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file .212 Ken GRIFFEY【ケン・グリフィー】

2007-08-28 | Big Red Machine
【シニア】
Ken GRIFFEY

言わずと知れた『ジュニア』の父である。

1973年、23歳のグリフィーは、
レッズの外野手としてデビュー。
メジャー3年目の75年、132試合に出場し
打率.305、4本塁打、46打点、
チームのリーグ優勝、及び、
ワールドシリーズ制覇に貢献。
『ビッグ・レッド・マシーン』の一翼を担った。
翌76年は、打率.336(リーグ2位)、6本塁打、74打点、34盗塁....と
惜しくも首位打者こそ逃したが、
素晴らしい成績で、2年連続のワールド・シリーズ制覇に貢献。
チームに欠かせぬ選手の一人となった。

その後、レッズには81年まで在籍し、
77年に打率.318、79年は打率.316を打つなど安定感を見せ、
80年は打率.294、13本塁打、85打点と勝負強い打撃を披露。
安定した働きでチームを支えた。

82年、ヤンキースへ移籍、
レギュラー外野手として活躍。
以降、ブレーブスを経て、
88年、シーズン途中で古巣レッズへ舞い戻った。

90年、46試合で打率.206と低迷していたグリフィーを
レッズはシーズン途中でウェーバーにかけた。
獲得に名乗りをあげていたのはア・リーグの、とある球団。
メジャー2年目、若干20歳にしてチームの顔となった
グリフィーの息子『ジュニア』が在籍していたマリナーズである。

8月31日にマリナーズは
2番レフトシニア、3番センタージュニアの打線を組み、
ここに史上初の『同一チーム・同時在籍』親子メジャー・リーガーが誕生した。
この日、早速第一打席で親子仲良くセンター前ヒットを放つと、
9月14日には2者連続本塁打をカッ飛ばし、
球界をおおいに湧かせた。
シニアが取るはずのレフト・フライをジュニアがセンターの守備位置から
走ってきて捕球してしまうなど、微笑ましいプレーも見せた。

40歳のシニアは、移籍後、溌溂とプレーし、
この年、マリナーズでは21試合で打率.377、3本塁打、18打点を打った。

91年、現役を引退。
通算2143安打、200盗塁、打率.296。
単なる『シニア』ではない、名選手であった。

file.180 Tony PEREZ【トニー・ペレス】

2007-03-22 | Big Red Machine
【ビッグ・レッド・マシーンのリーダー】
Tony PEREZ

1964年にレッズでメジャーデビューを果たしたペレス。
レギュラーの座を獲得したのは67年、
この年、三塁手として打率.290、26本塁打、102打点を打ち、
MVP投票で8位にランクされる程の活躍を見せる。

69年には37本塁打、122打点とパワーも見せつけ、
70年、打率.317、40本塁打、129打点の大活躍で
チームをリーグ優勝に導いた。
が、ワールドシリーズでは5試合で打率.056と絶不調、
チームもWロビンソンを擁するオリオールズに敗れ去った。

以後も、レッズの主砲として活躍。
爆発的な長打力こそ無かったものの、勝負強い打撃を披露し、
67年~77年の11年間、連続して90打点以上をあげ、
その間、100打点以上を6度マークした。

72年、一塁にコンバートされ、21本塁打、90打点の成績で
チームのリーグに貢献するがワールド・シリーズでは、
今度はレジー・ジャクソン擁するアスレチックスに惜敗。
ペレス自身は打率.435と活躍したが、再び涙を飲んだ。

その後、レッズの強力打線はいつしか
『ビッグ・レッド・マシーン』と呼ばれるようになり、
ペレスは、そのリーダー的存在になっていた。
キューバ生まれの明るいペレスは、そのキャラクターで
レッズベンチの盛り上げ役として振る舞い、
チームをおおいに盛り上げた。

75年、20本塁打、109打点をマークし、
チームをリーグ優勝に導くと、レッドソックスとのワールドシリーズでも
3本塁打、7打点と大暴れし、レッズの勝利に貢献。
シリーズ3度目の出場で、ようやく世界一の美酒を味わう事が出来た。

翌76年もワールドシリーズ制覇に貢献し、
ペレス率いるレッズは、頂点を迎えるに至った。
.....が、この年のオフ、ペレスは複数トレードで
エクスポズへ放出され、13年在籍したレッズを離れる事になってしまう。

以後、エクスポズ~レッド・ソックスとチームを変え、83年フィリーズへ移籍。
ピート・ローズやジョー・モーガンといった
息の合ったメンバーと共に、フィリーズを牽引しチームをリーグ優勝へ導いた。
翌84年、レッズに復帰。
86年まで、現役最後の3年間を愛着のある古巣レッズで過ごした。

通算2732安打、379本塁打、1652打点。
2000年に殿堂入りを果たした。

息子のエドアルドもメジャーリーガーで、
2007年現在、通算で445安打、79本塁打を記録している。

file.172 Pete ROSE【ピート・ローズ】

2007-03-10 | Big Red Machine
【チャーリー・ハッスル】
Pete ROSE

球史に燦然と輝く通算安打4256を誇るヒット・メーカーである。

ローズは、1963年にレッズの二塁手としてデビュー、
この年、打率.273、6本塁打の成績で新人王を獲得するが
翌64年は打率.269に終わり、二年目のジンクスに苦しんだ。

ローズがブレークしたのは、65年。
打率.312で209安打、11本塁打、81打点をマークし
MVP投票で6位にくい込む活躍を見せた。
翌65年も205安打に打率.313の好成績を残し、
結局24年のキャリアで、実に15回の打率3割以上を記録した。

ローズの魅力は何と言っても、
そのハッスル・プレーにあったといえよう。
特に、空を飛ぶかのようなヘッド・スライディングは
多くの観衆を沸せ、ローズの代名詞となった。
目立ちたがり屋のスタンド・プレーヤーであるローズは
自分のプレーでファンが喜べば、ますますヒート・アップし、
それが、数々の乱闘にもつながる程だった。

また、ヒットを打つ才能だけでなく、
二塁手から外野手へ、さらに三塁手~一塁手と
チーム事情によるコンバートにも難無く対応する器用さも
持ち併せていた。
ローズは、前述のポジション全てで
500試合以上に出場している。

68年、打率.335で初の首位打者を獲得すると、
69年も.348の高打率で2年連続の首位打者に。
70年には打率.316、15本塁打でチームをリーグ優勝に導き、
72年も打率.307を打って、リーグ優勝に貢献するが
ワールド・シリーズでは、両年とも、栄冠を掴む事は出来なかった。

73年は、打率.338で3度目に首位打者と初のMVPに輝き
メジャー屈指のヒット・メーカーとしての地位を揺るぎないものにする。

ローズを核弾頭とするビッグ・レッド・マシーンが
球界を席巻したのは75~76年の2年間である。
75年、ローズは210安打で、打率.317を打ち、112得点はリーグ1。
チームもリーグ優勝し、ワールド・シリーズでは、
レッド・ソックスとの激闘の末、勝利をおさめ、世界一に....。
ローズも、シリーズ打率.370をマークしMVPに輝く活躍を見せた。
翌76年も、215安打の打率.323と
リーグトップの130得点を稼ぎ、リーグ優勝に貢献。
ワールド・シリーズではヤンキーズを全く寄せつけず
4連勝で2年連続の世界一に輝いた。

その後、79年にフィリーズへ移籍した後も
ローズのヒット・パレードは続き、この年、打率.331をマーク。
80年の世界一にも多大な貢献を果たした。

84年、エクスポズへ移籍し、4000本安打を達成すると
同年8月、選手兼監督としてレッズに復帰。
43歳のローズは、攻・守に衰えが目立っていたが、
タイ・カッブの4189安打を抜き去るべく、『自分』を起用し続け
甲斐あって、85年、4192本目のヒットを放ち、記録達成。
一塁ベース上では息子と抱き合い涙を流す感動の場面を演じたが
一方では「自身の出場機会を最も不条理に扱ったプレーイング・マネージャー」
との声もあがった。

86年に現役を引退、監督に専念、
89年に、野球賭博が発覚し、球界から永久追放と相成った。

現在に至るまで、ローズの復権は度々、取り沙汰されたが
相変わらずの派手なギャンブル好きや、軽はずみな言動など....
その素行を見ると、その道のりはますます険しくなっているように思える。

.....が、ローズが、堂々の殿堂入りクラスの大選手だった事実は歴然。
魅力溢れるローズのプレーで、メジャーファンになった日本人も多いのである。

file.164 Geroge FOSTER【ジョージ・フォスター】

2007-02-26 | Big Red Machine
【ビッグ・レッド・ホームラン・マシーン】
Geroge FOSTER

1969年、ジャイアンツに入団したフォスターだったが、
71年シーズン途中でレッズに移籍。

ようやく真価を発揮したのは75年、
ビッグ・レッド・マシーンの中核打者として活躍。
この年、打率.300、本塁打23、78打点の成績を残し、
レッズのリーグ優勝に貢献。
レッド・ソックスと覇を競ったワールド・シリーズでも
打率.276、2打点の活躍でチームを世界一に導いた。

76年、打率.306、本塁打29、121打点。
打点王を獲得する活躍で、チームの2年連続リーグ優勝を牽引したフォスター、
シーズンMVP投票では、チームメイトのジョー・モーガンに次ぐ2位に終わるも
ワールドシリーズでは打率.429、4打点を叩きだす活躍をみせ、
前年に続くレッズの世界一に貢献した。

77年は打率.320、本塁打52、149打点と大爆発。
本塁打50以上は、65年にウィリー・メイズが放った52本塁打以来12年ぶり、
また、チームの優勝こそならなかったが
フォスター自身は本塁打王、打点王、シーズンMVPに輝いた。

78年も40本塁打、120打点を記録、
2年連続の本塁打王と4年連続の打点王を獲得し、
リーグを代表するスラッガーにまで登り詰めたフォスターは
75年から81年まで7年連続で20本塁打以上の安定した活躍を続ける。

82年にメッツへ移籍。
83年から85年まで3年連続で20本塁打、70打点以上をマーク、
新天地でも期待を裏切らない活躍を続けるが、
高額のサラリーに見合った大爆発には至らず、
86年、ホワイト・ソックスで現役を引退した。
通算本塁打348本、1239打点。

独特の顔だちと、モミアゲ........、
殿堂入りこそ果たしていないが、
オールスター5回出場の人気選手であった。

file.093 Johnny BENCH【ジョニー・ベンチ】

2006-10-28 | Big Red Machine
【始祖・ベンチ】
Johnny BENCH

ビッグ・レッド・マシンと呼ばれ
相手投手に恐れられていた1970年代のレッズにあって
投手陣を支える正捕手として、
強力打線の中心打者として、
チームを牽引したジョニー・ベンチ。
通算2048安打、389本塁打を放った強打の捕手の代表格である。

オクラホマのド田舎で生まれたベンチは、
1965年、レッズに入団。
68年には捕手のレギュラーとなり
15本塁打、82打点をたたき出す活躍を見せ新人王に輝く。

69年、打率.293、26本塁打、90打点と力を付けたベンチは
70年、打率.293、45本塁打、148打点と爆発し2冠王を獲得、
チームをリーグ優勝に導き、シーズンMVPに輝いた。
が、ワールド・シリーズでは、オリオールズに完敗、
ベンチの鋭い打球はブルックス・ロビンソンに吸い取られてしまった。
72年も打率.270、40本塁打、125打点で2冠王、再びシーズンMVPを獲得し、
『強打の捕手』ぶりをおおいに見せつけ、チームをリーグ優勝に導くが
ワールド・シリーズでは、アスレチックスに敗れ去った。

その後も攻・守にわたりチームを牽引したベンチ。
74年、打率.280、22本塁打、129打点で3度目の打点王。
翌75年は、打率.283、28本塁打、110打点をたたき出し、
チームをリーグ優勝に導き、ワールド・シリーズでも勝利。
レッズの世界一に大きな貢献を果たした。

76年は、打率.234、74打点と低迷するが
ワールドシリーズでは大活躍、打率.533の猛打で
2年連続世界一の原動力となり、シリーズMVPに輝いた。

守備面においても、
ベンチは『改革者』であった。
当時、キャッチャーは右手をミットに添える、
両手取りが当たり前だったが、
ベンチはランディ・ハンドリーが使い始めた
新型の柔らかいミットをハンドリー以上に使いこなし、
さらに右手を背中に回し、左手のみで投手からの
投球を受ける、『片手取り』を確立した。
牽制や盗塁阻止などの際、
ミットの中のボールをつかむまでに時間がかかる....などと
この捕球法を否定する選手もいたが、
その機敏な動きと、強いリスト・強肩が生む正確な送球は
そういった否定組を逆に唸らせた。
また、座ったまま牽制球を投げる技や、
球界初のキャッチャー専用のヘルメットの使用など、
ベンチは、現在のキャッチャー像の始祖ともいえる偉大な選手である。

そのベンチ、選手生活晩年は1塁や3塁を守る事が多くなった。
酷使した足腰はもはやホームベースを守る事が
出来なくなっていたのである。

83年、引退するが、ゴールド・グラブ10回受賞が証明する
強肩も含めたその守備力と、いわずもがなの打撃力。
甘いマスクで高い人気をはくし、
オールスター出場は14回にものぼった。

若かりし折、かのテッド・ウィリアムスに
『将来の殿堂選手』と、その才能を買われていたベンチ。
その予言通り、89年に殿堂入りを果たしている。



file011 Joe MORGAN 【ジョー・モーガン】

2005-07-17 | Big Red Machine
【Great Little Joe】
Joe MORGAN

1970年代前半、驚異的な強さで球界を席巻した
ビッグ・レッド・マシーンことシンシナティ・レッズ。
特に75年と76年、2年連続世界一に輝き、
その最強ぶりを発揮するのだが、
いずれの年もシーズンMVPは、身長168cmの、
リトル・ジョーことジョー・モーガンであった。

通算打率.271に対し、出塁率は.392。
決して巧打者ではないが、モーガンのモーガンたる所以はその抜群の選球眼、
通算四球数は1865、これは歴代5位の記録であり、
アーロンやメイズ、ミュージアルといった
大物スラッガーよりも上に位置している。
また、ひとたび塁に出れば、俊足を武器に塁上をかき回し、
689個の盗塁を稼いだ。
いわゆる、野球頭脳の優れたフォー・ザ・チームのプレーヤーであった。
加えて、76年の27本が示すように、意外な長打力も持ち合わせている。
ジョージ・フォスター、トニー・ペレス、
ジョニー・ベンチと強打者を揃えた当時のレッズだったが、
監督のスパーキー・アンダーソンは打線の核として、彼等を差し置き、
ジョー・モーガンに3番打者を任せたのである。

守備面においても、91試合連続無失策記録に
5度のゴールド・グラブ..........
歴代最高の二塁手と言えるだろう。

ヒューストン時代から、その俊足ぶりや守備は高い評価を得ていたが
モーガンの才能が爆発したのは72年にレッズに移籍してからである。
移籍一年目の72年、打率.292、16本塁打、73打点、58盗塁と
4部門、全てにおいて過去最高の成績を残し、才能を開花させると、
翌73年には26本塁打、82打点と、パワーと勝負強さも見せつけ、
さらに前年を大きく上回る67盗塁をマークする。
75年には.327の高打率に加え、94打点、67盗塁と、マルチな活躍でシーズンMVP、
76年も打率.320、27本塁打、111打点、60盗塁の大活躍で2年連続のシーズンMVPに輝いた、
また、この2年間のレッズは、連続してワールドシリーズを制覇し、その
強剛ぶりをおおいに発揮するのだが、モーガンは、
いずれのシリーズでも印象強い活躍を見せた。

特に75年、球史に残るレッド・ソックスとのワールド・シリーズ、
第6戦のカールトン・フィスクの劇的なサヨナラホームランがあまりにも有名だが、
モーガンは第3戦でサヨナラ安打....
第7戦でも最終回に世界一を決める決勝のタイムリー安打を放っている。

34歳になった78年以降、モーガンの打撃は翳りを見せ始める。
引退した84年まで、打率は.250付近を上下する程度、
盗塁も30を超える事は無かった。
が、堅実な守備と、チームプレーで勝利に貢献、

80年、アストロズに移籍すると、球団初の優勝に貢献し、
83年はフィリーズの優勝に大きな役割を果たした。

結局40歳になるまで現役を続け、90年に堂々の野球殿堂入りを果たした。

63年、メジャーデビューを果たしたコルト45sでは、先発メンバー全員ルーキーという珍事が起こったが、
メンバーの中に、ラスティ・スタウブやジミー・ウィンと並んで、モーガンもその名を連ねていた。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=119371


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