鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

遊佐(ゆざ)町は遠かった-山形県の旅1日目

2015-09-08 | 
【写真はクリックすると拡大します】 

 9月4日から7日まで山形県に行った。山形県遊佐町で5日と6日に開催される「第23回奥の細道鳥海ツーデーマーチ」に参加するのが目的である。
 「遊佐(ゆざ)町は、山形県庄内平野の日本海沿岸最北部に位置し、北は秀峰、鳥海(ちょうかい)山をはさんで秋田県に接し、南はかつて北前船で隆盛を極めた酒田市に接しております。農業を基幹産業として栄えてきたこの地は、海の幸や山の幸にも恵まれ、四季をとおして豊富で新鮮な食材と自然豊かな風景を楽しむことができます。」(遊佐町ホームページ「町長あいさつ」より)
 東京から遊佐町へ行くには、3つの方法があった。1つは山形新幹線で新庄経由、1つは秋田新幹線で秋田経由、も一つは上越新幹線で新潟経由である。
 羽田空港に着く時間、料金等から上越新幹線で行くことにした。羽田から東京駅へ行くのは初めての経験なのでスムーズに行けるか不安があったが、順調に行って、予定より一つ早い列車の切符に変更できた。
 駅弁の販売コーナーは種類が多く、どれを買うか迷ってしまう。目に留まったのが「鉄カツダイヤ弁当」。これに決めた。
ホームで待っていると折り返しの新幹線が入ってきた。世界中で称賛されている新幹線の清掃が始まる。到着して、清掃が終わって、8分程で出発した。


(新幹線清掃チーム)


(上越新幹線「とき」)


(上越新幹線「とき」)

 早速、駅弁を食べる。チキンカツをメインとした弁当だった。帰宅後調べたら、鉄道ダイヤ情報400号発行を記念し今年8月1日から販売されている期間限定弁当のようだ。


(鉄カツダイヤ弁当)


(鉄カツダイヤ弁当)

 上越新幹線もトンネルが多い。2時間10分程で新潟駅に着いた。


(新潟駅)


(新潟駅前、ここを歩いて行くと萬代橋)

 乗り換えの列車までは1時間半ほどある。蛭子能収が出演する『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(熊本はBSで放送)で新潟駅の近くにあるのを知った「萬代橋」へ行こう。
 萬代橋は信濃川に架かる大きな橋ぐらいに思っていたら違っていた。平成16年には国の重要文化財に指定されている橋だった。現在の橋は3代目、1929年の完成で、1964年の新潟地震でも壊れなかったという。


(萬代橋)


(萬代橋からの眺め)


(萬代橋)


(萬代橋付近)


(萬代橋付近)


(萬代橋付近)

1886年(明治19年)に架橋された初代の橋名盤のレプリカが流作場五叉路に設置されていた。


(初代の橋名盤のレプリカ)

 橋の近くには高浜虚子の句碑もあった。「千二百七十歩なり露の橋」。


(虚子句碑)

 駅へ戻り、15時31分発秋田行き特急「いなほ7号」に乗車。この時間の前に出る「いなほ」は12時台で熊本からでは間に合わない。


(特急いなほ)

 「いなほ」の名のごとく、稲が実った田んぼの風景の中を走る。庄内平野(?)の広い広い稲穂の風景が続く。米どころを実感する。




(中条駅)



 府屋という駅あたりから日本海沿いに出る。これからは左手に日本海を眺めながらの列車の旅。指定席が車両の右側の席だったので、左側の空いている席から写真を撮る。撮り逃がした風景も多かった。














(あつみ温泉駅)





 鶴岡駅の手前から再び稲穂の風景になる。田んぼの中に突然風力発電の風車が見えた。九州では山や海岸で見ることが多いが、ここは田が広大で風も強いのだろう。




(風力発電)

 「余目」という駅があった。「あまりめ」だと思ったら「あまるめ」と読む。


(余目駅)

 17時37分、酒田駅着。
 17時49分発秋田行普通列車に乗り換える。
テレビでは見たことがあるけど、自分で「開」釦を押してドアが開く列車は初めての経験だ。列車内には「開」と「閉」の釦がある。


(秋田行普通列車)


(秋田行普通列車)


(秋田行普通列車)

 2日間宿泊する民宿がある吹浦駅(ふくらえき)に18時7分着。


(吹浦駅)

 駅にはツーデーマーチ主催者が用意したバスが待っていた。民宿にも到着時間を知らせていたら民宿「海の家よしの」のご主人も迎えに来られていた。申し訳ない。
宿に着いて早速夕食。同じ列車で来られた方とお話ししながらいただく。自分で飛行機やホテルの手配をして外国旅行が出来る人が羨ましい。いいなぁ。
 料理は写真に刺身、あら汁、ご飯。満足満腹。お酒は常温コップ酒。辛口ではないけど甘くも無いお酒。男の酒。2杯飲んだ。


縄文と弥生そして今

2015-09-02 | 旅で思う
 今年、7月21日吉野ケ里遺跡を訪ねた。昨年(2014年)のJR九州ウォーキングで訪れて、今回は2度目である。
 東の正門から入ると壕があり敵の侵入を防止する乱杭や逆茂木があるのに驚かされる。中に進むと大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭、南のムラ一般の人々が住んでいた地域があり、吉野ヶ里は弥生時代の大規模な環壕集落であり、弥生の人々は、城柵、物見櫓等の防御施設に囲まれた生活が営まれていたことが実感できる。


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)

 一方、8月1日に訪れた縄文時代の三内丸山遺跡は、そのような防御施設は無い。縄文の人々は、解放された空間に集団生活の場を創り生活していたことが実感できる。杭はゴミ捨て場として利用されていたと思える所で、土留め用として利用されていた。


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)

 縄文遺跡と弥生遺跡、短期間にそれぞれの遺跡に立った時感じたのは、「争い」「闘い」ということだった。弥生は「争い」「闘い」の時代だった。縄文は「争い」「闘い」のない時代だったということだ。
 縄文という時代への興味がますます深まっていく。
 例えば、縄文と弥生土の土器の違いがある。「縄文土器のデザインはおおぶりで、模様も特徴的なものが多いですが、弥生土器は比較的質素なものが多いです。」(「マナペディアホームへージ『縄文土器と弥生土器の違い』」より)というのも、開放感のある生活の違いが、創った土器の違いと関係があるのではないかと思う。
 縄文時代は、人々は能力の違いはあっても、差別なく、一人一人が協力し合いながら、一人一人も、また集団も、創造性を発揮することができる社会ではなかったろうか。協力し合う中で言葉も創られていったし、巨大な建築物も創られていった。生活必需品も、装飾品も創られていった。そんなことを思う。
 三内丸山遺跡の縄文時代は、1万数千年の間平和であった。青森に行った日が青森空襲70年の日だった。第二次大戦後の平和はまだ70年しか経っていない。しかし、徐々に閉塞感は強まっている。これからの平和に不安を感じる時代になってきている。
 そんな今は、急かされて、生かされている、そんな時代のような気がする。私たち一人ひとりも、創造性も、何でも経済効果の対象にされてしまう。縄文時代、弥生時代の遺跡に立って感じる。