都立入試は、国語についても、独自問題出題校と都立全体に共通の問題を出す高校に分かれる。
わたしの経験では、独自問題の国語については、かなり国語のできる生徒でも70%をとるのが大変であったように記憶している。平成20年に都立西に合格した女子の指導の記憶である。
共通問題については、これまでもう20年以上にわたって生徒を見てきたのでわかっている。
一部の例外はあるもののまず大半の生徒が90点前後をとるということである。例外は国語が極端に苦手な生徒に限られる。つまりは、共通問題の国語では、駒場などの優良高校受験生の間ではほとんど差はない。これは英語についても同様のことがいえる。
数学については、若干「差」が出ると思われる。こうして、共通問題出題校の場合、理科と社会で決まる。もちろん駒場を受けるほどの子はたいてい内申は高いので、それが前提の話である。
理科と社会ははっきりと明暗が出る。特に、社会は都立受験生にはもっとも点数差の出る科目といっていい。
こうして、国語については、学校の授業をまじめにやっていれば特になんという対策も必要ないということはいえそうである。
それでも国語がズバ抜けていいという生徒が過去にいた。学校の定期テストで90点を超さなかったことはないし、中2の時に都立共通問題をやったら90点台を普通にとる生徒か確かにいた。
少なくともわたしはあまりにも国語のできるこの生徒二人にある質問をしている。
「本を読むのは好きですか」と。
二人からは同じ答が返ってきた。「毎日本を読んでいます」。一人は女子生徒で弟がいた。その弟が「姉はいつも本を読んでいます。」と。この女子生徒は都立青山から慶応文学部に進み、高3のときは全国模試で国語だけは20番台だったと弟が言っていた。
共通点は、本の虫だったというわけです。他の科目も軒並み90点台をとる点でも共通してましたが、もう一人は男子でしたが、突然田舎に転地しました。女子のような仕草・言葉が原因で学校でいじめに遭ったと聞いています。むごいことをするものです。
本の虫は国語ができる。これは納得です。
国語ができないという生徒はほとんど本など読まない子たちがほとんどでしょう。また国語がいいという生徒だってそんなに本を読んでいるとは思えない。
それから、本を読んでいるという子たちもよくいますが、本をただ読む、消費型読書をする子というのは、国語は読む割にはできないのではないかと思います。読み捨てです。漫画を読むというのと同じで消費するだけです。
読書でもなんでも要は中身です。活字を消費するのを読書とは言わない、少なくともわたしはそう考えています。
大人がよく読むノウハウ本や週刊誌、漫画なんかは読書とは言わない。単なる消費です。
勉強というのも同じで、ただ時間を消費しただけで、何時間勉強したなどといっているうちはだめです。
何を理解したか。何の意味を読みとったっか。本質はそこです。ただ時間を消費している状態ではだめです。形式的に100ページ読んだなどといってもだめです。
要は中身です。1ページを何時間かかけて理解したということだってある。意味を理解するのが、読書です。
小説を読むのはいい。しかし、あれは時間潰しの側面は否定できない。私などは気分転換で、時には待ち時間潰しでよく時代小説を読む。最近は待ち時間はナンプレで時間を忘れるようにしている。
漱石読むのだって、漱石だからと言って、肩を怒らせてまじめに読むということもない。ただ理解できないところが出てきたらやはり理解に努めることはしなければ読書にはなるまい。かつて「うちの子は本を読むのが好きでいつも読んでいるのに、国語ができない」と言っていた母親がいたけれど、その子は普通に文章というものの意味がとれていない子であった。そういう子が『本を読む」というのであるが、ほんとうに面白くて読んでいるのであろうか。読むふりをしていただけではなかったか。親はそれを見て「うちの子は本を読む」という。しかし、定期テストで20点しか取れない子の読書とはいったいどのようなものなのであろうか。
国語ができるようになる本があるとすれば、哲学の本ではないかと思う。
「ソフィーの世界」とかである。中学生なら池田晶子の「14歳からの哲学」なんかもいい。
人生について考えるほどになれということか。国語というのはつまるところ人生そのものなのだから。
ちなみにではあるが、駿台予備学校の国語科の講師がみな東大文学部哲学科出身というのもなにか偶然ではないような気がする。あの「今でしょ」の林先生は哲学ではなかったですね。
わたしの経験では、独自問題の国語については、かなり国語のできる生徒でも70%をとるのが大変であったように記憶している。平成20年に都立西に合格した女子の指導の記憶である。
共通問題については、これまでもう20年以上にわたって生徒を見てきたのでわかっている。
一部の例外はあるもののまず大半の生徒が90点前後をとるということである。例外は国語が極端に苦手な生徒に限られる。つまりは、共通問題の国語では、駒場などの優良高校受験生の間ではほとんど差はない。これは英語についても同様のことがいえる。
数学については、若干「差」が出ると思われる。こうして、共通問題出題校の場合、理科と社会で決まる。もちろん駒場を受けるほどの子はたいてい内申は高いので、それが前提の話である。
理科と社会ははっきりと明暗が出る。特に、社会は都立受験生にはもっとも点数差の出る科目といっていい。
こうして、国語については、学校の授業をまじめにやっていれば特になんという対策も必要ないということはいえそうである。
それでも国語がズバ抜けていいという生徒が過去にいた。学校の定期テストで90点を超さなかったことはないし、中2の時に都立共通問題をやったら90点台を普通にとる生徒か確かにいた。
少なくともわたしはあまりにも国語のできるこの生徒二人にある質問をしている。
「本を読むのは好きですか」と。
二人からは同じ答が返ってきた。「毎日本を読んでいます」。一人は女子生徒で弟がいた。その弟が「姉はいつも本を読んでいます。」と。この女子生徒は都立青山から慶応文学部に進み、高3のときは全国模試で国語だけは20番台だったと弟が言っていた。
共通点は、本の虫だったというわけです。他の科目も軒並み90点台をとる点でも共通してましたが、もう一人は男子でしたが、突然田舎に転地しました。女子のような仕草・言葉が原因で学校でいじめに遭ったと聞いています。むごいことをするものです。
本の虫は国語ができる。これは納得です。
国語ができないという生徒はほとんど本など読まない子たちがほとんどでしょう。また国語がいいという生徒だってそんなに本を読んでいるとは思えない。
それから、本を読んでいるという子たちもよくいますが、本をただ読む、消費型読書をする子というのは、国語は読む割にはできないのではないかと思います。読み捨てです。漫画を読むというのと同じで消費するだけです。
読書でもなんでも要は中身です。活字を消費するのを読書とは言わない、少なくともわたしはそう考えています。
大人がよく読むノウハウ本や週刊誌、漫画なんかは読書とは言わない。単なる消費です。
勉強というのも同じで、ただ時間を消費しただけで、何時間勉強したなどといっているうちはだめです。
何を理解したか。何の意味を読みとったっか。本質はそこです。ただ時間を消費している状態ではだめです。形式的に100ページ読んだなどといってもだめです。
要は中身です。1ページを何時間かかけて理解したということだってある。意味を理解するのが、読書です。
小説を読むのはいい。しかし、あれは時間潰しの側面は否定できない。私などは気分転換で、時には待ち時間潰しでよく時代小説を読む。最近は待ち時間はナンプレで時間を忘れるようにしている。
漱石読むのだって、漱石だからと言って、肩を怒らせてまじめに読むということもない。ただ理解できないところが出てきたらやはり理解に努めることはしなければ読書にはなるまい。かつて「うちの子は本を読むのが好きでいつも読んでいるのに、国語ができない」と言っていた母親がいたけれど、その子は普通に文章というものの意味がとれていない子であった。そういう子が『本を読む」というのであるが、ほんとうに面白くて読んでいるのであろうか。読むふりをしていただけではなかったか。親はそれを見て「うちの子は本を読む」という。しかし、定期テストで20点しか取れない子の読書とはいったいどのようなものなのであろうか。
国語ができるようになる本があるとすれば、哲学の本ではないかと思う。
「ソフィーの世界」とかである。中学生なら池田晶子の「14歳からの哲学」なんかもいい。
人生について考えるほどになれということか。国語というのはつまるところ人生そのものなのだから。
ちなみにではあるが、駿台予備学校の国語科の講師がみな東大文学部哲学科出身というのもなにか偶然ではないような気がする。あの「今でしょ」の林先生は哲学ではなかったですね。