GUMBO

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file .300 Joe RUDI【ジョー・ルディ】

2012-04-18 | PQR
【レジーでは無く…】
Joe RUDI

1964年にアスレチックスと契約を交わしたルディは、
67年、20歳の時にメジャーデビューを果たす。
その後、数年間は伸び悩むが、70年に打率.309 11本塁打 42打点をマーク。
その才能を開花させた。

以来、レジー・ジャクソンや、サル・バンドーらと共にチームを支え、
72年、打率.302 19本塁打 75打点(MVP投票2位)
73年、打率.270 12本塁打 66打点
74年、打率.293 22本塁打 99打点(MVP投票2位)
…と、この間のアスレチックス3年連続世界一に大きく貢献。
勝負強い打撃と左翼手としての堅守、
そして何よりその真摯なプレースタイルが、高い評価を得るに至った。

その後も、チームの要として活躍し、
1977年にはエンゼルスへ移籍。

ボソックスを経て、
82年、古巣のアスレチックスで現役を引退した。

ちなみに、引退時のチーム監督ビリー・マーチン。
マーチンは、ヤンキース監督時代、
FA移籍でやってきたレジー・ジャクソンと度々揉めたが、
監督として本当に欲しかったのは、
尊大で、守備が下手なレジーではなく、
地味なれど、献身的なフォアザチーム精神を持つ
ジョー・ルディだったという。

通算1547試合 打率.264 179本塁打 810打点

file .291 Mickey RIVERS【ミッキー・リヴァース】

2010-10-15 | PQR
【Mick the quick】
Mickey RIVERS

1970年、エンゼルスでメジャーデビューを果たしたリヴァース。
キャリア2年目の71年には79試合に出場し、
打率.265 、13盗塁で、その才能の片鱗を伺わせる活躍を見せた。
74年にレギュラーに定着し、打率.285、30盗塁をマーク、
翌75年は打率.284、70盗塁、キャリア唯一となる盗塁王を獲得。
リーグ屈指のスピードスターとして、その名を大いに売った。

76年にトレードでヤンキースに移籍したリヴァースは
打者としても成長を見せ、打率.312、8本塁打、67打点、43盗塁をマーク。
MVP投票では、サーマン・マンソンやジョージ・ブレットという
名だたる名選手の後につける3位の評価を受け、オールスターにも初出場。
個性豊かな『ブロンクス・ズー』の一員として
全米クラスの選手にまでのし上がった。

気性が荒く、気まぐれ。
気分が乗れば攻守ともに素晴らしい働きを見せるが
そうでない時は散漫なプレーでファンやベンチをやきもきさせた。
部類のギャンブル好きで、試合前や練習中にチームメイトとカード遊びに耽り、
それをたしなめられると
「ああ、そうかい、じゃカードはやんねえよ。ついでに野球もやらねえけどな!」とうそぶいた。
競馬にも目がなく、試合中にクラブハウスのボーイに馬券を買わせていた。
それをたしなめられると
「ああ、そうかい、じゃ競馬はやんねえよ。ついでに野球もやらねえけどな!」とうそぶき、
実際に「足が痛い」と仮病を使い、試合を堂々と休んだ。

77年、打率.326、12本塁打、69打点、22盗塁、
78年は打率.265、11本塁打、48打点、25盗塁で
チームの2年連続世界一に貢献。
79年にレンジャースに移籍し、
80年には打率.330、7本塁打、60打点、18盗塁と結果を残すも、
以降は徐々に出場機会が減り、
84年、35歳で現役を引退した。

通算1468試合、打率.295、267盗塁を記録。

快速選手がカードゲーム好き・・・
どこかで聞いた事のあるような話である。

file .288 Dan QUISENBERRY【ダン・クイゼンベリー】

2010-03-18 | PQR
【サブマリンストッパー】
Dan QUISENBERRY

1975年、ドラフト外契約でロイヤルズに入団したクイゼンベリー。
79年にメジャー初登板を果たし、32試合 3勝 5セーブ 防御率3.15をマーク、
まずまずの結果を残した。

が、当時の監督ジム・フレイは、今のままだと、
この程度が限界の並みの投手に終わってしまうと考え、
コントロールに光る物があるクイゼンベリーを伸ばすため、
アンダースローへの転向を画策。
80年のオープン戦、対戦相手のパイレーツにいた
サイドスローのストッパー、ケント・テカルヴィに引き合わせる。
テカルヴィに師事し、アンダースローに転向したクイゼンベリーはこの年、大変身。
75試合 12勝 7敗 33セーブ 防御率3.09、リーグ最多セーブをマークする。

クイゼンベリーの武器はなんと言っても、コントロールの良さと
精度の高いシンカーである。
相手をねじ伏せるような速球は無く
ランナーをしばしば出したが、必殺のシンカーでゴロを打たせ打ち取る。
当時のロイヤルズは、フランク・ホワイトを始め、ジョージ・ブレットら
内野に名手が多かった事もクイゼンベリーに幸いしていた。

「クイゼンベリーは、30-30-30を達成したんだぜ
 100イニング以上投げて三振がわずか37
 で、30セーブをあげて、奴が投げてる間・・・
 30ものファインプレーが産まれたんだよ」
これは、ジョージ・ブレットの弁である。

その後も、クイゼンベリーは、
チームのストッパーとして活躍。
82年~85年にかけて4年連続でリーグ最多セーブを記録。
83年には、32試合 5勝 45セーブ 防御率1.94、
ア・リーグでは前人未到の40セーブを記録し
85年は84試合 8勝 37セーブ 防御率2.37、
カージナルスとのワールドシリーズでも4試合に登板し1勝 防御率2.08。
チームの世界一に貢献した。

チームとも、終身雇用の契約を交わすなど、
まさに絶頂のクイゼンベリーだったが、
86年以降、徐々に調子を落として行く。
88年には、終身雇用だった筈がチームを解雇され、
カージナルスに移籍。
89年は63試合 3勝 6セーブ 防御率2.64で
セットアッパーとしてチームの勝利に貢献するも、
90年、大けがの影響もあって、そのまま現役を引退した。

愛嬌のある風貌と、頭の回転の早さを活かした軽妙な発言で
大いに、人気を博したクイズことクイゼンベリーだったが、
98年、ガンでこの世を去った。

通算674試合 56勝 244セーブ 防御率2.76

メジャーリーグの歴史で、最も成功した
アンダースロー投手といえるだろう。

file .287 John ROCKER【ジョン・ロッカー】

2010-03-09 | PQR
【でも憎めないよね~】
John ROCKER

1999年、ブレーブスは、メッツとの
リーグチャンピオンシップを控えていた。
この年、4勝 38セーブ 防御率2.49で
チームの守護神に成長したジョン・ロッカーは
対戦前、「メッツは、あんだけ好打者を揃えながら、なんでウチに3勝しか出来ねえの??」
(この年、メッツはブレーブスに対し、3勝9敗)
とメッツを挑発した。
当然、メッツファンの怒りを買ったロッカー、
第3戦で、9回を抑えると、試合後ファンを挑発するような態度を見せ、
メッツファンの怒りは倍増した。
「メッツのファンは人間以下、野蛮な奴らだ」
「メッツファンなんて地獄に落ちろ!」等、
ブーイングを浴びせるメッツファンに、ロッカーは更なる挑発を繰り返す。

結局、このブレーブスはワールドシリーズ進出を果たすも、
シリーズではヤンキースに敗れ去った。

同年、年末・・・
スポーツイラストレイテッド誌に掲載されたロッカーのインタビューは、
衝撃的な内容だった。
「ニューヨークは最悪だよ、疲れるし、イライラするな
 地下鉄の7番線で球場に行くとするだろ・・
 ありゃまるでベイルートだね!
 髪を紫に染めたガキはいるわ、そんで隣にはエイズ患者だな、
 で、その隣が刑務所に4回入った野郎で、
 さらにその隣は4人の子がいる20歳のママってわけさ
 気が滅入ってしょうがないね!」

「ニューヨークで最悪なのは外国人の連中だね。俺は奴らの事があんまり好きじゃねえな
 タイムズスクエアに行って1ブロックほど歩いてみ、誰も英語で話しちゃいねえ。
 アジア人や、韓国人、ベトナム人、インド人、ロシア人、スペイン系、なんでもござれだ
 奴ら、どうやってこの国に入ってこれたんだよ?」
...等

この記事により、
ロッカーは、一躍メジャーリーグのヒールとして名を馳せる事となり
ハンク・アーロンや、同僚のトム・グラヴィン、チッパー・ジョーンズなどが
公式にロッカーを避難した。

さらに、ニューヨーク市長のジュリアーニが、
ロッカーの地下鉄利用を禁じ、怒るファンにも自制を求める事態にまで発展。
ロッカーは試合後の移動にも警護をつけなくてはいけなくなってしまった。

その後・・・
インデジアンズやレンジャーズを経て、
2003年に、現役を引退。
通算13勝 22敗 88セーブ 防御率3.42

引退後は、タレント活動にも熱心で
数々のコメディ番組に出演。

引退前の2002年には
The Greenskeeper(邦題・殺戮職人芝刈男)にも出演。
※映画学校の一年生でも、もうちょっとマシな映画作るだろ・・と思うよな
 超が付く程のゴミ映画で、ロッカーは、演技力なぞ微塵も必要としないような役を
 嬉々として(?)演じている。

file .281 Lou PINIELLA【ルー・ピネラ】

2009-05-23 | PQR
【sweet lou】
Lou PINIELLA

1969年、ロイヤルズで本格的なキャリアをスタートさせたピネラ。
主にレフトを守り、打率.282、11本塁打、68打点で、新人王を獲得。
翌70年も打率.301、11本塁打、88打点を叩きだし、
チームの主力の一人として活躍した。
72年には打率.312、11本塁打、72打点をマーク、
初のオールスター出場も果たし、その名を大いに売った。

74年、30歳でヤンキースへトレード。
移籍一年目こそ、打率.305、9本塁打、70打点と安定した打撃を見せたが
75年、76年は、怪我の影響もあって不調をかこった。

77年、あのレジー・ジャクソンがヤンキースへ移って来た年。
ピネラは規定打席には足りないものの、打率.330、12本塁打、45打点と復調。
ドジャースとのワールドシリーズでも3打点をあげる活躍を見せ、
チームの世界一に貢献した。

その後も、78年に打率.314、6本塁打、69打点をマークするなど
勝負強い打撃で、レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン、ミッキー・リバースといった
アクの強い面々と並び、チームの勝利に貢献したピネラ。
結局84年までプレーし、ヤンキーズのユニホームで現役を引退した。

通算1705安打、102本塁打、766打点、打率.291。

現役時代のピネラは、熱血漢で激情家。
スウィート・ルーなるニックネームで呼ばれていた程のハンサム・ガイだったが、
チャンスで凡退などした時には、
興奮状態でベンチに戻り、バットでウォータークーラ、椅子、天井のライト........etc
手当たり次第に破壊しつくした。
ピネラがこの状態になると、さしものレジー・ジャクソンも武闘派ビリー・マーチンも
立ち向かう事は敵わず、及び腰になって逃げ回った。

また、スタンドから罵詈雑言をファンから浴びせられた際には
「打てないのはテメエの所為だ。テメエのワイフがしつこいから
 俺はいつもクタクタだ。あの女をベットから連れ出してくれさえすれば、俺の体力も復活するんだがな!!」
などとやり返したという。

現役引退後は、レッズやマリナーズの監督として采配をふるい、
しばしば、現役時代を彷彿とさせる、瞬間湯沸かし器ぶりを見せつけている。


file .274 Max PATKIN【マックス・パトキン】

2009-01-27 | PQR
【クラウン・プリンス】
Max PATKIN

アメリカ野球ファンなら
知っておいて欲しい、有名な『野球道化師』である。

元々は、150km以上の速球を投げる速球投手だったパトキン。
が、制球力がからっきしの三級品だった事と
腕の故障でメジャーへは、上がれないでいた。

1944年、兵役に就いたパトキンは
同じく兵役中のジョー・ディマジオと
戦地での試合で対戦する機会を得た。
メジャーを代表するスター、大ディマジオと
ノーコンの三流投手では勝負になるわけもなく、
ポカーンと大ホームランを打たれてしまう。
が、この被弾がパトキンの人生を大きく変える事となるのだ。
ダイアモンドを優雅に回るディマジオの後を、
その真似をして、フザけて付いて回るパトキン。
球場は、大きな笑いに包まれたのであった。

兵役から戻ったパトキンは、
戦場での爆笑が忘れられなかったのか、
マイナーの試合で、同僚の物真似や、変テコなダンスで
ベンチや、観戦客を楽しませる方に夢中になっていた。
その噂を聞きつけたインディアンズのオーナー、ビル・ベックは、
パトキンを引き抜き、チームの『お笑いコーチ』に任命。
一塁コーチャーズボックスで相手捕手のサインを盗み見るジェスチャーなど
その『芸』は多くのファンを楽しませ、
球団の集客増加に大きな貢献を果たした。

やがて、もう役目は終わった....と考えたベックにより
マイナー・リーグに戻されたパトキンは
野球選手の道をあきらめ、現役引退。
ジョー・ディマジオの後押しもあって、
フリーの『野球道化師』として生きる道を選んだ。

野球道化師・パトキンは、
マイナーリーグの試合を中心に、
呼ばれれば、何処へでも駆けつけ、
ファンを楽しませた。
ゴムのように自在に変化する顔芸や
お得意の、変テコダンスに物真似。
グラウンド上をひたすらゴロゴロ転がると思えば、
砂塵を巻き上げる派手なスライディングを敢行。
口に含んだ水を観客や選手に噴射し、
バッターボックスに向かう選手の頬にキス。
キャップを斜めにかぶり、背番号『?』のヨレヨレのユニホームに身を包んだ
マイナーリーグの人気者は
いつしか『ベースボール・クラウン・プリンス(野球界の道化師王子)』
と、呼ばれるようになり、
約50年、毎日休む事なく土まみれになりながら、
4000試合に〝出場〟し続けた。

95年、怪我を理由に〝引退〟するが、
道化師王子は74歳になっていた。

1999年、79歳で死去。

3000本安打に500本塁打、300勝.........、
球界には、幾多の偉大な選手が存在するが、
パトキンのような人物も、彼らに負けず野球を愛した
堂々の殿堂級人物でろう。

file .241 Sparky LYLE【スパーキー・ライル】

2008-03-01 | PQR
【バースデーケーキ】
Sparky LYLE

1970年代、屈指のリリーバー、スパーキー・ライルは、
64年、オリオールズと契約を交わすも、
同年、レッド・ソックスへ移籍、
67年にメジャーデビューを果たした。
左腕から繰り出す、キレのあるスライダーを武器に
安定した投球で、チームのブルペンを支え、
67~71年まで、5年間で69セーブをあげる活躍を見せた。

72年、トレードでヤンキースへ移籍すると、
その才能をさらに開花させ、
この年、59試合で9勝-35セーブ、防御率1.92、
サイヤング賞やMVP投票ではいずれも上位に食い込む活躍で
その存在をおおいにアピールした。
73年には25セーブをマークし、オールスターにも初出場、
リーグを代表するストッパーに成長した。

76年、7勝-23セーブ、防御率2.26で
チームのリーグ優勝に貢献したライル。
惜しくもワールド・シリーズでは敗退したが、
77年は、雪辱を晴らす。
13勝-26セーブ、防御率2.17と八面六臂の活躍で
地区優勝に貢献を果たすと、
ロイヤルズとのプレーオフでは4試合に登板し2勝、
ドジャースとのワールド・シリーズでも2試合で1勝をマークし
世界一の大きな原動力となった。
また、この年はサイ・ヤング賞も受賞し、
ライルのキャリアで最高の年となった。

ここまで、リリーフ投手として
順風満帆なキャリアを送ってきたライルだったが、
78年、グース・ゴセージがパイレーツからFA移籍で
ヤンキースに入団すると、立場が急変。
ストッパーからセットアッパーへ役割が変更になり、
9勝-9セーブ、防御率3.47とまずまずの活躍を見せるが、
シーズン終了後、レンジャースへトレード放出されてしまう。

その後、レンジャース~フィリーズ~シソックスと
チームを変わるも、往年のような活躍を見せる事はなく、
82年、37歳で現役を引退した。
通算899試合、99勝-238セーブ、防御率2.88。

さて、ライルといえば、その投球とは別に数々の奇行で知られている。
中でも有名なものは、
クラブハウスに届けられる選手のバースデーケーキに
尻の後を付ける(勿論、丸出しで....)
....という、下品極まりない行為なのだが、
上には上がいた....。

その選手とは..............

次回に紹介するといたします。


file .234 Billy RIPKEN 【ビリー・リプケン】

2007-12-31 | PQR
【兄弟で二遊間】
Billy RIPKEN

言わずと知れた
カル・リプケンjr.の実の弟である。

ビリー・リプケンは、1987年の7月、
父カル・リプケン率いるオリオールズでデビュー。
怪我で試合出場が出来なくなった、
二塁手のリック・バールソンの代役としてのメジャー昇格であったが、
ここに、兄カルとビリーの兄弟二遊間、
及び、監督・父、息子2人が選手....というシチュエーションが実現。
メジャー史上発の快挙と相成った。

結局、この年は58試合で打率.308、2本塁打、20打点と好成績をマーク、
兄同様の堅実な守備だけでなく打撃でもチームに貢献を果たした。

が、翌88年は打率.207と成績が急降下、
父も開幕からわずか数試合で監督を解任させられてしまい、
ビリーとしては、喜ばしくないシーズンとなってしまった。

その後もレギュラー二塁手としてプレーしたビリー。
高い守備率を誇る堅実さに加え、
カルとの息の合った連携プレーにも磨きがかかり、
守備面では文句無しの働きを見せたが、
打つ方は、打率.291をマークした90年以外はパッとせず、
93年、レンジャーズへ移籍。
新天地での新たなスタートとなったが、
レギュラーに定着する事は適わず、
98年、タイガースを最後に現役を引退。

通算674安打、20本塁打、打率.247。

「兄のような選手にはなれない....と人は僕によく言うが、
 きっと皆、僕の事を身の程知らずだと思ってるんだね。
 自分と兄の違いは自分が一番よく知ってるよ。
 兄はスーパースターで、僕はそうではないけれど、
 良い選手を目指している....という点では変わらない筈だよ」

現在はラジオのキャスター等をこなしながら、
兄カルと共に、マイナー球団の運営に携わっている。

file .233 Pete REISER 【ピート・ライザー】

2007-12-28 | PQR
【悲運の激突男】
Pete REISER

名将レオ・ドローチャーは言った。
「ウィリー・メイズには全てが備わっている。ピート・ライザーには運だけが欠けていた。」

セントルイス生まれのライザーは、1940年、
21歳の若さでブルックリン・ドジャースの外野手としてデビュー。

2年目の41年、打率.343、14本塁打、76打点の好成績で
首位打者に輝き、チームのリーグ優勝に貢献。
MVP投票でも2位に付け、オールスターにも出場するなど
最高の一年を送った。
素質の塊のようなライザーには輝けるスーパースターへの道が
開かれているように見えた。

42年、外野への飛球を追ってフェンスに激突。
担架で運び出されると、2日間意識不明の状態となる。
間もなく戦列に復帰するも、.383あった打率は最終的に.310へ下降、
それでも64打点、20盗塁(リーグトップ)をマークするなど、
オールラウンドな活躍ぶり。
2年連続のオールスター出場にMVP投票6位....と
前年に劣らぬプレーを見せた。

その後、3年間の兵役を経て
46年にチームに復帰。
打率こそ.277と大幅に下げたが、
11本塁打、73打点...とクラッチヒッターぶりを見せつけ、
34盗塁で2度目の盗塁王に輝いた。

が、「迷うな」がスローガンだったというライザーは、
度々、守備中のハッスルプレーが災いして怪我を連発。
47年には、やはりフェンスに激突し、シーズン途中で戦列を離れるハメに.....。

結局、この時の怪我の影響からか、
48年以降は、往年の輝きを取り戻す事無く、
ブレーブス~パイレーツ~インディアンズとチームを渡り歩いたが、
レギュラーに定着する事は出来ずに終わってしまった。
52年現役を引退。

通算786安打、58本塁打、87盗塁、打率.295。
10年の選手生活で100試合以上出場は4度、
余りある才能を持ちながら、それをフルに発揮する事は適わなかった。

守備中に担架で運び出された回数は
キャリアで11回にものぼる。
恐らく不滅のメジャー記録なのではないだろうか???

file .211 Jim PERRY【ジム・ペリー】

2007-08-27 | PQR
【兄弟でサイ・ヤング賞】
Jim PERRY

殿堂投手の弟・ゲイロードに隠れがちではあるが、
兄・ジムも通算200勝以上を稼いだ好投手である。
兄弟での通算勝利数は529。
これはニークロ兄弟の539に次ぐメジャー史上2位の記録である。

1959年、インディアンズで、
12勝、防御率2.65という好成績を残し
颯爽とデビューイヤーを飾ったジム。
翌60年も18勝をマークするなど、4年連続で二桁勝利を記録し
早くもチームの大黒柱をして活躍する。

63年、シーズン途中でツインズへ移籍すると
先発にリリーフにと、大車輪の投球を披露。
65年には12勝、66年は11勝をあげるなど
安定した内容で、チームの勝利に貢献した。

69年途中から、先発専門に戻ったジムは
この年20勝をマーク。
翌70年は24勝、防御率3.04でサイ・ヤング賞の栄冠を勝ち取った。
ちなみにサイ・ヤング賞は、ニークロ兄弟に受賞歴は無く、
兄弟での受賞は長いメジャー史において、
ジム&ゲイロードのみ、唯一無二の記録である。

結局、69年~74年まで
6年連続で二桁勝利をマークしたジム。
74~75年の2年間は、インディアンズで、
弟ゲイロードとチームメイトとして活躍、
特に74年はジム17勝、ゲイロード21勝....と
二人で38勝をマーク、
この年のチームの勝利数の約半分を二人で賄った。

75年、現役を引退。
通算215勝、防御率3.45を記録している。

file .207 Gaylord PERRY【ゲイロード・ペリー】

2007-07-15 | PQR
【違反の達人】
Gaylord PERRY

ある日、300勝投手ドン・サットンがゲイロード・ペリーに
「選手寿命を長く保つ秘訣は???」と質問を投げかけた。
ペリーはニヤッと微笑むとサットンにワセリンのビンを手渡す。
サットンは微笑みながらペリーと握手、
サットンが去った後、ペリーの右手には紙ヤスリが握られていた......。

ゲイロード・ペリーは1962年、サンフランシスコ・ジャイアンツでデビュー。
64年に12勝をマークし、ホアン・マリシャルに続く主力投手の地位を確率した。
以降、66年に21勝の好成績を残すと、71年まで6年連続で15勝以上を記録、
68年にはカージナルス戦でノーヒッターを達成。
70年には23勝(最多勝)。サイ・ヤング賞レースでは2位に終わったが、
リーグを代表する右腕投手として、安定した活躍を続けた。

ペリーといえば、何と言っても
『反則投球』であろう。
首筋に塗ったワセリンや、自分の唾、
後ろで守る同僚野手の唾まで借用していたというのだから恐れ入る。
又、ペリーはそういった違反行為を行いながら
ただの一度もシッポをつかませた事のない、
正真正銘の『達人』であった。

72年にインディアンズに移籍したペリーだったが、
その『投球』に狂いは無く、
その年キャリア・ハイの24勝(防御率1.92)をマーク、
最多勝とサイ・ヤング賞を獲得する大活躍を見せる。

翌73年は19勝、74年には21勝と、30代半ばを迎えても
衰えを知らないピッチングを披露したペリーだったが、
75年シーズン途中にレンジャーズへ移籍すると、
78年からはパドレスへ。
80年は再びレンジャースでスタートしたが
シーズン途中でヤンキースへ移籍。
81年ブレーブス、82年にはマリナーズ、
最後は83年、ロイヤルズでその現役生活を終えた。
引退時の年齢は44歳。
78年に39歳で21勝をあげ、最多勝とサイ・ヤング賞を受賞するなど
息の長い活躍ぶりを見せた。

通算314勝 防御率3.11 3534奪三振。
両リーグで100勝以上をマーク、
又、同じく両リーグでサイ・ヤング賞に輝き、
91年に殿堂入りを果たしている。

余談だが、83年ロイヤルズ在籍時、
ジョージ・ブレットの『パインタール事件』が発生。
証拠隠滅とばかりに、ブレットのバットをいち早くグランドから
持ち去ろうとした人物がいた............。
誰あろうゲイロード・ペリーである。

file .203 Tony PENA【トニー・ペーニャ】

2007-06-23 | PQR
【独特の捕球スタイル】
Tony PENA

右足を伸ばして、地面にペタンと座る...という
独特の捕球スタイルが特徴的だった、
80年代を代表する捕手の一人。

1980年、23歳でメジャーデビューを飾ったペーニャ。
82年に138試合に出場、正捕手の座を獲得すると、
翌83年、打率.301 15本塁打 70打点の好成績に加え、
ゴールドグラブも受賞し、デビュー4年目で
リーグを代表する捕手に成長を遂げた。

84年も打率.286 15本塁打 78打点と勝負強い打撃を披露、
83年から85年まで3年連続でゴールドグラブを受賞、
攻守両面においてチームを支えた。

87年にカージナルスへ移籍、
チームのリーグ優勝に貢献すると
90年にはレッドソックス、
94年~96年まではインディアンズ....と
豊富な経験と守備力を買われ、
移籍を繰り返したペーニャ。
97年、ホワイトソックスとアストロズでプレーするが
この年限りで現役を引退した。

通算1687安打 107本塁打 打率.260

息子のトニー・ペーニャもメジャーリーガーで、
2007年6月現在、ロイヤルズで内野手としてプレーしている。

file.184 Al ROSEN【アル・ローゼン】

2007-03-30 | PQR
【Flip】
Al ROSEN

1942年にインディアンズと契約を交わしたローゼン。
9年かけて、ようやく三塁手のレギュラーになった50年に
打率.287、37本塁打、116打点と、好成績を残し、
本塁打王に輝き、一躍、チームの主力選手となる。

以後、6年連続で20本塁打、100打点以上。
52年、105打点で打点王に獲得すると
53年には、打率.336、43本塁打、145打点、
わずか1厘差で、打率は2位終わり、
三冠王こそ逃すが、本塁打&打点の二冠に輝き、
シーズンMVPも獲得。
その打撃力を大いに見せつけ、
リーグを代表するスラッガーへと成長した。

54年は、打率.300、24本塁打、102打点で
チームのリーグ優勝に貢献、
オールスターでも2本塁打するなど活躍。
ウィリー・メイズの『ザ・キャッチ』で有名な、
ジャイアンツとのワールドシリーズでは、
3試合に出場、打率.250をマークするが、
世界一に輝く事は出来なかった。

54年頃から、故障に苦しんでいたローゼン。
55年、打率.244と怪我によるスランプに陥ると
地元ファンからの容赦ないブーイングを浴びせられるようになる。
嫌気がさしたローゼンは、56年に現役を引退した。

通算192本塁打、717打点。
実働7年と、短い選手生活であったが、
強烈な印象を残した。

現役を退いた後は、
ヤンキースの球団社長や、アストロズのGM等を歴任、
その辣腕をふるった。

file.176 Frank ROBINSON【フランク・ロビンソン】

2007-03-16 | PQR
【三冠王】
Frank ROBINSON

メジャー史上唯一、ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグの両方で
MVPを獲得している名選手である。
通算2943安打、586本塁打、1812打点をマーク。

1956年、メジャーデビューした20才のロビンソンは、
打率.290、38本塁打、83打点の大活躍で新人王を獲得。
翌57年は打率.322のハイアベレージを残し、
59年には打率.311、36本塁打、125打点....と
アーロンやメイズに比肩するスラッガーに成長。

61年には打率.323、37本塁打、124打点でチームのリーグ優勝に貢献し、
シーズンMVPを獲得する。

翌62年も打率.342、39本塁打、136打点をマーク、
MVP級の活躍を見せたロビンソンは、
56年~65年のレッズ時代、7度の30本塁打以上、
4度の100打点以上、5度の打率.3割以上を記録。
63年には、拳銃不法所持で逮捕されるという不祥事も起こすが、
リーグ屈指のスター選手の地位は揺るぎないものであった。

黒人の地位向上のための公民権運動にも深く関わっていたロビンソンは、
次第にレッズのフロントから疎ましく思われるようになる。

「ロビンソンはロートルで、衰えが見え始めている」
66年、もっともらしい理由を付けられて、ロビンソンは
アメリカン・リーグのオリオールズへトレード放出される。

このトレードは、ロビンソンを大いに発奮させた。
新たな僚友、ブルックス・ロビンソンや、ブーグ・パウエルらと共に
快打を連発し、打率.316、49本塁打、122打点で三冠王を獲得。
チームをリーグ優勝に導く大活躍でシーズンMVPに輝くと
ワールド・シリーズでも、2本塁打を放ち、
ドライスデール&コーファックスを擁するドジャースを粉砕。
世界一の美酒に酔いしれた。

69年も32本塁打、100打点をマークしたロビンソン、
70年は打率.306、25本塁打でチームをリーグ優勝に導き、
レッズと戦ったワールドシリーズでも2本塁打と活躍し
2度目のチャンピオンリングを手にした。

72年、ドジャース
73年、エンゼルスとチームを変えたロビンソン。
75年には初の黒人監督(兼選手)としてインディアンズの指揮を司った。
76年、現役を引退。
以降も、ジャイアンツや、オリオールズ、エクスポズ~ナショナルズと
監督を歴任したが、チームを優勝に導く事は出来なかった。

柔和な顔付きとは逆に、短気で血の気が多いロビンソン、
新人の頃は、相次ぐ死球攻めに遭うなど、
その選手生活は平坦なものではなかった。
監督就任時も、ピッチャーのゲイロード・ペリーから
「黒人監督よりサラリーが下回るんだったらチームを出してくれ」
.........などと最低な台詞を吐かれた事もあった。

エクスポズ~ナショナルズ監督時は、厳格な姿勢をしばしば見せ、
造反選手に見せしめとも思われるペナルティを課したり、
試合中、納得のいかないジャッジを下した審判と1分ちかくベンチ外で睨み合ったり
.........と、およそイメージとはかけ離れた顔を幾度か見せた。
マイク・ソーシア&ブレンダン・ドネリー vs ロビンソン&ホセ・ギーエンの
「パインタール」事件も、印象深い事件だった。

82年、殿堂入りを果たしている。

file.130 Johnny PODRES 【ジョニー・ポドレス】

2006-12-25 | PQR
【1955年】
Johnny PODRES

1953年、20歳の若さでメジャーデビューしたポドレス、
1年目にして9勝をマークし、早くもブルックリン・ドジャースの主力投手となる。

54年には11勝し初の10勝以上をあげるが
翌55年は9勝にとどまった。が、ポドレスの野球人生最高の年が、
実は、この1955年であった。

当時、ドジャースは、1953年まで、7度のリーグ優勝を果たしていた強豪チームだったが、
何故か、ワールド・シリーズには弱く、7度のシリーズ全て敗退、
その内、5度は同じ都市のヤンキースに世界一を献上していた。
ブルックリンの市民はブロンクスのファンに、
「Wait til next year(今に見ていろ!!)」と啖呵を切っていた程だった。

55年、リーグ優勝したドジャースは、
ヤンキースと6度目のワールド・シリーズを戦う事になった。
第1戦を先発ドン・ニューカムで落とし
第2戦、先発にプリーチャー・ローを送り込むも落としたドジャースは、
第3戦にポドレスを先発起用、ポドレスは期待に応え、9回を2失点で完投勝利、まずは一矢を報いた。
ドジャースは続く4戦、5戦と勝ち、3連勝で勢いづくが
6戦はホワイティ・フォードを打てず敗戦、勝負は第7戦に持ち越された。

10月4日、第7戦の先発はポドレス、
ポドレスの気合いは充分、「1点....今日は1点あればいい....。」
ポドレスは試合前、呪文のようにそれを繰り返した。
........結果、9回を無失点完投......。
エルストン・ハワードの打球をピー・ウィー・リースが捌きゲームセット。
ついにドジャースが長年の雪辱を晴らしたのであった。
シリーズMVPは当然のようにポドレスが受賞、
ポドレスは、この瞬間、ブルックリン最高の英雄となった。

ポドレスは、その後も、安定した投球を見せ、
57年から63年まで6年連続で10勝以上をマーク、
57年は防御率2.66でリーグ1位、
61年は18勝5敗でリーグ最高勝率に輝いている。

59年、63年のワールド・シリーズでも1勝づつ勝利し、
それぞれ、チームの世界一に貢献した。

66年、シーズン途中でタイガースへ移籍、
69年、パドレスでユニホームを脱いだ。
通産勝利数は148。

ブルックリン時代はドン・ニューカムに、
LA時代はドライスデール/コーファックスに隠れた形となり
「第3の男」的な印象だが、ドジャースファンにとってポドレスは
特別な存在であり続けるだろう。