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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

逍遥 曽我の里 その1

2018年02月16日 17時46分15秒 | 散歩・ウオーキング

2月も中旬、全国各地から 春を告げる梅開花の情報が伝わってきていますが 神奈川県小田原市の曽我の里の曽我梅林も 見頃を迎えているとのことで 思い切って 行ってきました。 
梅林は 庭園や公園の類では無く 私有地、
車で訪れた場合は 梅林の中の狭い一般道の指定されたエリアの片側に 縦列で駐車する等して 観梅します。

逍遥 曽我の里 その1

曽我の里は 「曽我物語」の主人公 曽我十郎、五郎兄弟が育った地として有名で その史跡が沢山あります。

(1)宗我神社

宗我神社は 下曽我駐在所前交差点から 坂を登ったところにあります。
小田原市のホームページによりますと
「宗我神社は 長元元年(1028年)に 曽我播磨守保慶によって建立された 曽我氏の祖先を祀った神社
曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守で 江戸時代には 小沢明神と呼ばれていた。
現在の社殿は 大正12年の関東大震災後に 復興したもの」
ということです。

(2)尾崎一雄文学碑

宗我神社の大鳥居の傍に 作家 尾崎一雄氏の 文学碑が有ります。

小田原市のホームページによりますと
「宗我神社の神主の家に生まれた尾崎一雄氏は 昭和12年の第5回芥川賞を受賞、昭和53年には文化勲章を受賞した。
作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く 昭和の代表的私小説家として独自の境地を開いた。文学碑には 下曽我から見える富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一部が刻まれている」
ということです。

「富士は天候と時刻によって
身じまひをいろいろにする
晴れた日中のその姿は平凡だ
真夜中
冴え渡る月光の下に
鈍く音なく白く光る富士
未だ星の光りが残る空に
頂近くはバラ色
胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」

(3)城前寺

宗我神社の南隣りに 城前寺があります。
名前の由来は 曽我十郎、五郎 兄弟の育った曽我城の大手前に有ったことから 城前寺という名になったようです。本堂の裏手には 曽我十郎、五郎、養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓と伝えられる4基の五厘塔が立っています。

改めて知る 「曽我兄弟の仇討ち」の経緯

「所領争いで 工藤祐経は 叔父伊東祐親を恨んでいた。工藤祐経は 刺客を使って 伊東祐親を殺そうとしたが 刺客の放った矢は 伊東祐親の嫡男 河津祐泰に当たり 祐泰が死んだ。祐泰の妻満江御前は その子供 一萬丸、箱王丸を連れ子に 曽我祐信と再婚する。
伊東祐親の孫、河津祐泰の子、一萬丸、箱王丸は 厳しい生活の中で成長し 一萬丸は元服し 曽我の家督を継ぎ 曽我十郎祐成と名乗る。箱根権現社の稚児として預けられた箱王丸は出家を嫌い 縁者の北条時政を頼り 烏帽子親になってもらい 曽我五郎時政となる。苦難の中 曽我兄弟は 実父 河津祐泰の仇討ちを決して忘れず 源頼朝の御家人となり寵臣になっていた 工藤祐経を 討つ機会をひたすら待つ。建久4年(1193年)、源頼朝が 富士の裾野で巻狩を開催、工藤祐経も参加していて その最後の夜 曽我十郎祐成、曽我五郎時政 兄弟は 工藤祐経の寝所に押し入って 工藤祐経を討ち果たす。曽我十郎は 集まった武士達に殺され、曽我五郎も 源頼朝の命令で 殺される」

城前寺境内には保育園が有り 園児の遊び場になっています。

「曽我兄弟の仇討ち」は 日本三大仇討ちのひとつ等と言われているようですが 正直 その経緯まで知りませんでした。
曽我の里を訪ねて 目から鱗・・・、です。

(つづく)