草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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変化を嫌うという勇気

2011年05月24日 10時27分00秒 | 
 お早うございます。今日は朝からかなり激しい雨です。私の手元には様々な雑誌や書物が日々追加されてミニ書棚はいつも本が溢れています。読んだ本は教室の書棚に移動させ、雑誌はたいてい捨てます。最近必ず目を通す雑誌は、週刊金曜日、アエラ、週刊現代、選択、・・・などです。「選択」は年間購読でしか手に入りません。たまに、世界や新潮45,その他の週刊誌も買います。週刊現代は取材費を使ってよく取材しているなと感じています。私は一介の塾の先生です。それもとても小さな個人塾です。それでももう25年になります。私は長く本を読むのが仕事と思ってきました。塾の先生が勉強しなくなったら終わりだと思っています。今でも過去問はよく解きます。若い人に負けずにルービック・キューブも回します。江戸ものが好きで関連書物はよく読みます。時代小説も寸暇を利用してよく読みます。昔もよく読んだのですが、最近は小杉健治が気に入っています。佐伯泰英はすべて読んでいますが、最近は面白くない。ほかに稲葉稔が好きです。さらに門田何某というのも好きです。構成がしっかりしているものが面白いと感じるように変化していると自己分析しています。ほかに開成中学の理科に関する解説書とか、現代文に関するものとかいろいろ読みます。私は本屋には毎日のように行きますが、参考書などで「幻の名著」というのを発見するのが好きです。見つけるともう我慢ができません。すぐ買ってしまいます。幻の名著でも復刻版は値段が高い。版を重ねてきたものは値段も普通で助かります。参考書だけではなく一般の書物でも「幻の名著」はあります。そういう掘り出し物の本を手に入れて読むのが好きなんです。「近世事件史年表」はもう絶版になっていました。古本だと1万円以上します。最近同じ著者(明田鉄男)が「江戸10万日全記録」という実質復刻版を著していることを知りまして、すぐに紀伊國屋ウェブに注文して手に入れました。値段も手頃で「やった」という感じです。本はまず紀伊國屋ウェブに注文します。本が傷んでいたりとするとすぐに電話できますし、対応も丁寧です。アマゾンではひどい目にあっています。折れ曲がった高価な本を送ってきて実質取り替えできないシステムになっています。それでこれに懲りて高い本は絶対にアマゾンには頼みません。
 今は原発関連の本は片っ端から読んでいます。未読のものを入れるともう100冊はありそうです。それから私のブログは反原発の発信基地ではありませんので悪しからず。
 さてようやく今日のテーマです。といってもその前に、轍という言葉について。轍とは、「轍を踏む」などと使われるあの言葉です。轍とは「車の轍(わだち)」のことです。同じ轍を踏むとは、「同じ過ちを繰り返す」という意味です。今は中学生や高校生は中間テストの時期です。それで聞いてみると「できがあまりよくない」という子もいる。特に高校などは最初の定期テストはまず失敗するものです。高校は科目も細分化し、かつ専門化する。国語だけでも、たとえば、現代文と古文、漢文に分かれます。古文は文法がまた細かい。付随して文学史がある。試験範囲も半端ではない。中学のときと同じようにやっているととても間に合わない。準備ができないままに試験に臨むことになる。中1も定期試験は初の経験である。こちらは試験勉強の要領が今ひとつつかめないということがある。思わぬところから出されたりして失敗することもあろう。何事も経験である。振り返って、自分の勉強の何が足りなかったのか、何がダメだったのかをよく反省し、決して「同じ轍を踏んではならない」。総じて、できないのは、勉強量がたりないからです。普段から毎日が試験勉強だということを自覚しなければならない。試験前だけ特別と思って勉強体制をとるから失敗するのです。
 ここで勉強についての真理を1つ。勉強のこつは、変化を嫌うことです。1つの参考書に決めたらそれを変えてはならない。決して変えてはならない。ほかにどんなに優れた参考書が見つかってもである。よく大学入試や資格試験で何年もかかる人がいますが、これは「よく変える」ことが原因です。試験というのは、1年に1度です。それで落ちるとまた新しく勉強を始める。それが4月とする。そしてそのときに心機一転して新しい参考書を始める。これがいけないのです。新しい本を読み始めるというのは大変なエネルギーがいる。これを完全にマスターするには何回か読み込まなければならない。そんなことをやっていたらたちまちもう9月になる。10月になる。センター試験なら1月でもう3ヶ月しかない。それでまた不十分なままに試験を迎えることになる。
 ドクター・ハウスの中でハウスは日常の些細な変化を嫌う、少し自閉症気味のキャラクターとして描かれている。天才というものがそういう嫌いがあるものとして描かれている。いつもの通りでないと能力がはたらかないというのである。資格試験だって、一度ひとつの参考書に決めたらそれで通すほうが結局成功する。これはデカルトの「方法序説」という本にも書かれている。それから名著というのは、著者で選ぶのが間違いがない。人生に真摯で真面目な著者である。よく出版社がやるシリーズものはすべてがいいということはまずない。私は「唯一」はそんなにないというのが真理と思っている。丸山真男の「現代政治の思想と行動」は唯一である。私は「唯一」が好きである。唯一というのが、生活をシンプルにするからである。なにもかもでは生きてはいけない。
 私は子どもたちを指導するということを結果的に天職としてきました。子どもたちの心を勉強に向けさせることを長年研究してきました。子どもたちの「考える」という脳のはたらきをいかにして引き出すかということを腐心してきました。たとえば、竹の会の私の指導では、算数が思考開発の手段として重用されますが、その際に計算4題が必ず課されます。計算というのは単純な作業ですが、実はこれがバカにはできない。かなりに抽象的で形式的で高度な精神作用が関わっています。計算の出来でその日の体調までわかります。正確には精神の安定度ですが。動揺しているとミスを連発します。集中できていないからです。竹の会では算数による思考開発が長年研究されてきました。今私の関心は国語による思考開発ということです。以前も天声人語を使って読解の訓練をしたことがあります。天声人語の筆写をやらせることにしたのも、算数の計算と同じ発想です。単純な作業の中から、集中力を養い、知らない言葉に触れ、ただ写すという単純作業の中に抽象的かつ形式的な高度の精神作用を期待できるのではないかと計算とパラレルに考えたのです。昨日の指導では、小4と小5に実験的に課してみましたが、これは小6にも計算のノルマと同じように課すほうがいいのではと思っています。天声人語を意味もなく筆写するということには「意味がない」と素朴に批判する人がいることは知っています。しかし、まず小学生というのは、そうでもしなければ自ら進んで天声人語などを読むことはしないでしょう。天声人語を読み取るだけの語彙力があれば世の中の普通の文はたいてい読み取れるはずです。とにかく言葉を知り、言葉に触れる機会としてはこれが算数の計算と同じくらいに大切と思えるのです。天声人語は筆写するだけでなく、知らない言葉を辞書で調べるだけの労を厭わないでとってほしいと思います。小学生には今のところ読解力イコール語彙力ではないかと思っています。もちろん文と文の関係を論理で考えるという読解の基本もこれからなんとか指導手順化しようと構想しています。
 
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