草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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何もないから工夫が生じる

2010年03月15日 11時19分00秒 | 

朝はたいてい7時前に目が覚める。寝るのはたいてい午前1時くらいだから, 寝が足りないはずなのに. 朝6時過ぎにはとにかく目が覚めてしまう。日曜日は, 土曜日から, 2つの仕事にかかりきりであった。1つは, 春にやる予定の小学生向けの「政治・経済」のレジュメ制作, 2つ目は, 「新英語指導案」の『解答&解説集』の執筆である。どちらも春に間に合わせたいと思い, 少し無理をしてでもとがんばっている。
 今年は, 新中3が例年より多い。例年1人か2人だったので, 比較的楽だった。だが, 今年はそうもいかない。かつては中3だけでかなりの数を指導していた時期もあった。しかし, 少子化やら「ゆとり教育」やらで公立中は学力不振の生徒が席巻した。やる気のない中学生があふれ絶望したのはそう昔ではない。勉強というものをほとんどしない子に対して「指導」は無意味であった。今竹の会にいる中学生というのは勉強することが前提である。「勉強しないから竹の会へ入れて勉強するようにしてもらいたい」というような電話がときにあるが, 親たちの対応もなにかおかしい。
 竹の会は「教育」する学校とはちがう。「勉強しない」というのは, 塾だけでどうかなるという単純なものではない。来し方の生活環境, 親の教育への思いの程度, 学校教育の実際など様々なことが作用して今ある子を結果している。
 長くなるのでもうこれ以上触れないが, はっきりしていることは竹の会は「勉強しなくなった」のなら, 退塾するほかないということである。
  中3がいれば高校受験が当然ある。それで私はそのために身を削り指導に大げさにいえば命をかける。いつもそうだ。「勉強しない」ということが, 結果どうなるのか。私を失意の底に貶める生徒というものはいつもいた。それでも一握りの真摯な努力家たちを合格に導くこで私は救いを得てきた。
 中3が1人なら, 入試の対応は楽である。2人3人と増えれば, 準備に時間が比例してかかることになる。ひとりひとりを責任をもって成功に導くという前提があるから, 私の負担も尋常ではありえない。どこまで責任をもてるのか。いつも自省している。いつもひとりとりの顔を思い浮かべては最善の指導は問う日々である。だから, 今年は私にはかなりの負担と思う。覚悟はしていたが, これからの指導と責任の重さをを思わずにはいられない。
 新中1はいろいろあってとにかく3人だけということで入会していただいた。ひとりひとりに責任を果たすとなれば, 何人でもというわけにはとてもいかない。ひとりの子を指導するということはその一人の子を全人格的に観察しつつ日々微調整しながらの指導を意味する。まとめて10人というわけにはいかない。

 よく私は言うのだが, なにもかも満たされたところには思考の芽というものは出てこないのではないかということである。不足する, 何もないから「工夫」が生まれてくる。「なんとかしよう」という気持ちが湧いてくる。欲しいものも欲しくないものもなんでもあるという生活は, 実は「思考」の環境には最悪なのではないか。ないから工夫が生じる。数学でも, 算数でも, 最初から情報が満載で「わかりやすく」説明されている参考書などというものは, やはりダメである。思考のはたらく余地を抹殺しているからだ。わかりやすく教えてくれる家庭教師というのは, 有能な思考抹殺人である。大手は分厚い問題集などが「売り」である。知識の方も網羅的に満載されている。実は生きた知識というものはこういうなんでも載っている型のテキストからまず得られない。完全な知識情報の載った分厚いテキストは脳を壊す危険性大である。本質的な知識から「思考」「推理」という必須の回路を通して敷衍された知識でなければ身につかないと思う。
 デラックスな学習机を買ってやって, 勉強した子が知能を伸ばすか, みかん箱で勉強した子が知能を伸ばすか。
 いつも不足している, 何か足りない, そういう環境にある子の方が, 思考環境としては余程刺激的であると思う。なんでもかんでも至れり尽くせりで満たされつくした子はなにも考える必要に迫られることはないから, 思考のはたらきどころをすべて奪い取られている。
 算数にしても, 数学にしても, まるでそのしくみをそして思考をはたらかせないという子がいる。算数にしても数学にしても問題というのは, 情報が問題を解決するのに必要十分なことは前提である。問題文は寡黙でむしろ情報不足なのではないかとさえ疑ってしまうほどシンプルである。ただ問題を解くにはたとえば割合のしくみやら関数の定義やらといったことは当然に理解していなければならない。そういった前提があって考えてみてもわからないというなら, 思考が情報不足のなかで整合性を求めて活性化する余地がある。ところが, 前提となるしくみそのものが理解できていないという場合は, 思考はまず成長不能である。世の塾や家庭教師という人たちが「教えればよくなる」などと平気で言うことには欺瞞以外になにも感じない。
 世の中には, ルール(しくみ)をそれとして認識できない子がいる。しくみを抽象化できない子たちだ。しくみというものは, 関係を示す。関係の意味合いを認識して頭の中で抽象化・一般化できなければ, 具体的問題に対して, 転移効果を発揮させることはできないであろう。
 私は指導者としていつもそういう限界のところで壁に突き当たっている子たちとのせめぎあいの中に生きてきた。指導に明け暮れる日々の中でふともの思いにふけることがある。そういうときはいつもそういう子のことを考えて沈んでいた自分がいた。
 
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