たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「中学生日記より」その31(再)

2021年05月17日 06時57分04秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(以上 コピペ文)


その31 「流行性感冒と学校劇ピノチオ」

昭和32年(1957年)1月26日(土)、天気 晴のち曇、

◇暴雪(豪雪?)休業(休校)兼 流行性感冒(感染)防止休み
 一昨日からだが、今日朝になって、風邪がひどくなり、食事もとらず
 二階で寝たが 10時頃 いやんになって(嫌になって・飽き飽きして)
 下へきた(下の部屋に降りてきた)。
 祖母(が)、かめのこ(亀の子)などをかけて、こたつで寝ていた。
 僕よりも風邪がひどいらしい。
 僕は、母が村へ(村落の中心部へ)行っていたので
 鶏(にわとり)の餌(えさ)、山羊(やぎ)の餌(えさ)をやり
 祖母にふとん(布団)を、引いてやり(敷いてやり)、言うことを聞いた。
 劇「ピノチオ」、キャク本(脚本)(を)、
 正君(が)、学校から持ってきてくれた。
 学校劇の話(が)あった(有った)(ようだが)、休んだ。

每年12月頃~2月頃には、日本海を渡ってくる湿って冷たい季節風が日本列島の背骨にぶるかることで大雪をもたらすことで知られる北陸、今も昔もさほど変わらない気象現象ではあるが、昭和30年代頃にはまだ、今日のような除雪、消雪対策がなされておらず、M男が暮らしていた北陸の山村等では、登下校に困難になる程の積雪時期が有り、そんな時期に「豪雪臨時休校」みたいなものが有ったような気がする。豪雪に重なって、今でいうインフルエンザ(流行性感冒)が流行っていたのだろうか、感染防止も兼ねて、その日は学校は休校だったようだ。
風邪、扁桃腺炎、発熱等々で 頻繁に学校を休む、ひ弱な子供だったM男も、前前日から風邪の症状がひどく、この日、家族から2階で大人しく寝ていろ・・と指示されたようだ。
(当時の田舎の暮らしでは 早朝から夕方まで、近所の人達が入れ代わり立ち代わり頻繁にやってきて、大きな声で長話等するため、1階に寝ていたのでは、落ち着いて寝てもいられなかったため)
その日、学校で、学芸会の演劇の話(打ち合わせ)が有ったようで、M男は休んだ(欠席した)ようだ。
ただ 10時頃になるといやんになって(嫌になって、飽き飽きして)、起き出してしまったようだ。
祖母が かめのこ(亀の子?)などを掛けて炬燵で寝ていた・・・と書いてある。

M男達が 「かめのこ」と言っていたのは 亀の甲羅程の小さな布団、赤ちゃん布団のようなものだったが、祖母が、よく、こたつに足を入れ、かめのこを掛けて横になっていた情景が思い浮かんでくる。
祖母も風邪でダウンしてしまっていたようで、母親が村落の中心部へ行って留守だったため、M男が、祖母に布団を敷いてやり休ませ、甲斐甲斐しく世話をし、鶏や、山羊の餌やりもしてやったようだ。
学校劇「ピノチオ」の脚本を 正君が学校から貰ってきてくれた・・と書いて有る。
近所の従兄弟で同級生の正君は、ガイな子供(元気で逞しい子供)だった。大雪の中を登校し、学校劇の話(打ち合わせ)に出席し、M男の分の脚本も貰ってきて、わざわざ届けにきてくれたようだ。


当時 M男の通っていた北陸の山村の1学年1クラスの小さな小学校中学校併設学校では 秋の「文化祭」の他に 3学期に「学芸会」なる催しを行っていたような気がする。学年毎に、あるいは合同で、合唱や演劇等を父兄に披露するものだったが その年は 中学生全員参加による ミュージカル風劇「ピノチオ」だったようだ。
演出・指導は 国語担任教師、H教頭で、後年になって知ったことだが、地元の草の根演劇指導もしていた、眼光鋭い男性教師だった。トニー・谷を細くしたような容貌、黒メガネで、練習中に、メガフォンで厳しくどなり付ける熱血教師、ビビったものだった。恥ずかしがり屋、引っ込み思案だったM男のこと、その劇でも、その他大勢組だったか 合唱部隊だったか、裏方だったか、まるで記憶に残っていないが、数年前に取り壊した実家片付けの際、わら半紙にガリ版刷りされたボロボロの「ピノチオ 3幕」の脚本が押入れの奥から出て来て、記憶の欠片が炙り出されたものだった。


 

 


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2 コメント

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少年時代 (青葉太郎)
2021-05-17 16:24:59
こんにちは。
少年時代の貴重な日記、楽しく読ませていただいております。山村の生活が生き生きと記されており、今となっては何にも代えがたい記録として残りました。かつてNHKのラジオドラマで『三太物語』が夕方にあり、遊びを止め、家にすっ飛んで帰った記憶があります。その物語を彷彿させるような貴殿の日記です。こっごも楽しみにしておりまうs。
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青葉太郎さん、こんばんは、 (takezii)
2021-05-17 18:15:00
すっかり忘れていたことも、写真や記録や日記等を見ると、記憶の欠片が炙り出てくるから不思議ですね。
NHK子供向けラジオドラマ「三太物語」・・有りましたね。なんとなく主題曲のさわりだけ、記憶があります。
「♫サン、サン、サンタハ ヤマノコダ、ヨッテコイコイ、オーラ サンタダ、ヤマノコダ・・♫」・・でしたかね。
わずか60年~70年前のことですが、昔昔のお話のように思えてしまいます。
コメントいただき有難うございまs.
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