GUMBO

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file.130 Johnny PODRES 【ジョニー・ポドレス】

2006-12-25 | PQR
【1955年】
Johnny PODRES

1953年、20歳の若さでメジャーデビューしたポドレス、
1年目にして9勝をマークし、早くもブルックリン・ドジャースの主力投手となる。

54年には11勝し初の10勝以上をあげるが
翌55年は9勝にとどまった。が、ポドレスの野球人生最高の年が、
実は、この1955年であった。

当時、ドジャースは、1953年まで、7度のリーグ優勝を果たしていた強豪チームだったが、
何故か、ワールド・シリーズには弱く、7度のシリーズ全て敗退、
その内、5度は同じ都市のヤンキースに世界一を献上していた。
ブルックリンの市民はブロンクスのファンに、
「Wait til next year(今に見ていろ!!)」と啖呵を切っていた程だった。

55年、リーグ優勝したドジャースは、
ヤンキースと6度目のワールド・シリーズを戦う事になった。
第1戦を先発ドン・ニューカムで落とし
第2戦、先発にプリーチャー・ローを送り込むも落としたドジャースは、
第3戦にポドレスを先発起用、ポドレスは期待に応え、9回を2失点で完投勝利、まずは一矢を報いた。
ドジャースは続く4戦、5戦と勝ち、3連勝で勢いづくが
6戦はホワイティ・フォードを打てず敗戦、勝負は第7戦に持ち越された。

10月4日、第7戦の先発はポドレス、
ポドレスの気合いは充分、「1点....今日は1点あればいい....。」
ポドレスは試合前、呪文のようにそれを繰り返した。
........結果、9回を無失点完投......。
エルストン・ハワードの打球をピー・ウィー・リースが捌きゲームセット。
ついにドジャースが長年の雪辱を晴らしたのであった。
シリーズMVPは当然のようにポドレスが受賞、
ポドレスは、この瞬間、ブルックリン最高の英雄となった。

ポドレスは、その後も、安定した投球を見せ、
57年から63年まで6年連続で10勝以上をマーク、
57年は防御率2.66でリーグ1位、
61年は18勝5敗でリーグ最高勝率に輝いている。

59年、63年のワールド・シリーズでも1勝づつ勝利し、
それぞれ、チームの世界一に貢献した。

66年、シーズン途中でタイガースへ移籍、
69年、パドレスでユニホームを脱いだ。
通産勝利数は148。

ブルックリン時代はドン・ニューカムに、
LA時代はドライスデール/コーファックスに隠れた形となり
「第3の男」的な印象だが、ドジャースファンにとってポドレスは
特別な存在であり続けるだろう。

file.129 Joe BLACK 【ジョー・ブラック】

2006-12-24 | ABC
【1952年の熱投】
Joe BLACK

ニグロ・リーグのエリート・ジャイアンツでエースとして投げていたが、
1950年、ドジャースと契約した。

52年、メジャーデビューを果たすと、この年、
56試合に登板、防御率2.15、15勝 4敗 15セーブと、
八面六臂の大活躍をみせ、チームをリーグ優勝に導き、新人王に輝いた。
エース格のドン・ニューカムを兵役で欠くドジャースにとっては、
まさに、救世主の出現であった。

この年のワールド・シリーズ、
監督のチャック・ドレッセンは、
シーズン2度しか先発登板していないブラックをあえて先発で起用、
するとブラックは、第1戦、完投で2失点と好投を見せ勝利、
黒人投手初のワールド・シリーズ勝利投手となった。
第4戦も先発し7回を1失点も、味方の援護無く敗戦投手。
第7戦は5回を3失点で再び敗戦投手になってしまい、
ワールド・シリーズ制覇はならなかったが、
ジョー・ブラックはこの1年でおおいに名前を売った。

53年、ブラックは、さらなる活躍を期待されるも、
防御率5.33で6勝...と前年に比べ数字を大幅に落とした。
54年はわずか5試合の登板で0勝、
55年、シーズン途中にレッズへ移籍、
2チームで合計38試合に投げ、6勝をあげるが、
防御率4.05と、安定感に欠ける投球を続けていた。

結局57、通算30勝 25セーブの数字を残し引退、
2002年に死去した。

通算勝利数の半分をメジャー1年目の1952年に稼いだブラック、
この年の熱投のみでジョー・ブラックは後世に名前を残したのである。

file.128 Jesse BARFIELD 【ジェシー・バーフィールド】

2006-12-23 | ABC
【栄光の86年】
Jesse BARFIELD

1981年、ブルージェイズでメジャーデビューを果たしたバーフィールド、
82年、18本塁打を放ち、パワーの片鱗をのぞかせた。
83年には27本塁打 68打点、
85年、初の規定打席到達を果たし、打率.287 27本塁打 84打点をマーク、
22盗塁も決め、脚力もアピール、MVP投票で7位につける活躍をみせた。

守備面でもその強肩が光り、合計で5度の最多捕殺、
2度のゴールド・グラブを受賞している。

86年は打率.289 40本塁打 108打点をたたき出し、
キャリア最高の活躍で本塁打王に輝き
リーグを代表するスラッガーへと成長した....かに見えた。

が、87年、28本塁打に終わると、
その後、92年まで30本塁打以上を打つ事は無く、
打率も.270を超える事は無かった。
90年にはヤンキースへ移籍、
が、新天地でもバーフィールドは輝きを取り戻せない。
元々多かった三振だけは、コンスタントに100以上を毎年超えており、
安定感に欠ける打撃の所為で、試合に出場して活躍する機会は失われていった。

93年、日本のジャイアンツへ移籍、
強肩・強打の大リーガーの来日に、日本のファンは湧いた。
開幕戦でホームランや、捕殺を披露、
ファンの期待に応えたが、その活躍も序盤のみであった。
外角の変化球が弱点と知れるや、凡打、三振を繰り返し、
26本塁打を放つも、打率.215と低調に終わり、
1年で解雇されてしまった。

タイトルを獲得し、オールスターにも出場するなど、
一時ではあるが、強烈な光を放ったバーフィールド、
現在は息子のジョシュがメジャーリーガーとして
父親の夢を継いでいる。

file.127 Robin ROBERTS 【ロビン・ロバーツ】 

2006-12-22 | PQR
【Whiz Kids】
Robin ROBERTS

抜群の制球力と速球で通算286勝をあげた
1950年代を代表する投手。

48年、フィリーズに入団、
49年には15勝をあげ、22歳にしてチームの主力投手となったロバーツ。

50年には、若手主体で編成されていた事から
【ウィズ・キッズ/神童】と呼ばれていたフィリーズのエースとして
外野手のリッチー・アッシュバーンらと共に活躍、
防御率3.02 20勝の好成績をマークし、
チームを35年ぶりのリーグ優勝に導いた。

その後も若きエース、ロバーツの勢いは止まらない。
50年から55年の間は6年連続で20勝以上、
52年:28勝、53年:23勝、54年:23勝、55年:23勝...と
4年連続でリーグ最多勝に輝いている。
さらに、52年から56年は5年連続で最多完投、
51年から55年は5年連続で最多イニング登板
53年、54年は2年連続で最多奪三振を記録し、
その右腕で、リーグを席巻、
50年から7年間、毎年オールスターに出場し、5度の先発登板
......と、まさにロバーツ時代であった。

57年、10勝するも22敗を喫すると、
58年こそ17勝を上げるも、
【神童】は30歳を境に勢いに翳りが見えはじめる。
61年1勝に終わると、フィリーズはロバーツをオリオールズに放出、
62年から4年連続で10勝以上をマークするが、
66年カブスで現役生活に幕を降ろし、
1976年、殿堂入りを果たした。

サンディ・コーファックスやライアン、シーバー、ギブソンのような
選手に比べると、若干地味でマイナーな印象は拭えないが、
彼等に引けを取らない名投手の一人である事に間違いない。

file.126 Joe CATER 【ジョー・カーター】

2006-12-21 | ABC
【史上初のサヨナラホームラン】
Joe CATER

81年にドラフト1位でカブスに入団したカーター、
83年、メジャーデビューするが、翌年には、インディアンズへ放出される。
移籍3年目の86年、才能が開花、打率.302 29本塁打 121打点で打点王に輝くと、
翌87年は32本塁打 106打点、
90年はパドレス、91年からはブルージェイズへと球団を変えるが
87年から97年までの11年間で、9度の100打点以上をマーク、
勝負強さを発揮した。

92年、34本塁打 119打点と、MVP投票で3位に付ける活躍で、
ブルージェイズをリーグ優勝に導くと
ワールドシリーズでも2本塁打を放ち、世界一に大きく貢献した。

翌93年も33本塁打 121打点をマークし
安定した勝負強さでチームを2年連続の世界一に貢献、
特に、大激戦が続いたワールドシリーズでは、
7打数連続無安打を記録するなど、苦しみながらも
第6戦で、フィリーズの守護神ミッチ・ウィリアムスから
世界一を決める逆転サヨナラホームランを放つ大活躍。
球史に、その名を残した。
ちなみに、逆転サヨナラホームランで世界一を決めたのは
この一打が史上初。
まさに勝負師・カーターならではの活躍ぶりであった。

その後、98年まで活躍を続け、
ジャイアンツを最後に現役を引退する。
通算打率は.259、通算本塁打も396本にとどまり
獲得タイトルも86年の打点王一回のみだが、
シーズン100打点以上10回は
ウイリー・メイズと並ぶ記録である。

陽気かつ温厚な性格で、誰からも好かれる人気者であった。

file.125 Brett BUTLER 【ブレット・バトラー】

2006-12-20 | ABC
【復活】
Brett BUTLER

80~90年代を代表するリード・オフマンの一人。
通算安打は、2375本 盗塁は558個である。

81年、ブレーブスでデビューしたバトラー、
83年には151試合に出場し打率.281 39盗塁の活躍でブレーク、
インディアンズに移籍した84年には52盗塁、
85年には打率.311で47盗塁と、文句無しのリードオフぶりを見せつけた。

88年、ジャイアンツに移籍、
この年打率.287 盗塁43、
89年は打率.283 盗塁31と安定した活躍をみせ、
90年にはリーグ最多となる192安打を放ち
打率.309 盗塁51の好成績を残す。

バントヒットの名手で、選球眼も非常に優れており、
塁に出れば積極的な走塁でチャンスを広げた。
リード・オフマンとして理想的な選手であった。
92年には実に43本のバントヒットを放っている。
ゴールドグラブの受賞歴こそ無いが
強肩で守備範囲も広く、堅守を誇った。

91年から94年の4年間はドジャースに在籍、
91年、92年は出塁率.400を超えるなど、
相変わらずの安定感でチームを支えた。

95年にはメッツに移籍するが
8月にドジャースへトレード、
わずか4ヶ月で古巣へ戻されたわけだが、
トレードが決まった日は、
偶然メッツvsドジャースの試合が組まれており
バトラーはシェイ・スタジアムのホームロッカーから
急いでビジターロッカーに移動しユニホームを着替えている。

96年5月、喉頭癌に冒されている事が判明、
手術を経て、9月には戦列に戻った、
復帰戦はドジャースファンの暖かい大声援に包まれたが
この直後、今度は死球により戦列を離れ、
翌年、40歳で現役を引退した。

file.124 Bob FELLER 【ボブ・フェラー】 

2006-12-16 | DEF
【Rapid Robert】
Bob FELLER

1963年のこと、
アイオワのド田舎に神童がいる――――
この情報を聞き出し、インディアンズのスカウトが
アイオワ州のバンミターへ赴いた。
神童=ボブ・フェラーの自宅にスカウトがやって来た時、
フェラーは父親の仕事を手伝い、畑仕事中であった。

かくして、早熟の天才・フェラーはインディアンズと契約、
契約問題を巡り、紆余曲折あったものの
17才にしてメジャーのマウンドに立った。
初登板のブラウンズ戦でいきなり15三振を奪い完投勝利、
9月のアスレチックス戦では当時のリーグ新記録となる
17奪三振の快投を披露し、周囲にその実力をまざまざと見せつける。
結局、8月からメジャーリーグに加わった1年目は
14試合に投げ、5勝、防御率3.34、現役の高校生とは思えない成績を残し、
シーズン終了後、フェラーは学業に専念するべく学校に戻った。

フェラーのストレートはまさに『Rapid(急速)』で、
打者はその煙の出るような速球にキリキリ舞いだった。
本名がロバートである事から、いつしか「Rapid Robert」と呼ばれるようになった。

翌37年、9勝をあげると、
38年、本領を発揮し240個の三振を奪い、リーグ最多をマーク、17勝をあげた。
39年から41年の3年間は、3年連続で最多勝と最多奪三振、
3年間、全ての年で20勝以上をあげ、
最優秀防御率にも輝いた40年には前人未到、空前絶後の
開幕戦でのノーヒット・ノーランを記録した。
まさにフェラー旋風であった。

42年から45年途中までの3年半にわたる兵役を終え
メジャーに戻って来たフェラーだが、この間にスライダーを取得。

グレード・アップしたフェラーは、
46年、兵役のブランクを微塵も感じさせない投球ぶりで
防御率2.18、26勝、348三振の大活躍、
4月のヤンキース戦では2度目のノーヒット・ノーランを記録した。
以後、6年間、3度の20勝以上と2度の最多勝をマークするなど
安定した活躍ぶりでチームの屋台骨を支え、
48年、ワールドシリーズでは惜しくも勝利投手にはなれなかったが
チームを世界一に導いている。

51年には22勝で6度目の最多勝、7月のタイガース戦で
3度目のノーヒット・ノーランを達成。
この頃から力の衰えが噂されるようになるが
「自分の事は自分が一番わかってるさ」と
その後も、56年まで投げ続け現役を引退した。

兵役―――
テッド・ウィリアムスから3000本安打を奪い、
ウィリー・メイズから700本塁打を奪った。

.....通算266勝。
“超”がつくほどの絶頂期に、
キャリアを中断せざるをえなかった
ボブ・フェラー.............兵役がなければ、通算300勝は確実であっただろう。

file.123 Tony OLIVA 【トニー・オリヴァ】

2006-12-15 | MNO
【Hitman From Cuba】
Tony OLIVA

キューバから来た安打製造機。
リーグ最多安打を5度記録している。

1964年、実質1年目にして
217安打を放ち、打率.323 32本塁打という
驚異的な成績で首位打者と新人王をダブル受賞。

65年も打率.321 16本塁打 98打点で2年連続の首位打者を獲得し、
ツインズのワールドシリーズ進出におおいに貢献する。
この年、シーズンMVPの最有力候補であったが
チームメイトで同郷のソイロ・ベルサイエスがMVP、
打撃三部門では全てオリヴァが上回っていただけに
悔しい結果となった。

以降も、ツインズの主力打者としてヒットを積み重ね、
69年、打率.309 24本塁打 101打点
70年、打率.325 23本塁打 107打点の好成績をマーク、
加えて、両年ともシーズン最多安打の活躍ぶりで
2年連続でチームを地区優勝に導いた。

71年は打率.337で3度目の首位打者を獲得、
が、オリヴァが打率.300以上を記録したのはこの年が最後だった。

キャリアを通じて、大崩れしない安定した成績を残してきたオリヴァだったが
慢性的なヒザの故障に泣かされ続けてもいた。

1976年、キャリア通算打率.304という堂々の数字を残して現役を引退。

本名はペドロ、キューバからアメリカに入国する際、
兄・トニーのパスポートを使用していた為、
その名で通していのだという。

file.122 Bill MADLOCK 【ビル・マドロック】

2006-12-14 | MNO
【Mad Dog】
Bill MADLOCK

コンパクトな打撃でヒットを打つのが持ち味、
長距離打者では無かったが、ふた桁の本塁打を放つパンチ力は備えていた。
グラウンドでは熱くなりやすいタイプで、
攻・守にハードなプレーをみせ、【Mad Dog/狂犬】と呼ばれた。

75年、打率.354で実質2年目にして早くも首位打者を獲得、
この年のオールスターでも決勝タイムリーを放つ活躍でMVPを受賞した。

76年、打率.339で2年連続の首位打者に輝くも、オフにジャイアンツにトレード、
新天地でも、77、78年と打率.300以上をマークする。

79年シーズン途中、打率.261のマドロックはパイレーツに移籍。
この年のパイレーツは、『We Are Family!』をスローガンに、怒濤の快進撃を続けていた。
『家族』の仲間入りをしたマドロックも移籍後打率.328と復調、
ウィリー・スタージェルや、デイブ・パーカーらと共に打線を支え、
パイレーツの世界一に大きく貢献した。

81年に打率.341で3度目の首位打者を獲得すると
83年は.323を打ち首位打者、
メジャー通算8度の打率.300以上を記録、
4度の首位打者に輝いた。

88年、日本のオリオンズに移籍、
バリバリのメジャーリーガーの来日に
ファンは大きな期待をかけた。

しかし、間抜けな『サザエさんの替え歌』の応援歌に腰がくだけたのか、
123試合に出場し、打率.263 19本塁打 61打点の成績で終わり、
往年の首位打者ぶりは発揮できなかった。

file.121 Boog POWELL 【ブーグ・パウエル】

2006-12-13 | PQR
【Boooooooog!!!】
Boog POWELL

ブルックス、フランクの両ロビンソンと
全盛期のオリオールズを支えた長距離砲。

62年、外野のレギュラーに定着し、15本の本塁打を放つ。
64年には、39本、
66年は34本 109打点と、
豪快な打撃で、長打を量産した。

また、66年はドジャースとのワールド・シリーズで
打率.357と活躍し、チームの世界一に貢献した。

69年は打率.304 37本塁打 121打点の好成績、
打率.308 32本塁打 100打点のフランク・ロビンソンと共に
チームをリーグ優勝に導いた。

1970年、好調を維持するパウエルは、
打率.294 35本塁打 114打点でシーズンMVPを受賞、
レッズとのワールド・シリーズでも
2本塁打、5打点の活躍で、
66年に続きチームの世界一に、おおいに貢献した。

結局、パウエルはオリオールズにおいて、
4度、チームをワールドシリーズに導き、
2度の世界一を経験している。
その間、シーズンMVP投票3位以上を3度記録するなど、
両ロビンソンのインパクトには及ばないものの、
『第3の男』としての仕事を全うし、チームを支えた。

ゴールド・グラブの受賞歴は無いが
一塁の守備も堅実であった。

file.120 Dave HENDERSON 【デイヴ・ヘンダーソン】

2006-12-12 | GHI
【Hendu】
Dave HENDERSON

81年にマリナーズでメジャーデビューしたヘンダーソン、
82年には外野のレギュラーを確保し、14本塁打。
マリナーズに在籍した6年間
打撃面では、毎年15本前後の本塁打を放つも
これといった実績を残す事は出来なかった。

86年途中、マリナーズからレッドソックスへ移籍、
移籍後、打率.196と低迷するが
この年のワールドシリーズでは、打率.400に2本塁打の活躍を見せる。
ビル・バックナーのエラーで有名な第5戦でも、
一時は決勝打かとおもわれた一発を10回に放っている。

翌87年、またもやシーズン途中にレッドドックスからジャイアンツに移籍。
レッド・ソックスでもジャイアンツでも精彩を欠いた。

88年、アスレチックスへの移籍でヘンダーソンはいきなり打撃開眼した。
この年、打率.304 24本塁打 94打点の大活躍でMVP投票13位の活躍を見せると
89年は打率、本塁打共に数字を下げるも80打点をマーク、
90年も20本塁打を放ち、88~90年のアスレチックス、3連覇に貢献、
世界一に輝いた90年のワールドシリーズでは、
4試合で打率.308をマーク、第3戦では2打席連続本塁打を放ちチームを牽引した。

91年には25本塁打、念願のオールスター出場を果たし、
93年、打率.220も、20本塁打を記録、
翌94年現役を引退した。

レギュラーシーズンの数字より、
ワールドシリーズでの活躍の印象が強い名物男であった。


file.119 Jerry KOOSMAN 【ジェリー・クースマン】

2006-12-11 | 1969/Miracle Mets
【トムとジェリーin NY】
Jerry KOOSMAN

通算222勝をマークしたサウスポーで、
1969年の「ミラクル・メッツの立て役者」である。

メジャー昇格2年目の68年、防御率2.08、19勝の好成績をあげ
チームの左のエース格になったクースマン。

翌69年も25勝のトム・シーバーと両輪の大活躍で
17勝をマーク、メッツの初のリーグ優勝に大きく貢献した。

この年のワールド・シリーズでは、まず第2戦に先発、
8回を1失点の好投を披露し、
1戦目をシーバーで落としたチームに活気をもたらすと、
世界一を決めた5戦目では9回を3失点に抑え堂々の完投。
シリーズMVP級の活躍を見せた。

その後も、トム・シーバーと共に、
安定した活躍でチームを支える。
68年から76年の9年間は71年の6勝を除いて
全ての年で10勝以上をマーク、
二人がメッツでチームメイトだった67年から77年の10年間
シーバーが189勝、クースマンが137勝、
合わせて実に326もの勝利をチームにもたらした事になる。

76年に21勝でキャリア・ハイの成績をおさめたクースマンだが
77年に8勝20敗と調子を落とすと
翌78年は3勝15敗を喫し、ツインズに放出される。

が、地元のミネソタで復活、移籍1年目にして20勝をあげ
力が衰えていない事を示した。

その後、ホワイト・ソックス/フィリーズとチームを変え、
フィリーズ在籍の84年、41才ながら14勝をマークした。

殿堂入りの大投手トム・シーバーの影に隠れがちだが
ジェリー・クースマンも60、70年代のメッツを支えた
名投手である。

file.118 Ernie BANKS 【アーニー・バンクス】 

2006-12-10 | ABC
【 Let's play two! 】
Ernie BANKS

「ミスター・カブ」と呼ばれ、シカゴでは絶大な人気を誇った。
通算2583安打、512本塁打を記録したスラッガーで、
1977年に堂々の殿堂入りを果たしている。
温厚で陽気な性格と人なつこい笑顔、
お決まりのフレーズは「 Let's play two! (2試合やろうぜ)」
まさにAll time fan favoriteな名選手である。

メジャー入りする前は、ニグロリーグのモナークスに在籍、
サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンといった大選手とプレーする。

1953年、カブスと契約、遊撃手としてデビュー、
翌54年には19本塁打を記録し、スラッガーとしての片鱗をのぞかせると
55年に打棒爆発、44本塁打と117打点をマーク、
当時、遊撃手としての年間最多ホームラン記録であった。
打撃だけでなく守備も堅実なプレーで、チームを支えた。

圧倒的だったのは57年から60年の4年間だ。
4年連続で40本塁打以上を放ち、
58年は47本で本塁打王、129打点で打点王の二冠――
59年は143打点で打点王―――
60年は41本で本塁打王を獲得、
さらに58~59年と2年連続でシーズンMVPに輝いている。
2年ともチームは優勝しておらず、
そればかりか、負け越してさえいる。
そんな中でのMVP受賞は、
いかにバンクスの活躍が素晴らしかったかを物語っている。
60年にはキャリアで唯一となる
ゴールド・グラブ賞も受賞している。

1961年、膝の故障の影響で、シーズン途中に外野へコンバート、
さらに62年からは一塁へコンバートされた。
バンクス=遊撃のイメージが強いが、
実は、一塁手としての出場の方が100試合以上多いのだった。

膝の故障は、打撃にも多少の影響を与えていたようで、
63年からバンクスの成績は絶頂期に比べるとやや落ち込んでいる。
...が、バンクスはチームの主力選手として出場し続け、
1970年には500ホームランを達成。
翌71年に現役を引退した。

オールスター11回出場を誇るスーパースターだが、
チームの優勝に縁がなく、
一度もポストシーズンに出場する事は無かった。


バンクスがまだニグロ・リーグにいた頃、
シーズンオフの巡業ではジャッキー・ロビンソンと二遊間を組んでいたという、
この夢のようなキーストン・コンビは
残念ながら、メジャーのオールスターでは実現する事は無かった。

file.117 Frank HOWARD 【フランク・ハワード】

2006-12-08 | GHI
【眼鏡のスラッガー】
Frank HOWARD

60年代を中心に、そのパワフルな打撃でファンを魅了したスラッガー。

1958年から64年の間、機動力重視のドジャースにおいて
ポイント・ゲッターとして活躍したハワード。
60年、23本塁打で新人王、
62年には31本塁打 119打点でチームの世界一に貢献した。

65年からワシントン・セネターズに移籍、
68年から70年まで3年連続40ホームラン以上と100打点以上を記録、
68年に本塁打王、70年は本塁打・打点の二冠を獲得し
そのパワーをおおいにふるった。
特に68年のホームラン王獲得は、この年がメジャー史上においても
最高と言える程の投高打低のシーズンだっただけに、価値は大きい。

73年、タイガースで12本塁打を打った翌年
日本の太平洋クラブライオンズに移籍。
大リーグの元ホームラン王の来日とあって、
マスコミやファンの熱い視線を浴びるが、
ヒザの故障で開幕戦に出場しただけで帰国してしまった。

引退後はパドレス、メッツで監督を務めるも、
結果を出すに至らなかった。

file.116 Monte IRVIN【モンテ・アーヴィン】

2006-12-07 | GHI
【ジャイアンツ初の黒人選手】
Monte IRVIN

ニューアーク・イーグルスに在籍し、
ラリー・ドビーや、ドン・ニューカム、レイ・ダンドリッジといった
名選手達とプレーしたアーヴィン、
1940年には打率.422、41年には.396の高打率で首位打者を獲得、
その他、ホームラン王、打点王にも輝き、ニグロ・リーグのスターであった。
「最初にメジャーへ行くのはアーヴィンだと思っていた」
このクール・パパ・ベルの談話に代表されるように、
皆、アーヴィンこそが黒人初のメジャーリーガーになる...と
信じて疑わなかった。

兵役や、リッキー・ブランチとのすれ違いもあって、
アーヴィンは結局1949年、ニューヨーク・ジャイアンツと契約する。

1950年、アーヴィンは打率.299 本塁打15を打ち、
本格的にジャイアンツでのキャリアをスタートさせると、
51年には打率.312 本塁打24 121打点の好成績で打点王に輝く。
また、この年のワールドシリーズでも打率.458に加え、
ホームスチールを決めるなど大活躍。
「私が見た中で最高の選手だった」
ロイ・キャンパネラにこう言わしめるほど、
走・攻・守に秀でた5ツールプレーヤーであった。

その後、メジャーリーグには計8シーズン在籍、
通算で731本のヒットと、99本のホームランを記録し、
1956年、カブスを最後に現役を引退した。

1951年、ウィリー・メイズが入団すると、
アーヴィンは、メイズの世話係をかって出た。
食事・服装・女の子とのデートに至るまでメイズに世話を焼き、
勿論、野球においても様々なアドバイスをメイズに与えている。
メイズも、「アーヴィンから教わった事は一生胸に焼き付いている」...と
後に語っている。

メイズはルーキーイヤーの序盤、酷いスランプに陥った。
チームは勝っていたが、メイズ自身は凡打を繰り返していた。
それでもファンは期待の新人・メイズに暖かい拍手を送り続け、
罵声を浴びせるような事はしなかった。
メイズが疑問に思っていると、アーヴィンはこう言って笑った。

「ファンは知っているのさ、
お前がヒットを打たない限りチームは勝ち続ける、
ただ困るのはお前がヒットを打った時だよ」