草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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国語読解力をつけるあたりまえのこと

2011年07月26日 21時47分53秒 | 
 国語の読解について話をしたいと思います。普段は漢字の勉強をし新しい言葉を知る努力をしていくことを前提としてその上で国語読解のための勉強とはどのようなものかということについて少しく私の思料することを述べてみたいと思います。  よく算数の問題について文章の意味が読み取れない、理解できない子というのがいます。文章の、つまりは書かれてある意味が理解できないのでは、問題を解く以前の門前で躓いているわけです。国語的な意味がとれないのは、単に読解という点を超えて、算数の基本概念が曖昧にしか理解されていないせいもあるのかもしれません。それにしても文章の意味が判然としないのであれば、図を書いて関係をつかむなどということもできません。  読書をすれば読解力はつくのか。一般的には、読書が好きな子は読解力が高い傾向にはあります。が、私の経験では、知能の高い子が読書が好きであれば読解力が高く、知能が低い子ではいくら読書が好きと本人や母親が言っても読解力は低いというのが真理です。つまりは、「読む」というだけでは読解力がつくわけではなく、読んだ内容を理解する程度、つまりは知能が関係しているといえます。  さて、読解力とは何かです。内容に感動することは必ずしも読解力とは関係ありません。私たちが文章の意味をとるのは、形式的な論理思考によっているからです。私たちは、文章を読むとき、ひとつひとつの文章の意味をとらえながら、全体として「何を言っているのか」を読み取るために、文の流れを追っていきます。文の流れを追うことを私たちは「文脈をたどる」などと言います。  そして、筆者は、自分の「言いたいこと」を手を替え品を替え述べ立てていくということです。その場合に、文と文とを「なんらかの意味」でつなぎながら、数珠つなぎしながら、流していくということです。文と文のつなぎは、基本的には「因果関係」というもので流れる。私たちは、川の流れを流れにまかせて下るように、文の流れを追い求めていくことになります。川と違って、文の流れは、意味の流れです。意味をつないでいくことです。  さて、そうとして具体的には、どうすれば「意味をつなぎながら読み進めていくこと」ができるのでしょうか。  大学入試の現国で有名な予備校講師の出口氏は、「言いかえた」にすぎない文について指摘しています。筆者が述べたいことを最初に言ったとして、それを読者に理解してもらうために、いろいろと手を尽くす。その場合に、同じ内容をいろいろと言いかえるというのです。抽象的なものを具体的に言いかえるというのは、もっとも定型的な言いかえです。例を挙げるのも言いかえです。だれか権威ある学者などの意見を引用するのも、自分の主張を他人の言説で言いかえたようなものです。  さて、そうなると私たちは、本を読むときは、筆者が「言いたいこと」を「どのうよに言いかえているのか」に常に注意を払えばいいということになります。言いかえた文章に対しては、何のためにいいかえたのか、筆者のどの部分の主張をいいかえたのか、と考えるわけです。  普段の勉強では、「言いかえる」練習が有効です。筆者が述べていることをいろいろ言いかえてみるのです。抽象的なものは具体的に「言いかえる」。具体的なものは抽象的に言いかえる。  さて、抽象的に言いかえるとは、どういう作業なのか。これは、「より大きなかっこでくくる」ということではないかと思います。犬、猫、・・・なら、動物という具合です。それは「共通点」見つけ出してかっこでくくるということで、高校になってならう因数分解みたいなことです。たとえば、A✕B+A✕C=A✕(B+C)というものです。共通なAをかっこの外に出して、共通でないものをかっこでくくります。ここで共通なAがそれぞれA✕BとA✕Cの抽象化したものということです。  普段から、様々な言葉のグループから共通点を見つけ出し、全く別の名詞で言いかえるなどという練習が有効な勉強法かと考えます。  文章を読む場合、「・・・とは」という定義を述べた文が大切です。その後に続く文は、「とは」で述べられた内容をいろいろと言いかえたものになるはずです。  さて、そうなると私たちは、文章を読み進めていく場合、常に「何を何に言いかえたのか」ということを問いながら、意味の連結をたどる必要があるでしょう。  そういうことを「考える」ことが、考えながら文章を読むということです。  読解とは、こうして常に「意味を問う」「意味を問い続ける」ということに尽きると思います。
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