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草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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塾で知識を獲得するのか、思考を獲得するのか

2013年11月26日 22時15分22秒 | 
 現代の学校教育は結局知識を覚えさせることをやっている。中学受験、高校受験そして大学受験もなべて偏差値で学力を測り生徒を選抜する、つまり知識を覚えたことを評価するしくみになっている。東大医学部に合格した和田秀樹は「数学は暗記だ」などという本を書いてかなり売れたことがあったけど、そういうことである。要するに、数学にしても物理にしても受験数学、受験物理は結局「要領よく暗記する」ことに尽きると言うことである。
 昨今は模倣問題を作って児童を集めていた公立中高一貫校向けの大手塾だって結局は模倣問題を暗記させるほどに練習させることをしているに過ぎない。
 大手予備校は情報を提供することで生徒、親に応えているといったことは当然にみんな承知のことである。問題は、知識が大量に氾濫し、受け手の子どもたちが大量の知識に流されるといったことが普通にある世の中である。
 大手の公立中高一貫のための塾に通いながらほとんど「割合」を理解しないという子どもが大量にいても親たちはまるで問題にしないのはいかにも不思議なことである。
 そもそも中堅私立中学に出題される程度の割合の問題が全く解けもしないのに、ただひたすら適性模倣問題ばかりを解かせる教育というのはいったい何なのであろうか。
 わたしは問いたい、君たちは知識を覚えることを勉強と思っているのか、知識を広げること、増やすことだけが関心の対象なのか。
 思うに、知識の多寡と思考の深浅は反比例の関係にあるのではないか。
 思考というのは、少ない知識のときほどよくはたらくものである。知識が詰め込まれた頭には思考のはたらく余地がない。福島の事故の時、頭のいいはずの学者や官僚、政治家たちが全く思考できなかったことは記憶に新しい。ああいうのを愚の骨頂というのであろう。何か東大大学院教授かわかったものではない。東工大などを出た技術者たちが事故の最中に「コンビニに、コンセントを買いに行け」など叫んでいたのを聞いて開いた口がふさがらなかった。こんなのにわたしたちは原子力という危険なものを任せていたのである。
 危機に際して知識なんてなんの役にも立たないのである。そういうときにこそ冷静な思考力が試されるのである。極端なことを言えば、わたしたちは知識を最小限にコントロールしながら思考のはたらく空間を確保するような勉強をしなければならないということである。知識などというものは、銀行の預金準備率程度に維持していればいい。いわば知識準備率というものを想定しなければなるまい。知識偏重が思考抹殺にはたらくことがわかっているのだから。
 勉強というのは、いかにして「覚えないで済ますか」なのである。それは知識に換えて思考によってまかなうという工夫という名の思考を要する。
 知識は飽くまで手段である。思考の手段である。知識が頭の中に占める割合が多ければ多いほど思考は働かない仕組みになっている。勉強していて知識で頭がいっぱいになって頭がはたらかないという経験はあるでしょ。覚えてばかりいると頭ははたらかない。数学が解けないで解き方を理解して覚えるとか、算数の問題と解き方を覚えるとか、そんなことばかりやっていると頭がはたらかなくなる。頭が悪くなる。わたしはよく解き直しということをやらせるけれど、解き直しをただ機械的にやって解法を覚えることばかりやっていると頭がはたらかなくなる。解き直しというのは、なぜ自分が問題の意味を読みとれなかったのか、思考のはたらかせどころのどこが悪かったのか、といったことを反省するのである。解き方と答えを覚えようなどと考えるとほんとうに頭が悪くなる。そもそも過去問なんかはもう二度と出ない問題のリストなのだから忘れてしまった方が思考にはいいのである。
 世の中には大手を信頼する親が圧倒的に多いけれども、それは結局知識偏重教育というものに盲従しているということなのだけれども、そういう親というのは竹の会にはまず関係のない人たちである。
 ところで思考というのは、知識が毒にもなり薬にもなる。大量の知識は毒である。知識は抹殺されるほどにダメージを受ける。網羅的な知識は思考をパニックに陥らせる。知識ほとんうに少ない「いい」知識によって生き生きと生かされる。
 思考の立場から知識を見ると、曖昧な知識、不明瞭な知識をいかにして思考の力によって明確な知識として確定するかに尽きる。網羅的な知識は結局曖昧な知識と同じことである。
 思考は知識に対して思考経済にしたがって知識を断捨離することを要請する。知識の明確化とは、知識の区別を可能にする前提作業である。共通知識は忘れて、違いのみを認識するとか、一般的な枠組みのみを認識するとか、原則化するとか、対義の関係にあるものは、一方のみを明確に認識するとか、思考の観点から見た知識の処理こそ、知識を思考という視点から扱うことにほかならない。
 記憶に頼る子は、つまりは思考というものをしない子は結局「できない」。
 小6のみなさんは、そこのところをよく考えてほしい。覚えようとしていないか。考えることにこだわったか。なぜすぐあきらめるのか。
 塾は知識を獲得する場ではない。少なくとも竹の会はそういうことを否定している。思考を獲得することこそ今のあなたたちにはもっとも必要なことなのだから。

 
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