回の守備に付く際、トレードマークのバック転を披露するなど
サービス精神も旺盛なスミス。
引退後は、そのさわやかさも手伝って、野球関連のテレビ、ビデオ作品などの
司会などもこなし、芸達者ぶりを見せつけた。
が、その爽やかとは裏腹に、自分から遊撃のポジションを奪った
ロイス・クレイトンや、当時の監督であるトニー・ラルーサを長年にわたって
恨み続ける....といった意外な一面もあったるする。

2002年、堂々の殿堂入りを果たし、満面の笑顔を見せた。