昭和20年代から昭和30年代前半、M男は北陸の山村で幼少期を過した。戦争末期、アメリカ軍による東京空襲が開始された頃に、父親の故郷に疎開し その地に定住してしまった家で育ったのだ。
住まいは 戦後の物資の乏しい中で かろうじて建築された仮設住宅の様な粗末な家で 祖父母、父母、後に 弟、妹が生まれ 7人家族の暮らしだった。
もちろん カメラ(写真機)等を保有している家ではなく 当時の暮らしの様子は 記憶に残るものしかない。
古いアルバムに貼って有る数少ない写真は、忘れ去っているような記憶を炙り出してくれる。
M男が 1学年1クラスの村立小学校に入学した際の集合写真が有る。
皆 栄養失調気味?、痩せこけていて、元気が無い。肥満児等皆無だ。

足元を見ると・・・、
皆 藁草履を履いている。藁草履で通学していたのだ。
農家が農閑期に稲藁を使い、作り上げたものだが、消耗が激しいため 各家で 何十足も 壁にぶら下げてあったものだ。
冬になると 足袋を履いていた。
こはぜを 掛け糸にひっかける足袋、
育ち盛りとて 足はどんどん大きくなり、直ぐはまらなくなり、
一番上のこはぜ、二番目のこはぜを はめないで平気な顔していたように思う。
靴下が出回ってきて 足袋とお別れしたのは 小学何年生の頃だったかの記憶はないが、
最初は むしろ、違和感を感じたものだった。
(ネットから拝借)

小学校に入学した当時、まだ ゴム製の長靴は 北陸の山村には普及しておらず、雪の中を 藁靴で通学していた。やはり、農家が農閑期に稲藁を使い、作り上げたもので 地元では すんぶくと呼んでいたが。
よくも こんな形に編み上げられるものよと 子供ながら感心していたような気もするが 履き心地は決して良くなく、長時間履いていると クワレてしまうのだった。(足に傷が出来る)
(ネットから拝借)

確か 小学2年の年末だったと思うが、1学年に、2足、ゴム製の長靴の配給が有って、その抽選が行われた。M男は 外れたが、担任のO先生が M男が 学校から最も遠い集落の子供であり、藁靴での通学、可哀そうと思ったのだろう、抽選に当たった子供の親御さんに懇願し、了解を取り付け、M男に長靴を回す手配をしてくれたのだった。以後しばらくの間、「O先生は M男を贔屓している」という空気が 村内に漂っていたような気がしたものだ。
下の写真は 小学生高学年?かな、
藁草履ではなさそうだが まだ草履をはいている。
ゴム製の草履かも知れない。

中学生になった頃、どういう分けか、皆 下駄を履いて通学するようになった。
焼き下駄というのだろうか。表面が黒く焼かれた下駄である。
(ネットから拝借)

中学の高学年になった頃の一時期 高下駄(足駄)を履いて 通学したことが有った。
多分 クラスの中のカッコ付けたがり家が 履いてきたのを見て 我も、我もと 一種の流行になったのだと思うが
校則もなにも有ったものではない。
特に学校から最も遠い集落の子供には やっと自転車通学が認められ M男も自転車通学となっていた頃だったが 舗装等一切されてない、凸凹の農道を 高下駄(足駄)で自転車、考えれば危険極まりない感じであるが 当時は平気の平左、雨の日には 片手で傘をさしてもいた。もちろん すってん転んで泥まるけになったことも有りだったが。
(ネットから拝借)

当時の農村、子供が 田植えや稲刈り等農作業を手伝うのは当たり前だった。
しかも 中学生の男の子ともなると 1人前の男衆に数えられて、
地下足袋、モモシキ(時代劇の百姓が身に着けている作業着)、菅笠、等が 宛がわれたものだ。
(ネットから拝借)

地下足袋は 今もなお健在、
農作業や土木作業等の現場でよく見られるが、見る度、中学生の頃が思い出される。
わずか70年程前の山村の暮らしを思う時 なんとも隔世の感を覚えてしまう。