今日はTシャツでちょうどよかったですね。温暖な雨でいよいよ暖かくなったことを感じます。
今年の桜修館女子は8倍弱、富士女子は6倍弱の倍率でした。桜修館で言えば、90人受検したら10人しか受からない。残りの80人は落ちるわけです。こういうところを受けよう、受けて合格するというのは、「選ばれた人」になる、ということである。
わたしは今年桜修館に合格した女子に、「あなたは選ばれた人です」というようなことを言ったけれど、8倍という倍率をかみしめた言葉であった。
かつて平成19年のことであった、区立九段中を受検したときは、なんと11倍強の倍率であった。1月わたしはこの倍率を知ったとき正直心に氷の刃が突き刺さるにも似た恐怖を感じた。
長い間掲示板というものに立ってきた者のみが知る真の恐怖である。掲示板をいくら見直しても「ない」ものは「ない」という非常な現実を何度も味わってきた。
無邪気なこの子がこの11倍を切り抜けられるのだろうか、ふとわいた不安を打ち消すように、わたしは、「11倍なんか関係ない、ほんとうの倍率はせいぜい2倍がいいとこだ。落ち着いて確実に解ける問題を解いていけばいい。解けなければ白紙でもかまわない」というようなことを言ったらしい。本番で、ほとんうに白紙で出してきたので父君が「ばかだな」と怒ったら、「先生がわからなければ白紙でいい。解ける問題を確実に解いてこい」と言ったと反撃したそうだ。結果は見事に合格。その彼は今東京工大に進んでいる。
その後、22年の両国のときは、8倍、23年の小石川のときは6倍(?)、25年の白鴎は8倍であったか。わたしはこういう倍率といつも戦ってきたわけである。
ああいう倍率を切り抜けて掲示板に番号を乗せるというのは、自分が「選ばれた人」になるという自覚がなければとてもできる業ではない。
わたしは習い事や稽古事、家族旅行、お盆休みや年末年始、5月の連休とそのたびに人並みに楽しんでいる方たちが、その余の時間でいくら頑張ったという気になっているかも知れないが、おいそれと受かる試験ではないと考えています。
勉強になにかにつけて他事、私事を優先させる方たちが、「選ばれる」ことはないと思っております。
自分が「選ばれた人」になるというのは、毎日欠かさず実働5時間以上思考をめぐらす勉強を実行したことと表裏ということです。
ピアノの発表会で舞台に立つ、そのために努力を続けてきた、ということは素晴らしいことではないですか。ただ受検をするという過程でそういうことをやっていたのなら、決して倍率8倍を切り抜けられるなどということはもはや想定してはいけない、いや想定するのは勝手ですが、番号がなくても嘆く必要はないということです。
8倍という倍率は、すでに勉強のありかたを規定しているということです。巷の親たちが、受検させると言いながら、勉強回避の大義名分をいくらでも持ち出しながら、落ちたことを嘆くのはあたらないということです。
さて、やや話は変わりますが、受かる子というのは、ある種の共通点があるやに思います。どんなに知能が高くても、どんなに優秀であっても、決して受かることのない、ある種のタイプがあると常々感じております。
合格する子というのは、バランス感覚のある子ではないか、と思うのです。裏から言えば、「偏り」のある子、偏見のある子というのは、合格はできない、ということです。
これを言いかえれば、情緒の安定している子と言ってもいいと思います。そういう子というのは、正直であり、素直であり、自分の行動に責任を感じる子であります。
これをもっと別の角度から言えば、健全な大人思考のできる子ということになりますか。
これまでわたしは受かる子というものをいろいろに眺めてきましたが、結局受かる子というのは「偏り」のない子なのではないか。
そしてわたしの指摘を真摯に受け止めて悩むほどにまじめな子なのではないかと思うのです。
高校入試だって同じことです。受験というのは、偏見が身を滅ぼす世界ということです。
バランスのいい精神にある子が成功するということです。ねじまがっていてはだめです。
わたしは子どものそういうところを見ています。今年富士に受かった子なんか、とてもバランスのいい子でした。早稲田進学会の模試では一度も名前は載せられなかったけれど、順位はいい位置につけていた。わたしは、「適性と相性のいい子」だと常々に本人にも言ってきたけれど、情緒もバランスよく安定していたと思う。それは作文を読んだときもそう思ったものである。心のバランスを欠く子というのは、作文がよくない、偏見が随所に垣間見られ、作文がねじ曲がっている。彼女は最初は小石川志望だったけれど模試の成績を見てわたしが富士受検を勧めた。わたしの忠告にも素直にしたがってくれた、すばらしい情緒の安定した子であった。
頭のいい子というのは、いわゆる賢しさというのか、小ずるいというのか、悪知恵がはたらくというのか、結果を先読みするというのか、そういうところがある子が多い。これはすなわち偏りであり、偏見の元となる。そういう意味で情緒が健全さを欠く。当局は素直な思考の持ち主を求めている。よこしまな如才のない知恵のはたらく子は求めていない。最近は指導が終わるといつも4人、5人の子が賽銭箱に5円入れてポンポンとやっている。わたしはああいう子は「受かる」子だと思っている。偏りがないのである。受験の世界では変にいろいろと自分の偏見を信条とする人たちがその信条に振り回されていることが多いが、それはすなわち偏りであり、偏見に通じる、いつのまにか融通の利かない、頑なな偏見の持ち主になっているということである。
試験では、この偏見が強敵である。誤った判断をするのはこの偏見があるからである。偏りのある作文、勘違いの読み取り、・・みなこの偏りのなせる業である。
わたしは受検生、受験生を見るとき、その子に偏りの片鱗を見て恐怖し、憂い、頑なな偏見を見て、もうどうにもならないと絶望する。
今年の桜修館女子は8倍弱、富士女子は6倍弱の倍率でした。桜修館で言えば、90人受検したら10人しか受からない。残りの80人は落ちるわけです。こういうところを受けよう、受けて合格するというのは、「選ばれた人」になる、ということである。
わたしは今年桜修館に合格した女子に、「あなたは選ばれた人です」というようなことを言ったけれど、8倍という倍率をかみしめた言葉であった。
かつて平成19年のことであった、区立九段中を受検したときは、なんと11倍強の倍率であった。1月わたしはこの倍率を知ったとき正直心に氷の刃が突き刺さるにも似た恐怖を感じた。
長い間掲示板というものに立ってきた者のみが知る真の恐怖である。掲示板をいくら見直しても「ない」ものは「ない」という非常な現実を何度も味わってきた。
無邪気なこの子がこの11倍を切り抜けられるのだろうか、ふとわいた不安を打ち消すように、わたしは、「11倍なんか関係ない、ほんとうの倍率はせいぜい2倍がいいとこだ。落ち着いて確実に解ける問題を解いていけばいい。解けなければ白紙でもかまわない」というようなことを言ったらしい。本番で、ほとんうに白紙で出してきたので父君が「ばかだな」と怒ったら、「先生がわからなければ白紙でいい。解ける問題を確実に解いてこい」と言ったと反撃したそうだ。結果は見事に合格。その彼は今東京工大に進んでいる。
その後、22年の両国のときは、8倍、23年の小石川のときは6倍(?)、25年の白鴎は8倍であったか。わたしはこういう倍率といつも戦ってきたわけである。
ああいう倍率を切り抜けて掲示板に番号を乗せるというのは、自分が「選ばれた人」になるという自覚がなければとてもできる業ではない。
わたしは習い事や稽古事、家族旅行、お盆休みや年末年始、5月の連休とそのたびに人並みに楽しんでいる方たちが、その余の時間でいくら頑張ったという気になっているかも知れないが、おいそれと受かる試験ではないと考えています。
勉強になにかにつけて他事、私事を優先させる方たちが、「選ばれる」ことはないと思っております。
自分が「選ばれた人」になるというのは、毎日欠かさず実働5時間以上思考をめぐらす勉強を実行したことと表裏ということです。
ピアノの発表会で舞台に立つ、そのために努力を続けてきた、ということは素晴らしいことではないですか。ただ受検をするという過程でそういうことをやっていたのなら、決して倍率8倍を切り抜けられるなどということはもはや想定してはいけない、いや想定するのは勝手ですが、番号がなくても嘆く必要はないということです。
8倍という倍率は、すでに勉強のありかたを規定しているということです。巷の親たちが、受検させると言いながら、勉強回避の大義名分をいくらでも持ち出しながら、落ちたことを嘆くのはあたらないということです。
さて、やや話は変わりますが、受かる子というのは、ある種の共通点があるやに思います。どんなに知能が高くても、どんなに優秀であっても、決して受かることのない、ある種のタイプがあると常々感じております。
合格する子というのは、バランス感覚のある子ではないか、と思うのです。裏から言えば、「偏り」のある子、偏見のある子というのは、合格はできない、ということです。
これを言いかえれば、情緒の安定している子と言ってもいいと思います。そういう子というのは、正直であり、素直であり、自分の行動に責任を感じる子であります。
これをもっと別の角度から言えば、健全な大人思考のできる子ということになりますか。
これまでわたしは受かる子というものをいろいろに眺めてきましたが、結局受かる子というのは「偏り」のない子なのではないか。
そしてわたしの指摘を真摯に受け止めて悩むほどにまじめな子なのではないかと思うのです。
高校入試だって同じことです。受験というのは、偏見が身を滅ぼす世界ということです。
バランスのいい精神にある子が成功するということです。ねじまがっていてはだめです。
わたしは子どものそういうところを見ています。今年富士に受かった子なんか、とてもバランスのいい子でした。早稲田進学会の模試では一度も名前は載せられなかったけれど、順位はいい位置につけていた。わたしは、「適性と相性のいい子」だと常々に本人にも言ってきたけれど、情緒もバランスよく安定していたと思う。それは作文を読んだときもそう思ったものである。心のバランスを欠く子というのは、作文がよくない、偏見が随所に垣間見られ、作文がねじ曲がっている。彼女は最初は小石川志望だったけれど模試の成績を見てわたしが富士受検を勧めた。わたしの忠告にも素直にしたがってくれた、すばらしい情緒の安定した子であった。
頭のいい子というのは、いわゆる賢しさというのか、小ずるいというのか、悪知恵がはたらくというのか、結果を先読みするというのか、そういうところがある子が多い。これはすなわち偏りであり、偏見の元となる。そういう意味で情緒が健全さを欠く。当局は素直な思考の持ち主を求めている。よこしまな如才のない知恵のはたらく子は求めていない。最近は指導が終わるといつも4人、5人の子が賽銭箱に5円入れてポンポンとやっている。わたしはああいう子は「受かる」子だと思っている。偏りがないのである。受験の世界では変にいろいろと自分の偏見を信条とする人たちがその信条に振り回されていることが多いが、それはすなわち偏りであり、偏見に通じる、いつのまにか融通の利かない、頑なな偏見の持ち主になっているということである。
試験では、この偏見が強敵である。誤った判断をするのはこの偏見があるからである。偏りのある作文、勘違いの読み取り、・・みなこの偏りのなせる業である。
わたしは受検生、受験生を見るとき、その子に偏りの片鱗を見て恐怖し、憂い、頑なな偏見を見て、もうどうにもならないと絶望する。