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追想「中山道を歩く」その6(再)

2021年01月25日 10時05分03秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


追想「中山道を歩く」
その6 第5日目 「本庄宿~新町宿」

第4日目「熊谷宿~深谷宿」を歩いてから半年以上も経ってしまっていた晩秋の休日に、急に思い立って 「中山道を歩く」の続きをすることになり、前回の終点JR深谷駅に向かった。

午前9時30分頃、JR深谷駅を出発→深谷本陣跡→常夜燈→清心寺→滝宮神社→岡部神社→源勝寺→普済寺→百庚申→八幡神社→傍示堂→「本庄宿」金纉神社→浅間山古墳→泪橋由来の碑→神保原一丁目交差点→八幡宮金窪神社→一里塚→(国道17号線)→神流川橋・常夜燈・埼玉県群馬県境界線→「新町宿」神流川古戦跡の碑→陸上自衛隊駐屯地→八坂神社→諏訪神社→行在所公園・高札場跡→JR新町駅


「深谷本陣跡」

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                  「常夜燈」


                                                  「清心寺」
平清盛の弟 平忠度(たいらのただのり)の供養塔が有る。
昔、このあたりは 岡部六弥太(おかべのろくやた)の所領だったが、
源平一の谷の戦いで 文武に優れた平忠度を討ち取った岡部六弥太は 
武勇に優れている一方、情け深く、
自領で最も眺めのよいこの地に平忠度の菩提を弔う五輪塔を建て、
その死を悼んだという。
現在も岡部町という地名になっており、
岡部待ちは 関東一の漬物名産地と言われているようだ。

「普済寺」
岡部六弥太の墓が有る。
このあたりの街道沿いは 
農家や元農家の広大な敷地の大邸宅が立ち並んでいる。
古い建物を壊さずに 残している家が多いようだ。

「島護産奉神社」

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「百庚申」

 


「本庄宿」

江戸から10番目の宿場、深谷宿から二里半七町
天保14年(1843年)では 
人口4554人、家数1212軒、本陣2,脇本陣2、旅籠70軒、
旅籠も多く繁華で、飯盛り女も100人以上いた宿場だったとう。

室町時代に武蔵七党の武士団児玉党一派本庄実忠が本庄城を築き 
江戸時代には小笠原信嶺が本庄城主となって 
城下町として発展し 武州路最大の宿場だったという。


その日は 丁度 本庄祭りの山車行列が通りを通過中で 大変な賑わいだった。

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「金鑚神社(かなさなじんじゃ)」
鬱蒼とした樹林に囲まれた神社。寛永16年(1639年)に
本庄城主小笠原忠真が創建した神社。

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「泪橋の由来碑」
諸大名が通行する度に馬を借り出される農民が
身のはかなさを嘆いて涙を流したことによるという。

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「神流川橋」

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「新町宿」

江戸から11番目の宿場、本庄宿から二里、
中山道が開かれた当時は 寂しい寒村だったが、
後に町並みが出来、落合村と笛木村が合流した。
天保14年(1843年)では
人口1437人、家数407軒、本陣2、脇本陣1、旅籠43軒の
宿場だったという。

「神流川古戦跡の碑」
「神流川合戦」とは 
小田原北条軍と 織田信長の家臣 関東管領 滝川一益との戦いで、
信長が本能寺で光秀に討たれたことから始まった戦い。
滝川軍の戦死者3760人という戦史に残る大激戦だったという。

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「常夜燈」         「諏訪神社」

「高札場跡・行在所公園」                                        明治天皇が北陸巡幸の際の宿泊場所。

「JR新町駅」
帰宅所要時間を考え その日は JR新町駅を終点とした。
JR新町駅には 午後3時30分頃到着。

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「中山道を歩く」5日目は 約18キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


(つづく)


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