はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

風が強く吹いている

2007-06-04 19:22:39 | 小説
 あいつだ。俺がずっと探していたのは、あいつなんだ。
 清瀬の心に、暗い火口で蠢くマグマのような確信の火が灯った。見失うはずがない。細い道のうえで、あの男の走った軌跡だけが光っている。夜空をよぎる天の川のように、虫を誘う甘い花の香りのように、たなびいて清瀬の行くべき道を示す。
 風を受けて、清瀬のドテラが大きく膨らんだ。走る男を、自転車のライトがようやく照らし出す。清瀬がペダルを踏むたびに、白い光の輪が男の背で左右に揺れる。
 バランスがいい。興奮を必死に抑え、清瀬は男の走りを観察した。背筋に一本のまっすぐな軸が通っているみたいだ。膝から下がよくのびる。無駄な強張りのない肩と、着地の衝撃を受け止める柔軟な足首。軽くしなやかなのに、力強い走りだ。

 自転車に乗ったその男は、少し距離を取り、黙って走の横についていた。走も相手の出方をはかりながら、ペースを乱さずに走りつづける。コンビニの店員に頼まれて自分を追ってきたのか、それともまったく無関係なただの通行人なのか。走のなかで不安と緊と苛立ちが頂点に達しようとしたそのとき、穏やかな声が遠い潮騒みたいに耳に届いた。
「走るの好きか?」

「風が強く吹いている」三浦しをん

 東京箱根間往復大学駅伝競走。通称箱根駅伝。1月2日・3日に行われる関東地方の大学対抗の駅伝大会で、往路108.0km、復路109.9km、計217.9kmを10区間10人で走り継ぎ、総合順位で勝敗を争う。時期がちょうど正月三が日とかぶることもあり、年初の国民的イベントとなっている。
 寛政大学4年生の清瀬灰二(きよせはいじ)は、ひょんなことから同大学の新入生蔵原走(くらはらかける)と出会う。銭湯の帰り道に清瀬の目の前を通り過ぎたコンビニ泥棒が走だったのだ。長距離走者としての類稀な才能を有しながら故障により道を閉ざされていた清瀬と、同じく資質に恵まれながら高校時代の暴行事件により陸上に関わることを避けていた走。共にアスリートとしての辛酸を舐めつくした二人が出会った時、奇跡は起こる……。
 元サッカー部の双子、ジョータとジョージ。
 元陸上部だが自らの才能に見切りをつけヘビースモーカーに堕ちたニコチャン。
 クイズ王のキング。
 黒人の国費留学生ムサ。
 在学中だがすでに司法試験に合格している秀才ユキ
 物静かな田舎者、神童。
 漫画オタクの運動音痴、王子。
 そこに清瀬、走を加えた10人が箱根を目指す。陸上に関係のあった者もなかった者もいる。運動神経がある者もない者もいる。共通点は皆ボロアパート竹青荘の住人であるということだけ。箱根出場どころか、各区間の平均距離21㎞を完走できるかどうかすら怪しい寄せ集めの寛政大学陸上部は、しかし信頼感の厚いリーダー清瀬の多少(?)強引な音頭により、えっちらおっちらマイペースに陸上の練習を始めたのだが……。
 走ることを呼吸の一部としか思わない清瀬や走と、そうでないメンバーの間には当然軋轢と確執がある。
 どうしてこれくらいの距離が走れないんだ?
 どうしてそんなに真面目にやらなきゃならないんだ?
 仲の良かった竹青荘のメンバー間に諍いが絶えないようになる。しかし毎日の訓練と感情のぶつかり合いで信頼と友情を深めた一同は、一丸となり襷を繋ぎ、一歩また一歩と天下の険を目指す。
 シンプルイズベスト。さわやかなスポ根ものの小説だ。直木賞受賞作家三浦しをんの文章は、下記のように修飾が美しく、それが走るということのストイック差を浮き彫りにし、読む者の心に爽やかなものをもたらす。
「ああ、と走は思った。もしもハイジさんの言うとおり、走ることに対するこの気持ちが、恋に似ているのだとしたら、恋とはなんて、報われないものなんだろう。一度魅惑されたら、どうしたって逃れることはできない。好悪も損得も超えて、ただ引き寄せられる。行き先も分からぬまま、真っ暗な闇に飲まれていく星々のように。つらくても、苦しくても、なにも得るものがなくても、走りやめることだけではできないのだ。」
 走ることしか知らない走が八百屋の娘に恋をし、箱根常連校のエースとライバル関係になり、竹青荘のメンバーと襷を繋ぐことにより誰かと一緒になれることの喜びを知る。そんな清々しい成長ぶりを暖かく見守る清瀬との、年齢も性別も超越した(変な意味ではなく)結びつきは、スポーツを通してしか得られない魂同士の結合だ。そのまぶしさに、学校の運動部で切磋琢磨、という二度とは得られぬ関係のことを懐かしく思わされた。部活をやめてからも人生は続くとはいえ、あの一瞬だけはもう戻ってこない。手に汗を握り、涙を流した小説は本当にひさしぶりだ。文句なし、本当におすすめの一冊だ。