【captain of the bronx zoo】
Thurman MUNSON
1969年にメジャーリーガーとしての
キャリアをスタートさせたマンソン。
翌70年には打率.302、6本塁打、53打点で、新人王を獲得。
ファイト溢れるプレーと勝負強い打撃を見せ
プロ2年目にして、名門ヤンキースの正捕手の座を確固たるものにした。
73年には打率.301、20本塁打、74打点をマークするなど
クラッチヒッティングに定評のあったマンソンは、
75年には4番打者を任されるようになり、
打率.318、12本塁打、102打点と、その期待に見事に応えてみせた。
チームに勝利に貢献するべく、頑丈な身体でホームベースを死守、
自分の出来得る最大限のパフォーマンスを怠る事は無かった。
そんな熱いプレーをチームの首脳も見逃す訳もなく、
マンソンは、76年ゲーリック以来となる、チームの『キャプテン』に指名される。
意気に感じたマンソンは打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁と
変らぬ勝負強い打撃を披露し、チームをリーグ優勝に導き、
シーズンMVPを獲得。
レッズとのワールドシリーズを制する事は出来なかったものの、
自信は打率.529と気を吐き、
キャプテン・マンソンは、リーグを代表するキャッチャーにまで登りつめた。
77年、ヤンクスとマンソンに大きな転機が訪れる。
FAでレジー・ジャクソンがチームに入団したのである。
自己顕示欲と、エゴの固まり....、
自尊心は果てしなく高い...............。
尊大なジェクソンは、チーム内での己の立場を確固たるものにするべく、
チームリーダーのマンソンを批判し始めた。
が、そんな挑発にマンソンが動じるわけもなく、
打っては、3番打者として打率.308、18本塁打、100打点、
守っては、ギドリーや、ハンターらを巧みにリードし、
人望厚いキャプテンとして個性派揃いのチームを見事に統率、
チームをリーグ優勝に導いた。
レジー・ジャクソンが大爆発したドジャースとのワールドシリーズでも、
負けじとばかりに打率.320をマークし、
ヤンキースの世界一に大きな貢献を果たした。
78年も世界一のリングをゲットしたマンソンだったが、
79年に悲劇が待ち受けていた。
8月2日、自らが操縦した自家用機が墜落し、
32歳で、その命を落としてしまったのだ。
通算1423試合、1558安打、打率.292、113本塁打、701打点。
口べたで、マスコミとの折り合いは決して良くなく、
その所為か、ファンからも、無愛想と誤解されていたというマンソン。
が、実際はジョーク好きの明るい性格で、
チームメイトからは絶大な信頼を置かれていた。
ライバルのカールトン・フィスクを異常なまでに意識し、
フィスクの守備成績まで常に調べていたという。
レッズのスパーキー・アンダーソンは、
自軍の名捕手ジョニー・ベンチと比較し、
「ベンチとマンソンを比べるなぞ、ベンチに失礼だよ」などと宣ったが、
マンソンも前述のフィスクやベンチに比肩しうる名捕手であった。
その死から数日後、
ヤンキースタジアムでマンソンの追悼セレモニーが行われた。
「He lived. He led. He loved」
~彼は生き、導き、愛された~
弔辞を読み上げたボビー・マーサーは
この日、サヨナラ打を含む2本のホームランを放ち、
天国の親友に勝利を捧げたのであった。
Thurman MUNSON
1969年にメジャーリーガーとしての
キャリアをスタートさせたマンソン。
翌70年には打率.302、6本塁打、53打点で、新人王を獲得。
ファイト溢れるプレーと勝負強い打撃を見せ
プロ2年目にして、名門ヤンキースの正捕手の座を確固たるものにした。
73年には打率.301、20本塁打、74打点をマークするなど
クラッチヒッティングに定評のあったマンソンは、
75年には4番打者を任されるようになり、
打率.318、12本塁打、102打点と、その期待に見事に応えてみせた。
チームに勝利に貢献するべく、頑丈な身体でホームベースを死守、
自分の出来得る最大限のパフォーマンスを怠る事は無かった。
そんな熱いプレーをチームの首脳も見逃す訳もなく、
マンソンは、76年ゲーリック以来となる、チームの『キャプテン』に指名される。
意気に感じたマンソンは打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁と
変らぬ勝負強い打撃を披露し、チームをリーグ優勝に導き、
シーズンMVPを獲得。
レッズとのワールドシリーズを制する事は出来なかったものの、
自信は打率.529と気を吐き、
キャプテン・マンソンは、リーグを代表するキャッチャーにまで登りつめた。
77年、ヤンクスとマンソンに大きな転機が訪れる。
FAでレジー・ジャクソンがチームに入団したのである。
自己顕示欲と、エゴの固まり....、
自尊心は果てしなく高い...............。
尊大なジェクソンは、チーム内での己の立場を確固たるものにするべく、
チームリーダーのマンソンを批判し始めた。
が、そんな挑発にマンソンが動じるわけもなく、
打っては、3番打者として打率.308、18本塁打、100打点、
守っては、ギドリーや、ハンターらを巧みにリードし、
人望厚いキャプテンとして個性派揃いのチームを見事に統率、
チームをリーグ優勝に導いた。
レジー・ジャクソンが大爆発したドジャースとのワールドシリーズでも、
負けじとばかりに打率.320をマークし、
ヤンキースの世界一に大きな貢献を果たした。
78年も世界一のリングをゲットしたマンソンだったが、
79年に悲劇が待ち受けていた。
8月2日、自らが操縦した自家用機が墜落し、
32歳で、その命を落としてしまったのだ。
通算1423試合、1558安打、打率.292、113本塁打、701打点。
口べたで、マスコミとの折り合いは決して良くなく、
その所為か、ファンからも、無愛想と誤解されていたというマンソン。
が、実際はジョーク好きの明るい性格で、
チームメイトからは絶大な信頼を置かれていた。
ライバルのカールトン・フィスクを異常なまでに意識し、
フィスクの守備成績まで常に調べていたという。
レッズのスパーキー・アンダーソンは、
自軍の名捕手ジョニー・ベンチと比較し、
「ベンチとマンソンを比べるなぞ、ベンチに失礼だよ」などと宣ったが、
マンソンも前述のフィスクやベンチに比肩しうる名捕手であった。
その死から数日後、
ヤンキースタジアムでマンソンの追悼セレモニーが行われた。
「He lived. He led. He loved」
~彼は生き、導き、愛された~
弔辞を読み上げたボビー・マーサーは
この日、サヨナラ打を含む2本のホームランを放ち、
天国の親友に勝利を捧げたのであった。