GUMBO

.

file .270 Thurman MUNSON【サーマン・マンソン】

2008-12-31 | MNO
【captain of the bronx zoo】
Thurman MUNSON

1969年にメジャーリーガーとしての
キャリアをスタートさせたマンソン。
翌70年には打率.302、6本塁打、53打点で、新人王を獲得。
ファイト溢れるプレーと勝負強い打撃を見せ
プロ2年目にして、名門ヤンキースの正捕手の座を確固たるものにした。

73年には打率.301、20本塁打、74打点をマークするなど
クラッチヒッティングに定評のあったマンソンは、
75年には4番打者を任されるようになり、
打率.318、12本塁打、102打点と、その期待に見事に応えてみせた。

チームに勝利に貢献するべく、頑丈な身体でホームベースを死守、
自分の出来得る最大限のパフォーマンスを怠る事は無かった。
そんな熱いプレーをチームの首脳も見逃す訳もなく、
マンソンは、76年ゲーリック以来となる、チームの『キャプテン』に指名される。

意気に感じたマンソンは打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁と
変らぬ勝負強い打撃を披露し、チームをリーグ優勝に導き、
シーズンMVPを獲得。
レッズとのワールドシリーズを制する事は出来なかったものの、
自信は打率.529と気を吐き、
キャプテン・マンソンは、リーグを代表するキャッチャーにまで登りつめた。

77年、ヤンクスとマンソンに大きな転機が訪れる。
FAでレジー・ジャクソンがチームに入団したのである。
自己顕示欲と、エゴの固まり....、
自尊心は果てしなく高い...............。
尊大なジェクソンは、チーム内での己の立場を確固たるものにするべく、
チームリーダーのマンソンを批判し始めた。

が、そんな挑発にマンソンが動じるわけもなく、
打っては、3番打者として打率.308、18本塁打、100打点、
守っては、ギドリーや、ハンターらを巧みにリードし、
人望厚いキャプテンとして個性派揃いのチームを見事に統率、
チームをリーグ優勝に導いた。
レジー・ジャクソンが大爆発したドジャースとのワールドシリーズでも、
負けじとばかりに打率.320をマークし、
ヤンキースの世界一に大きな貢献を果たした。

78年も世界一のリングをゲットしたマンソンだったが、
79年に悲劇が待ち受けていた。
8月2日、自らが操縦した自家用機が墜落し、
32歳で、その命を落としてしまったのだ。

通算1423試合、1558安打、打率.292、113本塁打、701打点。

口べたで、マスコミとの折り合いは決して良くなく、
その所為か、ファンからも、無愛想と誤解されていたというマンソン。
が、実際はジョーク好きの明るい性格で、
チームメイトからは絶大な信頼を置かれていた。

ライバルのカールトン・フィスクを異常なまでに意識し、
フィスクの守備成績まで常に調べていたという。

レッズのスパーキー・アンダーソンは、
自軍の名捕手ジョニー・ベンチと比較し、
「ベンチとマンソンを比べるなぞ、ベンチに失礼だよ」などと宣ったが、
マンソンも前述のフィスクやベンチに比肩しうる名捕手であった。

その死から数日後、
ヤンキースタジアムでマンソンの追悼セレモニーが行われた。
「He lived. He led. He loved」
~彼は生き、導き、愛された~
弔辞を読み上げたボビー・マーサーは
この日、サヨナラ打を含む2本のホームランを放ち、
天国の親友に勝利を捧げたのであった。


file .269 Lonnie SMITH【ロニー・スミス】

2008-12-17 | STU
【3つのリング】
Lonnie SMITH

1974年、ドラフト1位指名でフィリーズに入団したスミスは
80年、100試合、打率.339、3本塁打、20打点、33盗塁...という
見事な成績をおさめ、チームのリーグ優勝に大きく貢献、
ロイヤルズとのWSでも打率.263と健闘、
世界一の覇業の一翼を担い、
華々しい活躍で、スピードスター誕生と相成った。

81年、怪我で62試合の出場にとどまるも打率.324、21盗塁をマークすると、
そのオフ、カージナルスへトレード移籍。
打率.321、8本塁打、69打点、68盗塁、
シーズンMVP投票で2位につける活躍で
チームをリーグ優勝に導くと、
WSでも打率.321をマーク。
ブルワーズを撃破し、2個目のリングを手に入れた。

83年も打率.321、8本塁打、45打点、43盗塁と
看板通りの活躍ぶりを見せたスミスだったが、
ドラッグ服用が明るみに出て、
85年、シーズン途中でロイヤルズへ放出さる。
.........が、驚くべき事に、
移籍先でもスミスは打率.287、6本塁打、41打点、40盗塁と大活躍、
なんと、チームはリーグ優勝し、
自分を追い出した因縁のカージナルス相手のWSでも、
『コノウラミハラサデオクベキカ』とばかりに
打率.333、4打点、2盗塁の大暴れ。
大いに溜飲を下げる3度目のリングをゲットした。

87、88(この年からブレーブス)と
怪我でそれぞれ40試合程度の出場にとどまったスミス。
89年、打率.315、21本塁打、79打点、25盗塁をマークし、
91年は打率.275、7本塁打でブレーブスはリーグ優勝。
在籍4球団目で4度目となるWSで、スミスは致命的なボーンヘッドを犯してしまう。
ツインズとの対戦となったこのシリーズ、
勝負は7戦目までもつれこむ。
スミスは0-0で迎えた8回にヒットで出塁。
次打者のテリー・ペンドルトンは外野フェンスにブチ当たる長打を放つ。
スミスの脚力なら悠々とホームに帰還できる当たりだったが、
彼は、セカンドベースにスライディングしてしまう。
理由はツインズの二塁手/チャック・ノブロックと遊撃手/グレッグ・ギャグニーであった。
打球を見ないで走るスミスのクセを知っていたのか、
二人は内野ゴロダブルプレーのジェスチャーで
この一塁走者をまんまを騙したのであった。
事態に気づいたスミスは慌てて3塁まで走るも、その後得点には至らず、
試合は延長10回、1-0でツインズが勝ち、WSを制覇した。
スミスはブレーブスファンから轟々の避難を浴びてしまう。

その後、92年にもWSに出場したがチームは敗退。

94年、スミスは38歳で現役を引退する。
最後の球団はオリオールズであった。

通算1613試合、1488安打、打率.288、533打点、370盗塁、出塁率.371、
巧打と選球眼と快速を併せ持った素晴らしいリードオフマンだった。

余談になるが、1999年あたりから
チャック・ノブロックは謎の「悪送球病」いわゆるイップスに悩まされる事になる。
野球ファンはそれを「ロニー・スミスの呪い」........と、まことしやかに噂した..........(?)


file .268 Buck LEONARD【バック・レナード】

2008-12-16 | Negro League
【黒いゲーリック】
Buck LEONARD

父親が、鉄道のボイラーマンをしていた事もあってか、
小さい頃は、駅で靴磨きしていたというレナード。
1933年、世界恐慌の際、この時働いていた駅の売店の仕事を失い、
25歳でブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツと契約を交わしたが、
翌34年、彼のレナードのプレーに惚れ込んだスモーキー・ジョー・ウィリアムスの紹介で
ホームステッド・グレイズへ移籍。
ここで、ジョシュ・ギブソンと出会う。
強打のレナードは、同じく強打のギブソンと
パワーデュオを結成、その豪打ぶりは
多くの対戦相手を震え上がらせた。

一塁の守備も超一流、
なめらかなグラブ捌きと、バント処理の上手さには定評があり、
かのジョージ・シスラーと比肩すると言われる一方、
当時のメジャーリーガにも、彼以上の守備力を持った一塁手はいなかった....
とも言われている。


当然、ファンからは絶大な人気を誇り、
オールスターには12回出場。
メジャーリーグオールスターとの対戦にも
8試合プレーし、打率.500の大活躍。
ニグロリーグ側の勝利におおいに貢献し、
当時、メジャーのコミッショナーだった
悪名高きケネソー・ラウンディスをして
「もう、あいつらとは試合をしない」と言わしめた。

詳しい数字はほとんど残っていないレナードだが、
1940年、打率.383、
1948年には打率.391、42本塁打をマークしている。

ニグロリーグのシーズンオフには
プエルトリコ、キューバ、
ベネズエラでもプレーしていたというレナード。

1952年、44歳のレナードに、
ブラウンズのオーナーだったビル・ヴェックが声をかけた。
メジャーでプレーする夢は当然持っていたレナードだったが
「俺が入団する事で、多くの人に迷惑がかかる。
 まだまだこれからの若い選手だって一杯いるんだしな」と
ブラウンズ入りを固辞したという。

引退後は、体育教師や、マイナーチームの役員などを勤め、
94年に行われたピッツバーグでのオールスターには
名誉主将として招かれ、多くの観衆の前で
グレイズのユニホーム姿を披露した。

ニグロリーグでの生涯打率は、.341

1972年、野球殿堂入り。
1997年、死去。


file .267 Lou BOUDREAU【ルー・ブードロー】

2008-12-15 | ABC
【The Man of 1948】
Lou BOUDREAU

ブードローは、1939年、インディアンズで本格的にメジャーデビュー。
40年には打率.295、9本、101打点という
圧倒的に勝負強い打撃を見せ、遊撃のポジションを手中に収めた。

ブードローの真骨頂は、堅実な守備であろう。
キャリア15年で8度の守備率リーグトップがそれを物語っている。
また、多少の怪我では試合を休まないガッツも持ち合わせており、
「どうも胃の調子が悪いなぁ」と思いながらプレーし続けていたら、
盲腸だった............などという事もあったという。

41年オフ、24歳のブードローは、
球団フロントに『監督志望』の嘆願書を提出した。
驚くべき事に、それは認められ、
42年、弱冠24歳の青年監督(兼選手)が誕生する。

ハードな遊撃のポジションを守りながら、チームを指揮し、
打撃面でも、44年にリーグ首位の打率.327をマークするなど、好結果を残し続けた。
40年~49年にかけて、毎年リーグMVP投票に顔を出し、
8度のオールスター出場を果たしているのだから、
その安定した働きぶりが想像できよう。

ブードローのキャリアのハイライトは、
何と言っても1948年である。
30歳の青年監督兼正遊撃手は、
ジョー・ゴードン、ラリー・ドビー、
ボブ・レモン、ボブ・フェラー、サッチェル・ペイジ(!)ら
豪華キャストを牽引し、チームをリーグ優勝に導き、
打率.355、18本塁打、106打点でリーグMVPを獲得するなど、
自ら主演も務め上げてしまたのである。
また、ワールド・シリーズでも
かのスパーン/セイン用擁するブレーブスを、
雨など降らせてなるものかとばかりに打ち破り、
チームにとって、自分にとって、最高の年を見事に演出してみせた。

その後、ブードローは、
51年に選手兼監督としてブレーブスへ移籍、
52年に現役を引退した。
監督としては、54年までブレーブス、
55年からカンザスシティ・アスレチックス、
60年はカブスを率いた。

通算1646試合、打率.295、68本塁打、789打点、
選球眼に優れ、四球796に対して三振は309、
出塁率.380が光る。

他にもテッド・ウィリアムスを打席に迎えた時に
実行したブードロー・シフト(王シフトの原型?)や、
41年7月17日、ジョー・ディマジオのヒット性のあたりを好捕し、
連続安打試合記録を56でストップさせるなど、
大打者絡みの逸話も多い。

70年、野球殿堂入り。
2001年、死去。


file .266 Tommy DAVIS【トミー・デイヴィス】

2008-12-14 | DEF
【60sドジャースの打の顔】
Tommy DAVIS

60年代前半のドジャース。
ドライズデール/コーファックスがチームの象徴であったが、
モーリー・ウィリスと、フランク・ハワード、そして二人のデイヴィスも
チームの攻撃の要であった。
二人のデイヴィス.....、
一人はウィリー・デイヴィス、
そしてもう一人がトミー・デイヴィスである。

学生時代はバスケットボールでも鳴らしたデイヴィスだったが、
選んだ進路はベースボールだった。
1960年に、ドジャースの外野のレギュラーをつかみ取ると
打率.276、11本塁打、44打点をマーク。
新人王こそ同僚のフランク・ハワードに持っていかれるが、
その才能をまざまざと見せつける。

61年、打率.278、10本塁打、58打点のデイヴィスは、
翌62年、打率.346、230安打、27本塁打、153打点、18盗塁...、
首位打者、打点王の二冠に輝き、大ブレークを果たすと、
63年も打率.326、16本塁打、88打点、15盗塁....、
前年に続き、首位打者を獲得、
チームをリーグ優勝に導き、
ワールドシリーズでも打率.400の大活躍。
ドライスデール/コーファックス/ジョニー・ポドレスらと共に、
MM砲を擁するヤンキースを散々に打ち破った。

65年、怪我でシーズンの大半を棒にふったデイヴィスは、
66年のオフ、メッツへ放出され、打率.302、16本塁打、73打点。
勝負強い打撃は新天地でも変らず発揮された。

以降、73年まで、実に9度に渡りチームを変えたデイヴィスであったが、
69年は、アストロズとシアトル・パイロッツで80打点、
70年は、アストロズ/アスレチックス/カブスで73打点をマークするなど
クラッチな打撃は影を潜める事は無く、
73年、オリオールズで打率.306、7本塁打、89打点、
74年も打率.289、11本塁打、84打点...と
2年連続でチームの地区優勝に貢献。
30代半ばにして、その渋い打撃は、衰えを知らぬかのようであった。

76年、ロイヤルズでその現役生活に終止符を打ったデイヴィス、
通算1999試合、打率.294、2121安打、1052打点。


サンディ・コーファックスは語る。
「62~63年において、トミー・デイヴィスは、球界で最高の打者だった。
 チームに最良の貢献をしてくれたよ。
 ただ非常に残念な事に、それを認識しているファンは決して多くは無かったんだ」


file .265 Greg MADDUX【グレッグ・マダックス】

2008-12-13 | MNO
【プロフェッサー】
Greg MUDDUX

1986年、一人の偉大な投手が、
シカゴ・カブスで、メジャーデビューを飾った。
グレッグ・マダックスである。
この年、2勝(4敗)防御率5.52に終わったマダックスは、
翌年も6勝(14敗)防御率5.61と結果を残すに至らなかったが、
88年にブレーク。
18勝(8敗)防御率3.18...と目覚ましい進化を遂げ、
オールスターにも出場。
89年は、19勝(12敗)防御率2.95。
92年には20勝(11敗)防御率2.18をマークし、
キャリア初のサイ・ヤング賞を受賞している。

ストレートのスピードこそ平凡以下なマダックスであったが、
唯一無比なるコントロールが最大の武器。
相手の心理を読みつつ、
打者の手元で変化するツーシームや変化球を、
ストライクゾーンギリギリの所にキめ、打者を翻弄。
特にシンカーぎみに深く沈む必殺のサークルチェンジは
幾多の強打者を悩ませた。
『投手にとって最高の仕事は27球で試合を終わらせる事』
....という名言でも解るとおり、
打者の『打ちたい気持ち』を利用し、
打たせて取る頭脳的なピッチングを展開、
グラウンド外での眼鏡姿も相まって、
『プロフェッサー(教授)』なるニックネームまでいただいた。
また、出塁させてしまった走者には、ほとんど関心を示さず、
牽制や盗塁阻止、クイックモーション等、
走者をアウトにする行為はほとんど無視した。
あくまでも、打者を打ち取る..............
それがマダックスのポリシーであった。

93年からアトランタ・ブレーブスに移り、全盛期を迎える。
移籍一年目で20勝(10敗)防御率2.36/サイ・ヤング賞
94年、16勝(6敗)防御率1.56/サイ・ヤング賞
95年、19勝(2敗)防御率1.63/サイ・ヤング賞.......と、
4年連続でサイ・ヤング賞に輝く偉業を達成し、
トム・グラヴィン、ジョン・スモルツらと共にチームを支え、
3度のリーグ優勝に大きく貢献。
特に、95年のインディアンズとのWSでは
2試合に投げ、1勝、防御率2.25と活躍、
世界一の美酒におおいに酔い痴れた。

その後も、芸術的なピッチングを続けたマダックスは、
97年~2000年まで、4年連続で18勝以上をあげるなど、
88年~2004まで17年連続で15勝以上をマーク。
その間、防御率が3.50を上回ったのは、わずか3度...と
凄まじい程の安定感を誇っていた。

38歳になった2004年から
カブス~ドジャース~パドレス~ドジャースと
チームを変えて投げ続けたマダックスだったが、
2008年、42歳で惜しまれつつ現役引退を発表。

通算744試合、355勝(227敗)、防御率3.16、
流石のコントロールで、通算四球はわずか999(1シーズン平均45)。

卓越したフィールディングも代名詞の一つであり、
ゴールド・グラブ受賞は、実に18度を数えた。
また、打撃も決して悪くなく、
通算打率.171をマークしている。

まさに不世出の大投手であった。