GUMBO

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file.081 Alan TRAMMEL【アラン・トラメル】

2006-07-16 | STU
【友に貰ったMVP】
Alan TRAMMEL

1976年ドラフト2位でタイガースに入団したトラメル、
キャリアで7度の打率.300を打ち、
ゴールド・グラブ4回受賞、オールスター出場6回を誇る
デトロイト一筋20年の名遊撃手である。

1978年、20歳の若さでレギュラーになったトラメル、
そのしなやかな遊撃守備に加え、打率.268 本塁打2 打点34と
実質1年目としては及第点の活躍を見せたが、
新人王は同じタイガースの二塁手ルー・ウィテカーが獲得した。
トラメルとウィテカーは、ほぼ同時期にメジャーに昇格、
マイナーでも共にプレーしていた仲であった。
この後 十数年、二人は息の合った二遊間コンビとして
数々の好守を魅せてくれる事になる。

上々のレギュラー1年目を送ったトラメルは
80年、初の打率.300を記録し、
83、84年と連続して打率.310を打った。
特に84年は、シーズン打率.314、
ロイヤルズとのプレーオフでは打率.364
さらにパドレスとのワールド・シリーズでは打率.450
と打ちまくり、シリーズMVPを獲得、
チームの世界一に貢献している。

翌85年は左ひざと右肩の故障により思うような活躍が出来ず
打率.258に終わるが、86年は初の20本塁打を放つなど
長打力を身に付け復活。
スパーキー・アンダーソン監督に中軸打者を任された
87年には打率.343 本塁打28 打点105と
最高のシーズンを送り、チームを地区優勝に導いた。

ちなみにこの87年、MVP級の大活躍を見せたトラメルだが
栄冠はブルー・ジェイズのジョージ・ベルに輝いた。
盟友ルー・ウィテカーは
「アラン・トラメル、1987AL MVP/ルー・ウィテカーより」
と書いた二塁ベースをトラメルにプレゼントするのであった。

1996年に現役引退した後、2003年から
愛するタイガースの監督を務める事になるが
監督としては、成功には到らなかった。
が、トラメルは今だにデトロイトの輝ける星である。


file.080 Eddie MATHEWS【エディ・マシューズ】

2006-07-13 | MNO
【863】
Eddie MATHEWS

1949年、ボストン・ブレーブスと契約を交わしたマシューズは
52年にはレギュラーの座を獲得、25本のホームランを放った。
翌年53は打率.302、47本塁打、135打点と爆発、
メジャー2年目にしてホームラン王に輝いた。

以降、54年、打率.290、40本塁打、103打点、
55年、打率.289、41本塁打、101打点をマーク。
早熟の天才は25才にして通算200本に到達していた。
57年には打率.292、32本塁打、92打点でチームのリーグ優勝に貢献
ワールドシリーズでは第4戦の10回にサヨナラホームランを打ち、
ブレーブスの優勝におおいに貢献した。

マシューズのシャープなスイングは、かのタイ・カッブをして
「完璧」と言わしめる程だった。
アメリカの有名なスポーツ雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」の
記念すべき第1号の表紙を飾ったのもマシューズの完璧なるスイングであった。

1954年、ハンク・アーロンがチームに加わると、
人種差別的な扱いをするチームメイトもいる中、
マシューズはアーロンを良きライバルと認め、彼を歓迎した。
「両雄並び立たず」という言葉があるが、
マシューズとアーロンには当てはまらなかった。
二人はチームの勝利のために競い合い、
結局チームメイトとしてプレーした12年間で863本の
アベック・ホームランを打った。
これは、ルース/ゲーリックのコンビを上回る数字である。
マシューズは、そのプロ生活において最高の誇りが
アーロンと打った863本のアベック・ホームランだと語り、
アーロンにとっては、マシューズが語ったこの言葉が自分の誇りであった。
「自分が良い打者になれたのはマシューズのおかげだと確信している」
誰あろう、アーロンの言葉である。

59年、打率.306、46打点、114打点、
60年、打率.277、39本塁打、124打点....と
活躍を続けていたマシューズ。

が、62年、肩に故障を抱えるようになると、
この年以降、以前の打撃が出来なくなってしまう。
結局68年、通算2315安打、512本塁打、1453打点、
本塁打王2回、オールスター出場9回の実績を残し、
現役を引退、78年に殿堂入りを果たした。

1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの本塁打記録更新に迫ると、
ルース信者や人種差別からの非難や脅迫に苦しむ彼を気づかい、庇ったのは
他ならぬ、ブレーブスの監督になっていたエディ・マシューズであった。

file.079 Dusty RHODES【ダスティ・ローズ】

2006-07-07 | PQR
【アフター・ザ・キャッチ】
Dusty RHODES

1960年のビル・マゼロスキ
1975年のカールトン・フィスク
1988年のカーク・ギブソン
1993年のジョー・カーター........etc.....
ワールド・シリーズでサヨナラホームランを放った猛者達である。

そんな猛者達の中にあって、最も知名度の低い選手が
ニューヨーク・ジャイアンツのダスティ・ローズである。
1954年のワールド・シリーズ、ジャイアンツvsインディアンズ、
第1戦、ローズは劇的なサヨナラ3ランホームランを放った。
が、この試合、脚光を浴びたのはローズではなく
“ザ・キャッチ”をキメたウィリー・メイズであった。

ローズはこの年、82試合、164打数という少ない出場機会ながら
打率.341 15本塁打 50打点と当たりに当たっていた。
シーズン中、主に代打で活躍、
7月には、優勝をかけた重要な試合で
2度、満塁の場面で起用され、2度ともタイムリーを放つなど
ここ一番の集中力はチームでも屈指であった。

ワールド・シリーズの第1戦、
インディアンズのピッチャーは名投手ボブ・レモン
試合は、メイズの“ザ・キャッチ”に湧く瞬間はあったものの、
4回以降は両チームとも得点する事が出来ず、
スコアは2-2のまま延長戦に突入した。
10回裏、メイズが四球を選びすかさず盗塁、
次打者は敬遠され、ノーアウト一、二塁のチャンス、
打席にはモンテ・アーヴィンが立つはずであった、
が、監督のレオ・ドローチャーは代打にローズを告げる。
ローズはレモンの第一球を叩き、ボールはスタンドに吸い込まれていった.....。

このシリーズは結局、ジャイアンツがインディアンズを4タテで破り
見事、ワールド・チャンピオンに輝いている。

初戦、しかも延長試合にケリをつけたローズの働きは
“ザ・キャッチ”に隠れる形にはなっているが、
MLBの歴史に燦然と輝く名シーンのひとつであろう。

file.078 Yogi BERRA【ヨギ・ベラ】

2006-07-02 | ABC
【本名はローレンス】
Yogi BERRA

ヨギ・ベラは、46年にヤンキースに入団し、47年には
メジャーに定着するのだが、入団前から、その怪異な容貌の所為で
大変な苦労を強いられた。
野球を生業にするべく、格球団のテストを受けるのだが
その非凡な打撃は評価されるも、容姿がマイナスになり
どこの球団からも採用されなかった。
かのブランチ・リッキーでさえ、ベラに対しては
「3Aどまり」との烙印を押した。

それでもヤンキースと契約する事が出来たベラだが
当時の監督バッキー・ハリスから「モンキー」とあだ名され
周囲の笑いの的となっていた。

ハリスからケーシー・ステンゲルに監督が変わるとベラの運命は一転する。
ステンゲルはベラの卓越した才能を完全に見抜き、
同僚やマスコミからベラを守った。そればかりか、インタビューなどで
ベラを褒めまくり、ベラに自信をつけさせた。

以降、ベラはジョー・ディマジオやトミー・ヘンリックから打撃を
アーリー・レイノルズやビッグ・ラーシーら投手陣からは配球術を
ベラの専用コーチとして雇われたビル・ディッキーからは捕手としての全てを
徹底的に教育され、名捕手の地位を揺るぎないものにするのである。

48年、打率.305、14本塁打、98打点、
メジャー3年目で早くも打撃の才能を開花させ、
50年は、打率.322、28本塁打、124打点の好成績。

ジョー・ディマジオが引退し、ミッキー・マントルが入団すると
ロジャー・マリスも含め、強力な中軸打線を形成し
新世代の中心選手として、チームを牽引する。

51年、打率.294、27本塁打、88打点でシーズンMVPを獲得。
53年、打率.296、27本塁打、108打点をマークすると
54年には、打率.307、22本塁打、125打点と
クラッチ・ヒッターぶりが冴え渡り、2度目のシーズンMVPに輝き、
翌55年も、27本塁打、108打点でシーズンMVPに輝いた。

結局、53年から56年まで4年連続で100打点以上を稼ぎ、
当たりまえのように20本以上のホームランを放った。
他球団の監督からは、
「試合の終盤のピンチで最も打席に立って欲しく無い打者」....
と言われる程の、無類の勝負強さを随所に発揮。
強打者にしては珍しく三振が非常に少ない打撃が持ち味であったが、
ロベルト・クレメンテと並ぶ、メジャー史を代表する悪球打ちでもあった。

オールスターにも15回出場し、
また、ヤンキースの10度の世界一におおいに貢献している。

ヨギ・ベラは、そのプレーだけでなく
『ベライズム』と呼ばれるユーモア溢れる名語録が有名で、
中でも『It ain't over till it's over.(負けるまでは負けじゃない)』などは
レニー・クラビッツの曲のタイトルにもなっている程である。

file.077 Ted WILLIAMS 01【テッド・ウィリアムス 01】

2006-07-01 | ted williams
【史上最強の打者】
Ted WILLIAMS

『ピッチャーが放ったボールに記された文字が打席で読めた』
『1分に78回転しているレコードのラベルを読み取れた』
メジャー史上最高のバッターともいわれるテッド・ウィリアムスの伝説。
が、こんな伝説も当人から言わせるとこうだ
「馬鹿らしい」


ウィリアムスはとにかく打撃が好きだった。
走塁や守備にはあまり関心を示さず、ひたすら
己の打撃向上にその情熱を注いだ。
酒や煙草などは一切やらず、映画を観ている時でさえ
ボールを握り握力を鍛えた。
自分が気に行ったバットを作らせるべく
各地のバット工場をたずね、最高のバットを作らせた。
打撃練習の時などは、打撃投手のボールを受けるキャッチャーに
「いいことを教えてやろう、俺は打撃が上手い。しかもますます上手くなってるぞ」
「こたえられねえなぁ。俺はなんて上手いんだろう」
「ちくしょう、なんて面白いんだ。ちっとも飽きないぜ」
などとぶつぶつ言いながら打球を全方向に打ち分けていたという。
そして同僚に打撃を誉められると、こううそぶいたという......
「当たり前だ!! どうだ俺のリスト、バットスイング、
そしてこのパワー。俺は正真正銘、世界一の強打者さ。
嘘じゃねえ、史上最強のバッターだ!!」