草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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呪いの研究

2011年07月26日 18時32分52秒 | 
 このような記事を書こうと思ったのは、宮里藍が優勝したことと関係がある。彼女はずっと勝てずに苦しんでいた。彼女は宮城県の東北高校出身であることから、今度の大震災で変わり果てた町の様子に心を痛めて、「いいニュースを届けたい」という思いが空回りし、今季はずっとトップ10入りがほど遠く「集中するのが難しい」と弱音をはいたらしい。その思いをコーチにぶつけたことで気持ちが変わったという。「私一人の力で日本は救えない」。そう気持ちに整理をつけたとき、本来のプレーがよみがえったという。
 呪いというのは、言葉だと思います。言葉が心を縛る、それが呪いの本質だと思います。ところで、私たちは、生まれると祝福されて名前を付けてもらいます。「祝う」というのは、実は名前を付けることなのだと内田樹が言っています。私は、「陰陽師」という小説で名前を付けることは呪いをかけることだというところがずっと忘れられずに心に遺ってきたのですが、同様のところを内田樹が引用しているのをみてびっくりしたことがありました。実は、祝も呪も語源は同じということです。内田によると「祝う」とは、本来「ただ事実をあげる」ことだと言っています。そういえば、結婚式では新郎新婦のそれまでの歴史を事実としてあげていくだけだし、葬式だって故人のこれまで歩んできた事実を挙げて故人の過去を祝福している。故郷を思うときは、確かに豪華な庁舎がどこそこにあり、有名なホテルがあそこにあり、幼なじみの親が神主をする神社があったなどと事実をあげていく。これが祝福するということなのであろう。
 名前を付けられると確かに私たちは名前の文字に規定されてしまう。その名前の本来持つ意味に規定されてしまう。これが名前が呪いをかけるということなのであろう。モノの名前に限らず私たちは様々な事象にも名前を付ける。名前というのは、実体のあるものもないものもとにかく心がとらえる、事象を認識するのになくてはならないものといえる。そして私たちはものの名前にとどまらず、様々な抽象的命題を言葉に表し、心に呪いをかけるようになってきた。心というのは、いとも簡単に言葉の魔術によって呪いにかけられる。心は呪いに縛られやすい。心は呪いで途端に自由を失い、動きがとれなくなる。私たちは、陰陽師の時代の呪詛は非科学的としてだれも信ずるものはいないと思われるのに、かえって現代人はそういう非科学的なモノを否定しながらも実は最も呪詛に弱い人間なのではないだろうか。
 先の宮里藍の例は、、「いいニュースを届けたい」という呪いの言葉が彼女の心の自由を縛っていたものと思われる。彼女は、「私一人の力で日本は救えない」という言葉で呪いを解いた。よく宗教では、マインドコントロールということが言われるが、もちろんこれも呪いの言葉の一例である。マインドコントロールに支配された信者の心を解放するのは至難と言われる。何か信じている人間をその信心の対象から解放することなどおよそできない相談である。国家が莫大なカネを使って国民に呪いをかけることは現代では普通に行われていることである。恐ろしいのは、洗脳された国民のだれひとりとして自分が呪いにかけられていることを自覚しないことである。自分の意思で行動していると思わせるほどに国家の仕掛ける呪いは巧妙である。反原発を弾圧してきた資源エネルギー庁はまさに国家的洗脳機関であったと思われる。呪いを作り頒布するための専門機関を民主主義国家日本が公然と置いていたことが恐ろしい。
 呪いという目で見れば、朝日新聞などの大新聞、新聞社とつながったテレビ局などは、毎日のように呪いを垂れ流す有害機関ではないか。節電を呼びかけるテレビ局が一番電気を浪費しているのはやはり見逃せない。東京に民放が5局もあり、みな同じような内容の番組ばかりを流している。3.11の報道では、東京6局がすべて原発報道であった。テレビは24時間どうでもいい番組を垂れ流しているが、深夜や昼間はお休みすればどれだけ電力を節約できることか。局を減らせばどれだけ電力の節約になることか。特に原発推進のための機関と化したテレビ局など有害以外のなにものでもない。
 日本の新聞が何の役にも立たなかったことは今度の震災報道で如実に炙り出されたと思う。真実を事実を報道しない新聞なんていらない。政府や東電、官僚の言うことをそのまま文字にするだけの新聞がなんで一流紙の顔をしているのか。国民に被曝の危険を訴えたこともない新聞なんていらない。やがてインターネットの世界が真実を伝えるということを国民が気がつき始めるとき、人々は新聞やテレビの呪縛から解き放たれることになるであろう。現代人は、あらゆるところで呪縛の網にひっかかりもがいているのではないか。それは私たちが新聞やテレビなどを通して普段に言葉の呪いを受けているからだ。耳に入ってくる言葉すなわち呪詛をすべて断ち切ることが真実の自分を悟るもっともすぐれた方法になる。
 呪いというモンスターは、ネットの世界では、「匿名」という魔術を使い、辛辣な攻撃をしてくる。匿名は書くものを一般化し、個人をはるかに超えた悪魔にしてしまう。匿名は卑怯極まりない呪いの方法である。匿名による呪いにかけられた者は、自殺にまで追い詰められることが往々にしてある。匿名を使う者は自らの言葉に責任を持てない者であり、内面的にひ弱で社会的敗者である。
 呪いをかける者は、仮面をかぶる者である。仮面をかぶることによって呪う者は、本当の自分ではなく仮面の自分が呪いをかけているのだと責任追及から回避を図れる。ネット世界における匿名による呪詛と構造は同じである。現代人は様々な仮面をかぶることによって他人を呪詛する。知事の仮面をかぶって原発推進をする、地元町長という仮面をかぶって原発稼働に同意する、菅首相が悪いから復興ができないと国会議員たちは不思議な属人的な善悪のレベルに問題をシンプル化するが、これなどはあいつが悪いからすべて悪いというに等しい政治的知性のかけらもない呪いの論理である。そもそもの構造的問題、制度的問題などは問われない。すべて個人ひとりの善悪の問題にされる。国会議員という仮面をかぶった人間たちが、その仮面の裏で真実何を企んでいるのかはあまりにも稚拙であからさまなウソなのでバレバレではあるのだが。
 私たちというか政治家というのは、問題はそんなに単純なはずはないのに、属人的な善悪のレベルにシンプル化してしまう。そして悪魔狩り的に問題を超単純化して、マスコミと一緒になって責め立てる。属人的善悪の問題、欲得の問題と問題を万人にわかりやすく単純にすることで国民は政治を身近な操作可能なものとして錯覚する。これは手の込んだ洗脳であり、呪いの方法である。あの小泉旋風はそうであった。郵政民営化の是非と問題をそれだけにシンプル化してあの利権政党自民党を圧勝に導いた。それで何が変わったのか。何もよくはならなかった。諫早の水門は閉ざされ、原発は老朽化しているのに、耐震性が危ぶまれているのに、稼働され続け、官僚は恣に天下り、テレビ局も新聞も政府の発表することをそのままに書くだけの能なし新聞のままであったではないか。
 私たちの選択は何の意味もないのに、国民は政治を操作する錯覚に酔いしれた。問題を国民の操作可能にシンプル化するという呪いの手法をいつまでも使わせていいのか。菅が悪いからすべて悪いのか。鳩山は何をしたか。自民党は何をしてきたか。だれも何もいいことはしてこなかったではないか。だれかに変われば「よくなる」というのは、ただの呪いの言葉にすぎない。
 地デジという呪詛で国民を呪いにかけて、今度は何を企んでいるのか。
 実は、呪いというテーマで、私は、私たちの心を縛る正体不明の心理構造にメス入れたかった。受検直前の魔の12月・1月の金縛り状態の心理からの脱却を可能にする、解除装置を私は考えてきた。そういう関心が呪いというテーマが私を呪詛した。
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