草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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東大強豪校の見方

2010年03月16日 10時27分18秒 | 
◎東大強豪校の見方

 筑波大附属駒場は男子校で筑波大附属は共学ですよね。以前私の苦手なタイプのある小6女子の母親が「うちの子は筑波駒を受けさせようと思っている」と言われたことがありましたが, 私は何を言っているのか全く不可解でした。第一それまで受験勉強というものをしてこなかった小6がいきなり筑駒レベルを受けるということもいぶかしく思ったものです。前期の東大合格者数では開成が今年は154人で去年の最終138人から大幅に増やして全国1位でした。 筑駒は未公表ですが, 去年は106人の合格者を出しています。
 ところで, 私立中入試では, 開成と筑駒の併願受験が多く, 両方合格という子もかなり出ます。そういう場合にやはり学費の安い筑駒に行く子が多い。サンデー毎日によると, 筑駒の東大合格率(合格者数÷卒業生数)は, 64.2%で1番です。開成は34.4%ですから, 筑駒のほうがすごいわけです。ただたとえば開成の154人のうち現役は105人ですから, 分子に浪人を含めるのはデータの意味がかなり違ってきますから, どこまで意味のある数値かは疑問があります。筑波大附属のほうは筑駒より合格数がかなり落ちる。その差は筑波大のほうが, 小学校からの持ち上がりが多いことと男女共学であることからくるものとされています。筑駒の場合, 小6で入試に合格してはいった子で, 小学校1年に入る筑波大附属とはわけがちがいます。筑波大附属の東大合格数を弾きだしているのは高校入試で入った子たちだと推測されます。男女共学という点は, 女子は浪人を敬遠する傾向が強く無理して東大を受けないというような表れ方をします。女子では私立女子御三家の桜蔭が抜け出て女子学院や雙葉にかなりの差をつけていますが, 桜蔭に勉強に熱心な子が集まるようになったということです。他の2つはもともとがお嬢様学校でそれほど勉強に熱心ではなかったということだと思います。最近の傾向として開成や筑駒などには行けなかった子が集まる2番手校の躍進が目立つということです。都内では海城のような学校がそうです。
 最近, なんとか東大に入学しても留年したり, 学力の問題で希望の学科に行けないという学生が増えているらしいです。特に2番手校からの入学者にその傾向が強いということが指摘されています。なにがなんでも合格させろとにかく合格させてしまえばそれで終わりというような教育=東大合格の歪というかほころびがあちこちに出てきているようです。第一, 東大東大で学力だけ磨いて, 人間を磨くという「教育」は「ない」に等しいのですから, 実はろくな人間は育っていないともいえそうです。正直こういう教育環境で育ってきた人間が日本の指導層たる官僚になるのかと思うとやはり背筋の寒くなる思いがします。
 強豪校はほとんどが私立中高一貫校です。一貫校の強みはなといっても高2までに指導要領のカリキュラムを終わらせ, 高3で大学受験指導に専念できるという一点です。
 私立一貫校では中学受験でいかにして優秀な生徒を集めるかがすべてです。トップ私立は放っておいても優秀な生徒がとにかく集まってきます。2番手中学もそれなりの生徒が集まります。こうして早い時期に優秀な生徒を定員いっぱい集めた私立一貫校が6年後に東大合格者を大量に排出するのは当然といえば当然のことなのです。こうなってくるとどこそこの私立がいいというよりは, そういうシステムに東大志向の子どもたちが乗っかっているというだけのことなのではないかと思うのですが。優秀な子どもたちが「集まる」場所を創り上げているだけのことではないかということです。なにもそのたとえば開成がいいということではなくて, そこに優秀な生徒が「いる」というだけのことではないかと思うのです。

◎3月16日(火) 曇り空に晴れ間点在

 3月は24日までです。つまり, あと17日(水), 19日(金), 22日(月), 24日(水)です。22日は祭日ですが, 1時から6時で実施します。
 ●春の集中指導のポイント
 □新中3
   数学 平方根の理論 2次方程式演習 2次関数
   英語 「新英語指導案」 英文解釈
   国語 都立過去問(共通問題)つぶし
   理科 配布テキストの読み込み
   社会 配布テキストの読み込み
 □新中1
   数学 正負の数 文字式 1次方程式
   英語 単語暗記修了者は英文法開始
   国語 「今解き教室」
 □小学
  ■都立一貫校 
  ■私立一貫校
  ■国立一貫校
  パスポート 社会「政治・経済」レジュメ
          算数レジュメ
          国語「読解百選」「入試読解」
          「作文」「ようなもの」「四字熟語」
          「2010年版教養」「200字問題」「今解き教室」
  その他のコースは時間数に応じて適宜に必要なレジュメを使います。

 ●「納谷味先生の独白」(12)

 げんさんが熱いほうじ茶をズズーとすする。外は寒気がひどく熱いほうじ茶が妙にうまい。冷たくなった体に心地よくしみわたる。先生は天気の悪い日は無口だ。その分、迷羊君が饒舌になる。
 げんさんが眉間に皺をよせて口を開く。「先生、実はあっしの仕事仲間の野郎なんですけどね、そいつには25、6になるせがれがいやしてね、そのせがれってぇーのが悩みの種なんでさぁ。高校は途中で止めちまったんですが、それは板前になりてぇーということだったんですよ。それで親が出入りの料亭の女将さんに頼み込んで板場に入れてもらったのはいいんですが、3ヶ月もしねぇーうちにプイといなくなった。それで今度は背広を着たサラリーマンになりてぇーといって、自分でどこやらの不動産会社を見つけてきて働き始めた。が、ここも長くは続かねぇーで、すぐ止めてしまい、それからは運送屋の助手やらパチンコ屋の店員やら仕事を替えては止めるということを繰り返して、なかなかな自分にあった仕事がねえーといって家にぶらぶらしている始末なんでさぁー。井上の野郎、あっ、そいつは井上って野郎なんですが、困り果てて最近はその息子のことばかり愚痴るんで、周りの者もまいってるんでさぁ」とここまで話すと、げんさんすっきりした顔になって卓台の大福を一つとりうまそうに頬張る。
 隅でいつものようにかしこまっていた犀角君が口を挿む。「その方は、ひきこもりじゃーないんですよね。全然仕事をしないで部屋から出てこないというのが最近は多いらしいですよ。たしかニートとか呼ぶんですよね。その方は長続きしないということですよね。こういう人は昔からいますよね。自分に合った仕事がないのは困りましたね。話しは少し違うかもしれませんが、司法試験の受験勉強にも似たようなところがあるんですよ。なにしろ難しい試験ですから、と勝手に思い込んでいるだけかもしれませんけどね、とにかく合格するためには何をどのように勉強すればいいのかということがいつも問題になる。刑法ではだれそれの本がいいとか、いや学者の本より予備校ものがいいとか、問題集中心でやったほうがいいとか、ノートは作らないほうがいいとか、いや作って受かった奴も多いとか、とにかくこれほど方法論の喧しい世界はないと思うんですけど。1年に1回の試験ですから、方法論で迷っているとあっという間に本番がきてしまう。いったん方法を決めてやり始めても、その後いろいろなるほどと思わせる情報が入ってきて自分の方法に自信がなくなり、別のに飛びつく、次から次に出てくる新しい情報に振り回されて気がついたら本番1ヶ月前なんてことになるんですよね。いや司法試験に限らず、どんな試験でも事情は同じで、次から次に出てくるもっといい方法に振り回され続けることになる。これって結局失敗なんですよね。」
 黙って聞いていた先生が静かに口を開く。
「司法試験の受験生の心理的重圧は相当に強い。自由な意識を放逐し何かにとりつかれた状態にある。犀角君のいうように方法論で自分を見失う人も多いでしょう。しかし、それにもましてその重圧に耐えられず現実逃避をする受験生が多い。当面の勉強を回避する、気をそらすという人が実は圧倒的に多いと思います。集中力をひとつのことに持続することは大変なエネルギーを要します。これに耐えられる者のみが勝ち残るということなのでしょうか。
 先ほどげんさんが言われてました息子さんについては、また別の問題もありそうですが、
 人間のとる行動は司法試験の受験生も先ほどの息子さんのような方も共通したものがあるようにも思われます。本人たちはきっとその時は『よかれ』と思って行動したと思うんですよ。その時はそれが一番いい方法だと判断したはずです。しかし、実際やってみて『やはりこれはだめだ』という判断をするというのもわかる気がします。やってみなければわからないということもある。ただ、司法試験だとやり直しは致命的なことになる。期限が1年しかないからね。仕事だってやり直しはそう何回もできるわけではない。人生は短いからね。それにどんな仕事でも中途半端にやってものになるものはない。
 はっきりとした記憶ではないけれど、かつてヘレン・ケラーは『もっとも安全だと思われる危険回避の方法がもっとも危険である』というような趣旨のことを言ったと思う。人間の判断なんてその程度のものなんですよね。私の経験でも、最もよかれと思った危険回避の方法が危険回避をとらなかった場合よりずっと危険であったということは多々ありました。
 実は『なにがよかった』なんていえない。『金やダイヤモンドだと思っているものもただの銅やガラスにすぎないかもしれない』と言ったのは17世紀のフランスの思想家デカルトですが、デカルトの言うように、自分に関することでは確かにどれほど考え違いをしやすいか、自分に好意的な判断のみを喜んで受け入れることのどれほどに危険なことか。得てして友人の好意的判断が実はもっとも疑わしいものだということをデカルトは指摘する。
 ただここでデカルトが「方法序説」で述べていることは真理だと思いますので、この際、お話しておきたいと思います。
 彼は、『どんなに疑わしい意見でも一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと』である、と言っています。たいした理由もないのにその方向を変えてはならないというわけです。『実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さない』ほどに日々判断を迫ってきます。デカルトの主張の根底にあるのは、『もっとも真なる意見かを見分ける能力がわれわれにはない』という前提であり、それならば、『どれかに決め一度決めたらあとはその意見を疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない』という決意である。それは、『~よりはまし』ということか。人間の判断なんて、結局は「それよりはましだから」程度のものでしかない。巷の本屋を賑わす諸子評論家のセンセー方の著書も内容はその程度でしかないのです。
 デカルトに学ぶべきは、『一端決めたなら、たいした理由もなくその方向を変えてはならない』ということです。
 こうして、『あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安』から解放されることができるのです。」
 そこまで話されると先生はいつものように熱いほうじ茶をいつものように旨そうに飲み干されました。
 そういえば最近先生はよく「現代の本に学ぶことがあるのだろうか。確かにいい本はある。しかし、結局古典の名著の焼き直し、模倣に過ぎないことのほうが多い。だれもかれも結局は古典に学んでいるだけで、古典の範囲内をウロウロしているだけではないか。」と言っていました。
 先生は学生の頃、岩波文庫が好きでそれは何冊も読んでは書架に並べて、それが喜びだったと言っておられました。その先生が最近またあの愛すべき「岩波文庫」を集め始めたと聞きました。次から次へと出版される本、ゴミのような本にもう飽き飽きしたのでしょう。岩波文庫を、古典をうれしそうに読まれている先生は傍から見ていてかわいらしい少年のようでした。
 先生のお話はいつも私たちに何かヒントを投げかけているようでした。あのげんさんが、「先生のお話はいつもためになりやす。」と言っていたのはただのお世辞にはとれませんでした。
 お天道様が納屋味邸に再び顔を出すことを願って、私は寒風に身を任せ、家路を急ぎました。

平成22年度入試結果(一般入試・第一志望)
●高校入試 1名
 都立富士高等学校 合格(推薦)
 代々木中 女子 倍率4.50倍
 
●公立中高一貫校入試 2名
 都立両国高等学校附属中学校 合格
 港区立赤坂小 6年 男子 倍率8倍
 都立桜修館中等教育学校 合格
 渋谷区立神宮前小 6年 男子 倍率4.60倍
●国立 1名 
 東京大学教育学部附属中等教育学校 合格
  渋谷区立本町東小 男子  倍率5.90倍

 
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